アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

ドライカレーをぐちゃぐちゃにして

昨日の夜から、本を読んだり考え事をしたり、とびきり暗い未来予想図を思い描いて涙を流すなどをしながら眠れずに、待ちくたびれて朝を迎えたけどちっとも眠くなかったので、そのまま新しい一日を始めてしまうことにした。
そつなく顔を洗いコンタクトレンズをはめて、朝の光が目に痛かったのでダイソーで買ったやたらとスポーティなデザインのサングラスをかけながら、ポップアップトースターでパンを焼いて、砂糖をバシャバシャかけて食べた。久しぶりに三月書房に行こうと思って、恥ずかしいのでサングラスははずして外に出ると、雲が夏の形をしていていい気分だった。今年の頭に初売り半額セールで買った、オレンジの靴紐が格好良いグレーのランニングシューズを履いて、スピッツを聴きながらぽっかぽっかと歩いた。「波のり」、最高にいい曲だぜ。駅に向かう道の途中で、朝専用モーニングショットを100円で買い、駅に着くまでに飲み干し、同じものが130円で売ってる自販機の横のゴミ箱に空き缶を捨てて、電車に乗った。

三月書房には、現代短歌や、俳句、詩、それからガロ系の漫画なんかがたくさん置いてあって、僕は現代短歌の棚とガロ系の漫画の棚を穴があくぐらい熱心に眺め回したけど、穴はあかず、丈夫な本棚で良かったと思った。本当に隅から隅まで、目当ての本がないか五感を研ぎ澄まして探していると、大本命の激レア本、絶版になってAmazonマーケットプレイスで3万円超の値段で売られている、現代短歌文庫の加藤治郎の新品が定価で売られているではありませんか。読まずに売っても3万円の儲け、読んだら幸せ。と言うかずっと読みたかった。思わず震えた。ひと思いに出かけてしまって、本当に良かったと思っている。と言っていた若きウェルテル君の気持ちがすごくよくわかった。ハレルヤと思った。
それと漫画家の方の山田花子の『魂のアソコ 改訂版』と『花咲ける孤独』を買った。とても暗い漫画なので、病んでいるのかと思われそうだけど、僕は昔から暗い漫画が好きなのです。ネガティヴを吸い上げてそのエネルギーで小さな花を咲かせるタイプの人間なので、暗い漫画を読むと安心します。暗い漫画を読んだら、心の暗い部分をわざわざ自分で見つけ出してお世話してあげる手間が省けるので、むしろ生産的な営みです。暗めの話題を語るときに、ついついですます調になってしまうのは、中学時代に太宰治をよく読んでいた名残かしら。

いい買い物をして、少し歩いてお腹も減ったので、お昼時を少し過ぎてお客さんのいない喫茶店に精一杯の生気を漲らせながら入って、ドライカレーとアメリカンコーヒーを頼んだ。ドライカレーには生卵がのっていたので、ぐちゃぐちゃにして食べて、おいしかった。アメリカンコーヒーって、コーヒー好きの人からしたら、イースト・プレスのまんがで読破シリーズ並にげんなりする代物かもしれないけど、僕は薄いコーヒーが好きなので、いつもアメリカンコーヒーを頼んでしまう。カレーを食べ終わってからコーヒーを飲んで、ハイライトをゆっくり吸いながら、買ったばかりの加藤治郎の歌集を少し読んだ。結局寝てないこともあって、そうしているうちに眠くなったので家に帰ることにした。そしていい日になったので日記を書いている次第。加藤治郎の気に入った短歌を並べて終わります。

ぼくのサングラスの上で樹や雲が動いているって、うん、いい夏だ/加藤治郎
マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして/同上
ペーパーカップふみつぶしたらしんきろうとおくにみえて旅のはじまり/同

以下全部加藤治郎

どもっどもっどもありがっと卵黄がくるりとまわる朝のフライパン
いたましくホットケーキは焼き上がりきみもぼ、ぼくも笑っちゃいそう
オレンジを抱えてきみがくる部屋をきょうあすあさって想うのだろう
誤解したふりして海に誘うのも、にがめのチョコが充ちてゆくのも

まだ地上にとどいていない幾億の雨滴をおもう鞄をあけて
いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎

コーヒーのまずい喫茶店で相撲中継を見ていたことなど

日記を書きます。日記なので、ですます調でいきたいと思います。一週間くらい前の、僕の一日。


この前、若者のすべて、ここにあります。と言いたくなるような、思わず14才の頃の笑顔になってしまうような夜を過ごしました。その日はお昼から地元の友達が遊びに来ていて、慣れないスパイスカレーなど食べました。メニューにスパイシーなので辛いの苦手な人は気をつけて!と書いてあった猪のカレーを注文して、本当に辛くて全身の、主に頭の毛穴を全開放しながら食べました。猪の肉は、歯応えはあるけど固くはなくて、僕は今肉を噛み、ちぎり、味わい、食べているという満足感がとっても得られて良かったです。あと理科の教科書以外で初めて紫キャベツを見て、食べました。店主さんはサボテンを買いに名古屋に行っていて留守だと、奥さんらしき人が話してくれました。僕は生まれてから高校を卒業するまで、名古屋で育ったのだけど、名古屋がサボテンの街だなんて、初めて聞きました。それからあんまりにも汗を垂れ流しながらカレーを食べる僕を見かねて、その人はグァバジュースをご馳走してくれました。僕はあんまり南国チックなフルーティな飲み物は好きじゃないけれど、スパイシーなカレーと一緒に飲むグァバジュースはおいしかったので、ありがとうという感謝の気持ち以外浮かびませんでした。


カレーを食べ終わったあと、夜の予定まで数時間ひまがあったので、近くにあった喫茶店に入りました。コーヒーでも飲みながら時間を潰そうと思ったのだけど、京都の昔からやっている、低体温な感じの喫茶店は、入った時に結構な確率でな、何しに来たの?みたいな顔をされます。しかし僕は京都に住んでもう四年目になるのでへっちゃらです。コーヒーを飲みに来たんだよ、オラオラと頭の中で啖呵を切りながらズケズケと店内に入り、一番奥の隅っこのテーブルにそっと腰を下ろすと、お年玉をもらうときの孫のような謙虚な態度でコーヒーを注文しました。出てきたコーヒーは麦茶と黒豆とコーヒーのキメラのような変な味がしました。健康に良さそうで、まずかったです。友達はミルクとシロップをたっぷり使って豪快な味変更をしたあと、半分くらい飲んで残していました。男らしいなあと思いました。店員なのか常連客なのか判別がつかないおじいさんおばあさんが、ボーッとテレビを見ていました。相撲の試合と野球中継を、20分おきくらいの間隔で行ったり来たりしていました。僕は昔からあまりテレビは見ないから、そのチャンネルを変えるタイミング、ないしはそれを支える法則性のようなものがさっぱりわかりませんでした。面白い番組やってないねえとおじいさんは呟いていましたが、全然不満そうじゃなくておもしろかったです。面白くても面白くなくても、どっちでもいいけどテレビを見る。それは僕らの世代以前にしかない習性だと思うのです。

初めてしっかりと見る相撲の試合は、意外とテンポが良くて、おもしろかったです。大きくて強そうな力士と、大きくて強そうな力士とがぶつかり合って、あっという間に勝負が決まる。大きくて強くて格好良くて、必殺技みたいな名前がついた男たちが恐い顔でしばき合う様を、僕はロボットアニメを見るような気分で眺めていました。野球も相撲も、見所とそうでもないところがハッキリと分かれていて、あんまりルールを知らなくても楽しめるいいスポーツだと思いました。僕にはいつか野球ファンになるという夢があって、応援するなら横浜ベイスターズと決めています。名前が好きだからです。だけど選手の名前とか成績とか、往年の名試合とかドラフトとか巨人が嫌いとか、その辺のことがよくわからないし覚えるのもめんどくさいのでまだ野球ファンになれずにいます。応援したチームが試合に勝った負けたとかで、嬉しくなったり不機嫌になったりしてみたいものです。


夜は、僕に銀杏BOYZと何軒かの美味しいお店と、男子中学生みたいに女の子に対して憧れを抱くことは恥ずかしいことじゃないぜということを教えてくれた先輩の誕生日ライブで、本当最高だったのですが、長くなってしまったので詳しくは書きません。お誕生日おめでとうございます。生まれてきて、よかったねと心の底から思えるピースフルな夜でした。グッドミュージックイズグッド。


以上、iPhoneから送信。

自分の好きは自分で決める?

岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。著者なりのオタク観や、世間から見たオタクのイメージの変遷、オタクの定義や特徴の移り変わり、オタクの世代論なんかが盛り込まれていて、面白かった。

この本の中で、オタクとは「自分の好きなものを自分で決める」人たちのことだ、と言っている箇所があって、それがなんとなく心に残った。
僕は昔から、自分の好きなものとみんなが好むもの、もしくはみんなの好きなもののなさ、との間にギャップを感じることが多かったんだけど、かと言って当時オタク的とされていたもの、深夜アニメとかニコニコ動画とか、が好きだったわけでもなかったから、ずっとよくわからない違和感を感じてた。そのズレの原因が、「自分の好きなものを自分で決める」姿勢にあったことに、この本を読んで気づいた。
最近、ずっと趣味が合いそうだなっと思ってた人たちと実際に会って話す機会が何度かあったんだけど、いざ話してみると、当たり前だけど、すごくしっくり話が合う部分もあれば、全く噛み合わない部分もあった。それでがっかりするなんてことはもちろんなくて、オススメされた読んだことのない本は読んでみたいと思ったし、単純に話ができて嬉しかった。多分この感じは、お互いに「自分の好きなものを自分で決めてきた」っていう共通のバックグラウンドがあって、それをなんとなく感じ取ってたからだと思う。
振り返ってみると、自分が好きな人たち、友達とか、先輩とか、家族とか、好きな作家や映画監督に至るまで、僕の周りを囲んでいるのはみんな、好きを自分で決めてきた人たちだなあ、と思う。
たまに人から、自分があるねとか、変な人とか言われて、僕は割と人の顔色を伺うし自覚がないから戸惑ったことが何度かあったんだけど、きっとそれも僕が僕の好きなものを自分で決めていることに対して向けられた言葉だったんだろうと今になって思う。好きを自分で決めるって、当たり前のことだと思ってたけど、実はそんなに当たり前じゃないのかもしれない。やっぱり当たり前なのかもしれない。わからないけど。
22歳の今現在、かつてないくらい「普通」だとか大文字の「社会」だとか「こうあるべき」が重力を強めてきているけれど、これからも自分の好きは自分で決めて守っていきたい。それがいいとか悪いとかじゃなくて、きっともうそういう生き方しかできないんだろうなあと思う。
 
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める/兵庫ユカ
すきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る/兵庫ユカ
 

世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。

川上未映子『オモロマンティック・ボム!』「2月、飛躍するチョコレート」

 

それはムード、甘いムード

六月になったからって、いきなり張り切りすぎている雨と風を横目に、頼りない部屋で山田詠美の「ラバーズ・オンリー」読んでいる。いろんなソウルミュージックを題材にした短編集で、研ぎ澄まされた身体感覚とクールな文体とがたまらない、とびきりムーディな小説だ。一篇を読み始める前と読んだ後に、タイトルになっている曲を聴く。"precious precious"がお気に入り。ホーン隊のタメがたまらない。これを流しながらゆらゆら踊りたい。青いカクテルだけを飲んで酔っ払っちまいたい。ピンボールに2000円使いたい。

意味を求めて無意味なものがない。それはムード、甘いムード。って妖怪みたいなバンドが歌ってたけど、僕もまったくそう思う。人を酔わせるようなムードってやっぱり素敵だ。雰囲気に任せて、夜を台無しにしてみたいとたまに思う。家で一人で缶のハイボールを飲んでいる。

ムードを作る上で、音楽は欠かせないと思う。グッドミュージックを聴くだけで、持て余していたはずの夜が良い夜になる。感動的なドラマや映画から、音楽を抜き取ってしまったら、きっと白けた印象になるだろう。あとはなんだろう、照明とか、香りとか?ムードは五感で作るもの、なんだなきっと。

触感的でムーディな映画と言えば、『ナインハーフ』が思い浮かぶ。

街の喧騒とそれを彩る音楽、歴史あるレストラン、水に浮かぶ部屋、ビリーホリディ。観覧車。目を閉じる女。氷やハチミツ。映画の前半のバブリーなデートの数々の、あまりの甘ったるさに、こ、これがムードか!アメリカの色男は女の子を口説くためにここまでするのか!と衝撃を受けた映画。おもしろいよ。家族とは、観ない方がいいけど。


山田詠美の小説を読むと、プライドが高くてわがままな女の子ってすごいなあと思う。ヒリヒリしてて。いつまでも、どこまでもわがままで、残酷なままでいてねって思う。そこから見える景色が気になる。

コンビーフをご馳走だと思う気持ち

深夜に起きていると、そして眠れそうにないと、個人差はあるでしょうが、気持ちが荒ぶってきますね。ネガティブな想念も、ひょっこりとかわいい顔を出したりしますね。しかしネガティブな気持ちや言説は一般的に、唾棄すべきものとされています。なんででしょうか。ネガティブなものには市場価値があまりない。それだけのことだと思います。なぜなら、ネガティブな気持ちや出来事は、お金や時間を使わなくても、無料でいくらでも向こうからやってくるからです。みんな結構、倹約家なんですね。ドラッグムービーよりも、ミュージカル映画の方が人気があります。
本当は、恥も外聞もかなぐり捨てて、もっと身も蓋もないくちゃくちゃの言葉を描き殴りたい気分になるときもあるのだけど、僕の中にあるなけなしの社会性が、腹の底から”No”と叫ぶのでいつもそれができずにいます。
なので今日はウォーミングアップとして、朝ごはんの前にさらっと読める程度の身も蓋もない話をしたいと思います。ネガティブにはネガティブなりの、ポジティブなライフハックがあるのです。みたいな話です。
 
「今日は楽しかった。また明日から頑張ろう。」とかなんとか言う人がいます。結構な数います。僕にはこの思考回路が全くわかりません。不可解と言ってもいいでしょう。一文目と二文目との間に、天の川ほどの大きさの論理の飛躍があるように感じるのです。
僕の場合、今日が楽しかったのならば明日はつらいです。なぜなら、楽しい出来事によって、それまでは辛うじて生活とマッチしていたチューニングが崩れてしまうからです。楽しいことだけして生きていきたいと思いながら毎日を過ごせば、つらいことをつらく感じます。人生はつらい、と思っていれば、つらいことは想定の範囲内、黒い雲から雨が降る、またはコロッケはおいしいということ、ジョー・コッカーは痙攣しながら歌を歌うという事実、と同じくらい当たり前のことだとして受け止めることができます。なので僕は基本的には”生きることはつらいモード”に合わせてチューニングをしています。つらいことがあってもへっちゃら、綺麗な夕焼けなんかが見れた日にはスーパーラッキーです。昨日は牛肉屋さんを見かけました。牛肉だけを売って、お金をもらって、息をして生きている人間がこの世にいる。そのことがなんとなくうれしく思いました。牛肉屋さんの憂鬱。牛肉屋さんが見つけた星座。牛肉屋さんの娘。なんだかいい感じがします。これが僕なりの処世術、サバイブ術なのですが、残念ながら穴ぼこだらけのいびつな代物で、その108ある弱点の一つが、楽しいことです。とんでもなく楽しい、非の打ち所のない完璧な夜を一度過ごしてしまうと、前提となっている”人生はつらい”というテーゼが覆ってしまいます。あれ、今日はつらくなかったぞ、人生、いいこともあるのでは。と思ってしまったが最後、細い針の先で日向ぼっこをしていた僕の心の平穏は、あっけなく地面に落っこちてしまいます。そうなるともう、生きているだけで泣けてくる、生まれたての赤ん坊さながらのナイーブな感受性がむき出しになって、ひとの世にはびこる悪意、はかなさ、社会の矛盾、人生における現在地及びそれに伴う焦燥感、等々を最高にキレキレの高感度でビシバシ受信してしまって、メンタルが乱気流に突入してしまいます。まことに厄介な星の下に生まれてしまったことよなあ。なんて雅な口調でつぶやいてみても仕方がありません。詠嘆は役に立ちません。
なぜ僕がこのようなひねくれた生活態度を身につけるに至ったかというと、それは時代錯誤的な、僕の求道心、敬虔さに由来します。格好良く言うと知的好奇心です。カフカが、もしかしたら真理というものは悪臭を放ち誰もが目を背けたくなるような代物かもしれない、みたいなことをどこかで書いていたのですが、それでもいいから真理を知りたい、そんな感じです。人生を人生として生きたいというか、もしも生きることが灰色ならば、灰色の景色を眺めていたいし、灰色の人生を送りたい。そんな感じです。コンビーフをご馳走だと思う気持ち、それを忘れなければ、僕は生きていけるのではないかと思うのです。以上、身も蓋もない話でした。社会にあてもなく媚の叩き売りをしていると、こういうネガティブ、反社会的な文章を書きたい気持ちになるのです。内容とは裏腹に、書くと頭がすっきりして、元気がモリモリ湧いてきます。それでは、あらあらかしこ。

あの子のことが好きなのは

昨日、今年初めての素麺を彼女と二人で食べた。揖保乃糸と迷ったんだけど、って言いながら彼女が安い素麺を買ってきた。僕はどっちでもいいよって思ったから、どっちでもいいよって言った。俺はあんまり食べ物の味がわからないから、安くても気にならないし、高かったら高かったで特別感があって嬉しいから、どっちでもよかった。人生は選択の連続だと言うけれど、どっちでもいいことって以外と多いよなって最近なんとなく思う。なんとなく思うだけだから、それ以上の広がりはないんだけど、少し心が軽くなる。

最近、大変なことも多いけど、社会って大変だね。大人って大変だね。とか言いながらでも、この子と一緒にご飯が食べられたら、他のことはどっちでもいいじゃんって思う。パンにジャムを塗ったり(僕はフルーツが食べられないので砂糖をぶっかけたりする)、魚を焼いたり、たまには餃子を一緒に作ったりとかできたら、それでいい。寝る前には100円で買った中古の文庫本や漫画を読んだり、旧作のレンタルビデオを観たりしてさ。3000円くらいの家庭用プラネタリウムとか買って、思い出した時に眺めたりさ。見通しが甘いって、誰かに怒られそうだな。

自分にはあんまり生命力がないということを再認識している。バイタリティ命みたいな業界ばかり見ていたからかもしれないけど、ホタル程度の生命力しか持っていないと感じる。涼しい季節になって、過ごしやすい気候になると外に現れて、暗くなると、少し光って、すぐにくたばる。久しぶりの友人に会ったりすると、元気?って聞かれる。元気じゃないよって言うと心配されるから、元気だよって答えるけど、別に元気ではない。今まで生きてきて元気だった時間は20%くらいで、80%の時間は元気がないまま過ごしてきた。だから元気じゃなくてもそれが普通だから心配しないでって言いたいけど、回りくどいから、元気だよって言う。元気じゃないといけないのかなって少し考える。ポジティブな人と、ネガティブな人。どちらがより多くの人に好かれるかといったら、それはポジティブな人なのは間違いないけど、僕がどちらが好きかと言われたら、ちょっと困る。元気はないけど、楽しいということが僕には結構ある。そういうささやかなぐっとくる瞬間が、突き詰めれば詩になるのでは、なんてことにぼんやり思い当たる。あの子のことが好きなのは、赤いタンバリンを上手に打つからじゃなくて、生命力が僕とちょうど同じくらいだからじゃないかな、ということをちょっと考えてる。

ビギナーズラックとアルデンテな人生

最近ふと思ったことがある。ぼくは、人生やるの初めてなんだけど、ビギナーズラックとかないのかな。あったらいいのになって。ビギナーズラックって、みんな言うけど、俺はあんまり信じてない。初めて、と言うか現時点では最初で最後の、競馬に行った時には300円くらい当たったりはずれたりして、ジリジリとお金がなくなって、帰る頃には1500円負けていた。だからビギナーズラックというものはわからなかったけど、ジリ貧という言葉の意味が身に染みてわかった。今も言うたらジリ貧状態だ。初めての就職活動をしていて、今回もビギナーズラックはやはりなく惨敗続きで、特に進展もないままジリリと時は過ぎていく。競馬で負けた時は、別にそんなにショックじゃなくて、でもお金はないから後の一週間をうどんを茹でるばかりの繰り返しで消し飛ばしたけど、今回もジリジリと消耗して負けていっても、大したことないなって思うのかな。思いそうだな。今度は40年間パスタでも茹で続けるのかな。安いからね。種類豊富だし。そしたらそのうちパスタ屋さんになれそうだな。それか安く作れるパスタのレシピ本、図鑑のような分量のやつが書けそうだ。悪くない人生じゃないか。アルデンテで、歯ごたえバッチリじゃない?一人暮らしの貧乏学生のバイブルとして、読み継がれるかもしれない。図鑑みたいな、パスタ本。命日には毎年、お墓に花とパスタ、たまにブラックオリーブとか、が供えられてさ、墓碑銘にはこう刻んである。

「パスタを茹でろ、愛する人めがけて。」


自分の人生最期の言葉。みんな一度は妄想したことあると思うけど、僕はこれを考えるのが一等好きで、いろいろな偉人の格好良いやつとか参考にしながらこねくり回して、結局今のところは「地獄で会おうぜ、Baby!!」で落ち着いてます。

今日は金曜日。来週も、がんばります。ビギナーズラックなど、なくとも。