アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

給料日のバイトの帰り道にする妄想プランA

給料日のバイトの帰り道、いつもより財布は重くなって、その分気持ちが軽くなりますね。このお金、何に使おうかなーなんて考えてると、ウキウキしますね。そのまま予想外の方向へ妄想が転がっていくことも、少なくないですよね。というわけで、僕がバイトの給料日の帰り道にする妄想のうちの一つを覚え書きしておきます。別にこんなこと覚えてなくても良いんだけど。そういうどうでもいいことって、何かの形で残しておかないと、どうでもいいまま終わっちゃって、もったいないから。余計なことはしすぎるほどいいよってスピッツも歌ってたし。

 

バイトの給料日に、もらったお金をそのまま丸ごと使ってタクシーに乗りたいと思う。運転手さんに行き先を聞かれて、「運命の人」とか答えたい。そしたら運転手さんは黙って走り出す。夜の四条通りをゆっくり走る。酔っ払った男女ばかりで、誰も他の人のことなんか気にしてない。夜の街は、もうほとんどの店はシャッターを下ろしていて、そういう意味では昼間よりつまらないはずなのに、いつもより楽しそうに見える。人もお店も昼間より少ないのに、昼間にはない「何か素敵なこと」が夜になら、終電が行ってしまったあとの時間には起こりそうな気がするのはなんでだろう。そんなことを考え中の僕を乗せてタクシーは黙って2時間くらいすいすい走る。週一回のバイトの給料で、タクシーを2時間走らせることができるのかどうか、知らないけど。人も家もまばらな道に出る。月のない晩で、街灯やヘッドライトが場違いなくらい眩しく見える。子供の頃の、親が運転する車の後部座席で、運転席と助手席に座る両親の話がよくわからなくて窓の外をぼんやり眺めていた時のことを思い出す。ぼーっとしてたらいつの間にかタクシーは、辺鄙なところにある高速道路の入り口の手前で止まって、「着きましたよ」って下される。えっ、こんなところで降ろされても。高速乗らないの。と思いながら慌ててお金を払うと、タクシーはそのままどこかに行ってしまう。外は真っ暗で、ここがどこかもわからないし、財布は空になっちゃったし、途方に暮れる。すると遠くに明かりが見える。高速道路の料金所だ。ETC専用レーンが増える中、一つだけ有人の料金所がある。明かりもついている。夏の虫さながら、なんとなくふらふらと近づいていく。そして一つだけの有人料金所の中には「運命の人」がいて、僕に笑いかけてくる。その人は料金所からピカピカの500円玉を何枚かかっぱらうと、スタスタ高速道路の方へ歩き出してしまう。「あの人は運命の人だから、追いかけなきゃ」と思って追いかけて、2等星くらいまでは見える星空の下、車のいない高速道路を「運命の人」と並んで歩く。タクシーの運転手さんに、運命の人までって言ったら、ここに着いたんだと説明する。ピカピカの500円玉を集めながら待ってたよとその人は笑う。恐る恐る、料金所のお金、勝手にとっちゃっていいのと聞いてみる。「どうせ今日が給料日だから。とった分は来週ちゃんと野口英世にして返しておくよ。そんなことよりほら、この500円玉すごくピカピカしてるでしょ。」「ほんとだ。流れ星みたい。」「流れ星にお願い事したことある?」「あっ、流れ星!って思ってる間に消えちゃう。それを神様が願い事だと勘違いして、もう一個流れ星を流してくれるんだけど、それもあっまた流れ星!って思うだけでどっか行っちゃう。」そうやっていろんな話をしながらインターまで歩いて行って、彼女が集めたピカピカの500円玉で、あんまり美味しくないカレーやラーメンを半分こにして食べる。あんまり美味しくないねって言いながら。おしまい。もうすぐバイトの給料日です。

部屋にある壊れたトースターを考える

僕の部屋には壊れたトースターがある。ある時はタバコを吸う時の椅子になって、ある時はノートパソコンを置く台になって、今では巻きタバコ用の道具とか、友達からもらったお土産とかを入れておくための小物入れになっている。壊れたトースターの中に、昔友達からもらったオーストラリア土産の鞭が入っているから、初めて部屋に遊びに来た友達とかはびっくりする。トースターの捨て方がわからないから部屋に置いてただけなんだけど、そんなこんなでいろいろな用途で使ってるから、壊れてるけど邪魔にはなってない。でも壊れているからパンは焼けない。

ものが壊れた状態のことを、うんともすんとも言わなくなったと表現することがある。僕がここ数年で壊したものといえば、トースターとヒーターくらいなんだけど、そのどちらも、壊れる前から「うん」なんて言わなかったし「すん」と言ったことも一度もなかった。「うん」とか「すん」とか言いながら、元気に働く電化製品を僕は今まで見たことがないけど、なんで壊れることをうんともすんとも言わなくなるって表現するんだろう。自分が知らないだけで、他の家ではいろんな家電が「うん」とか「すん」とかの大合唱をして、生活にアクセントを加えてるんだろうか。お前には、見せてないだけで、俺の知らない顔があるのか、と思いながら、中身のさみしい冷蔵庫をジロリとみると、「ブーーーーン…」って言ってた。死にかけのライトセーバーみたいだと思った。中にはトマトとうどんと高菜と調味料が入ってる。というかそれしか入ってない。今日の晩御飯何にしよう。

トースターを壊した夜は悲しかった。まだお酒の飲み方とか考えたこともなかった頃に、ひどく酔ってふらふらの状態で家に帰ってきて、トースターをお姫様か友達か何かだと思ったのかわからないけど、トースターを抱えて踊ってたら床に落として壊しちゃった。フランスのことわざに「熊の敷石」というのがあるらしくて、これはある小話が元になっている。あるところに、一匹の熊と、一人の人間がいました。一人と一匹は仲良しで、晴れた日には野原に座って、並んで熊はハチミツを舐めて、人間はパンなんかを食べたりしていたそうな。ある暑い夏の日に、人間の顔の周りを一匹のハエがしつこく飛んでいた。人間は振り払おうとするんだけど、なかなかハエは離れない。それを見た熊は、助けてあげようと思って、家の前の敷石を持ち上げて、ハエに向かって力いっぱい投げつけた。はたしてハエは死んだんだけど、頭に敷石が直撃した人間も頭がパックリ割れて死んでしまった。という話。だから、「熊の敷石」は余計なお節介とか、無知な友人ほど危険なものはない、とかって意味で使われるらしい。酔っ払ってトースターを壊した時、このお話の熊のような気持ちになった。

気になる名前

最近気になる名前がいくつかある。というかやたらと気にいった名詞がいくつかある。だけど日常生活の中で使う機会はほぼゼロのものばかりなので、やり場のない気持ちをここに吐き出すために列挙してみる。


ヴィヴィアンウエストウッドのロッキンホース・バレリーナ

ある種の女の子にとっての憧れのブランドの靴で、ロリータ界隈では定番らしい。バンドマンで言うところのDr.マーチンみたいな感じなのかな。おしゃれアイテムというより無敵の装備品か、必殺技みたいな名前だと思う。TMGEの曲名にありそうな感じもする。

大槻ケンヂの小説に同じ名前のものがあったから気になって買ったんだけど、Amazonのレビューに「ダイブして飛んでいく女の子の靴の裏を描写できるのは、オーケンだけ」って書いてあって、すごく良い感想だと思った。


ロングアイランドアイスティー

スクリュードライバーとかカルアミルクと並んで、飲みやすいけどアルコール度数が高い、所謂レディキラーのカクテルの一つらしいんだけど、名前が格好良い。ウォッカとかテキーラとかコーラとか色々混ぜて、紅茶に似た味に仕上げるらしいんだけど、紅茶は一切入ってないっていう偽物感も良い。伸び伸びとした名前とは裏腹に、いびつなものでできていて、よこしまな目的で使われたりする。そういうところがなんかシリアルキラーっぽくてゾクゾクする。


中華イヤホン

中国製のすごく値段が安いのにやたら音が良いイヤホン群を指す言葉らしい。けどこの言葉の組み合わせがなんとなくレトロフューチャーな雰囲気を醸し出しててすごく良い。『ブレードランナー』に出てきそうだし、スチームパンクっぽさもある。サイバーパンクなんかに出てきてもおかしくない。ネオトーキョーに通じる格好良さ。名前だけで欲しくなっちゃう。Perfumeが付けてそう。


セイタカアワダチソウ

北アメリカ原産のキク科アキノキリンソウ属の多年草で、ざらついた手触りで、秋に黄色い小さい花をたくさんつけて、その様子が黄色く泡立っているように見えるからこの名前、なのかな。実際に背が高くて、1-2mにまでなるらしい。あと強いアレロパシーを持っていて、アレロパシーっていうのは周りに自分たち以外の植物が生えないようにするための物質を出したりする効果のことらしくて、セイタカアワダチソウの周りにはセイタカアワダチソウばかりがびっしりと群生するようになるらしい。なんだか人間みたいですね。

窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』の中に名前が出てきて、それを読んで以来、その見た目とか習性とか経歴をひっくるめてなんとなく気になる植物。


何の脈絡もオチもないけど、以上。なんとなく、気に入ってしまう単語ってありませんか。ほら、リッケンバッカーとか。

ロックンロール原理主義とリフレインについて

決断が苦手だという自覚がある。その日に着る服を選ぶのも苦手だし、食べたいものを考えてからスーパーに買い物に行くのも億劫だ。だから着る服は大抵いつも同じだし、よく作る料理のレパートリーも五つもないくらいだ。買い物をする時の基準も明確で、欲しいものが1000円以内であった時は迷うポーズはしても間違いなく買う。3000円以上の時は判断を先送りにすると決めている。何かを選ぶことはつかれる。エネルギーが要る。僕がロックンロールが大好きなのは、その価値基準というか、行動原理が単純明快だからだ。とにかくロックな方を選ぶ、右か左か選べと言われたら真っ直ぐに上に飛び上がる。聖者になんかなれないけど、とにかく生きてる方が良い。オールユーニードイズラブ。そのような清々しいくらいにバカバカしくて、シンプルな価値基準に惹かれているんだと思う。音楽はたまに宗教との類似性を指摘されるし、特定のバンドのファンを揶揄して信者と呼んだり、ロックンロールはティーンエイジャーのための宗教だなんて言葉もあるけれど、何かのバンドに極端に惚れ込んでしまう時っていうのは、そのバンドが発信する価値観や行動原理、判断基準に対して憧れや共感を抱いたんだと思う。そういう面で宗教に似ている。実際に僕はキリスト教に対してすごくあこがれがある。どこに惹かれるかというと、厳密な戒律と、揺るがない価値観だ。極端な話、盲信してしまいさえすれば、あれこれの決断にいちいち頭を悩ます必要がない。ただ神の意志に従えばいいだけだ。だから神学者には惹かれない。明確な価値基準をドーンと示して堂々としている存在というのは、多くの人にとって魅力的だ。なぜなら、ハッキリとした生活の方向、目指すべき目標やヴィジョンがくっきりしているから、それに向かって突進すればいいだけだから。だけどそういうものにホイホイついていくのは危ないことで、それを突き詰めたのがナチスだし、金儲けのためのエセ宗教だったりする。原理主義者はきらわれている。僕はロックンロール育ちのバカだから、原理主義者は美しいと思ってしまう。僕の恋愛観はいつまでたってもセカイ系だし。つまんないくらい簡単な方へ行けってマイヘアは言うし、右か左か選ぶ時が訪れたら面倒な方へ進めBabyってドレスコーズは歌う。そういうシンプルな行動原理を持ちたいと思う。人から押し付けられるものは危険だから、自分なりの、自分にぴったりの行動原理が見つかるといい。今のところ、右か左か選べと言われたら、えー、あー。どうしよっかなぁ〜…って感じだ。あ、でももしも家出をするなら行き先は北って決めてる。なんとなく。

 

何かを選んだり、決断するのは相当つかれるから、大事じゃないところは、出来合いの判断基準に丸投げしちゃって省エネするって、アリだと思うんだよね。それができない人っていうのが、所謂生きづらい系なんじゃないかなって思う。俺は結局オールユーニードイズラブというか、もしも君が泣くならば僕も泣く!みたいなのが未だに一番しっくりくる。22歳なのに。

 

彼女の欲しいのは、同じ愛といっても 

自分の全身全霊を、魂のありったけを、

ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、

自分に思想を、

生活の方向を与えてくれるような愛、

自分の老い衰えてゆく血潮を 

あたためてくれるような愛なのだ。     チェーホフ『可愛い女・犬を連れた奥さん』

 

 

ロックンロールってのは結局のところ、シンプルなフレーズのリフレイン(繰り返し)なんだよ。とっくに飽き飽きしてるとしても、ダサいフレーズでも、アホみたいに繰り返してればそれなりに説得力を持つし気持ち良くなったり踊りたくなったりするもんなんだよ。ブルースの頃から変わんないね。そういうものが、俺は好きだな。ホラー映画でも短歌でも、それはきっと同じ。俺は永劫回帰と予定説が好き。

 

見覚えのある絶望を二度目なら愛せるような気もしています/枡野浩一

新聞の言葉、詩の言葉

就職活動に行き詰まって、悩んでた時にぶち当たって救われた本が穂村弘だった話。ちょっと前に書いて、なんとなく公開してなかったけど、なんとなく公開する。就職活動をしていてつらいのが、どこに行っても”コミュニケーション能力”が最低限求められることで、この時にコミュニケーションという語が指すのは、誰が相手でもとりあえず和やかな空気でなんとかやり過ごせる能力であったり、必要な情報を必要なだけさっと伝える能力のことで、僕が話す言葉や聞く言葉のほとんどがただの記号、情報伝達のツールとしての言葉ばかりになっていくのが嫌だったし気詰まりだった。そんな時に出会った本の話。と自分の話。

 

穂村弘の本を買った。『はじめての短歌』というタイトルで、本屋に入って他に欲しい本も漫画も売ってなかったから買った。そこには短歌についての言葉が、もちろん書かれているのだけど、同時に、僕たちが抱えるささやかな二重生活についてもたくさんたくさん、ページが割かれていた。「生きる」ことと「生き延びること」。その二つは正反対ではないし、しばしば重なり合ったりするけど、それでもやっぱり別のものだ。

生きることはきっと、いろいろな言い方ができると思うけど、感じることだと思う。僕は今まで生きることについては一生懸命だった。すごく真面目に生きることを生きてきた。今は就職活動で、生き延びることにピントを合わせて暮らさなきゃいけないんだけど、仕事とは違って、就職活動には始業も終業もない。オンとオフの境目がとても曖昧で、そのことが僕に「生きる」ことと「生き延びる」ことを混同させていた。もちろんこの二つを完全にマッチさせてしまうこと(仕事が生きがい)が社会的には理想の生き方なんだろうけど、僕にはちょっとそういう生き方はできない。生きることと生き延びることは、完全に別物ではないんだけど、二つの間には大きな価値観の隔たりがある。僕はもともと「生きる」重視型の思考体系をもっていたから、3月から急激に「生き延びる」ための考え方が流れ込んできて辛かった。時間の使い方、というか、時間に対する考え方をまず変えなきゃいけない気がした。つまり、説明会に行くとか、エントリーシートを書くとか、企業のことを調べるとか、就職活動に直結する行為をすればするほど有効な時間な使い方で、それ以外のこと、本を読んだり映画を見たり、友達と遊んだりスピッツを聴いたりする時間は、時間を無駄にしているようで、取り返しのつかないことをしているようで、何か悪いことをしているような気分になった。前者は生き延びることに有効で、後者は無効だからだ。そういう風に毎日を過ごしていくうちに、無意識のうちに生きること=生き延びることという慣れない考え方に引っ張られていって、毎日24時間慣れないことを続けているわけだから、当然疲れた。志望する企業を選ぶ時も、「生き延びる」ための働く行為を、「生きる」ことになるべく近づけようとしていたけど、たまには死にたくなるし、死にたい気分の時に社会的な義務感に無理やり「生きる」ことをさせられるのはすごくつらいことなんじゃないかと最近は思う。生きることと生き延びることは似ているけど別物だ、と思うようになってから気持ちがちょっと楽になった。生き延びるための活動、と割り切ってしまえば、なんとかなりそうな気がする。新聞の言葉と詩の言葉、両方使い分けられるようになろう。詩しか書けない大人はいない。

頭の中の地図について

頭の中の地図について、最近よく考える。それは大げさに言い換えると、その人が自分の暮らす街や、世界についてどんな風に捉えているかということだ。頭の中のカレンダーについても同様だ。僕のカレンダーにとっての祝日は、追いかけている漫画の発売日だ。今は押切蓮介福満しげゆき

ダヴィンチの6月号が、穂村弘in京都ワンダーランドという特集をやっていたからすぐ買った。穂村弘は京都によく来るらしいけど、神社仏閣はほとんど行かずに、古本屋ばっかり行くらしい。そんな穂村弘から見た京都、を取り上げた特集だった。だから河原町祇園や宇治などのいわゆる観光名所はあんまり載ってなくて、市役所前や寺町通一乗寺百万遍なんかのお店がたくさん載ってる。それは僕が暮らしている京都に近くて、なんだか嬉しくなった。

頭の中の地図は、その人の興味関心のある事柄によって大きく変わる。僕の場合は古本屋やレンタルビデオ屋や映画館、喫茶店やゲームセンターなんかが中心的な目印になっていて、例えば京都市役所前は三月書房とアスタルテ書房がある町だし、千本丸太町はマヤルカ古書店や古本はんのき、千本日活なんかが目印だ。京都駅に何があるかと聞かれたら、みなみ会館があると答える。だけど観光名所や良い飲み屋さんや女の子が喜びそうな場所については、あんまり知らない。人によっては、頭の中の地図の目印は、ライブハウスやケーキ屋さんや、おしゃれで美味しいランチが食べられるお店だったりするんだろうと思う。

頭の中の地図には種類があって、今言ったような地理的な地図もあれば、自分なりの本の地図、映画の地図、ゲームの地図なんかもある。すごくごちゃごちゃしていて、人が見てもきっと何にもわからないけど、本人からしたら大事な地図だ。古本屋さんに出かけて行く時、頭の中がなるべく複雑な方が楽しい。からっぽの頭で本棚を眺めても、流行ってる本とか、タイトルや表紙が魅力的かどうかぐらいしか、本を判別する尺度がないけど、頭の中の本の地図と照らし合わせジロジロ店内を歩き回ると、とんでもない宝物に出会えたりする。僕にとっての案内人は主に穂村弘高橋源一郎保坂和志と実家の本棚とシュルレアリスムだ。近頃は80年代のヴィヴィッドな青春小説にハマっていて、近所の古本屋さんでこの前J・マキナニーと窪田僚が安く買えた時は嬉しかった。最近は正津勉の詩集(『青空』が読めるやつ)とか加藤治郎の昔の歌集とか小島信夫の『私の作家遍歴』とかA・ブルトンの『魔術的芸術』が安く買えるところはないかなと思っているし、アラゴンノーマン・メイラーが書いた本が何でもいいから読みたいと思う。そういう風に自分の中でのレア本や欲しい本を頭の中にたくさん抱えて古本屋さんに出かけると、気分はすっかり宝探しだ。最近は欲しい古本はamazonでポチってしまうことが多いけど、やっぱり自分の足で歩いて出かけてじっくり探して欲しかったものを見つけた時の方が、何倍も嬉しい。最近嬉しかったのは上野昂志の『肉体の時代』が1000円で買えたこと。桜井哲夫『思想としての60年代』の中でちらっと触れられていて、気になっていた本。ゴダールの『勝手にしやがれ』論からジャズ喫茶、歌謡曲やGS、『平凡パンチ』まで扱っている体験的60年代文化論の本で、すごく面白い。

こういう古本屋巡りの楽しさは説明してもあんまり人には伝わらないかもしれないけど、穂村弘のエッセイ『もうおうちへかえりましょう』を読むと古本ハンターの楽しさや苦悩が上手に書かれてて面白い。

それと本のある生活を描いたもので、高野文子の『黄色い本』がすごい。小池光の『街角の事物たち』を読むと、短歌のある生活ってこういうものか、とわかって興味深い。どうすごいのか、どう面白いのかは長くなりそうだから今は詳しく書かないけど、きっとまたいつか。一言で言うならば『黄色い本』は、自分以外の物語を抱えて毎日を過ごすことの楽しさと歯痒さが、『街角の事物たち』は文学や短歌を、自分の生活と照らし合わせて読んだり考えたりすることで味わえる滋味が感じられるところが魅力的。映画についても、まとめてみたい。とりあえず、今本屋さんに並んでるダヴィンチ6月号はおもしろいぞ!

「もしも心がすべてなら、いとしいお金はなんになる?」ってシナトラが言ってたって寺山修司が言ってた。

深夜のちょっと不安定な気持ちの時に書いた文章とか思ったこととかって、次の日起きてから見返すとめちゃめちゃ恥ずかしかったりするけど、なんか頭の中がぐるぐるして眠れないから、あることないこと吐き出してスッキリしときたい。


日付が変わる手前までバイトして、今日と明日の境目くらいに帰宅した時、なぜかいつもすぐに布団に入って寝る気にはなれない。

そういう気持ちの時にアテもなく夜更かししてもよくわからないさみしさ切なさが夜の方から吹き込んでくるだけだっていうことは、よくわかってる。つげ義春の漫画で、どんなに暑い夏の夜でも、窓を開けて寝るのを嫌がる男の話があった。窓を開けたまま寝てしまって、眠りこけている間に夜が部屋の中に入ってきてしまうことを怖がっているのだ。似たようなイメージを僕も夜に対して抱いている。真夜中は、現実とフィクションとの境目がなんとなく曖昧になるから漫画や映画に没入できてそういう時は大好きなんだけど、なにかするわけでもなくぼんやりと、受動的な心持ちで夜更かししていると、きまって心に重苦しい気配が吹き込んでくるのだ。


アランが幸福論の中で言っていたけど、わけもなく不安になったりさみしくなったり、やたらに自分を責めたくなってしまうのは、ヒマだからだというのは本当だと思う。

せっかくの余暇を、文字通り持て余してしまって、悲しくなったりくよくよするのに費やしてしまうなんて、バカらしい。もっと頭を使った方がいいと思う。知性だとか教養だとか、自分が今まで見てきたこと聞いてきたこと好きなものを、そういう時に使ってあげるべきなんだと思う。

実存主義でもチルアウトでも、アランの幸福論でもブルーハーツでもソリティアでもなんでもいいから、なるべくいい気分でいた方がいいんだ。

センチメントや暗い気持ちは、繊細でナイーブな自分への自己愛と結びつきがちだけれども、ネガティヴな心性がアイデンティティだなんて、しょっぱいし大変だと思う。なにかを嫌う幼さは、早いとこ隠してしまった方がきっといい。子供のころ、食事のたんびに両親や学校の先生に好き嫌いをしちゃいけませんって言われて、なんでわざわざ嫌いなものを食べなきゃいけないのか全然わからなかったけど、好き嫌いをしていると自分がしんどいからだって今になって思う。

ここまで書いてふと、このセーターはチクチクするからきらいと言って、ハサミでチョキチョキ切ってしまう、昔観たロッタちゃんの姿が頭に浮かんだ。好き嫌いが人を輝かせることもたまには、ある。むずかしいな。

好き嫌いが人を輝かせることの例として、真っ先に浮かぶのがthe pillowsの『ストレンジカメレオン』だ。一番のサビの歌い出しの、「君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで」って歌詞は、これ以上はないってくらい素晴らしくて、聴くといっつも涙が出そうになる。初めてこの曲を聴いた時からずっと長い間、実を言うと今でも、これが自分の行動原理と言えるくらいに心に深く食い込んでる。だけどストレンジカメレオンよりも、いつだってどこだってそれなりにやっていけるふつうのカメレオンになりたいなって最近は思うようになってきてる。360°ひねくれて表面上はめっちゃ素直、みたいなね。