ハードボイルドとケストナーに学ぶサバイブ術
「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」
「 生きることのきびしさは、お金をかせぐようになると始まるのではない。お金をかせぐことで始まって、それがなんとかなれば終わるものでもない。こんなわかりきったことをむきになって言いはるのは、みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは、ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには、できるだけしあわせであってほしい。ちいさなおなかが痛くなるほど、笑ってほしい。ただ、ごまかさないでほしい、そして、ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目をひらいて見つめることを、学んでほしい。うまくいかないことがあっても、おたおたしないでほしい。しくじっても、しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじけない心をもってくれ!ボクシングで言えば、ガードをかたくしなければならない。そして、パンチはもちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと、人生がくらわす最初の一撃で、グロッキーになってしまう。人生ときたら、まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!万が一、そんな一発をくらってしまったとき、それなりの心がまえができていなければ、それからはもう、ちっぽけなハエがせきばらいしただけで、ばったりとうつぶせにダウンしてしまうだろう。へこたれるな!くじけない心をもて!わかったかい?出だしさえしのげば、もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら、一発おみまいされてもおちついていられれば、あのふたつの性質、つまり勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことを、よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には、かしこくない人びとが勇気をもち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。勇気ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもつようになってはじめて、人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩と言うか、これまではともすると誤解されてきたのだ。」エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』
長嶋有とチャンドラーとジャームッシュへのラブコール
『泣かない女はいない』を読んだ。長嶋有の小説を読むのはこれで三冊目で、今までに読んだ二冊は『ジャージの二人』と『猛スピードで母は』なんだけど、長嶋有の魅力の一つには、解釈を寄せ付けないほどの視点のフラットさがあると思う。つつがない毎日の中で、キラリと光る違和感を捉えるのがすごく上手い。『ジャージの二人』は映画化もされてて、主演が堺雅人で、彼もフラットな人だから、すごくよく似合ってるんじゃないかと思う。夏になったら観たいと思ってる。その『ジャージの二人』は、夏の間は山の中の小屋に行って暮らす家族の話で、その中に出てくる離婚して再婚した父親の娘のセリフがすごく良い。
「『でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの』いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。」
日記
どんな内容でも、文章を書くとスッキリする。もやもやがほんの少しだけ晴れるというか、自分の考えていることにちょっとした居場所が与えられるような感じがする。だから今日も日記っぽいことを書いてみる。今日1日のこととか、最近お気に入りの漫画とか、映画のことを。
小気味のいい漫画を読んだり、僕の部屋の小さなテレビに映るジェームズ・ディーンなんかを眺めていると、自分がほんの少しだけ特別になれるような気がする。自己実現だとか、かけがえのない自分だとかの思想が、骨の髄まで浸透している僕は、慎ましやかな生活だけでは息ができない。だから今日も散歩に出かけて、コーヒーを飲んで、雑誌の『ポパイ』を買ったりなんかしていた。「二十歳のとき、何をしていたか?」って特集で、読み応えがあって面白い。そういえば今日行った喫茶店には、レコードがたくさんたくさんあって、細野晴臣が好きだっていう話をしたら、店主さんが『HOSONO HOUSE』を流してくれたりなんかして、コーヒーも美味しくて、タバコを一本だけ吸って、すごく良い時間だった。
最近のこと
ここ数日すっかり気が抜けてしまっている。去年の暮れからずっとやらなきゃいけないことに追われていて、大学生活の三年間を一緒に過ごした先輩たちの卒業ライブが土日にあって、それが終わってからすぐにすることは何もなくて、筋肉痛なのか風邪なのか全身が痛くて、風邪なのか花粉なのか鼻や喉の調子が良くない。だからいつもよりたくさんたくさん寝て、雨が降りそうな天気が続いて、友達の家に忘れたり彼女に貸したりして傘がすっかり部屋から出払ってしまっているから、たまに本を読んだり映画を観たりするほかはただただ外にも出ないでぼんやりしていた。
あんまりにも何にもしていないとなんとなく嫌な気持ちになるもので、こんな風な日記めいた文章を久しぶりに書いてみようと思った。これまでのこととか、これからのこととか、力なく思い出したり思い描いたりしてみて、さよならだけが人生なのかとちらりと思ったりしている。先輩が卒業して悲しいというのは、会えなくなるから悲しいわけじゃないと思う。だって会おうと思えば会えるわけだから。卒業して会えなくなるのは元々あんまり会っていない人だけで、あんまり会っていない人にあんまり会えなくなるから悲しい、というのはおかしいと思う。じゃあ何が悲しくて寂しいかというと、今までの当たり前が当たり前じゃなくなることなんだろうなって思う。会おうと思わなきゃ会えなくなることなんだと。
もうすぐ就職活動が始まるわけなんだけど、就職活動っていうことは、まだよくわかっていないんだけど、自分のこれからの当たり前を自分で選ぶってことなんじゃないかって思う。どこに住んで、どんな人と関わって、どれくらいお金をもらって、どれくらい働いて、どれくらいの休みをもらって、何をするのか。もちろん全部が思い通りになるわけじゃないと思うけど。考えなくちゃいけないんだと思う。
特に書きたいことがあって書き出したわけじゃないから、ものすごくフラフラしている文章になっている気がする。現に今頭の中がフラフラしている。今夜この街を湯気を立てながら駆け巡って行ったピザたちのことを考えてみたり、出発したばかりの夜走りのトラックの積んでいる段ボールの中身が気になったりしている。今体温を測ってみたら少しだけ熱があった。おやすみなさい。みなさんよい夢を。
僕の現在地はどこかの誰かにとっての遠い場所
同じ町の中で暮らしていても、見える景色が同じだとは限らない。日々の生活の中で、思うことや、気にすること、その日やらなければいけないことや帰ったらしたいことだって人それぞれまったく違うだろう。僕は今日は最近ハマっている漫画家の福満しげゆきのことやら、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のこと、当時のイギリスの持つ想像力への熱と、なぜか両立している不思議な慎ましさなんかのことをぼんやり考えていた。
それからここ最近僕は、ちょっとニヒルな気分が続いていたので心機一転して、誰かと会話をしている間、頭の中で好きだ!好きだ!と念じるようにしている。そうするだけでなんとなくいつもより楽しい。人の気分なんてちょろいもんだなあと思う。
人の気分とか考え方を変えるのは本当にちょろくて、周りの環境次第でどうとでも変わると思う。人が集まって一度集団になってしまうと、もう個人ではどうにもならなくなってしまう。周りの人が揃って良いとしているものを否定するのは気がひけるし、良くないと思ってることを好きだと叫ぶのには勇気がいる。どこの家庭でもきっと一度は発されたことがあるだろう台詞、「うちはうち、よそはよそ。」は、実はとても大事なことなのかもしれない。
僕は時々、自分の身体が自分から離れているような感覚になる時がある。部屋に一人でいる時に起こることが多くて、金縛りにかかったことはないけど多分金縛りとは全然違って、自分の身体の動かし方がよくわからなくなるというか、動かそうと思わないと動かせない、もしくは思った通りにしか動かなくなる。
いろんな読書
2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。
これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。
だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。
どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。
本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。
サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、
見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる
なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。
最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。
近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。
寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。
いろんな読書
2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。
これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。
だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。
どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。
本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。
サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、
見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる
なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。
最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。
近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。
寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。