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フラ・アンジェリコの生涯と受胎告知画、受胎告知の名画③

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 前回に続いて、今回はフィリッポ・リッピと並んで「受胎告知の画家」とも称される、画家であり敬虔な修道僧でもあったフラ・アンジェリコの生涯と受胎告知画を見ていきます。15世紀イタリアの画家の中でも、ボッティチェリやフィリッポ・リッピと共に、日本でも広く親しまれている一人です。「天使のような」画家としばしば形容されるように、敬虔な信仰心に裏打ちされた、天国的な明るさに満たされた美しい画面は観るものを魅了して止みません。

 

フラ・アンジェリコの生涯

フラ・アンジェリコの生い立ち

 フラ・アンジェリコ(Fra Angelico,1400年頃〜1455年)は、フィレンツェを中心に中部イタリアで活躍した画家。フラ・アンジェリコという名は、「天使のような修道士」を意味する、彼の死後に人文主義者らによって与えられて広く流布した呼称で、本名はグイド・ディ・ピエトロである。フィレンツェ郊外の小村ムジェッロに生まれ、彼の名が登場する最初期のものである1417年の文書によると、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂付近に住み、カマードリ会士の画家ロレンツォ・モナコを擁した同附属修道院の細密画写本工房に出入りする画家として、篤信の在俗市民からなる「バーリの聖ニコロ信徒会」に入会している(1)。このことから、おそらく初めのうちはロレンツォ・モナコ周辺で装飾写本制作を学び、絵の修業をしたと考えられている。ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco,1370年頃-1425年頃)は写本画家として出発し、華麗な色彩と装飾的な線、ルネサンス期の自然主義的な傾向を見事に調和させた、国際ゴシック様式を最もよく体現する画家であると称されている(2)。翌1418年には、フィレンツェのサント・ステファノ・アル・ポンテ聖堂ゲラルディーニ礼拝堂祭壇画(現存せず)の代金が彼に支払われたという記録が存在することから、修道士となる以前から、彼が祭壇画を受注するほど前途有望な画家として仕事をしていたことがわかる(3)。その後彼は在俗信徒会の集会に通ううちに、ドメニコ会戒律厳守派の存在を知り強く惹かれるようになり、1419-22年までのいずれかの時期、彼は兄弟ベネデットと共にフィレンツェ北東、フィエーゾレにあったドメニコ会戒律厳守派の拠点、サン・ドメニコ修道院に自発的に入り、修道僧となる。以後生涯に渡って敬虔で模範的な修道士として過ごした彼は「フラ・ジョヴァンニ」と呼ばれ、在俗時に培った絵画の技能をドメニコ会厳修派の活動に捧げることになった(4)。以降、美術史上に燦然と輝く傑作として名高いサン・マルコ修道院のフレスコ装飾に代表されるように、彼はドミニコ会と関係の深い聖堂の壁画や祭壇画の注文などを主に手掛け、多数の傑作を残した。

 

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ロレンツォ・モナコ《聖母戴冠》、1388-1390、The Courtauld Gallery, ロンドン

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知(ミサ典書558番、第33紙背面)》、1430年頃、サン・マルコ美術館
ドミニコ会戒律厳守派との深い関係

 画家であり、同時に敬虔な修道僧であったフラ・アンジェリコの画業は、上述したように、彼が所属していたドミニコ会の「戒律厳守派(オッセルヴァンティ)」と深い繋がりがある。少し回り道にはなるが、ここでドミニコ会が成立・発展し、その中の改革派であった戒律厳守派が発足し、後に活動の場を広げていく歴史をざっと振り返る(5)。

 中世を通じて発展した修道院の大隆盛と、土地所有による教会権力の拡大は、やがて世俗化の傾向を孕み、その反動として、フランシスコ会ドミニコ会に代表されるように、教会財産の放棄と信者の喜捨による清貧の生活を主張する托鉢修道会を多数生み出した。両者は13世紀以降、イタリア各地の都市部に進出し、市民に開かれた付属聖堂をもつ都市型の修道院を建設し、説教による布教と貧民救済の活動を積極的に展開するようになるが、やがてローマ教会の中に取り込まれて、体制化していった。正統的で厳密な神学研究と異端追求の拠点となることで、急速に権威化していったドミニコ修道会を改革するために、ジョヴァンニ・ドミニチが「戒律厳守派(オッセルヴァンティ)」を立ち上げ、各地の修道院を転々としたあと、1418年にフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院に拠点を置いた。上述したようにフラ・アンジェリコが同派に加入したのは1419-22年頃であり、彼が早い時期からこの厳修派の存在を知っていたことが伺われる。

 1434年に大銀行家のコジモ・デ・メディチフィレンツェの政権を奪取し都市の支配者となると、同市内のサン・マルコ修道院が厳修派の拠点であるサン・ドメニコ修道院フィレンツェ市内における分院として置かれ、1438年からコジモの全面的な資金援助の下に、サン・マルコ修道院と同付属聖堂の改修増築工事が始まる。

 ドミニコ会出身であり、メディチ家との交流も深い教皇エウゲニウス4世(在位1431-47年)の即位以降、1446年にはドミニチの後継者で厳修派の指導者となっていたアントニーノ・ピエロッツィが、同教皇によってフィレンツェ大司教に任じられたことによく表れているように、それまで少数派であったドミニコ修道会の戒律厳守派は教皇の庇護の下に急速に力を増し、同修道会の中心的勢力へとなっていったが、フラ・アンジェリコが画家として盛んな活動を広げる時期はこれと一致している。この時期のフラ・アンジェリコの画業については、以下で順を追って見ていく。

  

フラ・アンジェリコの画業

 師であるとされているロレンツォ・モナコの影響か、豊かに装飾的で優美な線を特徴とする国際ゴシック様式から出発しながら、1420年代末から次第にマザッチョやドナテルロの革新的な表現を吸収しつつ、各地のドメニコ会聖堂を中心に数多くの祭壇画を手掛け、マザッチョの没後1430-40年代のフィレンツェ画壇を担う主要な画家の一人となっていく。

 彼が画家としての頭角を表していく1420年代の主要作品として、サン・ドメニコ修道院付属聖堂の主祭壇画、(1424-25年頃、フィエーゾレ、サン・ドメニコ修道院美術館)、《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》(1428-29年ごろ、サン・マルコ美術館)、現在プラド美術館に所蔵されている《受胎告知》(1426年頃)が挙げられる。

 なお、《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》は、1501年頃に補修され画家ロレンツォ・ディ・クレディによって建築背景と風景が描き加えられ、ルネサンス風の祭壇画へと変えられた。この時期のフラ・アンジェリコはギベルティからの強い影響を指摘されている他、丸く膨らんだ頬と巻毛を持つ幼兒キリストの描写と、玉座を囲む天使たちの描写などは、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの《クアラテージ家多翼祭壇画》に学んだとされている(6)。

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フラ・アンジェリコ《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》、1424-25年頃

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ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ《クアラテージ家多翼祭壇画》、1425年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

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フラ・アンジェリコ《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》1428-29年、サン・マルコ美術館

 《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》から《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》に至る数年間の間に、次第にファブリアーノよりはむしろマザッチョの影響が大きくなり、1430年頃の作とされる聖母子像では、三次元的な空間表現や、立体的な人体表現や陰影法への画家の関心の高まりが表れている。また、1431年頃には花の咲き誇る美しい緑の中で天使たちが輪になって踊る至福に満ちた天国の描写で知られる、有名な《最後の審判》を手掛けている。このパネルが通常の形と異なっているのは、荘厳ミサの際に司祭が用いる椅子の上端部分の形をとっているからだという(7)。

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フラ・アンジェリコ《聖母子》1430年頃、サン・マルコ美術館

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マザッチョとマソリーノの共作《聖アンナと聖母子》、1424−25年、ウフィツィ美術館

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フラ・アンジェリコ最後の審判》、1431年頃、サン・マルコ美術館

 

 以降、1430年代を通じて活発に活動し、フィレンツェの裕福な銀行家であり、1433年にはフィレンツェ共和国の実権を握り、ライバルであるコジモ・デ・メディチを追放するまでに至る権力者パッラ・ストロッツィから依頼された、サンタ・トリニタ聖堂内のストロッツィ家の礼拝堂を飾る祭壇画を1432年に完成させている。これは祭壇画としては珍しい「十字架降架」を主題とした大作であり、明るく鮮やかな色彩を用いながら、伝統的な金地の背景ではなく、雲の浮かぶ青空とトスカーナの丘をバックに、より晴朗な雰囲気に満ちた画面を作り出すことに成功している。ここでは遠景の色調を弱めて描くことによって遠近感を出す空気遠近法を使って、一貫した空間を描き出している。

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フラ・アンジェリコ《十字架降架(サンタ・トリニタ祭壇画)》、1432年、サン・マルコ美術館

 1432-33年頃には近隣のコルトーナのドメニコ会厳修派の聖堂の以来を受けて《受胎告知》を手掛け、1433年頃には彫刻家ロレンツォ・ギベルティの設計素描に基づいて《リナイウォーリの祭壇》(1433年頃、コルトーナ司教美術館)を制作した。この祭壇画の注文主はフィレンツェの亜麻織物業組合であったが、これもまた、サン・ドメニコ修道士の遠戚からの委嘱である(8)。また、1434−5年頃、サン・ドメニコ聖堂のための三番目(一番目は《聖母子と聖人達、》二番目は《受胎告知》)の祭壇画《聖母戴冠》(1434-35年ごろ、ルーブル美術館)を制作している(9)。この作品は大きな評判を呼び、画家のもとに同主題の注文が相次ぎ、フラ・アンジェリコは他にも何点かの聖母戴冠図を残している。ジョルジョ・ヴァザーリは、この聖母戴冠図を指して、「この画家の全作品を通観しても、ここでは自己の特色をもっともいかんなく発揮し、ありとあらゆる技巧をつくして自己をのり越えて」おり、眺めているうちに「信じがたいほどの優しい感情が湧いて」きて、「この場にいる聖人聖女は、優しく甘美な様子で、生き生きとしているばかりでなく、作品全体の色調が、あたかもそこに描かれている天使あるいは聖人の一人の筆になるかに見え」るほどで、「これらの魂に肉体を与えるならば、このような表現以外なかった」とまで絶賛している(10)。

 

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フラ・アンジェリコ《リッナイウォーリ祭壇画》、1433−35年、サン・マルコ美術館

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フラ・アンジェリコ《聖母戴冠》1434−35年、ルーブル美術館

 そして1434年、フィレンツェから追放されてから一年後にコジモ・デ・メディチは帰国に成功し、パッラ・ストロッツィとその支持者達を追放し実権を握ると、サン・ロレンツォ聖堂のメディチ家の礼拝堂を飾るための祭壇画をフラ・アンジェリコに依頼する。こうして1434年頃に製作されたのが《アンナレーナ祭壇画》である。それまでの多翼祭壇画では、ひとつのパネルに聖人を一人ずつ描くのが通例だったが、この作品では聖母子と聖人達がひとつのパネルの中で一緒に描かれている。各聖人が独立して描かれるのではなく、一つの画面の中で互いに会話を交わしているかのように描かれたものは「聖会話」と呼ばれるが、フラ・アンジェリコのこの作品が、イタリア絵画における「聖会話」の最初期の作例であるとも言われている(11)。

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フラ・アンジェリコ《アンナレーナ祭壇画》、1434年頃、サン・マルコ美術館

 この時期のフラ・アンジェリコは、先行する国際ゴシック様式の画家達から、ロレンツォ・モナコの厳格で神秘主義的な調子、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの装飾的で優美なきらびやかさ、ギベルティ風の柔和で繊細な情感を受け継ぎ、それに加えて、先進的なマザッチョの量感のある陰影描写や透視図法による遠近法の技法など、人体や事物の自然主義的な描写を積極的に取り入れながら、彼の画風を形成していき、それは1438年以降の、彼の代表的な作品群である、サン・マルコ修道院のフレスコ装飾事業に結実していくこととなる。

 

サン・マルコ修道院フレスコ装飾以降の画業

 コジモ・デ・メディチは1434年にフィレンツェに帰還してから二年後の1436年、教皇エウゲニウス四世の認可を受けて、当時ほとんど廃墟と化していたサン・マルコ修道院をシルヴェストロ会から買い取り、これをサン・ドメニコ修道院フィレンツェ市内における分院として、ドミニコ会の戒律厳守派に委譲した。そして1438年から、コジモ・デ・メディチ(1389-1464年)の全面的な経済援助のもと、サン・マルコ修道院と同付属聖堂の建設工事が始まる。この改修増築工事の設計監督はメディチ邸の設計を担当したミケロッツォ・ディ・バルトロメオ・ミケロッツィが登用された。

 着工後、フラ・アンジェリコはまず、新聖堂の主祭壇のために《サン・マルコ祭壇画》(1438-41年、サン・マルコ美術館)を制作した。アンナレーナ祭壇画と同様、ここでも「聖会話」方式の構図を採用しているが、画面の左側、聖母の足元に跪いてこちらを向いているのは聖コスマスであり、彼はコジモ・デ・メディチ守護聖人である。

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フラ・アンジェリコ《サン・マルコ祭壇画》、1438−1432年頃、サン・マルコ美術館

 次いで1441年前後から修道院建築内のフレスコ装飾に着手し、中断を挟みながらも1450年頃にはすべて完成したものとされている。現存するものだけでも大小合わせて計54点あり、修道院内の50室ほどのドルミトリオ(僧房)の全室に絵画装飾を施すというこの大事業は、当然1人の画家がこの膨大な点数の作品をこれだけの短期間で仕上げるのは不可能であり、どこからどこまでをフラ・アンジェリコ本人の筆に拠るとするかについては様々な説があるが、メディチ家お気に入りの画家の一人であるベノッツォ・ゴッツォリなど、3-4名の助手が集められ、フラ・アンジェリコの構想や下絵から、彼の厳格な指揮の下に複数人で制作が進められたとされている(12)。1443年には聖堂聖献式が執行され、2年後の45年、サン・マルコ修道院はサン・ドメニコ修道院分院から昇格して独立していることから、修道院フレスコ装飾の大部分は、この頃に完成したとされているが、一部のフレスコ装飾や、部分的な建築工事は1452年までつづけられている。

 サン・マルコ修道院内の僧房は在俗信徒用、修練士用、修道士用の部屋にそれぞれ分かれており、在俗信徒用の部屋には、「最後の晩餐」などの物語的要素の強い主題が、そして修練士用の部屋には必ず、イエス・キリストの受難に思いを馳せるための磔刑像が描かれている(13)。これらのフレスコ装飾の中で、とりわけ有名なのが、一階の回廊沿いにある参事会室に描かれた大作《十字架上のキリストと聖人たち》や、修道士たちの部屋に向かう階段を上がった廊下と、修道士の個室の一つに描かれた二点の《受胎告知画》、二階の廊下にある《影の聖母》である。この内二点の受胎告知画については後述する。

 《十字架上のキリストと聖人たち》では十字架にかけられたイエス・キリスト、気絶する聖母マリア福音書記者聖ヨハネの他にも、コジモ・デ・メディチ守護聖人である聖コスマスや、ドミニコ会創始者ドミニクス、『神学大全』を著した同会の神学者トマス・アクィナス、殉教者聖ペトルスなど、様々な時代の、ドミニコ会にゆかりのある聖人たちが大勢登場している。そして画面の下部に並ぶ丸枠の中には、ドミニコ会の修道士たちの肖像が描き込まれている。

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フラ・アンジェリコ《十字架上のキリストと聖人たち》、1438−43年、サン・マルコ美術館

 《影の聖母》は、この絵が位置する廊下に入る光に実際に照らされていると思われるほど、壁に映じる柱や柱頭の影の出来栄えが素晴しかったのでこの呼称が定着したと言われている。この作品で印象的な白い壁を描くに際に、フラ・アンジェリコは伝統的なフレスコ画の技法とは異なる石灰乳の技法を使うことで、よりいっそう明るい白を表現することができたと言われている(14)。このフラ・アンジェリコに特有の白色は、僧房内の他のフレスコ画、《キリストの変容》、《嘲弄されるキリスト》、《キリストの磔刑》などでも効果的に用いられている。国際ゴシック様式的な、金地の背景にウルトラマリンなどの高価な顔料をふんだんに使った豪奢な画面ではなく、白を最大限に活用し、質素で瞑想的な美しさを持つこれらの絵画装飾は、修道士達が厳格な戒律を守り禁欲的な祈祷生活を送る修道院の目的にも適っていると言えるだろう。

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フラ・アンジェリコ《影の聖母》、1449−50年頃、サン・マルコ美術館

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フラ・アンジェリコ《キリストの変容》、《嘲弄されるキリスト》、《キリストの磔刑》、1440−42年頃、サン・マルコ美術館

 

 サン・マルコ修道院内のフレスコ装飾事業は、1445年頃までには大部分が完成していたようで、1445年の後半、フラ・アンジェリコ教皇エウゲニウス4世の招聘によりローマに赴き、ラテラノ宮内「秘跡の間」のキリスト伝を題材にしたフレスコ画を手掛けたとされるが、16世紀にサン・ピエトロ大聖堂をはじめとして、ヴァティカンの建物全体が建て直されたため、これらの作品は現存しない(15)。1447年のエウゲニウス四世の死後、前教皇の支持者であった新教皇ニコラウス5世(在位14447-55)のもと、彼は一時オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂の天井画《最後の審判》の制作に取り掛かるが、途中でローマに呼び戻され未完成に終わった。同天井画は半世紀の後にルカ・シニョレッリに引き継がれ、無事に完成した。

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サン・ブリツィオ礼拝堂天井画、大部分はルカ・シニョレッリによるもの

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サン・ブリツィオ礼拝堂天井画のうち、フラ・アンジェリコが手掛けた部分、1447年

 ローマに戻ってきたフラ・アンジェリコは、ニコラウス5世のために、教皇の書斎(現存しない)と、個人礼拝堂であるニッコリーナ礼拝堂のフレスコ装飾《聖ステファノ伝、聖ラウレンティヌス伝》(1447-49年、ローマ、ヴァチカン美術館)を手掛けた。画家の豊かな色彩感覚を遺憾なく発揮しつつ、を古代ローマや中世を彷彿とさせる荘厳な建築物や細部装飾を散りばめ、透視図法を駆使した遠近法と彫塑性のある人物表現を用いて、初期キリスト教時代のふたりの聖人の生涯を描いたこれらの作品群は、フラ・アンジェリコの作品中で最もルネサンス的な特徴を備えた壮大な大作であると言える。

  そして1450年頃に、フィレンツェに戻ったフラ・アンジェリコは、サン・マルコ修道院のフレスコ装飾を締めくくる最後の画面として、前述の《影の聖母子》を完成させた。

 

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ニッコリーナ礼拝堂のフレスコ装飾、それぞれ東側の壁、北側の壁、西側の壁、天井画、1447−49年

 1450年以降の主要作品としては、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の銀聖器収納棚の扉を飾る板絵装飾が挙げられる。フラ・アンジェリコの最大の援助者であったメディチ家のピエロ・デ・メディチの要望に応じて製作されたもので、最後の晩餐やゲッセマネの祈りなど、キリストの生涯を中心に、新約聖書旧約聖書の場面を予型論的に対応させた32の画面を描いた。

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フラ・アンジェリコ《銀器収納棚》、1451−52年頃

 1453年頃から、ドメニコ会のフアン・デ・トルケマダ枢機卿の招聘に応じて、再びローマに滞在することとなる。そして前述したサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂に滞在し、同聖堂祭壇画(現存せず)を制作後、同修道院の回廊フレスコ装飾に着手したらしい。だが1455年2月18日、同聖堂の修道士たちに看取られながら息を引き取った(16)。フラ・アンジェリコ墓所は現在も同聖堂内に置かれている。そして彼の墓碑銘は、今では失われてしまっているが、人文学者ロレンツォ・ヴァッラ(1406−57年)によって次のように刻まれていた。「諸画家たちの模範であり、栄光と誉れたるフィレンツェ人ジョヴァンニここに納めらる。信仰篤き人、聖ドメニコ聖教団の兄弟であり、自らも神の真なる下僕なりき。弟子たちはかくも偉大な師の死を嘆く。彼のごとき画業を、誰が他の画業に見出さんや?彼が祖国と教団は傑出せる画家の死を悼む。かの技に及ぶ者はなかりき。(17)」

 彼の死後、15世紀後半から、彼には「フラ・アンジェリコ(天使的修道士)」という通称が与えられたが、これは人文学者クリストーフォロ・ランディーノの『ダンテ神曲注解』(1481年)に初めて登場して以来、広く流布した。また、ドメニコ会修道士の同胞であるジョヴァンニ・ダ・コレッラの聖母を賞賛する詩『テオトコン』(1468年)のなかでこの画家に言及し、「天使的画家(angelicus pietor)」と称賛していた(18)。彼は終生、画家としての評判や世俗的な成功よりも、神への服従を望み、絵画を通じて神の教えを広めることに奉仕した敬虔な修道僧であり、その優れた人柄について、ヴァザーリは次のように述べている。「フラ・ジョヴァンニは、人間味あふれる節度ある性格で、清らかな生活を送っていたため、俗世の罠にはまらなかった。自分のような仕事に従事するならば、静かな憂いのない生活を送るべきだとも、キリストにまつわる話を描くなら、いつもキリストの近くにいなくてはならないとも、繰り返し言っていた」。そして「噂では、画筆をとる前にかならず祈りの言葉を唱え」、「キリストの処刑図を描くときは、涙がつねに彼の頬をぬらしていた(19) 」という。そして1982年、ローマ法王庁によって正式に福者に列せられている。

 敬虔な信仰と神への純粋な愛が通底している彼の作品は、鮮やかな色彩感覚と、遠近法や陰影法などの同時代の最新の技法を取り入れた確かな技術に支えられて、メルヘンチックなまでに理想化された天上の輝き、浄福な美に満ちた天国の世界を、地上に現出させることに成功している。フラ・アンジェリコの明るく甘美な作品は、今なお根強い人気がある。

 

 

フラ・アンジェリコの受胎告知画

 以下では、フラ・アンジェリコが手掛けた受胎告知画7点を、時代順に見ていく。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知と東方三博士の礼拝》1424年、サン・マルコ美術館

 まず、1424年頃に描かれたとされ、彼の比較的初期の作品に当たる、受胎告知と東方三博士の礼拝を描いた祭壇画を見てみる。画面は上下に分割され、上部では受胎告知が、下部では東方三博士の礼拝の場面が描かれているが、両方ともキリストの誕生にまつわるエピソードである点で共通している。装飾的な金地の背景の上に、人物たちは量感的というよりもむしろほっそりとして優美な、国際ゴシック様式的な筆致で描かれている。尖頭アーチ型の額縁に合わせて、聖母マリアと大天使ガブリエルは互いに頭を垂れ、半円形型の構図を形作っており、そしてアーチの頂点部分には、聖母マリアの方へ身を乗り出して聖霊の鳩を遣わす父なる神の姿が、鮮やかなウルトラマリンで描かれている。また、聖母と天使の間には、聖母マリアの純潔を象徴する、花瓶に活けた白百合が置かれている。また、最初の記事で述べたように受胎告知の場面においては、天使のお告げを聞いたマリアの、戸惑いや驚き、疑問や問いかけ、受容と祈りなど、さまざま心の動きが描かれているが、敬虔な修道士であったフラ・アンジェリコが描くマリアは、すべて胸の前で手を交差し、神のお告げを遜って受け入れる姿勢を示している。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1426年頃、プラド美術館

 1426年頃の作とされ、現在はプラド美術館に所蔵されている《受胎告知》は、三次元的な空間表現、緻密な自然観察に基づく細かな草花の描写、衣服の襞の処理などに、自然主義的な描写が見られるようになっている。また、画面の左に楽園を追放されるアダムとイヴの姿が描かれている点も、特徴的である。旧約聖書の『創世記』では、エデンの園で暮らしていた最初の人類アダムとイヴが、邪悪な蛇に唆されて禁じられていた知恵の実を食べて神の怒りを買い、楽園の外へと追放されるエピソードが語られており、これによって人類は原罪を背負うこととなったとされている。そして、受胎告知は人間の罪を贖い、救済をもたらす救世主イエス・キリストの誕生を予告するものであり、この作品では、人間の罪への堕落とその救済が同一画面で表されていることになる。画面左上の太陽から聖霊の鳩が発せられており、父なる神は建物の装飾部分の円形画の中に表されているが、これは父なる神を画中に描くことにより画面が超自然的な調子を帯びてしまうことを避けるための画家の工夫であろう。楽園に咲き誇る草花の美しい描写と、聖母や天使の衣服に特に顕著な、きらびやかな色遣いが印象的なこの作品は、大きな評判を呼び、以後フラ・アンジェリコのもとには受胎告知画の制作依頼が殺到することとなる。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1432-34年、コルトーナ司教美術館

 コルトーナの《受胎告知》(1432-33年頃、コルトーナ司教美術館)は、ドメニコ会厳修派系列の聖堂のために製作された。こちらの作品でも、アダムとイヴの楽園追放の場面が挿入されているが、前の作品よりも後景に退いて、受胎告知の場面により力点が置かれているが、消失点が左側に置かれているため、観者の視線は自然と楽園追放の場面へも向けられるようになっている。金色や真紅、深い青など高価な顔料をふんだんに使った、豪奢な画面が目を惹く、美しい作品である。とりわけ大天使ガブリエルが身に纏う、金色の装飾が散りばめられた赤い衣と、繊細な色調の変化を見せる金色の翼の対比が素晴らしい。全体の構図や象徴的な表現は前作と重なる部分も多いが、ここでは聖霊の鳩は円形画の装飾の中の父なる神から聖母の頭上に向かって飛んでいる。また、シモーネ・マルティーニやヤン・ファン・エイクの受胎告知画にも見られるように、大天使ガブリエルの口から発せられる告知の言葉が金文字で描かれている。そして、それに対する聖母マリアの返事は、上下逆さまに書かれており、これは天上に居る神が読みやすいように、天に向かって書かれているのだと言われている。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1430年代

 1430年代に描かれたとされるもう一つの受胎告知画も、全体の構図は以前の作と共通しているが、アングルが異なり、消失点は中央付近に置かれ、より安定した印象をもたらしている。アーチによって画面は2つに分割され、受胎告知が行われる様を、実際に建物の外から目の当たりにしているような構図となっている。特徴的なのは壁や床に埋め込まれた石の描写で、光を受けて星雲のように輝く様子が、画面の神秘的な雰囲気を高めている。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1442-43年、サン・マルコ美術館

 サン・マルコ修道院に描かれた有名な二点の《受胎告知》画のうちの一つで、修道士たちの部屋に向かう階段を上がった廊下に置かれており、絵の下には「入りて処女の像を前にするとき、天使祝詞を唱えることを忘れぬよう心せよ」「御機嫌よう、おお慈愛の母にして聖三位一体のおわす高貴なる住処よ」という2つの銘文が掲げられている(20)。修道院に住む人々が毎日目にする場所に置かれたこの絵画は、美しく描かれた神秘的な出来事を通じて、観る者が聖母を賛美し、神への信仰心を高めることを目的としていた。ルネサンス様式とゴシック様式とが見事に調和して共存している建築物の、コリント式の柱は以前よりもずっと重量感をもって、どっしりと描かれており、よりいっそう現実的な三次元空間を描出することに成功している。画面左の天国的な明るさを持つ緑が印象的な庭は塀で囲まれており、これはマリアの処女性を暗示するものと解釈される旧約聖書雅歌の「閉ざされた庭」という表現を踏まえたものである。塀の向こうの風景描写も見事で、空気遠近法によって、遠くの木々がややぼやかされて描かれている。また、明るい画面の中で七色に輝く大天使ガブリエルの翼が特徴的である。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1440-42年、サン・マルコ美術館

 サン・マルコ修道院内に描かれたもう一つの受胎告知画は、誰もが目にする廊下にではなく、二階の修道士用の僧房の個室内に描かれたものである。修道士の個人の瞑想のために描かれたものであるため、余分な装飾を廃し、木の椅子が置かれているだけの簡素質朴な室内描写、静謐で敬虔な雰囲気が印象的である。画面左手に佇む聖者は殉教者聖ペテロであるとされている。すらりとした大天使ガブリエルの立ち姿、恭しく服従の意を示す聖母マリアと、それに呼応するかのように描かれたヴォールトとアーチの織りなすリズム感が素晴らしい。サン・マルコ修道院のフレスコ装飾に特徴的な明るい白色で満たされた画面は、清貧を旨とするドミニコ修道会の信念をよく反映しており、地上的な華やぎや現世的な肉の喜びを離れて、純粋で揺るぎのない神への信仰と、精神的な天上の美しさを強く感じさせる。フラ・アンジェリコの深い宗教感情と画家としての確かな技巧が結びついた、受胎告知画の傑作である。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1451-52年、サン・マルコ美術館

 1451−52年頃、フラ・アンジェリコの晩年に描かれたこの《受胎告知》は、ピエロ・デ・メディチの依頼で制作した銀聖器収納棚の板絵装飾の一部である。これまでの作例と比較して、構図が大きく異なっている。画面中央、聖母と大天使の間には、開かれた戸があり、並木に沿って奥まで続いているが、突き当りの扉は固く閉ざされていることから、これも「閉ざされた庭」の類型表現であることがわかる。晩年のフラ・アンジェリコの画風を反映して、従来の軽く明るい描線と比べて、厳しい造形表現が見られる。

 

 思いの外長くなってしまいましたが、以上で受胎告知の名画・フラ・アンジェリコ編を終わります。最後まで読んで下さってありがとうございます。次回は今度こそルネサンス期の受胎告知の名画の紹介を予定しております。お楽しみに。

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参考文献

 (1)喜多村明里「フラ・アンジェリコとサン・マルコ修道院──信仰と祈祷瞑想における画像の効用」、関根秀一編集『イタリア・ルネサンス美術論──プロト・ルネサンス美術からバロック美術へ』所収、株式会社東京堂出版、2000年、p.71

(2)石鍋真澄監修、『ルネサンス美術館』、小学館、2008年、464p

(3)ヌヴィル・ローレ著、森田義之訳、『フラ・アンジェリコ──天使が描いた「光の絵画」』、創元社、2013年、p.16 

(4)前掲書、喜多村明里、p.71

(5)この章の記述の大部分は前掲書、ヌヴィル・ローレ、p2-4に拠っている

(6)ジョン・ポープ=ヘネシー著、喜多村明里訳、『フラ・アンジェリコ』東京書籍株式会社、1995年、p.10

(7)同書、p.12

(8)前掲書、喜多村明里p.72

(9)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.47

(10)ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘訳、『ルネサンス画人伝』、白水社、1982年、83−84p

(11)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.53

(12)前掲書、ジョン・ポープ=ヘネシー、p.29

(13)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.65-67

(14)同書、p.79

(15)同書、p.86

(16)前掲書、喜多村明里、p.73

(17)前掲書、ジョン・ポープ=ヘネシー、p.4

(18)前掲書、喜多村明里、p.83 

(19)、前掲書、ヴァザーリ、p.88

(20)前掲書、喜多村明里、p.82