「自動記述」とは何か
はじめに
本論では、アンドレ・ブルトンが提唱・実践した自動記述とは何か、について述べていく。第一章第一節では、ブルトン自身による自動記述の定義を確認し、ブルトンが自動記述を発案するに至った経緯、ダダイズムからの影響や、自動記述の前身と呼べるシュルレアリスト達の遊戯である「優美な屍骸」、及びそれらに通底する美意識について述べ、第二節ではフロイトの自由連想法とはどのようなものかを概観し、続く第三節ではフロイトの自由連想法をブルトンがどのように受容し、自動記述の技法へと発展させていったかを見ていく。第二章では、自動記述とはどのようなものであるか、どのような特質を持っているかを、フィリップ・スーポーとの共著『磁場』における自動記述のはたらきや、自動記述の内容と速度との関係を検証することで明らかにしていく。そして第三章では、自動記述の技法の実践による初めての成果物である『溶ける魚』における自動記述の用いられ方をテクストをもとに分析する。
第一章 自動記述の成り立ち
第一節 自動記述の定義、自動記述前史
ブルトンが1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムとは、以下のように定義される。
「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを実現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんなきづかいからもはなれた思考の書きとり(1)」
そしてこの思考の書き取りのための具体的な方法として、自動記述は考案された。ブルトン自身の言葉を借りればそれは、「被験者の批判的精神がそれに対してどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言(『宣言』p.46)である。言い換えれば、夢と覚醒状態との中間の、きわめて受動的な状態に自身を置き、そこで浮かぶイメージを志向よりも速く口述もしくは記述することである。理性や道徳から離れた夢や狂気の状態に身を置くことで、そこで立ち現れてくる無意識を、自動記述は写し取ることができるとされている(2)。
シュルレアリスムがダダの影響を受けて始まったように、初期のシュルレアリスムの主要な技法の一つである自動記述もまた、ダダの技法から多大な影響を受けている。ブルトンの自動記述のアイデアは、ダダの創始者であるトリスタン・ツァラの「帽子のなかの言葉」が着想のきっかけの一つとなっていると思われる。これはツァラが考案したダダ的な詩を作るための方法であり、その内容は次のとおりである。
「新聞を手にしたまえ。鋏を手にしたまえ。その新聞から諸君の詩に与えようと思う長さの記事を選びたまえ。その記事を切り抜きたまえ。しかるのちその記事を構成する単語のひとつひとつを切り離し、袋の中へ入れたまえ。静かに振りたまえ。しかるのちそれぞれの切れ端を一つずつとりだしたまえ。それらを袋からとりだした順番で丹念に書きとりたまえ。詩は諸君に似るであろう。かくして諸君は、まだ俗衆には知られていないが、無限に個性のある、そして魅力的な感受性をもった作家になっているのだ(3)」
「ダダイスムの詩を作るには」と題されているこの作詩法は、その手順から「帽子の中の言葉」と呼ばれている。新聞中のある記事を単語ごとにバラバラに切り取り、それを袋や帽子の中に入れて振り、そこから無作為に取り出した言葉を順番に並べていく、というこの方法は、詩を作る際に、すべてを偶然性に委ね、主体性を全く介在させないことによって、言語を意味から引き離すことが目的であった。「ダダはなにも意味しない(4)」という1918年にツァラによって発表された『ダダ宣言』の中の言葉からも読み取れるように、ツァラの、ダダイスムの目的は、あらゆるものを攻撃し、それらから意味をすっかり剥奪してしまうことであった。このような、「帽子の中の言葉」によって作られた詩は、次のようなものである。
「──価格それらはきのう適当だったそれから絵/夢を評価すること眼球の時代/華やかに何を歌おう福音書ジャンルが暗くなる/集まる栄光想像することかれはいう宿命色たちの権力…(5)」
このように、「帽子の中の言葉」によって作られる言葉は、脈絡がなく、文法の面からみても破綻しているものが多く出来上がり、その大半はとても詩と呼び得る代物ではなかった。そのような方法をあえてとることによって、ツァラは言語をあらゆるコードから引き離し、その意味性を無化することを試みたのである。
また、これとよく似たもので、初期のシュルレアリスト達が集まって興じていた、「優美な屍骸」と呼ばれる遊戯がある。その内容は、「数人の人があつまって、一枚の紙を順繰りに渡しあい、各人がその紙のうえに一つの語、あるいは一本の線をかく。こうして最後に、一連の奇怪な文章だとか、およそ現実からかけ離れたデッサンが得られる(6)」というものであった。(『宣言』、p.37)。
第二節 フロイトの自由連想法について
また、ブルトンの自動記述の着想減の一つとして、フロイトの自由連想法が挙げられる。ブルトンとフロイトとの関係性が最も端的に表されているのが、ブルトン自身による以下の記述である。
「そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の診断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者に適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、つまり、できるだけ早口に語られる独り言を、自分自身から得ようと決心したのだった。すなわち、被験者の批判的精神がそれに対してどんな判断をくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言をである(『宣言』、p.40)」 ここで彼の言うフロイトの診断方法とは、それに続く記述の内容からして、自由連想法であるに違いない。ブルトンは、第一次世界大戦で従軍していた時期に、フロイトの理論に没頭しており、患者に対して実際に自由連想法を実践してみる機会があったようである。 フロイトが自由連想法を始めて間もない頃に書かれたのが『あるヒステリー分析の断片(ドーラ)』であり、この治療は1900年の10月から同年の12月末まで続けられ、1905年に、それを報告した論文が発表されている。この治療の中で、フロイトはヒステリー症状の問題を解決するためには、夢の分析と並行して、自由連想法を用いたとされている。しかし、フロイトはこのドーラに関する論文のまえがきにおいて、「私自身が意図して持ち込んだ不完全さがある。すなわち、解釈作業は患者が思いついたことおよび報告したことに基づいて行われえたが、原則としてその作業の叙述はせず、その結果だけを記述した。したがって分析作業の技法は、夢に関する箇所を除けば、いくつかほんのわずかの箇所でしか明かされていない(8)」と書いてある通り、自由連想法がどのような作業であるのか、そしてまたその結果をどのように解釈するのか、という技法の詳細についてはあまり明らかにされていない。そこでまず、この症例報告の論文において、フロイトがドーラから、自由連想法を用いて引き出した結果であると思われる部分を抜粋し、自由連想法とはいかなるものかについて考察する。
そもそも自由連想法とは、ある言葉(刺激語)が与えられた際に、心に浮かぶままの自由な考えを連想していく発想法であり、以下ではフロイトが被験者(ドーラ)に自由連想法を用いた結果引き出されたものであると思われる部分を列挙し、分析を進めていく。
たとえば、母親という刺激語に対してなされたドーラの連想は、次のようなものである。
「では話します。最近父が母とけんかをしたのです。母が夜、ダイニングに鍵をかけてしまうので。つまり、兄の部屋にはちゃんとした出口がなく、ダイニングを通らないと部屋から出られないのです。父は、兄が夜のあいだそんなふうに閉じ込められることになってはいけないと言うのです。父の言葉では、『そんなことをしてはだめだ。夜のあいだに外に出なければならないことが起こるかもしれないじゃないか』というわけです(『ドーラ』p.79)
「母は装飾品が大好きで、父からたくさんもらっていました。(中略)わたしも前は大好きでした。しかし病気になってから装飾品を身に着けることはなくなりました。──四年前(夢を見る一年前)のことですが、父と母がある装飾品のことで派手にけんかになったことがありました。母には特にこれがほしいというものがあったのです。滴の形の真珠の耳飾りです、しかし父はそれを好まず、滴の耳飾りではなく、ブレスレットを母に渡しました。母はひどく腹を立て、父にこう言ったのです。『ほしいなんて言っていないものにそんなにたくさんのお金を遣うなんて。ほかの女の人にでもあげたらよかったのよ』って(『ドーラ』p.80)」
「(フロイトに「わたしだったら喜んでもらっておくのに」と考えたかと問われて)わかりません。そもそもどうして母が夢に現れたのかわかりません。当時、母はLniいなかったですし(『ドーラ』p.79)」
「ドーラが母親との同一化に固執し続けている様子から、わたしは思わず、『あなたも性病にかかっているのではありませんか』と質問しそうになってしまった。そして今や、わたしはドーラから聞いて知ったのだが、自分にはカタル(白色帯化)がある、その始まりがいつだったかは想い出せない、とのことであった(『ドーラ』p.95)」
「清潔に保たれるべき性器はすでに、カタルによって汚れてしまっている。この点ではちなみに、母親もドーラと同じである。ドーラは、母の清潔好きはこの汚れに対する反動であると理解しているようであった(『ドーラ』p.115)」
「前日の晩、身内の集まりののち、父親はドーラにコニャックをもってきてほしいと頼んだ。『コニャックを飲まないと眠れないからね』と父親が言ったという。彼女は母親に食品棚の鍵を求めたが、母親はおしゃべりに夢中で返事をしなかった。そしてついにドーラは、我慢できずにつぎのように言い放ってしまった。『お母さん、私はさっきからもう百回もカギはどこでしょうかって聞いているのよ』実際には、彼女はもちろん、だいたい五回繰り返しただけだった(『ドーラ』p.124)。」
このように、フロイトが患者に自由連想法を用いるのは、刺激語を投げかけ、そこから導き出される連想を引き出す場合と、患者の夢についての解釈を深めるために、夢のある場面について質問し、そこから連想を広げさせる場合があることがわかる。そして次節では、ブルトンがこのフロイトの自由連想法をもとに、自動記述を発明するに至った道筋を考察していく。
第三節 ブルトンとフロイト
フロイトの自由連想法に刺激を得たブルトンは、その自由連想法を患者に対してではなく、自分自身に対して用いてみようと考えたのであるが、そこに至るまでの転換点となったのが、以下に引用する体験である。
「ある晩のこと、眠りにつくまえに、私は、一語としておきかえることができないほどはっきりと発音され、しかしなおあらゆる音声から切りはなされた、一つのかなり奇妙な文句を感じ取ったのである。その文句は、意識の認める限りそのころ私とかかわりあっていたもろもろの出来事の痕跡をとどめることなく到来したもので、しつこく思われた文句、あえていえば、窓ガラスをたたくような文句であった。私はいそいでその概念をとらえ、先へすすもうという気になっていたとき、それらの有機的な性格にひきつけられたのだった。じっさいこの文句にはおどろかされた。あいにくこんにちまで覚えてはいないけれども、なにか、『窓でふたつに切られた男がいる』といったような文句だった(『宣言』p.37-38)」
「私はかなりめずらしい型のイメージを相手にしているのだとさとり、さっそくそれを自分の詩作の素材に組み入れることばかり考えた。こうして信頼をよせたとたん、さらにそのあとをうけて、なかなかとぎれることのない一連の文句がつづいてきた。それらも、ほとんどまえのものにおとらず私をおどろかせ、なにか無償のものちう印象のもとに私を置き去りにしたので、それまで自分に対してふるっていた支配力などはむなしいものに思われ、私はもはや、自分のなかでおこなわれている際限のない争いに終止符をうつことだけしか考えなくなった(『宣言』p.39-40)」
ブルトンは、ほとんど無意識的に、ある連続した文句を書き上げたこのような体験を回想しながら、それを彼がかつて慣れ親しんだフロイトの方法と結び付けて自身の詩作に生かそうと試みたことが、無意識に心に浮かんだ単語をつなげていく自動記述という技法の発明へとつながっていくのである。次節では、実際にこの着想がいかにして自動記述の方法論へと結実していったのか、そして自動記述と自由連想法とはどのような相違があるのかをみていく。
第四節 フロイトの自由連想法とブルトンの自動記述
ブルトンは、前節で挙げた思いがけない文句がひとりでにやってくる体験ののちに、それを意識的に再現することができる方法を模索するようになった。「自分の注意力を、たったひとりで眠りにつくまぎわに、あらかじめ限定された何かを発見できないようなかたちで精神に感じ取られてくる、多かれ少なかれ断片的な、いくつかの文句の上にそそぐ(『宣言』p.34)」ようになっていたのである。
そしてブルトンは、「シュルレアリスム魔術の秘訣(『宣言』p.53)、「シュルレアリスム作文、または下書きにして仕上げ(『宣言』p.53)として、つまり自動記述の具体的な実践のための手引きとして、次のような制作方法を挙げている。
「できるだけ精神の自己集中に適した場所におちついてから、なにか書くものをもってこさせたまえ。できるだけ受身の、つまり受容力のある状態に身をおきたまえ。(中略)あらかじめ主題など考えずに、記憶にとどめたり読みかえしたくなったりできないほどすばやく書きたまえ。最初の文句はひとりでにやってくるだろう(『宣言』p.53-54)」
つまりブルトンは、かつては眠りにつく間際に不意に訪れた文句を、できるだけ集中できる環境で、意識を受動的な状態におき、記憶や反省が介入する隙のないほどすばやく書くという方法でもって、再びとらえようとしたのである。また、これをフロイトの理論と結び付けるのならば、この「ひとりでにやってくる」最初の文句こそが、フロイトの自由連想法における刺激語の役割を果たすと考えられる。しかし、フロイトの自由連想法と、ブルトンの自動記述とでは、両者の目的のあいだに大きな違いがあることを確認しておきたい。フロイトは、第一章でみたように、自由連想法を、夢や無意識の解釈のための素材をより多く引き出すための臨床技法として用いているのに対して、ブルトンの自動記述では、意識されないほどすばやい連想それ自体が目的となっている。
「私は語というものを、それが周囲にうけいれる空間のゆえに、つまり私が口にしていないほかの無数の語との接触のゆえに、どこまでもいつくしみはじめていた(『宣言』p.35)
「接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であればあるほど、イメージはいっそう強まり──いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになるだろう(『宣言』p.37)」
以上の記述からもわかるように、ブルトンの関心は、語と語との関係性や、第一節でみたように、かけ離れたイメージが結びつくことによって生じる美しさにあるのである。
また、ブルトンは自動記述によって生まれる文章が、完全に無意識的なものではありえないことに対しても自覚的であったことは、「私たちの意識的思考とは無縁な、ひたすら表にあらわれることだけをもとめる文句が、刻々と生まれてくる。あとにつづく文句の件について、態度をきめることはかなりむずかしい。最初の文句を書きとめたという事実がごくわずかでも知覚をひきこむことを認めるなら、あとからやってくる文句はおそらく、私たちの意識的活動とそれ以外の活動との性質を同時に帯びることになるからだ(『宣言』p.54)」という記述からもわかる。そして、この意識的な活動と無意識的な活動が混じり合わざるを得ない。「まさにそうした点にこそ、シュルレアリスム遊戯の興味のもっとも大きな部分が存するのである(『宣言』p54.)としていることから、ブルトンの提唱する自動記述は、完全に純粋な無意識の記述それ自体を追及していたわけではないことがわかる。それでは、ブルトンが自動記述に見出していた意義とはどのようなものなのか、を次章で詳しく述べていく。
第二章 自動記述の特徴
第一節 自動記述の特質
ブルトンが自動記述を初めて実際に用いて完成させたのが、フィリップ・スーポーとの共著である『磁場(1920年)』である。なぜ、ブルトンは単独で書き上げるのではなく、スーポーとの共著という形をとったのか。朝吹亮二によると、「共同執筆は自動記述の特質と分かちがたく結びついていた(9)」のである。なぜなら、自動記述による理性や道徳などのあらゆる配慮の外で行われる心の自動現象の書き取りは、「書き取っている者の主体性は否定、ないしは無化(10)」するからである。そしてブルトンは、当時から自動記述が持つこの意識的主体を排除するという特質に目をつけており、さらに共同執筆という形をとることで、個人の主観や想像力の限界を超えた詩を生み出そうと試みたのである。また、この作品において、どの個所をブルトンが書き、どの個所が共著者のスーポーの手によるものであるのかを、一切明示しておらず、このことにより、ブルトンは近代以降に支配的であった作品の作家主義を否定するとともに、作品やそこに書かれた言葉に匿名性を持たせることに成功している。
また、自動記述が持つもう一つの特質として、言葉の自動性を挙げることができる。「最初の文句はひとりでやってくるだろう。事実そのとおりで、私たちの意識的思考とは無縁な、ひたすら表にあらわれることだけを求める文句が、刻々と生まれてくる(『宣言』p.54)」のである。前述したように、ブルトンは自動記述によって、純粋な無意識の声がそのまま完璧に書きとられるとは考えておらず、彼はむしろ、自動記述によってもたらされる「私たちの心をうばっている流出の絶対的持続(『宣言』p.54)」を、言い換えれば、自動記述によって無意識から書き取られた最初の一句が、その後に続く文章全体の調整を決定するという特質に心を奪われていた。自動記述は、純粋な無意識の書き取りのためというよりは、そのような記述の自動性の可能性を実験するために用いられたのである。
このように、『磁場』におけるブルトンの狙いは、一つは自動記述を用いることによって、言葉を個人性から離れた匿名的なものとして扱うことであり、そしてもう一つは自動記述によって生じた特殊な語の組み合わせにけん引されて、そのあとの言葉が続いていく、その言葉の自動性を強調することなのである(11) 。
第二節 自動記述と速度の関係
前章で述べたように、主体性を介在させることなく詩を作るための方法である「帽子の中の言葉」や、「優美な屍骸」のほかに、眠る間際に不意に奇妙な文句がひとりでにやってくるという個人的な体験がブルトンに啓示を与え、自動記述の技法を編み出していく契機となった。模索の途中で、当時フロイトに傾倒していたブルトンは、フロイトが編み出した自由連想法を自分自身に施してみるというアイデアを思いつく。自由連想法は、ヒステリー神経症治療のための臨床実験の一環としてフロイトが行っていた技法であり、ある刺激語から連想される言葉を、患者に自由に岩瀬、それらの関連や、反応速度などから、ヒステリーの原因となっている出来事や心的外傷を浮かび上がらせ、治療を施すというものであった。自由連想法によって得ることができる言葉は、無意識の領域と何らかの接点を持つ、と考えられていたのである。そしてブルトンはこの方法を患者に行うのではなく、自身に向けて用いてみることによって、自分の無意識から言葉を引き出すことが可能になるのではないかと考え、それが先ほど述べた体験、眠りにつく前の奇妙な文句の到来の体験と結びつき、それが自動記述という詩作方法として結実したのである。
そして自動記述の技法のまとまった形での初めての実践が、フィリップ・スーポーとの共著『磁場(1920)』であり、この作品では自動記述の行われる速度が、かなり意識的に問題とされている。具体的に言えば次の5種類の速度があらかじめ設定されていた。
「(1)速度V(非常に速い)
(2)速度V'(Vの三分の一程度、それでもひとがたとえば子ども時代の想い出を語るときのふつうの速度の二倍」
(3)速度V’’(Vよりはるかに速い。最大の速度)
(4)速度V’’’(VとV’’の中間)
(5)速度V’’’’(最初はVとV'''の中間、最後はVとV’’の中間)(12)」
自動記述の際の平均的な速度として設定されている速度VはV'の三倍であるとされているため、単純計算して、ひとが幼少期の想い出を語るときのふつうの速度の六倍ほどの速度であったことがわかる。また、一番速いとされるV''は、それよりもはるかに速い速度として設定されている。そして、平均的な速度である速度Vで書かれた自動記述の例として、『磁場』に収められている「柵」という作品が挙げられる。
「『ぼくらの周囲にあるさまざまな感情的な事物が、いつもの場所にないことに、ぼくはすぐ気がついたよ。』
『べつの秩序をつくりだす必要があるのさ。嵐の真最中に、決裂の合図みたいに木の葉が裏返しになる。これにはちょっと感動するね(12)』」
また、同じく『磁場』所収の「ヤドカリは語る・II」は、最大の速度である速度V''によってえがかれている。
「無色のガスは停められている
二千三百個の遠慮
みなもとの雪
微笑は許可される
水夫たちの約束を与えてはいけない
極のライオン
海 海 自然の砂
貧乏な親類たちのおうむ
大洋の別荘地
夕方の七時
怒りの国々の夜
財政 海の塩
もはや夏の美しい手しか見えない
瀕死の者たちのシガレット(13)」
このように、自動記述のスピードが上がっていくにつれて、文の構造は単純になり、前後の関連がなく、切れ切れのイメージが次々に立ち現れるような様相を呈していくことがわかる。このような自動記述のテキストは、他社に伝えるべきどんな直接的なメッセージも持っていないという点においては、ツァラによるダダイスムの一連の試みと合致するかもしれないが、ツァラの目的が、言語の持つ意味の放棄、もしくは言語そのものの破壊に向かっていたのに対して、ブルトンの自動記述は、「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り(『宣言』p.46)」であり、無意識の思考の書き取りなのである。思考というものは、意味を前提とするものであるから、ブルトンは、ツァラが目指したように、言語から意味を取り除き、破壊を目的とはしておらず、新しい詩を作るための方法として彼らの技法を取り入れた点で、両者の立場は異なっている。
第三章 『溶ける魚」における自動記述
前章までに述べた通り、ツァラの考案した詩作法「帽子の中の言葉」、そしてシュルリアリストたちが興じた「優美な屍骸」をふまえて、それを自身の体験や、フロイトの無意識の理論と結び付けて生み出されたのが自動記述であった。そしてそれを支えるのは無意識の領域への無条件の信頼と、優れたイメージとは二つのかけはなれた現実の結びつきによって生じるという美意識であった。スーポーとの共著『磁場』では自動記述の速度が重要視されており、ブルトンは自動記述のスピードを上げること、そしてスーポーという他者との共作の形をとることで、主体の消失した言語の実現を目指し、言語の自律性や匿名性の可能性を探る実験を推し進めたのであるが、ブルトンひとりの自動記述によって書かれた小話集『溶ける魚(1924年)』において、自動記述はどのような展開を見せているか。『溶ける魚』はブルトンが単独の自動記述によって書き上げた初めての作品集であり、有名な『シュルレアリスム宣言』はもともとこの作品集のための序文として書かれた。この作品集のなかでの最初の一篇である「溶ける魚1」を例にとって、自動記述がどのように用いられているかを分析する。
『溶ける魚』の冒頭を飾るこの一篇は、「意味のない城がひとつ、地表をうろついて(『宣言』p.87)いる場面から始まる。ここで表れている城のモチーフは、ブルトンが好んで用いるものであるが、これは『宣言』においてマシュー・グレゴリー・ルイスの恐怖小説『マンク(1796年)』を、その不可思議さにおいて絶賛している(『宣言』p.27)ことからもわかるように、ブルトンの生来のゴシック趣味の反映であると考えられる。また、ブルトンが、シュルレアリストたちのたまり場となっていた自身の家を、城と呼んでいた事実も一考に値する(『宣言』p.30-32)。そして、意味のない、という修飾語から、ダダを連想するのも不自然ではないだろう。そしてそこに、「幽霊が忍び足ではいってくる(『宣言』p.88)のである。この幽霊というモチーフは、ブルトンがたびたび言及しているイメージである。例えば、次のような記述がある。「この言葉(誰とつきあっているか)は、それが意味するよりもはるかに多くのことを語っており、生きながらにして私に幽霊の役割を演じさせる(14)」。このつきあうという語(hanter)には、「つきまとう」あるいは「とりつく」といった意味もあるため、それによってブルトンは幽霊のイメージを連想したものだと思われる(15)。そこからさらに彼は「幽霊」に対する言及をつづけ、「私が『幽霊』なるものについて思いえがく姿は、その外見においても、また幽霊が、時間的な、あるいは空間的な或る種の偶然性に、まったく盲目的に従ってしまうという点においても、それ自体の持つ因習的な面からして、私には何よりもまず、永遠に続くに相違ない或る苦悩の、完結したイメージとしての価値をもっている(16)」とある。つまり、ブルトンにとっての幽霊とは、「永遠に続くに相違ない或る苦悩の、完結したイメージ」であり、ブルトンは現実の生活において、「幽霊の役割を演じさせ」られていると感じているのである。先ほどの「忍び足ではいっ」てきた幽霊は、ブルトン自身を暗示するものであり、彼が「自分のためにこの心やわらいだ国(『宣言』p.88)」、つまりダダを思わせる無意味な城に迷い込む場面から、シュルレアリスムの最初の作品集が始まるという点から、この城は、今まさに生まれつつあるシュルレアリスムの姿と二重写しとなっていると考えられる。
つづいて、「城の窓辺で、ひとりの女が歌っている(『宣言』p.88)」のを見つけるのだが、先ほどの幽霊が、「あたりに上天気をつくりすぎている」ために、この女の姿をはっきりと見ることができずにいる。すると、「とつぜん夜がやってきて」、場面は突然転換する。この後も、場面が著しく転換する際には、常にその直前に女が登場する。女の存在によって、「私」はあるイメージから次のイメージへと引っ張られていく。後年のブルトンの小説でもそうであるように、ここでも女性が彼のインスピレーションの源泉となっていることが窺える。それどころか、「眠っているときにこそ、彼女は本当に私のものになるのだ、私は彼女の夢のなかへ盗人のように忍び込み、そして、まるで王冠を失うかのように、彼女をほんとうに失ってしまう(『宣言』p.92-93)」という記述から、ここでは、女は無意識の象徴としてえがかれている、と推測することができる。このことは、「私が野生の木の実や、じゅうぶんに陽光をうけた漿果をもちかえってプレゼントすると、彼女の両手のなかで、それはとてつもない宝石になる(『宣言』p.93)」という箇所からも読み取ることができる。眠っているときにのみ、本当に私のものとなり、昼間の光を浴びた漿果がその両手の中でとてつもない宝石に変化し、いずれは失ってしまう彼女とは、夢というかたちで立ち現れてくる無意識の特徴と類似点がある。
終盤に差し掛かると、「時をへたいまでは、もうはっきりとは見えてこない、これはちょうど、私の生の劇場と私自身とのあいだに、ひとつの滝がかかっているかのようで(『宣言』p.92)であると言い、このひとつの滝によって隔てられた生の劇場とブルトン自身を再び結び付けるためには、「いまいちど寝室の茂みのなかで戦慄をめざめさせ、昼の窓のなかで小川と小川をむすびあわせなければならない(『宣言』p.93)」のである。両者を結びつけるのが「寝室の茂みのなか」であることや、冒頭において、突然夜がやってくることによってめまぐるしいイメージの変転が展開していったことを考え合わせると、ブルトンの意識と無意識を結び付け、全的な生を取り戻すための鍵は、眠り=夢であることがわかる。
まとめると、城とは生まれつつあるシュルレアリスムであり、幽霊とは現実世界におけるブルトン自身の姿の投影であり、女は無意識の象徴である。そしてブルトンと女=無意識を結びつけるものは、夜や寝室の茂み、すなわち眠りや夢なのである。
ここまでが。「溶ける魚1」における城や幽霊、女等の主要なモチーフの分析であるが、つづいて、この作品に立ち現れるさまざまな動物・植物のイメージについて分析したい。
「溶ける魚1」の中には、実に多種多様な動植物や無機物が登場する。例えば、「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた(『宣言』p.87)」「海の鳥たちが笑う(『宣言』p.87)」「枯れた楡と緑あざやかなキササギだけが、野生の星々のミルクのなだれのなかで溜息をつく(『宣言』p.88)」「ゴンドラ魚が、両手で目かくしをしながら、真珠だかドレスだかをもとめて通り過ぎる(『宣言』p.88)」のような描写が挙げられるが、これらについて共通している特徴は、ここに登場する事物のほとんどが、擬人法で描かれている点である。これらは比喩の一種であるというよりはむしろ、自動記述による事物の変容の様子の記述であるととらえるべきである。つまり、「通常は描写されるにとどまる事物が、記述の中で、むしろ主体となり、発話したり、行動したりしている(17)」のである。
また、自動記述について述べる際に、しばしば問題とされるのが「私」の位置や主体性のあり方の問題であるが、この「溶ける魚1」において、「私」はどのように描かれているのだろうか。「私はこの城の鉄格子門で呼び鈴をならしていた(『宣言』p.89)」という箇所で、「私」は唐突に登場する。この城の呼び鈴を鳴らしている私は、当然のことながら、城のなかへと入ろうとしているのであるが、前に述べたように。ブルトンにとって、城はシュルレアリスム自体と強く結びついた語であることを考えると、ここから、「私」は自動記述の現場へと入っていくのだということが読み取れる。そこから「私」は、小間使いたちと話をしたあと、城の内部へと入っていく。そしてさまざまなイメージが展開されていくのだが、「私」はその城の回廊の中で、「私は私で、いちぶの隙もない燕尾服のなかにどうにか身をうずめて、以来、もうそこから脱け出られないありさま(『宣言』p.91)」にまで陥ってしまう。前出の「時をへたいまでは、もうはっきりとは見えてこない、これはちょうど、私の生の劇場と私自身とのあいだに、ひとつの滝がかかっているかのようで、しかも、私はその劇場の立役者ではない(『宣言』p.92)」という箇所とも同様に、この作品において「私」は自ら主体的に行動するということをほとんどしない。そして私が身動きを取れずにいる間に、事物があたかも人間のように生き生きと活動しているのである。「溶ける魚1」におけるこのような「私」のあり方は、自身を徹底的に受動的な状態におくことによって始めることができる自動記述の性質に、そしてその自動記述の技法によって綴られた小話集『溶ける魚』の初めの一篇に、とても似つかわしいもののように思える。
おわりに
初期のシュルレアリスムの目的は、ブルトンは夢の復権や、無意識の発見であるとブルトンは述べている。また、自動記述によって紡がれた『溶ける魚』において、通常では客観的に描写されるにとどまる事物が行為する主体となって発話をしたり行動する様子が描かれているという特徴や、自動記述がもたらす言語の自律性や匿名性は、固定した言葉の意味や特権的なイメージの転倒させる試みであったと考えられる。後年のブルトンはトロツキーら共産主義者たちに急速に接近し、政治色が強くなりすぎたためにシュルレアリスム運動は瓦解していったとされているが、ブルトンにとってのシュルレアリスム運動は、一貫してある種の階級闘争であったのではないか。現実と夢、主体と客体、人間と動植物や鉱物等、様々なものの間の関係を、自動記述や、オブジェ、デペイズマンなどという技法によって揺さぶりをかけ、変化させようと試みていたのではないだろうか。
注
(1)アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』、岩波書店、1992年、p.46、以下本書の引用は『宣言』と略記し、本文中にページ数を示す
(2)イヴ・デュプレシス著、稲田三吉訳『シュールレアリスム』白水社、1963年、p.55-56
(3)トリスタン・ツァラ著、浜田明訳『トリスタン・ツァラの仕事I──批評』視聴者、1988年、p.27-28
(4)同書、p.15
(5)塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』筑摩書房、2003年、p.214
(6)前掲書、イヴ・デュプレシス、p.53
(7)同書、p.54
(8)ジークムント・フロイト著、渡邊俊之他三名訳『フロイト全集6』岩波書店、2009年、p.10、以下本書の引用は『ドーラ』と略記し、本文中にページ数を示す。
(9)朝吹亮二『アンドレ・ブルトンの詩的世界』、慶応義塾大学法学研究所、2015年、p.4
(10)同書p.4
(11)同書p.50
(12)前掲書、塚原史、p.203
(13)同書、p.204
(14)アンドレ・ブルトン著、稲田三吉訳『ナジャ』現代思潮社、1962年、p.5-6
(15)巌谷國士著『シュルレアリスムと芸術』、河出書房、1976年、p.24
(16)前掲書、『ナジャ』、p.6
(17)前掲書、朝吹亮二、p.59