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フィリッポ・リッピの生涯と受胎告知画、受胎告知の名画②


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 前回の記事の続きです。今回からは具体的な作品を見ていきながら、受胎告知に見られる図像の特徴を見ていきます。受胎告知の絵画はルネサンス期に全盛期を迎え、中でもフィリッポ・リッピとフラ・アンジェリコは、多くの受胎告知画を残しました。この二人は点数が多いので、それぞれ独立した記事で扱うこととします。今回はフィリッポ・リッピ編です。

 

 

フィリッポ・リッピの生涯

 フィリッポ・リッピ(Filippo Li[ppi,1406-1469)は、15世紀前半の初期ルネサンスフィレンツェ派を代表する画家のひとり。フィレンツェパドヴァ、プラート、スポレートで活躍した。本名はフィリッポ・ディ・トンマーゾ・ディ・リッピ。1406年にフィレンツェに生まれ、幼くして孤児となり、8歳の時に同地の修道会であるのカルメル会に入会、1421年には修道士となる誓願を立て、カルミネ修道院の修道僧となる。絵画の師は不詳であるが、一説によるとロレンツォ・モナコであるとも言われている(1)。1430年に、修道院の文書にはじめて画家として、また兄はオルガン奏者として出てくるという(2)。

 最初期の作品である、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂回廊の壁画《カルメル会の会則の認可》(1432年ごろ)は、画面に激しい損傷を被っているものの、マザッチョの大胆な立体表現からの影響を色濃く反映しており、また素朴で民衆的な趣を残している。この作品から、1420年代当時同市のブランカッチ礼拝堂で壁画制作を行っていたマザッチョにリッピが私淑していたことが伺われる(3)。かのヴァザーリの『ルネサンス画人伝』においても、学問に背を向け、本に悪戯書きばかりしていた少年時代に、マザッチョの描いた壁画の素晴らしさに打たれ、毎日のようにそこに気晴らしに通い、絵の練習を積み、器用さの点でも技量の面でもずば抜けた才覚を示し、「マザッチョの霊がフラ・フィリッポの体内にのりうつったのだという噂が立った」という印象的なエピソードが紹介されている(4)。

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フィリッポ・リッピ《カルメル会の会則の認可》、1432年頃

 1434年にパドヴァに滞在し、そこでフランドル絵画と接触したと言われている。以降、最初の重要な作品である《タルクィニアの聖母》(1437年)においては、マザッチョからの影響から脱し、繊細で甘美かつ明快な輪郭線と、フィレンツェ的な立体的な量感表現とを結びつける独自の様式を確立し始める。1438年のドメニコ・ヴェネツィアーノの有名な書簡では、フラ・アンジェリコと並ぶ画家として言及されているという(5)。

 また、同じく初期の代表作に、複雑な構成と装飾的な要素が調和した、《バルバドーリ祭壇画》(1437-39年)がある。アウグスティヌス会サント・スピリト聖堂のバルバドーリ家の礼拝堂のための祭壇画として制作れた。中央に立つ聖母子、それを囲む天使たちと二人の聖人を、現実的で連続的な一つの画面に収める構成から、リッピの画風の発展が認められる。貝殻のような壁龕のモチーフは、リッピが好んだモチーフで、直弟子であるボッティチェリにも受け継がれている。初期に見られた生硬さは消え、詩情のある柔和な人間描写は、フラ・アンジェリコからの影響があるとされている。

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フィリッポ・リッピ《タルクィニアの聖母》(1437年)

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フィリッポ・リッピ《バルバドーリ祭壇画》、1437-39年

 《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》において確立された様式は、40年代に更なる洗練を加え、41年から47年にかけて、フィレンツェのサンタンブロージオ聖堂のために描かれた大作《聖母の戴冠》に結実していく。またこの時期、1442年にフィレンツェ近郊レニャイアのサン・クィリコ教区の主任司祭兼修道院長に就任している。独特の情緒性を備えた独自の表現を獲得したリッピは、その後《聖母子と聖アンナの生涯》、プラート大聖堂の壁画連作、《聖母子と二人の天使》などの名作を手掛けた。広がる風景を見晴らす窓から入る、柔らかい光に包まれて聖母子と二人の天使が描かれている。俯き、手を合わせる聖母の繊細で優美な表情の美しさ、静謐さを湛えるくすんだ色彩、こちらを向いた天使の茶目っ気のある仕草が印象的なこの作品は、フィリッポ・リッピの最後の自筆作品の一つであるとされている。また、1452年から12年以上もの歳月をかけて完成されたプラート大聖堂の壁画は、国際ゴシック様式的な背景に聖ヨハネや聖ステファノの物語が異時同図法によって劇的に描かれており、一般にリッピの最高傑作と言われている。また、晩年のリッピは敬虔な雰囲気の美しいキリスト降誕画をいくつも残している。1459年頃の作品はコジモ・デ・メディチの注文によって描かれ、メディチ邸の礼拝堂に置かれた。花の咲き誇る深い森の中で、静かに聖母が幼兒キリストを礼拝する、幻想的な詩情に溢れた美しい作品である。

 

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フィリッポ・リッピ《聖母戴冠》1441-47年

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フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》1450-65年頃?、ウフィツィ美術館

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フィリッポ・リッピ《キリストの降誕》、1459年頃


 

フィリッポ・リッピにまつわる有名なエピソードだが、1456年にサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付司祭として同修道院の大型祭壇画の制作に取り掛かるが、製作中修道女ルクレツィア・ブーティと恋仲になり、自宅に連れ去る駆け落ち事件を起こしている。匿名による告発により糾弾されたが、画家としての才能を評価したコジモ・デ・メディチをはじめとするメディチ家の人々の執り成しのおかげで、聖職禄の剥奪だけで済み、ルクレツィアとの同居は許されたという。そしてこの二人の息子が、後に同じく画家となるフィリッピーノ・リッピである。(6)

 またルクレツィアは、プラート大聖堂の壁画《ヘロデの饗宴》のサロメのモデルであるとする説もあるが、リッピはこのサロメを、踊るニンフなどの古代彫刻を元に描いたとも言われている。賑やかで華やかな饗宴において、憂いげに目を伏せ、白い衣装で優雅に舞うサロメと、洗礼者ヨハネの生首を捧げる凄惨さの対比が見事。

 1466年、息子フィリッピーノと共にスポレートに赴き、スポレート大聖堂の壁画「聖母伝」の制作に取り組むが、1469年にその途中で同地に没した。リッピの死後、彼の弟子であるフラ・ディアマンテが師の工房を引き継ぎ、フィリッピーノの後継人となった。そして未完の作品はフラ・ディアマンテが率いる工房と息子フィリッピーノの手によって完成された。

 

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フィリッポ・リッピ《聖ヨハネの殉教とヘロデの饗宴》、1452-64年

 フィリッポ・リッピの画風は、その最初期にあってはマザッチョの強い影響下にあったが、後にフランドル絵画やフラ・アンジェリコ、ドナテッロの彫刻やルカ・デッラ・ロッビアの影響を受けながら、フィレンツェらしい量感表現を維持しながらも、国際ゴシック様式から受け継いだ優美な輪郭線や、流麗でリズミカルな線描によって人物を呼応させる独特の情緒性を帯びた表現を獲得し、直弟子であるボッティチェリや、息子フィリッピーノ・リッピ他、15世紀の画家のみならず、19世紀のラファエロ前派の画家たちにも影響を与えたとされている。

 フィリッポ・リッピは自由奔放な性格であったようで、明るく快活な人々との交際を好み、たいへんな女好きであったという。ヴァザーリの記述によれば、コジモ・デ・メディチが彼に仕事を依頼した際、仕事を放り出して外へ遊びに出ることがないようにと、彼を室内に閉じ込めたところ、2日も経つと我慢がならず、鋏でシーツを切り裂き、それでロープを作って窓から下へ降り、数日間遊蕩に耽って帰らなかったという奇天烈なエピソードがある(7)。尤も、冗談好きでしばしば誇張も含まれるヴァザーリの伝記によるものなので、そのまま真に受けるわけにはいかないが、なんとも微笑ましいエピソードである。

 

 

フィリッポ・リッピの《受胎告知》

 フィリッポ・リッピは、同じく画家であり僧侶でもあったフラ・アンジェリコと並んで、生涯を通じて多数の受胎告知画を手掛けており、その総数は少なくとも10展以上であると言われている。以下では、彼の残した受胎告知画のうち6つをを、年代を追って順に見ていく。

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1437-39年

 初期の傑作《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》と同時期に製作されたリッピによる《受胎告知》。イオニア式の列柱によって分割された空間が特徴的。こうした古代的なモチーフの使用から、文芸復興期の古代研究への情熱が感じられる。聖母のマントの青と裏地の金の対比が鮮やかである。大天使ガブリエルは純潔を示す白百合の花を持ち、聖母に向けて頭を垂れている。聖母は壁際に立ち、背後の壁に彼女を覆うような影が映っており、聖霊を表す鳩は右耳に向かって飛んでいる。前回述べたように、ここでは聖母マリアモーセの幕屋と重ね合わせる予型論的解釈や、『ヤコブの原福音書』に見られる御言葉による受胎の発想の図像化であると思われる。聖母は静かに目を伏せ、戸惑い、羞じらいながらもこの御目出度いお告げを受け入れているように見える。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1443年

 43年の《受胎告知》では、より手の込んだ複雑な画面構成となっている。古代風の建築の内部で、書見台に載せた本を眺めるマリアのもとに、大天使ガブリエルが跪いて現れる。ガブリエルは、画面左のもうひとりの天使と共にお決まりの白百合を手に持っている。背中の羽が大きく、より写実的な表現となっている。画面左上には上位の天使である智天使(ケルビム)に囲まれた父なる神が描かれており、かざした手からマリアの胸部に向かって光線が発せられている。建物の小アーチによって画面は3つに分割されており、左にガブリエル、中央が聖霊、右にマリアが配置されている。後景に描かれた中庭の門は閉ざされており、マリアの純潔を象徴する「閉ざされた庭」の表現が踏襲されている。聖母の表情は黙して自問しているようにも、受け入れているようにも見える。凛としたマリアの立ち姿は、顔から肩にかけての曲線が素晴らしく、優美さだけでなく威厳も兼ね備えている。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1445年

 メディチ銀行の支配人として財を成したマルテッリ家の礼拝堂の祭壇画として、1445年に描かれた《受胎告知》は、おそらく彼の受胎告知画の中で最も有名なものだろう。以前よりも人間化された、感情的な表現が目立つ。跪きマリアを見上げる大天使ガブリエルの表情は、美しい女性に言い寄る好色な青年のように見えてしまうほどである。聖母マリアは驚きに身をひねりながらも、落ち着きを失わず、天使に向かって「なぜそのようなことがありえましょうか」と問いかけているように見える。聖母の顔立ちも以前の作品と比べると、市井の少女のような素朴さがある。あまり目立たないが、画面左の二人の天使の頭上あたりに聖霊の鳩が飛んでいる。この二人の天使の存在については十分な説明がなされていないが、観者の視線を惹くための工夫であると言われている。これは私見だが、後景に見える赤い建物と、薄い赤色の天使の羽、左の天使が腰に巻いた赤い布や、大天使の衣装が、画面の中央からガブリエルに向けて螺旋状のリズミカルな視線の動きを作り出している。そしてそのガブリエルの視線の先に居るのが告知を受けた聖母マリアであり、観者の視線は自然と消失点に向かった後に、神の天上の愛を表す赤色に導かれて、再び聖母の方へ向かうように巧みに構成されている。また、聖霊の鳩も、ガブリエルの視線も聖母の腹部に向けられており、聖霊が聖母の子宮に入り込むことによって受胎することが暗示されている。中庭の建物の遠近法による処理が見事。そして画面の前景に、くり抜かれた床にすっぽりと収まった、水の入ったフレスコ画が描かれているが、これはマリアの象徴であるとされる。(8)

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1445-50年

 こちらの作品では珍しく、聖母マリアが左に、ガブリエルが右に配置されている。画面左手に天蓋のついた大きな寝台が見える。この寝台という舞台設定もまた、象徴的な意味を持っており、「旧約聖書詩篇第19歌に歌われている旭日を寝室から出て来る花婿に譬えた比喩に対する注釈として、中世の神学者たちは、この花婿、すなわち朝の太陽こそはキリストにほかならず、結婚の寝室はそのキリストの母、すなわちマリアにほかならないと説いた(9)」からである。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1448-50年

 ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある、半月形構図(ルネット)の美しい作品。フラ・アンジェリコのような、柔らかく豊かな色彩が素晴らしい。向き合って互いに首を垂れて挨拶を交わす二人の人物の姿勢が、半月形の構図を形作っている。そのよく調和した流麗な線描が美しい。半月形構図の受胎告知画は、15世紀イタリアにおいて一般的であったが、それは「同時代に盛んであった聖母崇拝の本尊画が、円形構図を原則としたことと相伴っている(10)」と言われている。半月形構図の受胎告知画がよく描かれた理由としては、挨拶する二人の人物の輪郭が自ずと要請する形態であることに加えて、ジョットのものに代表されるように、受胎告知画は教会の内陣や礼拝堂の凱聖門に描かれる習わしであり、その場所の制限から自然に生まれたものであると矢代幸雄氏は指摘している。また、この絵では、上部の神の御手から、台風の目の進路図のように重なり合う円がマリアの腹部に向かって描かれているところが面白い。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1467-69年

 リッピの晩年の作である《受胎告知》。背景の木々や空の色は、国際ゴシック様式の色使いを思わせる。前作と同様、マリアが室内に、ガブリエルが室外に配置されている。雲の上の主なる神から出る光線が、建物の小窓を通してマリアに到達する図像は、クリヴェッリの《受胎告知》を連想させる。驚きに身をひねりながらも、顔は大天使の方へ向け、沈思黙考するマリアの輪郭線の素晴らしさ、迷いが伺える手の動作に表れている微妙な心理の動き、画面全体のくすんだ色調に、リッピの情緒的で感傷的な、洗練された画風がよく出ている。

 

参考文献

(1)石鍋真澄監修、『ルネサンス美術館』、小学館、2008年、465p

(2)ルートヴィヒ・H・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳、『イタリア・ルネッサンス1400〜1460』、新潮社、1975年、p.301

(3)T・バーギン・J・スピーク編、別宮定徳訳、『ルネサンス百科事典』、株式会社原書房、1995年、p.567

(4)ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘他訳、『ルネサンス画人伝』、白水社、1982年

(5)前掲書、石鍋真澄監修、465p

(6)小佐野重利・アレッサンドロ・チェッキ責任編集、『ボッティチェリ展図録』朝日出版社、2016年p.67

(7)前掲書、ヴァザーリ、p.95

(8)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.137-8

(9)同書、p.146

(10)矢代幸雄著『受胎告知』、1973年、新潮社、p.143

受胎告知の名画・導入編

 西洋美術の歴史を紐解くと、その時代毎に人気のあった主題が見えてくる。受胎告知は、主にルネサンス期のイタリアを中心に広く流行した主題で、レオナルド・ダ・ヴィンチボッティチェリ、フラ・アンジェリコやフィリッポ・リッピなど、枚挙に暇がないほど多くの画家が輝かしい名作を残している。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》



 今回は、受胎告知とはそもそも何なのか、画面に描かれたモチーフにはどんな象徴的な意味が託されているのか、また受胎告知の図像表現は時代や地域によってどのように変化したのか、受胎告知が起こった場所はどこで、時間帯はいつ頃なのか。受胎告知の概要や、様々な疑問点についてまとめてみた。ちなみにキリスト生誕の9ヶ月前、3月25日が受胎告知の祝日と定められており、ルネサンス期のフィレンツェではこの日が一年の始まりとされていた。今回は受胎告知の名画を楽しむための導入記事として、受胎告知の概要とその出典、受胎告知の場面に現れる象徴表現、図像の起源聖母マリアの身振り、に絞って解説する。

 

受胎告知の概要

 受胎告知とは何か。それは、一言で言えば大天使ガブリエルが聖母マリアのもとに舞い降りて、イエス・キリストの誕生を予告する場面である。この受胎告知の物語は、実は共観福音書中に具体的な記述は少ないが、ルカによる福音書1章26−38節が主な典拠となっている。

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に上から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

新共同訳『聖書』、日本聖書協会、2014年

 この短い記述から、画家たちは想像を膨らませ、当時流布していた外典や聖人伝説、説教をもとに具体的な肉付けをして、様々なバリエーションを生み出すに至った。受胎告知の物語には、天上の神秘と地上的な存在との出逢い、聖母マリアの驚きや畏れ、戸惑い、受容の繊細な心の動きがあり、ドラマがある。この静謐で情感に富んだ、神秘的な物語は、多くの人々の心を捉え、数多くの素晴らしい作品が描かれてきた。数ある外典の中で、とりわけ画家たちの想像力の源泉となったものに、二世紀の半ばに成立し、聖母マリアの生涯を描いた『ヤコブの原福音書』がある。ちなみにこの原福音書というのは、福音書の元になったという意味ではなく、福音書よりも時系列的に前の出来事を描いたという意味である。

 外典である『ヤコブの原福音書』では、共観福音書と比べて、マリアの生涯が詳細に語られている。それによると、聖母まりはダビデの部族の出で、主の神殿の垂幕を織る八人の乙女のうちの一人に選ばれ、くじによって真紫と真紅の布を織ることに決められる。そして11章1-3節において、マリアに対する天使の告知の様子が次のように描かれる。

  さて彼女は水がめを持って水汲みに出ました。するとどうでしょう、声があって言いました。「よろこべ、恵まれし女よ、主汝とともに在す。汝は女の中で祝福されしもの」。彼女はどこから声がするのかと右左を見まわしました。そして怖くなって家へ帰り、水がめを置き、紫布をとって自分の席につき、織りつづけました。

 するとほうら、主の御使いが彼女の前に立って言いました。「恐れるな、マリアよ。あなたは万物の主の前に恵みを得た。あなたは彼の言葉によってみごもる。」彼女はそれを聞いて疑い、心に思いました。「私は主なる生ける神のゆえにみごもり、しかもみんなと同じような子を産むのかしら」。

 すると主の御使いが言いました。「そうではない。マリアよ。なぜなら、主の大能があなたを覆う。だからあなたから生まれる聖なる子は至高者ととなえられる。だからその名をイエスと名づけなさい。彼のその民を罪から救う」。そこでマリアは言いました。「御覧下さい。主の端女が主の前におります。あなたのおっしゃる通りになりますように」。

荒井献他訳、『新約聖書外典』「ヤコブ福音書」、1997年、講談社

 ルカによる福音書になく、新たに付け加えられたエピソードとして独特な点は、マリアに糸紡ぎの仕事があてがわれているのと、井戸端での声による告知である。糸紡ぎと水汲みは、古代や中世を通じて一般的な女性の仕事とされており、この挿話は人々がマリアに対して親しみやすさを覚える効果を与えたと思われる。この糸紡ぎや水汲みをするマリアの図像は西欧ではあまり広まらず、東方のイコンや、ビザンティン美術にその例が見つけられる。また、ルカによる福音書では「主があなたを覆う」とのみ記されていた処女懐胎の方法について、ここでは主の御言葉によって身籠ると明記されている。受胎告知画において、聖霊を表す鳩が、マリアの耳に向かって飛んでいく表現が見られるが、『ヤコブの原福音書』の記述を受けたものだろうと思われる。また、上記の「いと高き方の力があなたを包む」、「主の大能があなたを覆う」という表現は、旧約聖書出エジプト記』のモーセが神のための幕屋を設えた際の、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」という記述を踏まえたものであり、マリアの懐胎と幕屋を覆う主の栄光が予型論(タイポロジー)的解釈によって結び付けられていると言われている。このことから、受胎告知の絵画に於いて、マリアの影が彼女を覆うようにして描かれている例もある(1)。

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水汲みをするマリア、14世紀初頭、タペスリー、レックリングハウゼン、イコン美術館

 上記以外の、その他の典拠としては、中世に於いて最もよく読まれた書物のひとつであり、諸々の聖人画の図像的根拠を与えたことでも知られる、ヤコポ・ダ・ヴォラジーネによる『黄金伝説』や、フランチェスコ派の修道士ヨハンネス・デ・カウリプスによる『キリストの生涯についての省察録』が挙げられる。特に『省察録』において、二人の登場人物の動作や表情、マリアの心の動きなどについて詳細に説明されており、中世の後期以降、画家たちに具体的なイメージを与え、より人間的で感情的に活き活きとした表現にインスピレーションを与えたと言われている。

 また、受胎告知の絵画の発展には、美術史的な様式の変化に加えて、神学上の教義に関する論争や、公会議での決定、民衆の間でのマリア信仰の高まりなど、様々な要因が大きく関わっている。

 

受胎告知画に見られる象徴表現

 受胎告知の登場人物は、当然ながら、大天使ガブリエルと聖母マリアの二人である。識字率が今よりもうんと低かった時代には、宗教的な主題を描いた絵画は、「目で見る聖書」として捉えられていた。ゆえに、描かれている人物が聖母マリアであり、大天使ガブリエルであることがひと目でわかるように、画面に象徴的なモチーフを描き込んだり、アトリビュートとなる持ち物を人物に持たせる手法が一般的であった。

 聖母マリアの服装は、通常青いマントに、赤い衣装で描かれる。「青は天の真実を、赤は天上の愛を表す色」であるとされている(2)。また聖母マリアの純潔の象徴として、しばしば白い百合が描かれる、他にも、赤い薔薇や青いおだまきが描かれることがあり、前者は愛情、後者は悲しみの象徴である。受胎告知の場面で、マリアが何をしていたのか、について、東方では『ヤコブの原福音書』の、神殿を飾る垂幕を織るために糸紡ぎをしていた、という記述から、糸巻きを持った姿で描かれることがあるが、西欧美術ではあまり広まっていない。代わりに、マリアは読書をしている姿で、開かれた本や書見台と共に描かれることが多い。読書するマリアの図像の作例はカロリンガ朝時代にまで遡ることが可能だが、一般的になるのは12,13世紀以降のことである(3)。

 また、聖母に捧げる連祷の中に、「精神の壺」「光輝ある壺」という言い回しがあるように、水差しや壺なども、聖母の象徴としてしばしば描かれる。また、マリアの処女性を強調するものとして、「閉ざされた庭」「閉ざされた扉」が描かれることもある。「閉ざされた庭」は旧約聖書の雅歌に由来し、「閉ざされた扉」は同じく旧約聖書エゼキエル書の預言が典拠となっている。

 受胎告知の際に、大天使ガブリエルが手に持つものとしては、杖、笏、オリーブの小枝、棕櫚の葉、白百合の花が挙げられる。杖の先には権威を示す金の球や、十字架をつける場合がある。

 また、よく似た主題として、聖母の死の告知があるが、大天使ガブリエルの持ち物が異なっている。マリアの死の告知の伝説の内容は、キリストの磔刑後、使徒ヨハネと共に暮らしているうちに、白い衣を着た天使が現れ、彼女の死を告げる、というものである。キリストの昇天後、マリアは尼になったという伝承が中世にあり、それを受けて尼僧の姿で聖母を描くこともある。

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ジャン・フーケ、《死の告知》

 また、天使の持ち物によっても、受胎告知と死の告知の場面を区別することができる。死の告知の天使は、棕櫚の枝を手にしており、これは「常に天国へ凱旋する死の勝利をあらわして、殉教者に持たせる習慣(4)」になっている。とはいえ、棕櫚の枝は古代ローマの時代から勝利者の象徴として用いられており、通常の受胎告知画においてもガブリエルが手にしている場合もある。しかし、死の告知の場面での棕櫚の枝は、『葉は暁の煌めきを持った』という言い伝えがあり、棕櫚の葉に金泥が用いられたり、星が飛び出ているような場合などは、ほとんど死の告知の場面であると見てよいとされる。また、天使が聖母に燃える蝋燭を手渡していることもあるが、これは「古来死人に蝋燭を握らせるイタリアの習慣に照らし合わせて、間違いなく死の告知と考えてよい」とされている(5)。

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フィリッポ・リッピ《聖母の死の告知と使徒の到着》



受胎告知の起源

 受胎告知の絵画は、ルネサンス期に最もよく描かれたが、その図像の起源はもっと古いものである。受胎告知を描いた最古の作例として、異論もあるが、紀元2世紀のものとされる、ローマの聖プリスチルラの墓所(Catacomb of Priscilla)の図像が挙げられる。左側の椅子に深く腰掛けた人物が聖母マリアで、右側に立って祝福を授けるような身振りを示しているのが大天使ガブリエルであるとされる。しかし、この図像が描かれたのが神の母としてのマリアの地位、及び聖母子像が教会に認可されるエフェソス公会議(431年)前であるため、この絵を巡る議論は紛糾している。(6)

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聖プリスチルラの墓所、2世紀



 エフェソス公会議の直後に聖母マリアを記念して建設された、 サンタ・マリア・マジョーレ聖堂の内陣アーチにモザイクで描かれた受胎告知。432-40年 。画面中央で荘厳な様子で玉座に腰掛けていて、聖母の神聖さが強調されており、頭には神の子の母であることを示す頭髪飾りをつけている。また、糸を紡ぐマリアの図像を継承しており、緋色の毛糸を入れた籠が傍らにある。天から聖霊の鳩の背景に朱く染まる空が神秘的。

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サンタ・マリア・マジョーレ聖堂のモザイク


 

 

こちらは6世紀の作例である、マクシミアヌス司教座の象牙浮彫。現在はラヴェンナのエピスコパーレ美術館に所蔵されている。聖母は糸巻きを、天使は杖を手にしている。また、簡潔にではあるがマリアを囲むようにして建物が描きこまれており、マリアが室内で糸紡ぎをしていたことが示されている。ルネサンス期の受胎告知の作例では、通常聖母マリアが画面右に、大天使ガブリエルが画面左に配置されているが、ここでは逆になっている。聖プリスチルラの墓所も同様であった。いつ頃から、なぜ、それぞれの位置関係が逆になったのか。右がおめでたい位置とされているから、鑑賞者の視線は左から右に流れるため、左に告知をする天使を、右にそれを受ける聖母を置いたほうが視線の流れに適う自然な構図であるから、など、様々な説があるが、いずれも定説とはなっていない。

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マクシミアヌス司教座の象牙浮彫



 8世紀頃に、シリアで製作されたと言われる、絹布に描かれた受胎告知。ここでも聖母が左に、天使が右に配置されている。色彩が艶やかである。

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8世紀、シリア?

 

シャルトル大聖堂。12世紀中頃。下方から見上げることを考慮してか、顔が大きく造形されており、デフォルメされているみたいで可愛い。ちなみに同聖堂のステンドグラスにも受胎告知の場面が描かれています。ここでは天使が左に、聖母が右になっている。

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シャルトル大聖堂



12世紀末、シナイのイコン。ねじれた身体や、うねるような衣服の襞の表現が特徴的。

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シナイのイコン



 

ランス大聖堂。1230−55年。ゴシック期に特徴的な垂直方向に引き伸ばされたような人体表現が見られる。にこやかに微笑みかける大天使ガブリエルと、平静な心でそれを受け入れる聖母の穏やかな表情が良い。

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ランス大聖堂






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ジョット《受胎告知》

 


 ジョットの受胎告知。アーチを挟んで向かい合うようにして聖母とガブリエルが描かれている。1306年頃。互いに恭しく跪いている。フィレンツェらしい立体的な量感のある人体表現が見られる。

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シモーネ・マルティーニ《受胎告知》



 シエナの画家シモーネ・マルティーニによる作品で、受胎告知が独立した祭壇画の主題として扱われた最初の作例であると言われている。1333年。金地の背景に、国際ゴシック様式の優美な曲線がよく調和している。大きく弓なりに身を攀じるマリアの形姿や不安げな表情には、驚きや戸惑いの感情が強く表れている。大天使の口から、告知の言葉が文字で描かれているのが特徴的で、同様の表現はフラ・アンジェリコや、ファン・アイクの作品にも受け継がれている。また、ここでガブリエルが白百合の花ではなくオリーブの小枝を手にしているのは、白百合がライバル都市フィレンツェ守護聖人洗練者聖ヨハネの象徴とされているため、対抗意識がそうさせたとも言われている。このマルティーニの作品以降、ルネサンス期にかけて、受胎告知を描いた名画が数多く生み出されることになる。


受胎告知の身振り

 『ルカによる福音書』において、受胎告知を受けた聖母マリアの揺れ動く心情が簡潔に描写されている。「神の御使いガブリエルの最初の言葉に、マリアは一瞬『戸惑い』を覚えるが、それはすぐに『どうして、そのようなことがありえましょうか』という『疑問』に変わり、天使に『問いただし』て、道理を理解した後は、みずからへりくだって謙虚にこれを『受け入れ』、ついには神のお告げが自分の身に『成りますように』と祈るという次第である」(7)。

 つまり、受胎告知の場面で、マリアが取る身振りには、上記の戸惑いや驚き、疑問や問いかけ、受容と祈りのいずれかの意味が込められている。上述したマルティーニの作品においては、戸惑いや驚きが前面に出ており、またより露骨な例としては、同じくシエナの画家のアンブロージョ・ロレンゼッティの下書きがある。そこではマリアは突然の闖入者から逃げ去るように身を大きくひねり、激しい動揺により崩れ落ちんばかりである。

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アンブロージョ・ロレンゼッティ

  それとは対照的に、敬虔に御言葉を受け入れ、その成就を祈るようなポーズをとっているのが、フラ・アンジェリコによる、サン・マルコ修道院の僧房にある作品である。装飾を廃した簡素な室内で、胸の前で両手を交差させ、恭しく天使の方を見上げている。この敬虔で静謐な画面を眺めていると、自ずと神秘的な瞑想に誘われる。

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》

また、フラ・アンジェリコと同様に僧侶で画家であったが敬虔なアンジェリコとは対照的な好色な生涯を送ったフィリッポ・リッピも、多くの受胎告知画を残しているが、1445年の作品が、「問いかけ」の身振りを示す好例であると思われる。「問いかけ」は「驚き」や「受容」に比べて、身振りで表現するのが難しいと思われるが、この作品における聖母マリアは、驚きに軽く身をひねりながらも、穏やかな表情で、ガブリエルの方へ手をかざす仕草によって、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と冷静に問いかけているように見える。

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》

 受胎告知の絵画はルネサンス期を中心に世界中で製作されており、その作例は膨大な量になる。あまり長くなるとページが重くなってしまうので、今回はここで一区切りにして、続きは後の機会に書きます。次回以降のテーマとしては、
受胎告知と遠近法

受胎告知の場所と日時

受胎告知の名画

バロック以降の受胎告知画

等を予定しています。肝心のルネサンス期の名画の作品解説がほとんどできていないので次回以降にご期待ください。

notre-musique.hatenadiary.jp

参考文献

(1)岡田温司・池上英洋著『レオナルド・ダ・ヴィンチと受胎告知』、2007年

平凡社、p.18

(2)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.135

(3)同書、p.135

(4)矢代幸雄著『受胎告知』、1973年、新潮社、p.35

(5)同書、p.37
(6)渡邊健治著、『受胎告知の図像学』、1965年、共立女子大学短期大学部、p.6

(7)前掲書、岡田温司・池上英洋、p.83

きみは便利な映画情報サイト「MIHOシネマ」を知っているか!?

 季節は春。陽射しは日毎に手応えを増し、街をあたため、草木は芽吹き、人々が新たな予感に打ち震える季節です。夜になっても冬物の上着が要らないほどの心地よい気温に、春の訪れを噛み締めながら、お出かけしたくなる誘惑に駆られる方も多いかと思います。しかし、今は世界的に新種の疫病が蔓延しており、みだりに外出をするのは気が引けますよね。家にこもって新しい季節に高鳴る鼓動、逸る気持ちを持て余していると、次第に気分が塞ぎ込んでくるものです。やがて萎びた心はスリルに満ちた冒険や、息もつかせぬ怒涛のアクション、甘さとほろ苦さの同居した大人の恋愛、身の毛もよだつ戦慄を夢見るようになります。そんな我々善良な小市民の欲求に応える娯楽の一つが、映画です。とりわけ各種サブスクリプションサービスや宅配レンタルサービスが発達した昨今では、家にいながらにして、手軽に様々な物語を味わい、喜怒哀楽を追体験することが可能になっています。

 とはいえ、誰しもが常に次に観たい映画を大量に抱え込んでいるわけではありませんよね。「暇だから映画でも観たいけど、作品数が多すぎてどれを観ればいいのかわからない」、「新作映画情報に疎く、気がついた時には上映が終わっている」、「この映画が好きだから、これに似た作品をもっと知りたい」、このような悩みを覚えたことがある方も多いのではないでしょうか。

 前置きが長くなりましたが、今回の記事では、そんなあなたにおすすめの映画情報サイトを紹介いたします。その名も「MIHOシネマ」。取扱作品8000点を越える、大型映画紹介サイトです。観たい映画にきっと出逢える、「MIHOシネマ」の特徴や美点について、いくつかのポイントに分けて紹介いたします。以下目次です。

mihocinema.com

 

 

MIHOシネマの記事の構成

 MIHOシネマさんの記事の多くは、単体作品のあらすじ紹介が主です。記事の構成は統一されており、まず作品情報(監督、制作年、上映時間、ジャンル、キャスト)があり、その次にその作品を視聴できる動画配信サービスが参照できます。続いて登場人物・キャストの紹介があるのですが、この部分が素晴らしい。出演しているキャストを単純に羅列しただけではなく、登場人物名とキャスト名が並列して表記されている点が便利です。映画を観ていて気になった俳優さんがいても、マイナーな俳優さんであったりすると、よほど俳優の名前に詳しくない限り、どのキャラクターが誰なのかわからないこともありますが、MIHOシネマを見れば迷うことはありません。

 続いて、作品のネタバレ込みのあらすじが詳細に描かれるのですが、映画のラストのオチまでは知りたくはない、冒頭だけ読んでどのような雰囲気の映画なのか掴みたい、という方も居ると思います。その点にも配慮がなされていて、あらすじは起・承・転・結に合わせて4つの項目に分かれています。なので、ネタバレが嫌な人は起の部分だけ、一度観た映画のあらすじを振り返りたい人は結までしっかり読む、という風に、目的に合わせて自由に読むことができます。

総数8000記事を越える豊富なラインナップ

 さて、上記のように痒いところに手が届く詳細な映画情報がひと目でわかる点が魅力の「MIHOシネマ」ですが、次に取り上げられている映画のラインナップの傾向をざっくりと見ていきたいと思います。トップページに飛んでまず目を引くのが、「上映中のおすすめ映画」「今月公開のおすすめ映画」「公開予定のおすすめ映画」のページです。新作映画情報に特に力を入れているサイトであることがわかります。そしてそれぞれ見てみると、新作の公開情報だけでなく、過去の名作のリバイバル上映の情報まで載っています。取り扱われているのは新作だけというわけではなく、最近公開された入れ替わりもののホラー映画『ザ・スイッチ』から、第一回アカデミー賞作品賞受賞作品である、1927年制作のモノクロのサイレント映画つばさ』など、往年の名作を紹介した記事もしっかりあります。

痒いところに手が届く検索機能

 また、「MIHOシネマ」の優れた点として、検索機能が充実している点が挙げられます。映画のタイトルから検索できることは勿論、動画配信サービス別、俳優別、ジャンル別、映画賞・映画祭別に細かく調べることが可能です。とりわけ映画賞別の検索が優れており、アカデミー賞ゴールデングローブ賞などの有名な映画賞だけでなく、最低映画賞とも呼ばれるゴールデンラジー賞や、ホラー映画の登竜門、”ミッドナイト・マッドネス”で知られる北米最大規模のトロント国際映画祭など、日本では少しマイナーな映画賞・映画祭の受賞作も一覧で見ることができます。また、それぞれの賞の概要や歴史、特徴などが簡潔にまとめられているので、知らなかった映画賞の知識を仕入れることもできるようになっています。ブルーリボン賞って名前はよく耳にするけど、実際どんな賞なのかよく知らない、などという方におすすめです。

ジャンル別おすすめ映画がわかる

 ある気に入った作品があり、それと類似した作品を色々知りたい、という方に特におすすめなのが、「映画ジャンル別おすすめランキング」の記事です。「MIHOシネマ」ではアクションやファンタジー、サスペンスやホラーなど、オーソドックスなわかりやすいジャンル分けがされていますが、その中で目を惹くのが「フィルム・ノワール映画」の項目です。フィルム・ノワールとは、1940年代に流行したアメリカの犯罪映画に対してフランスの映画批評化がつけた名称で、ドイツ表現主義的な強烈な光と影の対比や、男を破滅に追い込むほどの魅力を備えたファム・ファタール(魔性の女)の存在、真っ逆さまに転落していく悲劇的な展開などが特徴です。この項目では、通常フィルム・ノワールと目される40年代アメリカの犯罪映画だけではなく、フィルム・ノワールの香りを感じさせる犯罪映画全般を広く取り扱っているところに面白みがあります。例えば1997年の『L.A.コンフィデンシャル』は、犯罪小説の名手ジェイムズ・エルロイの原作で、由緒正しきフィルム・ノワールの伝統を直接継承した作品ですが、そのようなものだけでなく、中島哲也監督の『渇き』などもフィルム・ノワールに分類されているのが興味深いです。確かに言われてみれば破滅的な展開や、周囲を巻き込み狂わせていく小松菜奈の狂気じみた魅力など、フィルム・ノワール作品に見られる特徴を兼ね備えた作品です。

 また、上述した「映画ジャンル別おすすめランキング」では、かなり細かいジャンル分けがなされており、より好みに即した、求めているものにぴったりの映画が探せるようになっています。例えばアクション映画の項を見ると、ざっくりとしたアクション映画のおすすめランキングだけでなく、「バイクアクション映画のおすすめランキング12選」というランキングまで存在します。「私、バイクアクションが好きなんだけど、面白い映画ないかな〜」などというニッチな需要をしっかり満たせるランキング記事が存在するのは、「MIHOシネマ」の極めて優れた点であるように思います。上記以外でも、ファンタジー映画の項目が、「ファンタジー映画」と「ダークファンタジー映画」に分かれていたり、ホラー映画に至っては、「ホラー映画」「スリラー映画」「パニック映画」「スプラッター映画」「ゾンビ映画」と、5つも項目が設けられており、さらにそれらを細分化したバラエティ豊かなランキング記事が存在します。このようなマニアックなランキングの数々は、眺めているだけで心躍ります。

 

おわりに

 以上、暮らしに彩り、映画が身近になる映画情報サイト「MIHOシネマ」の紹介でした。多角的な切り口、詳細な映画情報、痒いところに手が届く検索機能が魅力的なサイトです。何の気なしに眺めているだけで、いつしかサイト内のリンクを辿り、気がつけば観たい作品が大量に増えていること間違いなしです。ちなみに個人的におすすめの記事は「モンスターパニック映画のおすすめランキング10選」です。『トレマーズ』や『ザ・グリード』、『アナコンダ』等の定番作品がきっちり押さえられています。ポップコーンとコーラと一緒に、何も考えずに楽しく観ることができるモンスターパニック映画を楽しもう!

mihocinema.com

 

フォイエルバッハ『キリスト教の本質』を読みながらの覚書

フォイエルバッハの『キリスト教の本質』を読んでいる。二章の中で、神を無限に超越的な存在、何によっても規定されない不可知の存在と考えることは、狡猾に敬虔さを装った無神論である、という主張を見つけて興味深く思った。本文からのきちんとした引用は、後々気力と体力がある時に付け足す予定です。

すべての存在は、何らかの規定を持っている。人間存在は、自らの理性や悟性、感性の限界によって規定されている。それらの限界を越えたものについては、もはや知覚することはできず、従って人間にとっては、人間の諸能力の限界を越えて感得される事物なるものは存在しない。
神を無限に超越的なもの、何によっても規定されないものであると思惟することは、人間にとって必然的に、論理的に存在し得ないもの、非存在に対して、便宜上神という名称を与えるのと、実質的に同じことである。
そうであるならば、「神の存在を信じる」とは、どういうことになるか。非存在の非存在性を信じるということなのか、非存在の存在を信じるということなのか。前者の命題は、現実世界において、何らの対応する意味内容を持たない、無意味な命題である。そして後者の命題は明らかな語義矛盾であり、従って無意味な命題である。つまり、神を何らの規定も持たないもの、人間にとっての非存在として捉える限り、「神の存在を信じる」ということはいかなる意味でも不可能となる。
以上のことから次のことが帰結する。人間にとって、「神の存在を信じる」ということが可能になるためには、神は人間にとって知覚可能なものでなければならず、言い換えれば神は人間が作り出した神でなければならず、そのためには何らかの規定、人間の理性や悟性、感性を規定しているのと同様の規定を持たなければならない。その意味で神は人間の本質の反映である。フォイエルバッハの主張は概ねこのようなものであると思われる。

神を人間の本質の反映と見る見方は、超越的な存在であるはずの神を、被造物である人間が自身の尺度に合わせて矮小化する行いであるように思えてならないが、人間が自身の尺度に合わせて対象を矮小化する以外に、人間の類としての限界を越えた対象を認識することはできない。人間にとって神が存在するためには、神は人間が作り出したものとならざるを得ない。
これに対して反駁することは可能なのだろうか。可能だとしたら、どのようにしてか。考えてみたい。

狂気のアメリカン・パイ全作品レビュー

・まえがき
 アメリカの青春コメディ映画の金字塔、『アメリカン・パイ』シリーズ全作品の感想です。有名なシリーズですが、全作品を通して観たことがある人は、意外と少ないのではないでしょうか。先日友人とアメリカン・パイシリーズ全作品を語り合う会を開催するため、8作品を一気に駆け抜けたので記念にレビューを残しておきます。ストーリーのネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
 ちなみに、アメリカン・パイパイなど、いわゆるパチモンも多い本シリーズですが、4作品あるスピンオフも含めて、正式シリーズは以下の8本になります。2020年に製作されていますが、2012年の『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』が完結編とされているため、今回は取り上げません。

・『アメリカン・パイ』シリーズ全作品一覧
アメリカン・パイ』American Pie(1999)
アメリカン・サマー・ストーリー』 American Pie 2 (2001)
アメリカン・パイ3:ウェディング大作戦』 American Wedding (2003)
アメリカン・パイ in バンド合宿』 American Pie Presents: Band Camp (2005)
アメリカン・パイ in ハレンチ・マラソン大会』 American Pie Presents: The Naked Mile (2006)
アメリカン・パイ in ハレンチ課外授業』American Pie Presents: Beta House (2007)
アメリカン・パイ in ハレンチ教科書』American Pie Presents: The Book Of Love (2009)
アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』American Reunion (2012)

・『アメリカン・パイ』American Pie(1999)
 監督:ポール・ワイツ 脚本:アダム・ハーツ
  アメリカン・パイシリーズの記念すべき第一作。友達とアメリカンパイ全作品について語り合う会をする約束をしたので約10年ぶりに再鑑賞。高校卒業までに童貞を卒業する協定を交わして奮闘する男たち。男だけでつるんで、下ネタで大はしゃぎする、ホモソーシャル全開のノリが高校時代を思い出す。セックスのことしか頭になく、それ以外のすべてが見えなくなっていた状態から、ちょっとした失敗や大失敗を繰り返しながら、相手を思いやり、愛することを知っていく。それぞれのキャラクターが個性豊かで、みんな違ったやり方で自分を見つけていくのが良い。
プロムの夜の特別な輝きになんだか涙ぐんでしまう。アメリカの青春映画は沢山あるけれど、これだけ正面切って、プロムパーティを最高に特別な夜として描いた作品はないんじゃないだろうか。バカばっかりしていた高校生活の終わりに、見失いかけていた友情や、本当に大切なことに気づいて、それぞれの新たな一歩に対して乾杯をする。男の子たちも女の子たちもみんな素敵で愛らしい。やることなすことド派手に失敗する主人公ジム、一人だけ彼女持ちだが最後の一歩を踏み出せないケヴィン、アメフト部に所属するオズの正統派誠実イケメンっぷりも眩しいし、フィンチの低い声や飄々とした佇まい、とろんとした目元がセクシー。シリーズ通して物語を大きく動かしていく屈指のトラブルメーカー、スティフラーの存在も欠かせない。あと楽しそうにバンド合宿の話をするミシェルや、達観したアドバイスをくれるジェシカが好き。シャーミネーターのドヤ顔もキュート。
アメリカン・パイの使い方のことをすっかり忘れていて改めて衝撃を受けた。童貞の想像力は世界を塗り替えてしまうほどの凄みがある。あとお父さんのキャラが良い。自分のお父さんだったら多分嫌だけど、良いお父さんだなって思う。お父さんの息子への理解、優しさの示し方が不器用で空回りしてるのが血の繋がりを感じさせて良い。

・『アメリカン・サマー・ストーリー』 American Pie 2 (2001)
 監督:ジェームズ・B・ロジャーズ 脚本:アダム・ハーツ
  前作から一年後、大学生になった彼らが、夏休みに高校時代の仲間と海沿いの別荘を借り、パーティを開いて最高の思い出を作ろうとする。フィンチの相変わらずの、と言うよりもっとパワーアップした飄々とした佇まいと眠そうな目元が好き。元カノのことが忘れられないケヴィンの、「友達でも、君がいない人生よりはマシだ」という台詞が泣ける。前作でも共感性羞恥を掻き立てて止まなかったジムは相変わらず桁違いの大恥をかいている。ずっとバンドキャンプの話をし続けるミシェルを変人扱いしていたが、彼女が楽しそうに思い出を語る意味に、はたと気づくシーン、憧れの人と離れ離れになっていた一年間を語ろうとすると、ミシェルのことばかりが出てくる、楽しかった時間にはいつもミシェルがいる、その気づき方がめちゃくちゃ良い。SUM41の"In Too Deep"が流れるシーンで泣いちゃう。楽しそうに自分の話をしてくれる女の子を見ると好きになってしまう。お茶目なミシェルが一番好き。
あと前作から結構ツボだったシャーミネーターがウケててよかった。シャーマンめちゃくちゃ面白い。
 大学に入ったばかりの彼らにはやりたいこと叶えたいことがいっぱいあってそれが眩しい。彼らは実際に未来を体現していて、いつか大人になって、そんなものは初めから存在しなかったのだと気づくその日まで、未来は未来形で存在し続ける。そんなことを思った。
 お色気コメディでありながら、気取らない純粋な恋愛、友情、親子愛をさらっと描いていて油断していると涙腺にくる良作。

・『アメリカン・パイ3:ウェディング大作戦』 American Wedding (2003)
 監督:ジェシー・ディラン 脚本:アダム・ハーツ
 童貞を捨てることに躍起になっていてジムたちが大学を卒業し、今回はとうとう結婚式を挙げるのが感慨深い。なにかとトラブルに見舞われ、人一倍大恥をかいてきたジムの一生に一度の大舞台となれば、波乱が起きないわけがない。シリーズを通して屈指の性獣、物語の起爆剤、スティフラーが今回は良い意味でも悪い意味でも大活躍!劇場版ジャイアンみたいになってて笑った。ゲイバーでのダンスバトルシーンはヒット曲のクラブアレンジも楽しいし、リバティーンズが流れるシーンが良かった。デリカシーがなく場を弁えないスティフラーの傍若無人な振る舞いは、皆から疎まれながらも、彼らのプロムが忘れられない夜になったのも、女の子たちと出会ったのも、海辺のパーティを大成功に導いたのも、そしてフィンチのキャラを立てたのも、スティフラーが一役買っている。彼の底のない突飛な行動力によって、良くも悪くも忘れ難い思い出が沢山できた。とはいえやっぱり一緒にいたくない。今作では彼の生半可ではない気合を見せつけるシーンがいっぱいあり、主役であるはずのジムをすっかり食ってしまっている感すらある。
 ジムが披露宴でダンスを披露するシーンで、1で見せたあの奇天烈なダンスを再び見られるかと思いきや器用にこなしていてびっくり。3ともなると、みんな10代のバカな若者じゃなくなって、落ち着きを持った大人になってくる。彼らが集まってしゃべる場所も小洒落たバーになっている。飲むお酒も風俗嬢を呼んで騒ぐのも金がかかっている。ケヴィンなんて1Dにいそうな風貌になっている。フィンチだけ回を重ねるごとにやたら尖っていくのが面白い。オズの不在にまったく触れられていないのが悲しい。今回スティフラーが物語の中心に置かれたのは、彼ぐらいしか無茶をしてはしゃいで物語を回すことができる人物がいなかったからなんじゃないかと思うと少し寂しい。
ジムが結婚するとなると気になるのが、今まで頼んでもないのに要らんことをいっぱい教えてくれたお父さんと、結婚にあたって何を話すのか、という点だが、父子の交流が今回はいっぱい描かれていて満足感があった。
 なんだかんだで一番ぶっ飛んでいるのはミッシェルな気がする。彼女と一緒にいたら毎日楽しいだろうな。スティフラーとフィンチの、mother fucker,grand-mother fuckerとなじりあうやり取りが良い。

・『アメリカン・パイ in バンド合宿』 American Pie Presents: Band Camp (2005)
 監督:スティーヴ・ラッシュ 脚本:ブラッド・リドル
 スティフラーの弟を主人公にしたスピンオフ作品。破天荒な兄貴に憧れ、悪戯三昧の悪ガキっぷりを遺憾無く発揮している。本当の兄弟かと思うほど顔つきが似ている。表情の使い方が完全にスティフラーのそれ。
 ひょんなことから吹奏楽部のバンドキャンプを共にすることになったスティフラーが、最初はダサいギーク達だと軽蔑しながらも、最終日の学校対抗の大会に向けて、なんやかんや交流していく話。弟が兄と決定的に違う点は、弟は兄のように奔放に振る舞おうとしている節があり、行動の数々に兄のようになりたいという願望が見え隠れして、つまりスティフラーらしく振る舞うことに執心しているように見える。現に学校の生徒や、周りの大人達から彼は「スティフラーの弟」と眼差されている。吹奏楽部のオタク達、そして疎遠になっていた幼馴染のエリスだけが、彼の度を越えた悪戯を疎いながらも、彼をマットとして、ひとりの個人として見ている。彼の悪名高い家名ではなく、彼の為すことによって彼を見ている。彼の短気な性格が起こしたトラブルによって損害を被れば彼を責めるし、彼の意外な特技によってその埋め合わせをしたら彼を許す。彼の行動の過激さを目当てに寄ってきていた従来の悪友たちよりも、彼を彼自身として認め、歩み寄ろうとしてくれるブラスバンドの仲間たちを選び、彼らしい豪快なサプライズをキメる展開がアツい。ブラスバンドのみんな懐深すぎやろ。
ラジコン式のアーム付きロボットを自作する科学オタクのサックス吹きの少年のキャラが良い。最初にマットに歩み寄ろうとしたのも彼だし。
 あんなに強烈な兄がいたら良くも悪くも影響受けてただろうな。兄の影を追う弟が自分を見つけていく映画だとも言える。

 盗撮はライン越えだろ!!と思ったが一作目ですでにネット配信をしていた。オーボエもアップルパイよりはマシだし。

 本シリーズからは、ジムのお父さんとシャーミネーターが出ている!シャーミネーター好きなので嬉しかった。遺憾なくそのシャーミネーターっぷりを発揮していた。

 本家シリーズと比べるとエロもバカも控えめに思えた。立て続けに観ていて慣れただけかな?とはいえスピンオフ作品でここまで初出のキャラクター達に愛着を持たせるのはすごい。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ・マラソン大会』 American Pie Presents: The Naked Mile (2006)
 監督:ジョー・ナスバウム 脚本:エリック・リンジー
 アメリカン・パイシリーズのスピンオフ第二弾。今回はスティフラー家でありながら童貞の高校三年生のエリックが主人公。2年付き合っている彼女がいるが、心の準備ができないと言われ悶々としている。そんな時悪友達に誘われ、テスト期間後の大学のキャンパスで開催される、全裸マラソン大会に参加することに!というストーリー。
シリーズ恒例の自慰行為が親に見つかるシーンで始まるが、今度は両親だけでなく祖母も加わり、さらに祖母はそのショックが元で死んでしまうし、それもあっさり流される。オープニングだけでこれから始まるのがどういう映画なのか、一発で理解させる導入だった。
 今回はおふざけに定評のあるシリーズの中でも群を抜いたお祭り騒ぎが見られる。屈指のハイテンションっぷり。突然始まり、エロくもないし笑える要素もなく尺が長いアメフトの試合は、アメリカン・パイを観る者の期待に全くそぐわないシーンだが、大学に遊びに行ってハメを外す主人公達を期待する者にこの苦行のような時間を味わわせることで、ずっと恋人にお預けを食らっているエリックの気持ちが追体験できる仕組みになっている。嘘やけど。
 従兄弟のスティフラーが本物のパーティ・ピーポーで、彼が行く先々がお祭り騒ぎになる。スティフラー家で唯一の純粋な人気者。回を重ねるごとにスティフラー一族とジムのパパの存在感が増していく。お待ちかねの全裸マラソンの後、そのまま下着ダンスパーティーに移行するのガチで陽キャ過ぎる。世界で一番陽気やろ。全員テンション高過ぎて観ていて熱出そうになった。
 愛とセックスは別物か?という問いが今作では提示されるが、安心で安全なアメリカンパイシリーズなのでNTR要素はなくほっこりできる。結局みんないい感じに幸せになるからこのシリーズは良い。トレイシーめっちゃ可愛い。乗馬のシーンは伏線のようでいて、白馬は全く脈絡がなく、エリックが下痢しがちであるという設定も気がついたら吹き飛んでいる。携帯電話を失くしてるのに気にするそぶりも見せない。そういった細かな整合性などもろともせずに、勢いだけで突っ走っていくあたま空っぽムービーで楽しかった。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ課外授業』American Pie Presents: Beta House (2007)
 監督:アンドリュー・ウォーラー 脚本:エリック・リンジー
 前作に引き続きエリックが主人公で、脚本にエリック・リンジーが続投されている。彼の描くストーリーのテンションの高さは頭一つ抜けている。前作で純愛を貫いた彼女がイケメンに寝取られた設定で落ち込んだ。前作からそうだったけど今回エリックの影が薄過ぎる。居た?従兄弟のスティフラーはクラブを盛り上げるし面倒見が良いし、身をもって仲間とクラブの伝統を守ろうとする。ゴッドファーザーみたいだった。
 大学に入ったエリックが従兄弟のスティフラーがいる友愛会の入団試験を受けるところから始まる。クラブに入会するための50の試験がこれまで以上にホモソーシャル全開でちょっときつかった。こういう他人への迷惑を省みず排他的なやり方で男同士の絆を深め合うやつ好きじゃない。
 校内では、主人公たちパーティ・ピーポーが所属するベータと、将来を約束された御曹司のオタクたちが集まるイプシロン(通称ギークハウス)が対立している。性の乱れを懸念したギークが、ベータを潰しにかかろうとすることにより両者の対立が激化し、あまりの過激さに40年前に禁止されたギリシャ・オリンピックで決着を着けることになる。
 ヒロインとの初デートで行く、ハンマーで蟹の甲羅を割って殻を散らかしながら食べるレストランが豪快で楽しそう。
 後半のギリシャ・オリンピックがアホらし過ぎて良い。こういう因縁のガチンコバトルみたいな展開は素直に燃える。少年漫画みたい。パルクールの達人のギークの無駄に華麗なアクロバットの数々が良い。そのあと急に唐突なディアハンターのパロディが始まって笑った。ペロポネソスの戦い(55リットルのビール早飲み競争)では、サム・ライミのホラー映画よりも吐いている。サム・ライミよりも口から液体出す映画初めて観た。ギーク達による最大効率の吸収も面白いし、ジェフリーのバルブ全開が格好良過ぎる。中忍試験のロックリーかと思った。
シリーズの中でおそらく一番露骨なエロが多い。大学寮の男女共用のシャワールームとか、ブラ外し大会とか、ガチでハレンチだった。大学行ったらこんな感じなんだ…と思い、薔薇色のキャンパスライフへの憧れが募った。もう大学出てるけど。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ教科書』American Pie Presents: The Book Of Love (2009)
 監督:ジョン・パッチ 脚本:デヴィッド・H・ステインバーグ
 破竹の勢いでアメリカン・パイシリーズを観ています。スピンオフ四作目。1に登場したバイブルが再登場。the book of loveをハレンチ教科書と訳す邦題は好き。再び登場人物を一新して、童貞卒業を目指す男子高校生三人組の話。全員キャラが薄いし魅力がない。名前も覚えられないレベル。単調な妄想パートがスベっている。下品で不謹慎なのはいつもの通りだが今回はそれすらも面白くなくて不快感が勝る。
 アメリカン・パイシリーズの魅力といえば個性豊かな、つい応援したくなってしまう登場人物、友人たちとの馬鹿騒ぎ、明るいエロ、奇抜でアホなアイデア、清々しいほどストレートな恋人や家族への愛などが挙げられるが、登場人物に魅力がなく、熱い友情もなければ、ついついほっこりしてしまうような絆もない。3以降あれだけ持ち上げといたスティフラーを今後に及んで急に薄っぺらい嫌なやつにするのもモヤモヤする。公式作品だけど、タイトルだけパクったパチモンかと思うほどつまらない。バターサンドやいつもの喫茶店など、申し訳程度のアメリカン・パイ要素は出てくるが、アメリカン・パイらしさが決定的に欠けている。1のような切実さや特別さがない印象を受けた。
 ジムのパパが出てきて、バイブルの修復作業に乗り出すくだりは、書物の成立過程を見ているようでわくわくする。余談だがアメリカン・パイばっかりみていたら童貞のアトリビュートとも言えるニキビがめちゃくちゃ増えた。

・『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』American Reunion (2012)
 監督:ジョン・ハーウィッツ/ヘイデン・シュロスバーグ
 脚本:ジョン・ハーウィッツ/ヘイデン・シュロスバーグ
 高校を卒業してから13年後に初めて開かれる同窓会!オリジナルキャストが大集結しているのが嬉しい。皆勤賞のジムのパパは勿論、ジム、ケヴィン、フィンチ、スティフラー、3では居なかったオズまで!ミッシェル、ヘザーやジェシカ、ナディアやシャーミネーターやMILFの二人組など、懐かしい面々が大集結してるだけでとても嬉しい。シャーミネーター大好きなので彼も同窓会に来て、シャーミネーターっぷりを発揮していたのが良かった。
 30歳も越えて、バカな童貞だった彼らも大人になり、落ち着いてるし、垢抜けている。ある者は結婚して、ある者は父になっている。必ずしも人生は思い通りにならず、なりたかった自分になれているとは限らず、楽しかった思い出は遠く、かつては許されたこともともすれば犯罪になる。変わった部分もありつつ、みんなでふざけて笑っている時の顔は全然変わってなくて良い。家庭生活や仕事や恋愛がうまくいっていてもいなくても、本人がそれに引け目を感じていたとしても、そんなことは関係なくて、楽しかった青年時代を共に過ごしたかけがえのない仲間として互いに尊重し讃えあっている姿に感極まるものがある。1,2に比べて3は少し微妙だと思っていたが、完結編である今作をみると、楽しいカス野郎が親愛なるour dickになるために、3も必要不可欠なアメリカン・パイシリーズの作品だったことがわかる。変わらない友情や、あの頃の特別だった人、共に生きてきた生涯の伴侶、大切な人たちや何度思い出しても笑える思い出が沢山ある彼ら彼女らは幸福だろう。

 時にはお節介なアドバイスをしたり、主にスピンオフ作品で尾鰭がつきまくったジムのお父さんがパーティで弾けるシーンがあるのも良い。長年連れ添った妻をなくして、思い出の中に生きようとする彼が、今度は息子のジムに諭されて今ここから新しい幸せを見つけようとし始めるのが感動的。

 誰もゲロを吐かなくなったが、いつも集まっては駄弁り、高校卒業時に、将来に乾杯した店で、再開することを約束に乾杯して終わるの良過ぎる。これ以上の完結編は考えられない。そして本シリーズの通奏低音をなすmother fuckで締めるの格好良い。3でも使われていて印象的だった女性を高らかに賛美するジェイムスのlaidが流れるのも良い。

・総評
 アメリカのお下劣コメディの名作と名高い『アメリカン・パイ』ですが、シリーズを通して変わらない魅力としては、思わず感情移入して応援したくなってしまう、個性豊かで魅力的なキャラクター達、楽しかった青春時代を想起させる男同士の熱い友情、女の子と上手に話せなかった頃に抱いていた切実な異性への憧れ、自分のことでいっぱいいっぱいだった主人公たちが、相手を思いやることを学び運命の人と出会っていく純愛物語、そして驚くほどストレートに表現された感動的な家族や身の回りの大切な人々に対する愛情によって、思いの丈を素直に伝えることの大切さ、回を重ねるごとに、ライフステージを上がっていき、その時々にぶつかりがちな人生の悩みを正面切って取り上げている点などが挙げられます。下品なネタや不謹慎な笑いのオンパレードなので、カップルで観るのはおすすめしにくいですが、もしもアメリカン・パイシリーズを一緒に笑って観ることができたら、ジムとミッシェルのように、末永く幸せに暮らしていくことができるかもしれません。最後まで読んでいただきありがとうございました。

・お知らせ
 友達のyoutubeチャンネル「あたおか映画チャンネル」にアップするため、「アメリカン・パイ全作レビュー座談会」の様子を動画で撮影しました。現在編集作業中です。公開までしばらくお待ち下さい。動画が上がりましたらtwitterアカウント(@komo198198)でお知らせさせていただきます。フォローしていただけたら嬉しいです。

「不在の百合」とはなにか

 今日、いつものようにTwitterに張り付いていたとき、「不在の百合」なる概念があることをこのツイートで知った。
https://twitter.com/dw_nkmr/status/1349546827826098181?s=20
 また、Twitterで検索してみると、「不在の百合」概念の例示として、うら寂れた田舎の風景や、灰色のロードサイドの光景を移した写真がアップされている。百合とは関係性を愛でるものであるとしたら、人物がいないのであるから関係性は生じないのではないか。また、写真が撮られている地点、カメラの視点は、百合を見出す受け手・写真の鑑賞者の視点と同一なのか、あるいは適切な言い方ではないかもしれないが、百合の登場人物の視点なのか。どちらでもないのか。風景それ自体に百合を見出しているのか、あるいはその風景の中でかつてあった百合らしい出来事を仮構しているのか。
 そして調べてみるとここ数日「不在の百合」概念に関連したツイートが数多くなされており、徐々に広がりを見せている。なぜいま、「不在の百合」なる概念が生まれ、広がりを見せているのか。
 文字通り非存在を表す「不在」と女性同士の関係性を表現するジャンルである「百合」、この一見相反する二つの言葉の組み合わせが生み出すインパクト、そして一体何を表す概念なのかがさっぱりわからないのが気になったので、その語の意味や初出、受容のされ方について少し調べてみた。その結果をもとに簡単な概念分析を試みたい。
 僕はオタク気質ではあるもののアニメや漫画をそこまで追えているわけではなく、ただのライトな百合好きなので、見当外れな点、間違った点が数多くあるかもしれません。気になった点があれば、やさしく指摘していただければ幸いです。色々教えて下さい。

 

 

・「不在の百合」概念の初出
 さて、「不在の百合」概念は、2018年5月のSFセミナーにて行われた、『裏世界ピクニック』シリーズの作者・宮澤伊織さんへのインタビュー記事が初出と思われる。
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
 このインタビュー記事の趣旨は、あくまでも個人の見解であると慎重に前置きした上で、「宮澤さんの考える百合」を明らかにするというもので、まずはじめに「『百合』といえば、女性と女性の恋愛なのかな? というようなざっくりした認識」を持っている読者を想定して、百合をめぐる固定観念の数々を「よくある古い概念」として、そのアップデートを提言する。
 次に、百合の前提へと話は進み、百合の大前提として、「女」の概念が提示される。これは「百合の文脈ではそう言わざるをえない」、「何重もの意味が折り畳まれた圧縮概念であり」、「引用符がめちゃくちゃついて “““女””” という感じ」として強調されている。「日常会話で『女』と呼び捨てのように言うと、けっこう言葉が強いというか、こわい感じがありますよね」と断った上で、”女性”ではなくあえて「女」と呼んでいるからには、この「女」はそのまま”女性”に置き換えて読むことはおそらく不適当なのだろう。生物学的な性別や、社会的に形成された女性性を示すものではなく、オタク文化サブカルチャーの表象における、記号的、キャラクター的な「女」のみを指しているということを意味しているのだろうか。このあたりのニュアンスがつかみにくいので、有識者の方にやさしく教えていただきたいです。
 そして「 “女と女” が百合を理解するために重要な関係」であり、「百合とは何かといえば、“女と女の関係” といえば間違いない」と言われている。前述の「女性と女性の恋愛」は「ざっくりした認識」であり、「女と女の関係」が百合の本質である。一見大差がないように思えるが、ここでは「女性」が「女」になり、「恋愛」が「関係」と言い換えられている。つまり百合とは女と女の関係ではあるが必ずしも恋愛ではない。
 また、女と女の関係があればそれは百合なのかと問われればもちろんそうではない。単なる友達関係など、百合ではない女性同士の関係はいくらでもある。それでは女と女の関係を百合とするのは何なのか。「女と女を結びつける“何か” は「巨大不明感情」と呼ばれたりもしました。2016年くらいに確立した概念ですね。「感情」の動きをちゃんとやるとフィクションの「解像度」が高まるんです。解像度の上がった百合は『強い』。」
 つまり、両者の間に存在する強い感情、あるいは大きな感情が二人の関係を百合にするのであって、そしてその感情の大きさによって百合の強弱が決まる。そして「強い百合」とは「人間を描くということ」であり、感情の強さだけではなく「女性の性欲や肉体から逃げずに書き」、実在感を高めることで百合の強度は高まると言う。
 以上が宮澤さんによる百合概念の説明であり、その後インタビューは当時(2018年)の百合コンテンツの話に移り、ニコニコ動画の自分の好きを語り、他者の好きに共感する「ここすき」文化と百合界隈のコミュニケーションのあり方の類似性に触れられる。
 つづいて、百合は今後どのような可能性を持っているかという話になった際に、人間とタコの交流を描いたノンフィクション作品『愛しのオクトパス』のとある描写に「異種間&歳差百合」を見出したと語る。本来百合作品として描かれたのではないものに対しても、百合という関係性を見出すことは可能である。このように、ある既存の関係の上に、あるコードに則った関係性を付与していく、関係性の読み替えの文化は、BL界隈で古くから行われてきたものであり、代表例として天井と床、消しゴムと鉛筆、からあげとレモンなどが挙げられる。BL界隈での関係性の読み替えは、主として”カップリング”、二つのもの・人物が恋愛関係であると考え、それぞれに攻め・受けの役割をあてがうものが主流であるが、一方で百合界隈ではそのような擬人化、無機物をカップリングする発想はあまり見られないと指摘した上で、BLと百合の異なる点として、百合では「逆に「不在の百合」というのが成立しうる」と語っている。これが「不在の百合」概念の初出であると思われる。

 

 

・「不在の百合」とはなにか
 「不在の百合」とはなにか。「不在の百合」とは、どのような意味で使われた言葉であるのか。宮澤さんは説明する。「エモい風景は、それだけで百合」であり、「なぜかデカい風景には、それだけでそこに百合味がある」。宮澤さんがこの着想を得たのは、「海を前にした崖に、草が生えていて、フェンスがあり、灰色の海と空が広がって、無人の2人がけのベンチがある」
画像に、#百合のハッシュタグがつけられた投稿からであるという。
 インタビュアーがそれを受けて、『裏世界ピクニック』の「女子ふたりが農機に乗って、どこまでも広がる草原を走っていく…という扉絵」は百合であるかと尋ねると、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」くと、「轍の上に、錆びて朽ち果てた乗り物が置いてある」が、「かつてそこには2人がいた」。その情景を、「これはもう完全に百合」であるとしている。
 以上の発言と、「どういうわけか、草原って百合なんです」という記述を合わせて考えると、「不在の百合」の成立のためには、人気のない、うら寂れた、茫漠とした、広がりのある風景が必要であると思われる。また、注目すべきなのは着想源であるツイートにしても、「無人の2人がけのベンチ」があり、『裏世界ピクニック』の扉絵そのものではなく、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」いたものが「不在の百合」とされている点である。前提として百合とは「女と女の関係」であることが確認され、BLとは異なり百合では無機物のカップリングが行われにくいことを指摘されているので、風景それ自体に百合という関係性を見出しているのではなく、うら寂れた、無人の、荒涼とした風景に、かつてそこにあり、そして今はもはやない「女と女の関係」を思い描き、それを「不在の百合」としていると思われる。
 冒頭に書いた問いに戻ります。以上のことをふまえると、「不在の百合」概念が宮澤伊織さんの言ったのと同じ意味で使われていると仮定すると、「不在の百合」写真は鑑賞者の視点から撮影されたものであり、寂れた無人の風景のなかに、今はないがかつてあったかもしれない百合を見出すものであると考えられる。

 

 

・「不在の百合」の受容
 上述のように、「不在の百合」概念は2018年7月19日に公開されたnote記事が初出であるが、Twitterの検索結果を遡って見てみてもすぐさま浸透したわけではなく、しばらくは筋金入りの百合愛好家たちの間で、ひそかに囁かれていたようである。
 しかし、『裏世界ピクニック』のアニメ化決定に伴い開設された、テレビアニメ『裏世界ピクニック』公式アカウントが2020/03/08〜2020/07/01にわたり、#裏世界ピクニック#裏ピクのハッシュタグと共に、無人の風景の画像を投稿しており、それらのツイートがされるたびに、『裏世界ピクニック』のファンであると思われる百合好きの方たちが不在の百合概念を持ち出してそれらの画像に言及しているツイートが数件みられ、公式アカウントが「不在の百合」画像の継続的な投稿をやめた7月以降にも、「不在の百合」概念に言及したツイートは断続的に確認できる。とはいえ、この時点では『裏世界ピクニック』ファン以外の目に届くまでには広がっていないと思われる。
 不在の百合概念に言及したツイートの数や、関連ツイートに対するファボ数が増え始めるのは2020年の11月以降である。ねこむろさんの「不在の百合」を題材とした画像のツイートや、2020年11月2日から書かれている、一連のnote記事と、「不在の百合」という語の響きが持つインパクトにより、従来の『裏世界ピクニック』ファンの垣根を越えて認知度が高まったのではないかと思われる。

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320254558879113218?s=21

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320266143584546817?s=21
https://note.com/nekomuro_note/n/n3d5e90923137?magazine_key=mec491b1a84ea

  流れをまとめると、『裏世界ピクニック』原作の作者である宮澤伊織さんのインタビューで「不在の百合」概念が提出され、テレビアニメ「裏世界ピクニック」公式アカウントの発信する無人の写真が「不在の百合」概念の例示として受け取られ、それが概念の拡張の契機となり、ねこむろさんのnote記事に代表されるように、「不在の百合」写真を撮る人々によって肉付けがなされ、「不在の百合」概念の意味する範囲が広げられていっているのだと思われる。

 また、2021年1月4日より、TVアニメ『裏世界ピクニック』の放映が始まったことにより、再度「不在の百合」概念に注目が集まっているのが現状なのだろう。そして、「不在の百合」という語のインパクトに惹かれ、その文脈を必ずしも理解していない人々によって、たとえば「エモ」や「感傷マゾ」のように、さまざまに解釈された「不在の百合」が、いまひとり歩きを始めようとしているのではないか。「不在の百合」はこのまま、インターネット発祥の美的カテゴリーの一つとして発展していくのか、あるいは乱用の果てに形骸化していくのか。これからも「不在の百合」の行く末を見守りたい。

 今回は主に「不在の百合」がどのような言葉として生み出されたか、を見てきたが、またいつかTwitterにおける「不在の百合」概念の受容、およびその使用における意味の変遷を具体的な例を見ながら検討してみたい。

 

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映画『マグダラのマリア』(2018)の感想。

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Netflixでも配信中の、ガース・デーヴィス監督、ルーニー・マーラホアキン・フェニックス主演の映画『マグダラのマリア』(2018)の感想です。

 

マグダラのマリアについて、ルカによる福音書にはイエス様に7つの悪霊を追い出して頂き、自分の財産を投げ出してイエス様に付き従った女性であるという記述があり、またヨハネによる福音書によれば、イエス・キリストが復活後初めて姿を現したのがマグダラのマリアのもとであった。このように、彼女に関しては共観福音書中にはわずかな記述しかなく、その出自や素性は詳らかではないが、キリストの復活を使徒たちに伝える役目を負ったことから、「使徒たちへの使徒」などと称されることもある。一方でマグダラのマリア西方教会に於いては、ルカ7,36-50に登場する、シモンの家でイエスの足を涙で濡らし香油を塗った「罪深い女性」と彼女を同一視する、グレゴリウス1世の見解が広く影響力を持ち、また伝説や伝承においてしばしば改悛した娼婦として描かれ、そのようにマグダラのマリアを表象した美術作品も少なくない。

ところが20世紀になってから発見された外典の写本では、イエスの弟子、使徒として描かれ、またイエスとの親密な関係を匂わせる描写から、イエスの花嫁であるとの俗説を生み出すに至った。このような外典の記述や、フェミニスト神学の動きが相まって、従来のマグダラのマリア像の見直しが図られ、2016年には教皇フランシスコによりマグダラの聖マリアの祭儀が、それまでのように記念日としてではなく祝日の等級で一般ローマ暦に記入されるべきだと定められた。そしてその新しい、イエスの弟子としてのマグダラのマリアの姿を描いたのが本作である。

ルーニー・マーラの美しい顔、慈悲に溢れた優しい仕草、苦しむ人に寄り添う様子はまさに神の国の住人のようだった。イエス伝としては盲人の治癒やラザロの蘇りなど、治癒神としてのイエスが強調して描かれ、従来の、ユダヤ教的な父権的な神ではなく、癒し育む母性的な側面にスポットが当てられている。一方で、涙を流し弱くありうる人としての脆さを持った存在としても描かれる。奇蹟を行う神の子としてのエピソードを強調する傍らで、イエスの人間的な弱さや、神の国の折衷案的な解釈を提示するこの映画のどっちつかずの姿勢には納得がいかない。現世的なところに着地させるなら、パゾリーニの『奇跡の丘』のような描き方の方が良かったのではないか。「徹頭徹尾終末論的でないものは、徹頭徹尾キリスト教的ではない」と、カール・バルトも言うてます。ワンピースがこのオチだったら全員キレるでしょ。

また、マグダラのマリアは従来カトリック権力によって不当に貶められてきたとも考えるが、この映画では今度はペテロが槍玉にあげられている。映画オリジナルと思われるローマ人に壊滅させられた村人を看取るエピソードで、父権的で軍人的なペテロが、慈愛に満ち、優しさのあふれるマグダラのマリアに懐柔されたり、キリストの復活や神の国の解釈について論破したりするシーンには作り手の作為を感じずにはいられない。「それは主の言葉じゃなくて、あなたの言葉でしょう」っていうのはブーメランと言うか、それに続くマグダラのマリアの主張も、聖書にある主の言葉ではなく彼女の解釈としか思えない。福音主義的な立場とフェミニスト神学とは相性が悪いのかもしれない。フェミニスト神学はそもそもエリザベス・スタントンの「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」という言明から始まっており、聖書を一字一句過たない神のみことばとする福音主義の立場とは相容れない。

とはいえペテロに当たりが強いのは、「天の国の鍵」をイエスから授かったペテロが、教会の礎となり初代ローマ教皇であるとみなすカトリック教会への異議申し立てという意味なのかな。カトリック教会の男性主義的な歴史が今作でのペテロに集約されていて、それを乗り越えるものとして新しいマグダラのマリア像が描かれている印象。しかし男性性に女性性を対置して後者を称揚するという構図では結局男性/女性という二分法に囚われたままであり、また旧来のジェンダーロールの強化につながりかねないと言う意味で、かつてキャロル・ギリガンに向けられた批判が今作にも当てはまるかも?

この映画で手放しで好きな点はユダの描かれ方。心優しく、温和で、なかったことにされてきた弱いものの声にも耳を澄ませる。利己的で小賢しい悪人として描かれることの多いユダだが、彼もまたキリストに選ばれた使徒である。使徒でありかつ裏切り者である彼の存在がずっと腑に落ちていなかったが、本作でのユダの描かれ方が一番納得できるものだった。彼は打算から、銀貨に目が眩んで師を売ったわけではなく、キリストの説く救済、神の国の到来、を誤解した故の過ちだった。事実キリストの活躍した時代には当然聖書もなく、キリスト教もなく、文書もなければ教義もない状態で、使徒たちの間で主の言葉に対する解釈が食い違っていても不思議はない。自分で裏切っておきながら首を吊るのも謎に思っていたが、キリストの死によって己の過ちの大きさに気づく、ということなら筋が通るように思える。

家父長制の根強い家族や抑圧的なムラ社会から逃れるところから始まり、マグダラのマリア復権、聖書に潜む男性主義的な価値観の告発、単なる悪しき裏切り者ではない新しいユダ像、フェミニズム的な観点からの聖書の読み直しという意図を明確に感じさせる挑戦的な本作は、マタイ10,34-39にある説教を想起させる。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁を姑に。こうして自分の家族の者が敵となる。」
21世紀になってもなお、こうして聖書をめぐる物語、新しい映画が作られて、さまざまな解釈があり、議論を活発化させていくことは、聖書が今なお生きた書物であることの証であるように思える。テクスト読解とか作品の解釈とかに興味がある人は、元祖テクストである聖書や、元祖テクスト読解である神学の歴史を学んでみるのも面白いと思います。