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フィリッポ・リッピの生涯と受胎告知画、受胎告知の名画②


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 前回の記事の続きです。今回からは具体的な作品を見ていきながら、受胎告知に見られる図像の特徴を見ていきます。受胎告知の絵画はルネサンス期に全盛期を迎え、中でもフィリッポ・リッピとフラ・アンジェリコは、多くの受胎告知画を残しました。この二人は点数が多いので、それぞれ独立した記事で扱うこととします。今回はフィリッポ・リッピ編です。

 

 

フィリッポ・リッピの生涯

 フィリッポ・リッピ(Filippo Li[ppi,1406-1469)は、15世紀前半の初期ルネサンスフィレンツェ派を代表する画家のひとり。フィレンツェパドヴァ、プラート、スポレートで活躍した。本名はフィリッポ・ディ・トンマーゾ・ディ・リッピ。1406年にフィレンツェに生まれ、幼くして孤児となり、8歳の時に同地の修道会であるのカルメル会に入会、1421年には修道士となる誓願を立て、カルミネ修道院の修道僧となる。絵画の師は不詳であるが、一説によるとロレンツォ・モナコであるとも言われている(1)。1430年に、修道院の文書にはじめて画家として、また兄はオルガン奏者として出てくるという(2)。

 最初期の作品である、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂回廊の壁画《カルメル会の会則の認可》(1432年ごろ)は、画面に激しい損傷を被っているものの、マザッチョの大胆な立体表現からの影響を色濃く反映しており、また素朴で民衆的な趣を残している。この作品から、1420年代当時同市のブランカッチ礼拝堂で壁画制作を行っていたマザッチョにリッピが私淑していたことが伺われる(3)。かのヴァザーリの『ルネサンス画人伝』においても、学問に背を向け、本に悪戯書きばかりしていた少年時代に、マザッチョの描いた壁画の素晴らしさに打たれ、毎日のようにそこに気晴らしに通い、絵の練習を積み、器用さの点でも技量の面でもずば抜けた才覚を示し、「マザッチョの霊がフラ・フィリッポの体内にのりうつったのだという噂が立った」という印象的なエピソードが紹介されている(4)。

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フィリッポ・リッピ《カルメル会の会則の認可》、1432年頃

 1434年にパドヴァに滞在し、そこでフランドル絵画と接触したと言われている。以降、最初の重要な作品である《タルクィニアの聖母》(1437年)においては、マザッチョからの影響から脱し、繊細で甘美かつ明快な輪郭線と、フィレンツェ的な立体的な量感表現とを結びつける独自の様式を確立し始める。1438年のドメニコ・ヴェネツィアーノの有名な書簡では、フラ・アンジェリコと並ぶ画家として言及されているという(5)。

 また、同じく初期の代表作に、複雑な構成と装飾的な要素が調和した、《バルバドーリ祭壇画》(1437-39年)がある。アウグスティヌス会サント・スピリト聖堂のバルバドーリ家の礼拝堂のための祭壇画として制作れた。中央に立つ聖母子、それを囲む天使たちと二人の聖人を、現実的で連続的な一つの画面に収める構成から、リッピの画風の発展が認められる。貝殻のような壁龕のモチーフは、リッピが好んだモチーフで、直弟子であるボッティチェリにも受け継がれている。初期に見られた生硬さは消え、詩情のある柔和な人間描写は、フラ・アンジェリコからの影響があるとされている。

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フィリッポ・リッピ《タルクィニアの聖母》(1437年)

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フィリッポ・リッピ《バルバドーリ祭壇画》、1437-39年

 《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》において確立された様式は、40年代に更なる洗練を加え、41年から47年にかけて、フィレンツェのサンタンブロージオ聖堂のために描かれた大作《聖母の戴冠》に結実していく。またこの時期、1442年にフィレンツェ近郊レニャイアのサン・クィリコ教区の主任司祭兼修道院長に就任している。独特の情緒性を備えた独自の表現を獲得したリッピは、その後《聖母子と聖アンナの生涯》、プラート大聖堂の壁画連作、《聖母子と二人の天使》などの名作を手掛けた。広がる風景を見晴らす窓から入る、柔らかい光に包まれて聖母子と二人の天使が描かれている。俯き、手を合わせる聖母の繊細で優美な表情の美しさ、静謐さを湛えるくすんだ色彩、こちらを向いた天使の茶目っ気のある仕草が印象的なこの作品は、フィリッポ・リッピの最後の自筆作品の一つであるとされている。また、1452年から12年以上もの歳月をかけて完成されたプラート大聖堂の壁画は、国際ゴシック様式的な背景に聖ヨハネや聖ステファノの物語が異時同図法によって劇的に描かれており、一般にリッピの最高傑作と言われている。また、晩年のリッピは敬虔な雰囲気の美しいキリスト降誕画をいくつも残している。1459年頃の作品はコジモ・デ・メディチの注文によって描かれ、メディチ邸の礼拝堂に置かれた。花の咲き誇る深い森の中で、静かに聖母が幼兒キリストを礼拝する、幻想的な詩情に溢れた美しい作品である。

 

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フィリッポ・リッピ《聖母戴冠》1441-47年

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フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》1450-65年頃?、ウフィツィ美術館

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フィリッポ・リッピ《キリストの降誕》、1459年頃


 

フィリッポ・リッピにまつわる有名なエピソードだが、1456年にサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付司祭として同修道院の大型祭壇画の制作に取り掛かるが、製作中修道女ルクレツィア・ブーティと恋仲になり、自宅に連れ去る駆け落ち事件を起こしている。匿名による告発により糾弾されたが、画家としての才能を評価したコジモ・デ・メディチをはじめとするメディチ家の人々の執り成しのおかげで、聖職禄の剥奪だけで済み、ルクレツィアとの同居は許されたという。そしてこの二人の息子が、後に同じく画家となるフィリッピーノ・リッピである。(6)

 またルクレツィアは、プラート大聖堂の壁画《ヘロデの饗宴》のサロメのモデルであるとする説もあるが、リッピはこのサロメを、踊るニンフなどの古代彫刻を元に描いたとも言われている。賑やかで華やかな饗宴において、憂いげに目を伏せ、白い衣装で優雅に舞うサロメと、洗礼者ヨハネの生首を捧げる凄惨さの対比が見事。

 1466年、息子フィリッピーノと共にスポレートに赴き、スポレート大聖堂の壁画「聖母伝」の制作に取り組むが、1469年にその途中で同地に没した。リッピの死後、彼の弟子であるフラ・ディアマンテが師の工房を引き継ぎ、フィリッピーノの後継人となった。そして未完の作品はフラ・ディアマンテが率いる工房と息子フィリッピーノの手によって完成された。

 

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フィリッポ・リッピ《聖ヨハネの殉教とヘロデの饗宴》、1452-64年

 フィリッポ・リッピの画風は、その最初期にあってはマザッチョの強い影響下にあったが、後にフランドル絵画やフラ・アンジェリコ、ドナテッロの彫刻やルカ・デッラ・ロッビアの影響を受けながら、フィレンツェらしい量感表現を維持しながらも、国際ゴシック様式から受け継いだ優美な輪郭線や、流麗でリズミカルな線描によって人物を呼応させる独特の情緒性を帯びた表現を獲得し、直弟子であるボッティチェリや、息子フィリッピーノ・リッピ他、15世紀の画家のみならず、19世紀のラファエロ前派の画家たちにも影響を与えたとされている。

 フィリッポ・リッピは自由奔放な性格であったようで、明るく快活な人々との交際を好み、たいへんな女好きであったという。ヴァザーリの記述によれば、コジモ・デ・メディチが彼に仕事を依頼した際、仕事を放り出して外へ遊びに出ることがないようにと、彼を室内に閉じ込めたところ、2日も経つと我慢がならず、鋏でシーツを切り裂き、それでロープを作って窓から下へ降り、数日間遊蕩に耽って帰らなかったという奇天烈なエピソードがある(7)。尤も、冗談好きでしばしば誇張も含まれるヴァザーリの伝記によるものなので、そのまま真に受けるわけにはいかないが、なんとも微笑ましいエピソードである。

 

 

フィリッポ・リッピの《受胎告知》

 フィリッポ・リッピは、同じく画家であり僧侶でもあったフラ・アンジェリコと並んで、生涯を通じて多数の受胎告知画を手掛けており、その総数は少なくとも10展以上であると言われている。以下では、彼の残した受胎告知画のうち6つをを、年代を追って順に見ていく。

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1437-39年

 初期の傑作《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》と同時期に製作されたリッピによる《受胎告知》。イオニア式の列柱によって分割された空間が特徴的。こうした古代的なモチーフの使用から、文芸復興期の古代研究への情熱が感じられる。聖母のマントの青と裏地の金の対比が鮮やかである。大天使ガブリエルは純潔を示す白百合の花を持ち、聖母に向けて頭を垂れている。聖母は壁際に立ち、背後の壁に彼女を覆うような影が映っており、聖霊を表す鳩は右耳に向かって飛んでいる。前回述べたように、ここでは聖母マリアモーセの幕屋と重ね合わせる予型論的解釈や、『ヤコブの原福音書』に見られる御言葉による受胎の発想の図像化であると思われる。聖母は静かに目を伏せ、戸惑い、羞じらいながらもこの御目出度いお告げを受け入れているように見える。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1443年

 43年の《受胎告知》では、より手の込んだ複雑な画面構成となっている。古代風の建築の内部で、書見台に載せた本を眺めるマリアのもとに、大天使ガブリエルが跪いて現れる。ガブリエルは、画面左のもうひとりの天使と共にお決まりの白百合を手に持っている。背中の羽が大きく、より写実的な表現となっている。画面左上には上位の天使である智天使(ケルビム)に囲まれた父なる神が描かれており、かざした手からマリアの胸部に向かって光線が発せられている。建物の小アーチによって画面は3つに分割されており、左にガブリエル、中央が聖霊、右にマリアが配置されている。後景に描かれた中庭の門は閉ざされており、マリアの純潔を象徴する「閉ざされた庭」の表現が踏襲されている。聖母の表情は黙して自問しているようにも、受け入れているようにも見える。凛としたマリアの立ち姿は、顔から肩にかけての曲線が素晴らしく、優美さだけでなく威厳も兼ね備えている。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1445年

 メディチ銀行の支配人として財を成したマルテッリ家の礼拝堂の祭壇画として、1445年に描かれた《受胎告知》は、おそらく彼の受胎告知画の中で最も有名なものだろう。以前よりも人間化された、感情的な表現が目立つ。跪きマリアを見上げる大天使ガブリエルの表情は、美しい女性に言い寄る好色な青年のように見えてしまうほどである。聖母マリアは驚きに身をひねりながらも、落ち着きを失わず、天使に向かって「なぜそのようなことがありえましょうか」と問いかけているように見える。聖母の顔立ちも以前の作品と比べると、市井の少女のような素朴さがある。あまり目立たないが、画面左の二人の天使の頭上あたりに聖霊の鳩が飛んでいる。この二人の天使の存在については十分な説明がなされていないが、観者の視線を惹くための工夫であると言われている。これは私見だが、後景に見える赤い建物と、薄い赤色の天使の羽、左の天使が腰に巻いた赤い布や、大天使の衣装が、画面の中央からガブリエルに向けて螺旋状のリズミカルな視線の動きを作り出している。そしてそのガブリエルの視線の先に居るのが告知を受けた聖母マリアであり、観者の視線は自然と消失点に向かった後に、神の天上の愛を表す赤色に導かれて、再び聖母の方へ向かうように巧みに構成されている。また、聖霊の鳩も、ガブリエルの視線も聖母の腹部に向けられており、聖霊が聖母の子宮に入り込むことによって受胎することが暗示されている。中庭の建物の遠近法による処理が見事。そして画面の前景に、くり抜かれた床にすっぽりと収まった、水の入ったフラスコが描かれているが、これはマリアの象徴であるとされる。(8)

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1445-50年

 こちらの作品では珍しく、聖母マリアが左に、ガブリエルが右に配置されている。画面左手に天蓋のついた大きな寝台が見える。この寝台という舞台設定もまた、象徴的な意味を持っており、「旧約聖書詩篇第19歌に歌われている旭日を寝室から出て来る花婿に譬えた比喩に対する注釈として、中世の神学者たちは、この花婿、すなわち朝の太陽こそはキリストにほかならず、結婚の寝室はそのキリストの母、すなわちマリアにほかならないと説いた(9)」からである。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1448-50年

 ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある、半月形構図(ルネット)の美しい作品。フラ・アンジェリコのような、柔らかく豊かな色彩が素晴らしい。向き合って互いに首を垂れて挨拶を交わす二人の人物の姿勢が、半月形の構図を形作っている。そのよく調和した流麗な線描が美しい。半月形構図の受胎告知画は、15世紀イタリアにおいて一般的であったが、それは「同時代に盛んであった聖母崇拝の本尊画が、円形構図を原則としたことと相伴っている(10)」と言われている。半月形構図の受胎告知画がよく描かれた理由としては、挨拶する二人の人物の輪郭が自ずと要請する形態であることに加えて、ジョットのものに代表されるように、受胎告知画は教会の内陣や礼拝堂の凱聖門に描かれる習わしであり、その場所の制限から自然に生まれたものであると矢代幸雄氏は指摘している。また、この絵では、上部の神の御手から、台風の目の進路図のように重なり合う円がマリアの腹部に向かって描かれているところが面白い。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1467-69年

 リッピの晩年の作である《受胎告知》。背景の木々や空の色は、国際ゴシック様式の色使いを思わせる。前作と同様、マリアが室内に、ガブリエルが室外に配置されている。雲の上の主なる神から出る光線が、建物の小窓を通してマリアに到達する図像は、クリヴェッリの《受胎告知》を連想させる。驚きに身をひねりながらも、顔は大天使の方へ向け、沈思黙考するマリアの輪郭線の素晴らしさ、迷いが伺える手の動作に表れている微妙な心理の動き、画面全体のくすんだ色調に、リッピの情緒的で感傷的な、洗練された画風がよく出ている。

 

次回

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参考文献

(1)石鍋真澄監修、『ルネサンス美術館』、小学館、2008年、465p

(2)ルートヴィヒ・H・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳、『イタリア・ルネッサンス1400〜1460』、新潮社、1975年、p.301

(3)T・バーギン・J・スピーク編、別宮定徳訳、『ルネサンス百科事典』、株式会社原書房、1995年、p.567

(4)ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘他訳、『ルネサンス画人伝』、白水社、1982年

(5)前掲書、石鍋真澄監修、465p

(6)小佐野重利・アレッサンドロ・チェッキ責任編集、『ボッティチェリ展図録』朝日出版社、2016年p.67

(7)前掲書、ヴァザーリ、p.95

(8)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.137-8

(9)同書、p.146

(10)矢代幸雄著『受胎告知』、1973年、新潮社、p.143