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受胎告知の名画④ 読書をするマリアの図像の起源と発展

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 受胎告知の絵画は、ルネサンス期において最も多くの作例が描かれましたが、その際、必ずと言っていいほど、マリアは本を手にしているか、読書中であるか、書見台や机に置かれた本が描き込まれています。第一回目の記事で見たように、東方における伝統では、受胎告知の場面でのマリアは糸紡ぎをしている姿で描かれるのが主流でしたが、ルネサンス期の西欧においては、読書をするマリアの姿が好んで取り上げられました。今回の記事では、その読書をするマリアの図像の起源と、その発展の歴史についてまとめました。

 

 

ロベール・カンパンの《メロード祭壇画》中央パネルにおける書物の意味

 読書をするマリアを描いた受胎告知画の代表作として、15世紀フランドルの画家、ロベルト・カンパンによる祭壇画の中央パネルが挙げられる。この作品においては、マリアはまだ大天使ガブリエルの来訪に気が付かずに、木のベンチに腰掛けて読書に耽っている。また画面上にはもう一冊、丸テーブルの上に開かれたままの本が描かれている。そして、同じテーブルの上、読みかけであろう本のすぐ脇には、かすかな煙の立ち昇る、火の消えたばかりの蝋燭があり、それとは対照的に、画面右手の暖炉の上にある燭台の上には、真新しい蝋燭が準備されている。このことから、高階秀爾の解説によると、「マリアが読むのを止めたテーブルの上の本が旧約の世界を象徴し、現在読んでいる本が新約の世界を表すと解釈すべき」であり、「イエス・キリストの登場とともに、律法(旧約)の時代が終わり、新たに恩寵(新約)の時代が始まるというのは、キリスト教歴史館の基本的構造であり」、「受胎告知は、まさしく転換のときに位置するものだから(1)」であるとされている。救世主イエス・キリストの誕生を告げる受胎告知の場面において、マリアはそれまで読んでいた旧約聖書から新約聖書に目を移し、旧約聖書の教えを表す机上の蝋燭はたった今役割を終え、今度は新たに恩寵の教えを表す蝋燭に火が灯されることを暗示している。

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ロベール・カンパン《メロード祭壇画》、1425−28年頃、ニューヨーク、The Cloisters所蔵、

 このように、受胎告知の場面における読書をするマリアの図像は、ルネサンス期に至って、多様な象徴的な意味を含むまでに発展したが、受胎告知のエピソードの典拠であるルカによる福音書では、聖母マリアと大天使ガブリエルによる会話が簡潔に描かれているだけであり、具体的な場面設定や情景描写はなされず、ガブリエルの訪問時にマリアは読書をしていたという記述も見当たらない。それでは、ルネサンス期に一般的な、読書をするマリアの図像はいつ頃から描かれるようになったのか?その図像は何に由来するのか?何の本を読んでいるのか?その図像はどのように発展したのか?マリアの読書は、絵を見る人々にとって、何を意味しているのか?と、様々な疑問が浮かぶ。以下では、読書をするマリアを巡る国内外の研究を紐解きながら、その図像的な起源や、その発展の歴史を追っていく。

読書をするマリアの図像表現

邦語文献における記載

 読書をするマリアの図像表現について、矢代幸雄は著書『受胎告知』(1927年に出たものの復刊)の中で次のように述べている。「あまりに単純にして通俗な家庭女の仕事と混同されやすい糸紡ぎが、神の子を受胎する大神秘の瞬間、苟も将来の聖母ともあろうものの仕事として、荘厳さが足りないと感じられたのは、キリスト教が古伝説を正直に守る原始信仰からぬけて、一般民衆にもっと有力な厳飾を以て働きかけ始めてから、間もないことであっ」て、「アトス修道院の画式を遵守する義務のなかったローマ教会に於いては、十二世紀の初めにすでにマリアが糸紡ぎをしていたとする代りに、本を読んでいた、と主張した。本とは言うまでもなく聖書である」。そして、中世末期の一般的な信仰の動向をよく表したものとして、熱烈に聖母を信仰したクレルヴォーの聖ベルナール(1090−1153年)の次の記述を挙げている。「──マリアは聖書を開いて読んでいる。読みかけたところは預言者イザヤの書第七章第十四節。『視よおとめ孕みて子を産まん、その名をインマヌエルと称うべし…‥』マリアこの句を読みて、謙遜の心のうちに、かかることが言われ得る女は如何に幸福であろう、と思いめぐらす。ちょうどその刹那、大天使ガブリエル入り来り、彼女に聖書の言葉の実現を与えた──(2)」。

 また、鹿島卯女監修の『受胎告知』の中の、高階秀爾の解説によると、「『糸紡ぎ』のモティーフが持つ『日常的』性格に対し、いっそう『知的』な解釈を好んだ西欧世界では、カロリンガ朝美術以来、『糸紡ぎ』のような『手仕事』よりも『読書』のモチーフが有力となり、中世後期からルネッサンスにかけては、本を読んでいる(ないしは本を手に持っている)マリアが圧倒的に多くなる(3)」とされ、多くの作例を指摘できるようになるのは12,13世紀以降であり、「中世末期から後の時代になると、マリアはほとんどつねに、本を手にしているか、書見台、ないしは机の上の本とともに描き出されるようになる」。そしてこのモティーフの普及には、ヨハンネス・デ・カプリウスの『キリストの生涯についての省察録』の影響が大きいが、マリアと本の結びつきの伝統は、それよりも以前から存在していて、その場合は、「本は、智慧、ないしは学芸を象徴する。中世の神学者たち、例えばアルベルトゥス・マグヌスやシャルトルのティエリー等にとっては、マリアは単に信仰深い娘であるばかりでなく、七つの自由学芸に習熟した学問の女王であった。というのは、その七つの自由学芸において誰よりも優れたマリアであればこそ、聖霊の七つの恵みを与えられ、したがって、神の母として選ばれるにふさわしい存在だからである。(4)」と説明されている。

 上記のように、矢代幸雄の著書では、中世末期の12世紀頃にはすでに読書をするマリアのモチーフが一般的であったとされており、高階秀爾の記述はそれよりも詳しく、具体的な作例は挙げられていないが、8−10世紀のカロリング朝の時代にすでに読書をするマリアのモチーフが有力になっていると述べており、その理由として、本は智慧や学芸を象徴し、七つの自由学芸に秀でたマリアこそ、神の母として選ばれるにふさわしい存在であったと考えられていた、と説明している。それでは、読書をするマリアの表現は結局のところいつから存在していたのか、また、共観福音書中には該当する記述が見られない、学問に秀でたマリアというイメージはどのようにして形成されたのか、という疑問は残る。

Laura Saetveit Milesによる研究

 Laura Saetveit Milesによる2014年の論文、”The Origins and Development of the Virgin Mary's Book at the Annunciation”(Speculum Vol. 89, No. 3 ,2014, pp. 632-669)によると、東方では、受胎告知の場面に具体的な肉付けをするさいに主に参照されたのは、外典ヤコブの原福音書』であったが、西方にあっては、同じく外典である偽マタイによる福音書や、マリアによる福音書が、その中で描かれる理想化されたマリアの姿によって人々の心を惹きつけ、民衆の間での聖母マリア信仰の高まりと相まって、より好まれた(5)。

 読書をするマリアの図像の源泉は、遠く偽マタイによる福音書(紀元6−9世紀頃成立?)の記述の中にある。そこでは、マリアは他の誰よりも律法に通じており、謙虚で、ダビデの歌を優雅に歌い、惜しみなく寄付をし、純粋であり、あらゆる美徳において優れていた、と礼賛されている。ここにおいて、マリアは「禁欲的な信仰生活を送る処女の模範」として理想化されている。しかし、あらゆる美徳において優れており、聖書にも通じていたとされる、この偽マタイの福音書による記述も、それ自体発明であったというより、より古い伝統を踏まえたものであるという可能性が指摘されている(6)。

 それよりも以前に、四世紀のミラノの司教アンブロジウス(Ambrose of Milan,337-97年頃)が、読書とマリアを強く結びつけている。彼は説教の中でマリアを指して、「彼女は身体だけではなく精神においても純潔である。心は謙虚であり、話すときには厳粛で、慎重さを備え、言葉を慎み、最も熱心に読書に励んだ」と言っている。また、彼は受胎告知の場面に関して、彼女は奥まった部屋で独り読書に勤しんでいた、と描写している。さらに、387年頃に書かれたルカによる福音書への注解の中で、彼女が読んでいる本は、彼女の役割を暗示するところの、イザヤ書イエス・キリストの到来を予言する箇所であると言っている。その箇所とはイザヤ書第七章第十四節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(新共同訳、以下、聖書の訳文は新共同訳からの引用)」という部分であり、この読んでいる書物がイザヤ書であったという解釈は、 マタイ1.21−23の記述「『(前略)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』/この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」を受けている。(7)

 このアンブロジウスのルカによる福音書への注釈は、後の中世の聖書解釈の伝統に大きな影響を与えたが、とりわけアンブロジウスの解釈を踏襲したイギリスのベネディクト派の修道士ベーダ(The Venerable Bede,672-735頃)によって、この考えはイギリスに浸透していった。ベーダのルカによる福音書への注釈には、アンブロジウスのものから更に踏み込んだ解釈が加えられており、そこでは、マリアはイザヤ書の一節をすでに読んでいたが、どのようにしてそれが実現されるのかは知らなかった。だからこそ、大天使ガブリエルからの告知を聞いたマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか?」という問いを発したのだと言われている。つまり、この問いかけはマリアの動揺のみならず、彼女の深い旧約理解をも示しており、ここにおいて、マリアは新約聖書を理解するために、どのように旧約聖書を読めばいいのか、を示す模範としての役割を持つようになる(8)。

 カロリング朝の時代(751−987年)に入って、いわゆるカロリング・ルネサンスによる教会の変革と宗教生活の刷新が図られ、自由学芸やラテン語の学習が奨励されるようになった。それには聖書のテキストを過たず読み、解釈をすることで、異端を退ける狙いが含まれていた。そしてこれらの改革の動きは当然美術や文化の面にも深く影響を与えることとなり、造形表現の領域においてもイメージの刷新が図られることとなる。

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brunswick-casket,860-870年頃、herzog anton ulrich museum

 ドイツ中部の都市ブラウンシュヴァイクの小箱(brunswick casket)の象牙浮彫(860−870年頃)において、左手に糸巻き棒を持ちながら、右手に開いた本を手にした聖母マリアの姿が描かれていて、右手の親指は開いた本のページの間に添えられているが、本のページには何も書かれておらず、マリアが読んでいたのが何の本であったかはわからない。マリアは天蓋のついた玉座に座し、その左側には十字の杖を持った大天使ガブリエルが居る。また、文学表現の分野では、otfrid von weissenburgの、863−871年の間に作られた、キリストの生涯を歌った長編詩の冒頭、受胎告知の場面を描いた部分で、彼女は本を読んでいたとされている。しかしここで彼女が読んでいたのは、かつてアンブロジウスが主張したようにイザヤ書ではなく、詩篇であり、声に出して読んでいたとされている。このオットフリードの解釈は、前述した偽マタイによる福音書の中の、マリアはダビデの歌を誰よりも優雅に歌った、という記述と響き合うものである。これらの読書をするマリアの表現について、文学作品によるものが先か、図像による表現が先か、という問題は、どちらの立場においても推測の域を出ず、定かではないが、これら9世紀の浮彫や詩の作例は、読書をする聖母マリアのイメージの広がりを示している(9)。

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MS 49598; 963-984; The Benedictional of St Æthelwold; England, S.; ff.5v

 そしてカロリング・ルネサンスによる教育的・宗教的な改革の成果は海を越えてイギリスにも波及し、10世紀のイギリスでは読書をするマリアの図像が確認されている。その代表的な例がThe Benedictional of St Æthelwold(アゼルウォルドの祝祷書)である。10世紀の初めごろに生まれた、聖アゼルウォルド(St Æthelwold)は963年から984年の死まで、ウィンチェスターの主教を努めた人物で、その以前にはアヴィニョン修道院で修行をしており、その頃大陸のカロリング・ルネサンスの影響を受けたとされている。そしてこの装飾写本は、彼の祈祷用に製作されたものであり、イギリス国内で最初の、そして西欧において、読書をするマリアの挿絵を描いた最初期の作例であると見られ、以後のイギリスにおいて、中心的な参照元となった。ここでもマリアは豪奢な天蓋付きの玉座に座し、左手に糸巻き棒を、右手に開いた本を手にしている。ブラウンシュヴァイクの作例と同様に、ここでも描かれた本は白紙であり、このときマリアが読んでいるのがイザヤ書であるのか、詩篇であるのか、という問題は留保されている。また、この図像の影響を受けた作例として代表的なものに、ブローニュの壮麗な装飾写本(boulougne gospels)が挙げられている(10)。

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ms. 0011, f. 011v,10世紀末、Boulougne Gospels

  同じく10世紀末の作例として、現在のドイツに当たる、フルダの典礼書がある。ここではマリアは屋外と思われる空間で両手を広げて立っており、彼女の左側には大きな書見台に置かれた書物がある。大天使ガブリエルは右側に位置し、右手を掲げて彼女に挨拶をしている。これらの図像はブラウンシュヴァイクのものともイギリスのものとも大きく異なっており、フルダの作例は前述した二者とは異なった図像的な伝統を反映したものであると思われるが、ともあれ、ここでも従来の糸紡ぎの図像から、読書をするマリアへの移り変わりが示されている(11)。

 

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フルダの典礼書、975−990年頃、göttingen state and university library,Cod.MS theol.431,fol,30r

  そしてフランスでは、シャルトルとクリュニーがマリア信仰において中心的な役割を果たした。シャルトルのフュルベール(fulbert of chartles,952頃-1028年)は、1006年から1028年に没するまでの間、シャルトルの主教を務め、受胎告知の場面に関する高名な説教によって、同地のマリア崇拝の高揚に大きな役割を果たしたとされる。その同時代人であるクリュニーのオディロ( odilo of cluny,962頃−1048年)は、994年にクリュニーの僧院長に就任したのち、修道院文化の改革に乗り出し、偽マタイの福音書以来の伝統である、修道生活の模範としてのマリアを称揚した。彼の受胎告知に関する説教の中では、マリアが読んでいた本は、創世記49.10「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。/ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」、民数記24.17「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。/彼は仰いでいる。しかし、間近にではない。/ひとつの星がヤコブから進み出る。/ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂きを砕く。」、イザヤ書7.14「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」および11.1「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」の記述と結び付けられている。ここでも、新約聖書の出来事を理解するために旧約聖書を読むことの重要性が強調されている(12)。

 フュルベールは僧侶も俗人も混ざった集会で説教をしたが、オディロは学識のある聖職者を相手に説教をしたとされている。前述の装飾写本も、基本的には聖職者の個人の祈祷用に製作されたものであり、ブラウンシュヴァイクの作例も、その装飾の豪奢さから高位の聖職者か宗教的な儀式のために製作されたものと見られており、上記の作例は基本的には聖職者たちの目にしか触れないものであったが、11世紀リヨンのSaint-Martin d'Ainayの石柱などに代表されるように、教会の彫刻や建築装飾に読書をするマリアの姿が現れると、そのイメージは修道院の垣根を越えて広く民衆に行き渡っていくことなる。そして11世紀の末から、この読書をするマリアのモチーフはヨーロッパ中で急増していくが、その背景にはいわゆる12世紀ルネサンスとマリア崇拝の発展、女性の宗教生活の拡大、書き言葉がラテン語から自国語へと移り変わっていく動きと並行した識字率の向上などが原因として挙げられる。第一回でも挙げた、12世紀中頃に製作されたシャルトル大聖堂の彫刻は、かつての装飾写本が一部の聖職者のみがアクセスできるものであったのに対し、教会を訪れるすべての人が見ることができるものであり、読書をするマリアの図像の広がりはますます加速していくこととなる(13)。

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シャルトル大聖堂、12世紀中頃

まとめ

 そして民衆のマリア信仰の高まりが、マリアを人々の信仰生活の模範とみなす伝統と連動し、それによってマリアが知性においても優れていたことが強調されるようになり、この理想化が推し進められ広がった結果、詩や造形表現において、神学的な象徴であるとともに、祈祷者の模範としての意味も込めて、読書をするマリアの姿が描かれるようになったのである(14)。簡単にまとめると、マリアと本を結びつける考え方は、4世紀のアンブロジウスにすでにあらわれているが、カロリング・ルネサンスの影響を受けた9世紀のヨーロッパで本を持ったマリアの作例が目立ち始め、11世紀頃から教会建築の装飾部分にも読書をするマリアの姿が描かれることで広く民衆の目にも触れるようになり、12世紀に至ってマリア信仰の高まりと共に爆発的な広がりを見せる。そして12世紀以降の作例においては受胎告知の場面では本が描かれることが一般的になり、13世紀末頃のピエトロ・カヴァリーニによる作例を皮切りに、ジョットやマルティーニ、ドゥッチョを始めとして、読書をするマリアの図像の作例はイタリアにおいても数え切れないほどになっていく。

 

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 参考文献

(1)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.136−137

(2)矢代幸雄『受胎告知』新潮社、1973年、p.74−75

(3)前掲書、鹿島卯女監修、p.103 

(4)同書、135−136p

(5) Laura Saetveit Milesによる2014年の論文、”The Origins and Development of the Virgin Mary's Book at the Annunciation”,Speculum Vol. 89, No. 3 (JULY 2014), pp. 636−637

(6)同上、pp.639

(7)同上、pp.639−640

(8)同上、pp.641

(9)同上、pp.643-647

(10)同上、pp.648-650

(11)同上、pp.651-652

(12)同上、pp.653-654

(13)同上、pp.654-659

(14)祈祷者の模範としてのマリアの役割については、Ann van Dijk”The Angelic Salutation in Early Byzantine and Medieval Annunciation Imagery”,The Art Bulletin Vol. 81, No. 3 (Sep., 1999), pp. 420-436が参考になる