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『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』のAmazonレビューについて

 2017年に思潮社から出されている、塚本史/後藤美和子訳『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』は、現在Amazonのカスタマーレビューで満点の星5.0の評価が付けられている。と言っても投稿されているレビューは1件だけで、その内容を見ていると、詩集に対する感想であるとはとても思えない、場違いで奇妙なものであった。以下に全文引用してみよう。

 

YAMAHAのMOXF6で楽曲を完成させて、
このレコーダーに録音しています。
使いやすいです。
最後の段階で、イコライザーが調節できますが、
lowとhighの二つしかありません。
ですが、それはキーボード側で楽曲を作るときに
調整すればいい話です。
レコーダーのイコライザーは最終調整として十分です。

価格も安く満足しています。

実は買ってまもなくして、
インプットの片側の音量が小さくなるトラブルがありました。
それはツマミを上か下に押せば(回すのではなく)一時的に直りましたが、
毎回そうするのも大変なので、二台目を買いました。

音量が小さくなった原因はわかりません。
全然乱暴に使っていなかったのですが。
ただ他の人のコメントには、そういうことは書いてないので、本当に
偶発的な故障だったのでしょう。

ダダ・シュルレアリスム新訳詩集 | 塚原 史, 後藤 美和子 |本 | 通販 | Amazon より

 

  このレビューを逐語的に、字義通りに読むならば、商品名は明記されてはいないものの、自分で作曲した曲を録音するための機械の使用感を率直に述べた文章であろう。簡易的な機能だけを備えたレコーダーに対して、不具合に見舞われ同じものを買い直しているのにも関わらず、安価であったため満足していると書き、商品の評価は満点の星5つである。一見したところ、これはとても『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』に対するレビューであるという風には見えない。おそらく投稿者がレビューをする商品を間違えたか、Amazon側の何らかのシステムの乱れによって別の商品のレビューがこのページに反映されているのだろう。

 だが、本当にそうだろうか。このレビューは本当に、単なる手違いによって誤って投稿されたものなのか。いくら安物であるとはいえ、買ったばかりですぐに支障をきたすような商品に、満点をつけるだろうか。投稿者は「全然乱暴に使っていなかった」とはっきり述べており、故障の原因が使用の仕方ではなく商品の方にあると意識している。それにも関わらず星5つは不自然ではないだろうか。実はこれは誤って投稿されたレコーダーの評価なのではなくて、投稿者は明確な意図を持って、この詩集に対してこのレビューを投稿したのではないか。

 以下、考察を進める前に、『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』(2017年)に収められている、ダダやシュルレアリスムの詩がどのようなものであったのか、簡単に確認してみよう。ダダもシュルレアリスムも共に、後年になって美術史家によって便宜的に名付けられた様式概念によって初めて括られるものではなく、当事者によって名付けられた、自覚的な芸術運動であった。

 ダダは1916年にチューリッヒの文芸カフェ、キャヴァレー・ヴォルテールにたむろする若者たちによって始められたが、このグループで中心的な役割を果たすことになったトリスタン・ツァラが、1918年にダダの行動原理や目的意識を表明する『ダダ宣言1918』を発表した。「宣言を発表するには、A・B・Cに拠って1・2・3を電撃しなければならない(1)」というゴツゴツした書き出しで始まるこの宣言は、その文中の「ダダは何も意味しない」というフレーズがスローガンとして流布したことからもわかる通り、無意味なフレーズの羅列などを通して、「言語の意味作用を破壊することをめざした(2)」ものであった。

 シュルレアリスム運動の創始者であり、理論的な指導者であるアンドレ・ブルトンは、1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムに明確な定義を与えている。彼の定義を全文引用する。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。(3)」つまり、シュルレアリスムは、例えば自動記述など、ある特殊な口述、記述、その他の方法を用いることで、無意識の領域を表現することを目指す芸術運動であった。後年のシュルレアリスム運動は共産主義に接近し空中分解していったとされることが多いが、無意識という回路を経由することで、語と語の間、イメージとイメージの間にある階級的な繋がりを飛び越え、新たに結び合わせることを目指したという点で、その始めから階級闘争的な性格を持ったものであったと考えられる。

 以上はごく簡単な素描ではあるが、ダダとシュルレアリスムは、2つの世界大戦の間の、混迷を極めた近代ヨーロッパにおいて勃興した理念的な芸術運動であり、前者では無意味による意味の破壊、後者では無意識の表現による価値の転倒が目指された。さて、これらの前提を踏まえて、最初のレビューを見直してみよう。果たしてこれは、本当に単純なミスの産物なのか?

 詩集に対して何ら関係のない精密機械のレビューをつけること、これは明らかに無意味である。しかしその無意味なレビューを付けられているのが、他ならぬ『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』であるという点が、事態を複雑にしている。トリスタン・ツァラの言葉を思い出してみよう。「ダダは何も意味しない」。このレビューは、この詩集の内容について何一つ述べていない。その意味で当然このレビューは無意味である。何も意味しないことを志向したダダの詩が収められた本書に対して、何らの実効的な意味を持たないレビューを投稿することは、ダダの実践に他ならないのではないか?

 つまり、このレビューはひょっとすると手違いではなく、この詩集を何度も読み返し深く感化された投稿者が、意図的にダダの技法を実践しているのかもしれないという可能性が、否定しきれずに残る。無意味なレビューを投稿しているという理由だけで、これがダダ的な実践であると断定するのは早計に過ぎるかもしれない。だがしかし、それだけではないのである。このレビューは、単純にダダの真似事をしているだけではなく、シュルレアリスムの技法の一つである「デペイズマン」の実践であるという風にも読み取ることができる。巖谷國士は『シュルレアリスムとは何か』の中で、デペイズマンに対して以下のような説明をしている。

「デペイズマン(dépaysement)」はいま日本語としても一部で使われていますが、動詞ならば「デペイゼ( dépayser)」──この場合の「デ( dé)」は分離・剥奪をあらわす接頭語で、「ペイ(pay)」は「国、故郷」ですから、ある国から引きはなして他の国へ追放するというのがもとの意味で、要するに、本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所にないものを出会わせて異和を生じさせることをいいます

巖谷國士シュルレアリスムとは何か』、2002年、筑摩書房、p.84

 デペイズマンの典型的な例として、マルセル・デュシャンの『泉』がよく挙げられる。男性用の小便器を泉に見立て、美術展に出品した作品であるが、これは芸術品を展示する美術館という場所に便器を持ち込むことで異和を生じさせたものである。同時にこの作品は作者とは何か、芸術とは何か、という18世紀の「芸術」概念の誕生以来、前提として素朴に信奉されてきた神話を揺るがす根源的な問いをもたらしたものでもあるが、本筋からは逸れるためここでは割愛する。

 互いに隔たった現実のイメージが接近するとき、「両者の関係が遠く、しかも適切であるほど、イメージはいっそう強まり、いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになるだろう(4)」というピエール・ルヴェルディの言葉を、ブルトンは共感を込めて引用している。また、デペイズマンの効果をよく引き出した例として、ロートレアモンの『マルドロールの歌』の第六歌の中の一節、「そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出合いのように、彼は美しい!(5)」が挙げられることも多い。

 さて、問題にしていたレビューは、詩集に対する感想とは到底思えないものであったが、これらの概念を踏まえて見直してみると、どうであろうか。詩集のレビューに、廉価なレコーダーの使用感を詳細に述べたものを投稿する。当該のレコーダーの商品ページに掲載されるべき文章が、『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』の感想として投稿されている。これは紛れもなく「本来の環境から別のところへ移す」ことで異和を生じさせる「デペイズマン」の技法である。『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』の商品ページに、シュルレアリスムのデペイズマンの技法を駆使し、ダダ的な意味の破壊を試みたレビューが投稿されるのが、はたして偶然なのだろうか。

 ここで敢えて、偶然ではなく確固たる意志を持ってこのレビューは投稿された、という仮定に立ってもう一度読み直してみると、この文章は言外の意味を浮かび上がらせてくるのではないか。「YAMAHAのMOXF6で楽曲を完成させて、/このレコーダーに録音しています」。MOFX6とはシンセサイザーなのだろう。文脈からして、「このレコーダー」が『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』を表しているのは明らかである。詩集がレコーダーであるとはどのような意味であるか?おそらく、詩集の中の言葉が、投稿者の心中にあるメロディを喚び起こすのだろう。だから詩集の同じページを開くたびに、投稿者は常に同じ旋律に出会うのだ。電源も要らず、時の流れにも耐えるこのレコーダーは「使いやすい」と彼は言う。続く文章は難解である。「最後の段階で、イコライザーが調節できますが、/lowとhighの二つしかありません」。しかし丁寧に読み解いていけば、次第に意味が明らかになってくる。まずイコライザーとは、周波数の特性を補正する装置であり、音を平らに均すためのものである。当然、レコーダーというのは詩集のことであるのでこのイコライザーも比喩として読まなければならない。イコライザーにlowとhighの2つしかないというのがこのレコーダー(詩集)の特徴であるが、これは極端から極端へと振れやすく、無意味による意味の破壊を追求した果てについには自己破壊にまで至ることがあらかじめ宿命付けられていたダダの特性を隠喩的に表現したものであると思われる。続いて、「ですが、それはキーボード側で楽曲を作るときに
調整すればいい話」であるとして、欠点とはみなしていない。ここが重要である。彼は、ダダがその始めから胚胎していた致命的な欠点を鋭く指摘しながらも、それは「キーボード側(投稿者)」で調整すればいい、と受け止めている。つまり、彼はダダが形骸化した、とうに死に絶えた運動であるとは考えていない。適切な調整さえすれば、今日でも十分に通用するものであるというふうに捉えていることが伺える。事実、彼はこのレビューをダダ的な実践として投稿しているのであるから、彼の思想と行動は直接的に結びつき、一貫している。「実は買ってまもなくして、/インプットの片側の音量が小さくなるトラブルがありました。/それはツマミを上か下に押せば(回すのではなく)一時的に直りましたが、/毎回そうするのも大変なので、二台目を買いました」は、一見複雑なように見えるが、インプットの片側の音量が小さくなるというのは、詩を読んでも鮮烈なイメージや詩的な興奮がもはや主体の側に沸き起こらなくなったという意味であり、終始支離滅裂で、その意味では一本調子とも言えるダダイズムの詩に、彼は読み始めてすぐに退屈を覚え始めたのではないか。「ツマミを上か下に押す」でのツマミは、レコーダー(詩集)についているものであろう。詩集のツマミを上か下に押すとはどういうことであろうか。わざわざ(回すのではなく)という但し書きがついている。これは推測に過ぎないかもしれないが、ツマミを上か下に押す、とは詩作品を読む際に上下の一部を指で隠す、ということではないだろうか。全体を一息に読もうとすると支離滅裂で、上滑りしてしまうが、語を前後の文脈から切り離して眺めてみると、アクロバティックな比喩や、奇天烈な造語に、修辞上の面白さを感じるようになる(「一時的に直る」)のだろう。そして「二台目を買いました」というのは、投稿者の関心が次第にダダの後に続いたシュルレアリスムの詩の方に移っていったことを示している。そして最終連では「音量が小さくなった原因はわかりません。/全然乱暴に使っていなかったのですが。/ただ他の人のコメントには、そういうことは書いてないので、本当に/偶発的な故障だったのでしょう」という言葉で締められている。ここで注目すべきは三行目の「他の人のコメントには、そういうことは書いてない」という記述である。この記事を書いている2021年6月28日現在、この詩集に投稿されているレビューはこの1件だけである。他の人のコメントはどこにも見当たらない。ここで作者はこの詩集が大きな反響を呼んでいないことをユーモラスに皮肉っているのであり、自身でダダ・シュルレアリスム的な実践をしながら、ダダやシュルレアリスムを単なる過去の一時期の芸術運動として片付けがちな私達を挑発しているのである。彼はダダやシュルレアリスムの終焉をあくまで「偶発的な故障」であったと解釈し、このレビューを投稿することでダダやシュルレアリスムの実践を現代に蘇らせようとしている。詩集の発売から3年後の2020年までの間に、彼は幾度もこの詩集を読み返し、ダダやシュルレアリスムの技法を学び、自身の血肉としながら、活発な議論を呼ばない現状を憂い、奮起し、自らこれらの技法を踏まえた生きた実践をしてみせることで、我々を挑発し、破壊的な運動へと誘っているのである。事実、このレビューはAmazonの商品レビューというフラットな言説空間に異和をもたらし、印象的な裂け目を形成している。その破れ目からダダイストたちの立てる嬌声・騒音が聞こえてくるようである。いま、彼によって先鞭はつけられた。シュルレアリスムは死んでいないと信じるすべての人々は、彼に続くべきである。

 

 

(1)トリスタン・ツァラ著、浜田明訳『トリスタン・ツァラの仕事I───批評』、1988年、思潮社、p.14

(2)塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』、2003年、筑摩書房、p.87

(3)アンドレ・ブルトン著、巖谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』1992年、岩波書店、p.46

(4)同書、p.37

(5)ロートレアモン著、前川嘉男訳『マルドロールの歌』、1991年、集英社、p.262