アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 鶏頭、鶏頭、俺はもう気が狂ひさうだ。という文章が北原白秋の歌集『桐の花』の中の散文「ふさぎの虫」に出てくる。これは白秋が人妻との姦通罪で拘置所にぶち込まれて世間的な評判も失墜してやぶれかぶれになっている頃に書かれた文章で、暑い夏の日に縁側で裸に近い格好で汗をかきながら、己の身の上を嘆くといった内容であるが、転んでもただでは起きぬところがあるというか、極端にナルシスティックなところのある白秋の手にかかってはそれは悔恨という言葉には収まりのつかない激しさがのたうつものになっている。暑くて長い夏の日に俺のような天才がなぜこんな目に、といったようなことをグダグダ考えながら庭に目をやると鶏頭のグロテスクなほどに真っ赤な花がいやに目につく。傍らには剃刀が置いてありそれが時折不気味な光を放ったり、赤錆びた顔を写したりする、というような調子だったと思う。剃刀は当然血を連想させたりもする。赤色がやけにぎらぎらしているのが読んでいて目につく。白秋の作品には時折顔を覗かせる暗闇のようなものがあって、それが妙に冷ややかな印象を与えたりする。

 こんなことを思い出すのはさっき商店街を歩いていたら花屋の店先に鶏頭の切り花が並んでいたからで、北原白秋はかつては国民詩人なんて担がれていたが、今の目で見るとどうしたって近代の詩人で、現代詩の人々からは軽視されている。しかし白秋がいなければ朔太郎もいなかったかもしれず、そうなると現代詩は今とはまるで違ったものになっていただろうと思われる。飯島耕一が著書『萩原朔太郎 I』の中で、白秋の立ち位置はブルトンらから見たアポリネールのようなものだ、と言っていて嬉しくなった。アポリネール自身は今振り返って特別新しいとか見るべきところのある存在だとみなされることは少ないが、アポリネール無くしてはシュルレアリスムは生まれなかった。

 また白秋の詩には、時期によって作風が変わるので一概には言えないが、『邪宗門』などの比較的初期の詩には色濃く高原英理の言うゴシック的なところがあり、それがいま読むと僕なんかには新鮮に思える。ゴシック的なところがあるのは白秋の下から出てきた大手拓次なんかもそうで、あとは日夏耿之介なんかもそういうところがある。当時の流行りの一つだったのかもしれない。これは関係あるかないかわからないがブルトンにも古城とか幽霊とかを好むゴシック趣味があった。

 

 最近本を買うとき梅田まで出てジュンク堂で買い物をすることが多いんだけど、でかすぎる本屋というのはあまり楽しくない。本屋は棚を隅から隅までじっくり眺めることができるくらいの大きさの方が楽しい。その店独自のフィルターというか、どうしてこの本が置いてあるのか、わかるような棚作りになっているとなお良い。そのような本屋が近くに一つでもあると、この本を読んだから次はこの本、というような興味がうまい具合に持続していく。そのような本屋がないと自前でそういうものを当たりをつけて見つけ出していかなければならないので、大変ということもないが、それがまた楽しみの一つでないこともないが、いい感じの本屋がフラッと寄れる近所にあればなあと思うこともある。そこに行けばちょうど今読みたかった本が見つかるといったような本屋があればいい。もっとも最近は小島信夫ばかり読んでいてそれが面白すぎて他のものはあまり読めない状態なので向こう2ヶ月くらいはひたすら小島信夫を読むだろう。