アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

コンビーフをご馳走だと思う気持ち

深夜に起きていると、そして眠れそうにないと、個人差はあるでしょうが、気持ちが荒ぶってきますね。ネガティブな想念も、ひょっこりとかわいい顔を出したりしますね。しかしネガティブな気持ちや言説は一般的に、唾棄すべきものとされています。なんででしょうか。ネガティブなものには市場価値があまりない。それだけのことだと思います。なぜなら、ネガティブな気持ちや出来事は、お金や時間を使わなくても、無料でいくらでも向こうからやってくるからです。みんな結構、倹約家なんですね。ドラッグムービーよりも、ミュージカル映画の方が人気があります。
本当は、恥も外聞もかなぐり捨てて、もっと身も蓋もないくちゃくちゃの言葉を描き殴りたい気分になるときもあるのだけど、僕の中にあるなけなしの社会性が、腹の底から”No”と叫ぶのでいつもそれができずにいます。
なので今日はウォーミングアップとして、朝ごはんの前にさらっと読める程度の身も蓋もない話をしたいと思います。ネガティブにはネガティブなりの、ポジティブなライフハックがあるのです。みたいな話です。
 
「今日は楽しかった。また明日から頑張ろう。」とかなんとか言う人がいます。結構な数います。僕にはこの思考回路が全くわかりません。不可解と言ってもいいでしょう。一文目と二文目との間に、天の川ほどの大きさの論理の飛躍があるように感じるのです。
僕の場合、今日が楽しかったのならば明日はつらいです。なぜなら、楽しい出来事によって、それまでは辛うじて生活とマッチしていたチューニングが崩れてしまうからです。楽しいことだけして生きていきたいと思いながら毎日を過ごせば、つらいことをつらく感じます。人生はつらい、と思っていれば、つらいことは想定の範囲内、黒い雲から雨が降る、またはコロッケはおいしいということ、ジョー・コッカーは痙攣しながら歌を歌うという事実、と同じくらい当たり前のことだとして受け止めることができます。なので僕は基本的には”生きることはつらいモード”に合わせてチューニングをしています。つらいことがあってもへっちゃら、綺麗な夕焼けなんかが見れた日にはスーパーラッキーです。昨日は牛肉屋さんを見かけました。牛肉だけを売って、お金をもらって、息をして生きている人間がこの世にいる。そのことがなんとなくうれしく思いました。牛肉屋さんの憂鬱。牛肉屋さんが見つけた星座。牛肉屋さんの娘。なんだかいい感じがします。これが僕なりの処世術、サバイブ術なのですが、残念ながら穴ぼこだらけのいびつな代物で、その108ある弱点の一つが、楽しいことです。とんでもなく楽しい、非の打ち所のない完璧な夜を一度過ごしてしまうと、前提となっている”人生はつらい”というテーゼが覆ってしまいます。あれ、今日はつらくなかったぞ、人生、いいこともあるのでは。と思ってしまったが最後、細い針の先で日向ぼっこをしていた僕の心の平穏は、あっけなく地面に落っこちてしまいます。そうなるともう、生きているだけで泣けてくる、生まれたての赤ん坊さながらのナイーブな感受性がむき出しになって、ひとの世にはびこる悪意、はかなさ、社会の矛盾、人生における現在地及びそれに伴う焦燥感、等々を最高にキレキレの高感度でビシバシ受信してしまって、メンタルが乱気流に突入してしまいます。まことに厄介な星の下に生まれてしまったことよなあ。なんて雅な口調でつぶやいてみても仕方がありません。詠嘆は役に立ちません。
なぜ僕がこのようなひねくれた生活態度を身につけるに至ったかというと、それは時代錯誤的な、僕の求道心、敬虔さに由来します。格好良く言うと知的好奇心です。カフカが、もしかしたら真理というものは悪臭を放ち誰もが目を背けたくなるような代物かもしれない、みたいなことをどこかで書いていたのですが、それでもいいから真理を知りたい、そんな感じです。人生を人生として生きたいというか、もしも生きることが灰色ならば、灰色の景色を眺めていたいし、灰色の人生を送りたい。そんな感じです。コンビーフをご馳走だと思う気持ち、それを忘れなければ、僕は生きていけるのではないかと思うのです。以上、身も蓋もない話でした。社会にあてもなく媚の叩き売りをしていると、こういうネガティブ、反社会的な文章を書きたい気持ちになるのです。内容とは裏腹に、書くと頭がすっきりして、元気がモリモリ湧いてきます。それでは、あらあらかしこ。