自分の好きは自分で決める?
岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。著者なりのオタク観や、世間から見たオタクのイメージの変遷、オタクの定義や特徴の移り変わり、オタクの世代論なんかが盛り込まれていて、面白かった。
この本の中で、オタクとは「自分の好きなものを自分で決める」人たちのことだ、と言っている箇所があって、それがなんとなく心に残った。
僕は昔から、自分の好きなものとみんなが好むもの、もしくはみんなの好きなもののなさ、との間にギャップを感じることが多かったんだけど、かと言って当時オタク的とされていたもの、深夜アニメとかニコニコ動画とか、が好きだったわけでもなかったから、ずっとよくわからない違和感を感じてた。そのズレの原因が、「自分の好きなものを自分で決める」姿勢にあったことに、この本を読んで気づいた。
最近、ずっと趣味が合いそうだなっと思ってた人たちと実際に会って話す機会が何度かあったんだけど、いざ話してみると、当たり前だけど、すごくしっくり話が合う部分もあれば、全く噛み合わない部分もあった。それでがっかりするなんてことはもちろんなくて、オススメされた読んだことのない本は読んでみたいと思ったし、単純に話ができて嬉しかった。多分この感じは、お互いに「自分の好きなものを自分で決めてきた」っていう共通のバックグラウンドがあって、それをなんとなく感じ取ってたからだと思う。
振り返ってみると、自分が好きな人たち、友達とか、先輩とか、家族とか、好きな作家や映画監督に至るまで、僕の周りを囲んでいるのはみんな、好きを自分で決めてきた人たちだなあ、と思う。
たまに人から、自分があるねとか、変な人とか言われて、僕は割と人の顔色を伺うし自覚がないから戸惑ったことが何度かあったんだけど、きっとそれも僕が僕の好きなものを自分で決めていることに対して向けられた言葉だったんだろうと今になって思う。好きを自分で決めるって、当たり前のことだと思ってたけど、実はそんなに当たり前じゃないのかもしれない。やっぱり当たり前なのかもしれない。わからないけど。
22歳の今現在、かつてないくらい「普通」だとか大文字の「社会」だとか「こうあるべき」が重力を強めてきているけれど、これからも自分の好きは自分で決めて守っていきたい。それがいいとか悪いとかじゃなくて、きっともうそういう生き方しかできないんだろうなあと思う。
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める/兵庫ユカすきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る/兵庫ユカ
世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。
川上未映子『オモロマンティック・ボム!』「2月、飛躍するチョコレート」