たたみかた
今日はお休み。来月から休みを増やすことにした。派遣社員という立場はそのへんの融通がきく。会社からの諸々の保証がないのだから、こちらから会社への責任も軽い、ということだろうか。四月までのロスタイムを本を読んだりして過ごしたい。
休みの日には本が読める。仕事がある日は本があまり読めない。というのは正確ではなくて、仕事がある日は本を読んでも仕事をするしかない。本を読むということは自分を開く行為でもあるわけで、仕事がある日の僕は自分のなけなしの社会性を維持するのに必死なので、こじ開けようにも開かない。働く自分を肯定することに必死なので、何やら新しい展望とか考え方とか、ペシミスティックな本音とかに付き合っている余裕がない。
休みの日にはするする読める。ページを繰りながら考えることができる。検討することができる、吟味することができる。正直肯んじがたいような考えの含まれる文章でも、文句をつけながら読むことができる。ショッキングな事実や、目を背けたいような現状について、思いをめぐらそうとすることができる。言葉の世界に沈み込むこともできる。
今はアタシ社の『たたみかた 男らしさ女らしさ特集』を読んでいる。一ヶ月くらい前に買って、まえがきが最高だと思って、最初の記事を読んでいたらげんなりしてしまって、放っておいたんだけど読み始めたらするする読める。怒り、固有の私、別個と同体。だけどまだそれについて何かが書けるほど整理されているわけじゃないので適当なことは書かないでおく。まだ途中だからわからないけど、このようなテーマを掲げながら、性はグラデーション、という観点がまったく出てこないことに驚いた。つまりこれはフェミニズムの本ではないのだろう。ジェンダーとか男/女らしさについて語るには、フェミニズムを避けては通れないと思い込んでいたけれど、この本ではフェミニズムを経由せずに男らしさ・女らしさについて考えようとしている。その姿勢にまず驚かされたというか、目を開かされる思いがした。念のために言っておくとこれはフェミニズムの是非について話しているのではなくて、性を語る際に別のやり方もあるのだということに感心したという話です。
そのフェミニズムに拠らずに性を語るやり方というのは、性に負わされた社会的な役割がどうこうとか、そういうことに焦点を当てるのではなくて(それも大切なことだけど)、男らしさ/女らしさをまず何よりも差異・隔たり・分断として捉えて、それを個人個人の分かり合えなさ、それぞれのひとりぼっちの孤独に接続しながら話し合っていく。つまりこの特集はそもそものはじめからジェンダーというよりもコミュニケーションの話をしているんだと思った。分断を明らかにしていくのではなく、はじめから接続を目指している。一人一人がそれぞれ別個の存在であるという事実と、そこから生じる根本的なコミュニケーションの不可能性をきちんと認識しながら、どのような対話の可能性が広がっていくのか、あるいはここからどうやって「らしさ」の話に戻るのか?楽しみにしながら読んでいく。
めめんともり?
よく生老病死のことを考える。この世の四苦八苦のことを考える。それは伊藤比呂美の最近の著作をいくつか読んでいたからかもしれないし、昭和一桁生まれのご老体を日常的に目にする職場で働いているかもしれない。気がついたらフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』とか、ジム・クレイスの『死んでいる』とか、死をテーマにしている本を手にとって読んでいる。前者は死んでいく主体の視点で書かれた、いくらか幻想的な、そしてラテンの香りがする小説で、後者は死んでいく客体、動物学者の夫婦の腐敗し分解されてゆく過程や、そこに至るまでのあまりドラマチックとは言えない人生や、彼らがすれ違ってきた死、そして娘が彼らの死を知り、受け止める物語が描かれる。ジム・クレイスは徹底的な無神論者で、この小説は無心論者はどのように死を捉えるのか、そこに虚無以外の何物かを見出すことはできるのか、という試みであると思えた。その即物的というのか、唯物論的というのか、ある意味では冷徹とも言える淡々と距離を置いた描写や、粛々と行われる自然の浄化作用の様をひたすら追っていくうちに、この語り口それ自体が、一つの答えとまでは言えないまでも、一つの受け止め方を示唆するものであるし、この小説、この試みがすでに、一つの弔いになっているのではないかという印象を受けた。死後や救済といったものを持ち出さずに、死者を弔うには、やはり語るということ、夜通し語りつつ悼むこと、残された記憶をとっておくこと、少なくとも残された者たちが生きているうちは、なかったことにしないこと、それぐらいしかできないのかもしれない。自然のサイクルの中で一人の人間の死を捉えるのでは、それはあまりにちっぽけで、取るに足らない出来事で、納得はできるかもしれないが慰めにはならないと感じる。人間の死にはやはり人間的な対処をするべきではないかと思ってしまう。人間的だなんていうよくわからない言葉を使ってしまった。
そもそも死が、考えるに値するものなのかどうか、疑わしいと思うところもある。それはただの厳然たる事実、当然の結果なのであって、考えたところで何が変わるわけでもない、いくら思いを巡らしたところで想像の域を出ることはない、と言えるかもしれない。死ぬ瞬間、私は死んでいるのだから、それを知覚する意識はないのだから、私の意識は死ぬことはない、みたいなことを昔のギリシアの人が言っていたっけ。そうであるならば死のことを考えても仕方がない、死は考えるに値しないということになるかといえばやはりそうではない。生きている限り必ず死ぬわけで、死は虚無以外の何物でもないとするならば、それに連なる生も虚しいものになってしまわないか。もちろん生は虚しいと嘯いてみせることは簡単だが、心底そう思いながら生活していくことはできない。虚しいもののために苦しい思いをして日をつないでいこうなどと思う方が頭がおかしいと思う。
死に対して我々ができることが、語ることであるとするのが『死んでいる』ならば、生きることは語ることだとするのがジャネット・ウィンターソンの『灯台守の話』で僕はこれをとても明るい気持ちで読んだ。物語を読むことによる、あるいは物語ることによる救い、と言ってしまえば陳腐かもしれないが、陳腐でもなんでも物語にはやはり救いという側面はある。光を当てられるだけで、掬い取られるだけで、救われる思いがする時がある。十代の頃、自分の気持ちを言い当てられたかのような文章を読んだ時のあの気持ちは、救いと言っても大げさではないものだったと思える。ケアの分野でもナラティブ・ケアという考え方がある。僕はまだ詳しくないので今年中にでも関連書籍を読もうと思う。そういえば伊藤比呂美も、語りのスタイルで詩を多く書いている。それは救いとはまた別のものだけど、草いきれのような、夥しいような感じのする、強烈な生の充満を感じさせるものだった。『河原荒草』がすごいので読んだほうがいいです。」
死後の電話であなたのために歌うとき声は水面を羽ばたく水鳥
電話の声は死後に似ていておもいだすとき声はいつでも鳥に似ていて
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
大森静佳『手のひらを燃やす』
音楽
最近は毎日工事の音がうるさくて、正確なことはわからないがドリルやらトンカチのような音がひっきりなしに鳴り響いてきて、神経がカリカリしてくるので耳コピした。勢い良く振り下ろされるトンカチの音はミ、徐々に高まっていくドリルの音はド#からレを経由してミになる。だから賑やかになってくるとキーをEとして捉えてセッションしていた。そうやって一度乗りこなしてしまえば、半分は自分が鳴らしていると思うと悪い気はしなくなって、作業がひと段落したのか静かになってしまうと逆にちょっと寂しく思った。街でうるさい若者の集団の近くにいると身が縮こまる思いがするが、自分が友達と喋りながら練り歩いている時は一緒にいる友達や自分の話し声がうるさいとは思わない。もしくはスタジオに入って音を合わせている時にドラムやベースの音が耳障りだと思わないのと一緒で、自分も当事者になるというか、参加してしまえばあまり気にならなくなる。自分に関係がないのに、騒音の被害を被っているからムカムカしてくるのであって、一方的な思い込みであっても、何らかの関係を取り結んでしまえばちょっとした情が湧いてくる。
小笠原鳥類に
この前京都に行ったときに三月書房に寄って、目当ての本が売り切れちゃっていたので何の気なしに手に取ったのが小笠原鳥類の『鳥類学フィールドノート』。小笠原鳥類の名前は知っていたしちらっと読んだことはあったけど前衛っぽい感じが鼻について好きじゃなかった。だけどこれをパラパラ立ち読みしてみたらすごく良くて、すぐにレジに運んで有り金を叩いて買った。帰り道に調べてみるとこれは小笠原鳥類の今年出たばかりの最新詩集で、とても安全で安心、安全で、安心ということだった。これですっかりハマって既刊の読める詩はだいたい読んだけど、この『鳥類学フィールドノート』がいちばん詩集全体のまとまりがあって、一編が短く、そして胸いっぱいの音楽なので小笠原鳥類の入門書として最適だと思う。シュルレアリスティックなとっつきにくさもだいぶ薄まっているし、円熟したというか、渋みを増したというか、凄みがあるというか、余裕を感じるというか、どれもあまりそぐわない形容だけど、とにかくこの詩集からは書くものすべてが詩になってしまうような神懸かり的な何かを感じる。ピカソの晩年の絵画のような軽みと音楽がある。
小笠原鳥類の詩は数限りない生き物たちが泳ぐ水槽、あるいは色とりどりの図鑑のようで、そこに切り取られたたくさんの名前や色彩、体の模様、描かれる曲線を眺めているだけでもうっとりするが、声に出してみると素晴らしい音楽だ。「水槽の熱帯魚から 離れられなくなっていた」とスピッツがデビュー曲で歌っていたが、僕は小笠原鳥類の詩から離れられなくなった。図鑑の中にお気に入りの生き物を探すように、詩の中に素晴らしい音楽を聴きつける。無意識を海になぞらえる比喩があるが、とすれば魚は夢であり、彼の詩の中では魚は音楽でもある。
小笠原鳥類の詩が音楽だというのは、例えばパウル・クレーの絵画が音楽的だと言われるのと同じ意味で音楽だ。そこには色彩のリズムがある。
衝動的に買ってよかった。ちなみにYouTubeで小笠原鳥類と検索すると地下アイドル?が小笠原鳥類の書き下ろしの詩を朗読するミュージックビデオが上がっていてそれもとても安全で安心で最高なのでひまな人や小笠原鳥類が好きな人やアイドルならみんな好きって人は見てみてください。
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slintに
まず2ndのジャケットの写真が大好きで、この前ふとそのことを思い出したからツイッターのアイコンをこれに変えた。ポストロックの元祖とか色々言われてるらしいけどそのジャンルには明るくないので、歴史とか影響とか位置付けについてはよくわからない。
蛇のように冷ややかな手触りで刻々と形やニュアンスを変えるギターがとにかくよくて、聴いているうちに徐々に呑み込まれていくようで気がついたらクセになっている。
モグワイとかの後世のバンドにも受け継がれているような、極端な静と動のコントラストや、法則性のよくわからない変拍子が聴いてて飽きない。寄せては返す波のようだと言えるかもしれないが、それは足元をそよそよとやさしく洗うような種類のものではなくて、気がついたら元いた場所から遠く流されているような、大きな蜘蛛に巣の上でこねくり回されているような変幻自在なバンドサウンドがとにかく気持ち良い。なにか揺れるものがある。
PILみたいな金属質なギターの音とか、バスドラの音とか、音のひとつひとつも気持ちいいけどそれらがすべてうまく噛み合って絡み合っていてとても良い。全体としては音数は少なくて、不快ではない緊張感が保たれているし、ノイズが鳴っていてもうるさくない。とにかく良い。良いなあこれ。
ちょっと調べたらもともとはスティーヴ・アルビニがプロデュースしてたバンドらしくてなにかと合点がいきました。PixiesとかCloud Nothingsとか好きな人は好きなのかな。
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カルテット観ました
遅ればせながらドラマの『カルテット』をみました。晴れて期限付き無職となったので、これまで観ようと思っていたけれどずるずると観ないままになっていたドラマや映画を観ていこうと思っていて、その一環です。これまで僕が観た最新のドラマはずっと『最高の離婚』で止まっていたのですが『カルテット』になりました。次はシャーロックを観ようと思っています。
最初に言っておきますがネタバレとか気にせず感想を書くので、僕のように観よう観ようと思いつつも未だに観ていないという人がいたら読まない方がいいかもしれません。
久しぶりに観終わるのが寂しいドラマに出会ったというか、毎回毎回ここ好き!ポイントがありすぎて自分を抑えるのがたいへんでした。なによりキャストと脚本がいい。キャスティングで一番好きなのがサンドウィッチマンの冨澤で、脇役だけど出てくるだけでニヤニヤしてしまう絶妙な配役だった。あとは単純に満島ひかりの顔面が昔からすごく好きなので嬉しかった。お茶を淹れる松田龍平も可愛いし、高橋一生も最高にあざといし、松たか子の目で語る演技も良かった。
坂元裕二の脚本の良さは、例えばnaverまとめに載るような、深いい感じの名言とか、誰もが一度は飲み込んだことのあるような、うまく言葉にならない、どうでもいい思いをすくい上げるようなあるある系の小ネタの数々とか、なんでもない会話やモチーフが伏線になってたりする巧みな筋運びとか、いろいろあるんだけど、一番の魅力はいい意味での不親切さだと思う。全てを台詞で説明するんではなくて、ちょっとした挙動とか、表情や視線で表現する。視聴者があれこれ想像出来る余白やさりげない対比や伏線がふんだんにある。ドラマに限らず映画でも漫画でも文章でもバラエティ番組でも、「わかりやすさ」が称揚されがちな現状において、そういう読み込む楽しさがある作品は少なくなってきている。その点に関しては受け手のリテラシーが低下しているというより作り手の「アホな受け手」幻想が肥大化して勝手に強迫観念のようになっているんじゃないかという気がするけど。
全部で10話あって、それぞれの話にここ好き!ポイントが10個はあるので到底語りつくせないんだけど、特に好きなのが満島ひかり回の3話で、胡散臭いお父さんが高橋源一郎なのがそもそも好きなんだけど、なんといってもやっぱり蕎麦屋のシーンが良い。蕎麦屋に入って躊躇なくカツ丼を頼むすずめちゃんに合わせて「カツ丼二つ」と注文をするマキさんの気遣いがあるからこそ、その後の「髪の毛から同じ匂いして/同じお皿使って/おんなじコップ使って/パンツだってなんだって/シャツだってまとめて一緒に洗濯物に放り込んでるじゃないですか/そういうのでも いいじゃないですか」という台詞が何倍にも輝くのだし、お父さんが死にかけているから「病院に行こう」と説得しようとするマキさんに対してすずめちゃんが絞り出す「怒られるかな…ダメかな/家族だから行かなきゃダメかな/行かなきゃ…」という一連の台詞の中の「怒られるかな」の部分がすごくて、「怒られるかな」という台詞はすずめちゃんからしか出てこない。お母さんはとっくの昔に亡くなっていて、お父さんが死にかけているというのに、それに駆けつけなかったからと言って誰に怒られるというのだろう。すずめちゃんの口から咄嗟に「怒られるかな」という台詞が出てくるのは、誰に、というのは問題ではなく、彼女が子供の頃にインチキ魔法少女として過去に汚名を背負う羽目になり、誰とも知れない不特定多数の第三者から強烈なバッシングを受け続けたからであり、表面上では笑ってやり過ごしていても、やはりそのことに深く深く傷ついていて、その傷は未だにちっとも癒えてはいないということがこの「怒られるかな」からありありと伝わってきて、とてもつらい気持ちになった。そんないじらしい姿を見せられたら誰だって「いいよいいよ」って言うよなあという説得力があった。
こんな調子で語りたくなるポイントが少なめに見積もってもあと99個はあって、つくづくすごいドラマだと思う。これはリアルタイムで、ほかの人とああでもないこうでもないと意見を交わしながら観ていたかったなと思う。
味覚の積み重ね
この前初めてイチジクを食べた。僕は小さい頃からフルーツが嫌いで、バナナ以外は食べられなかった。今でも好んで食べるのはバナナとみかんくらいで、ほかのものはほとんど食べたことがないから好きか嫌いかもよくわからない。食わず嫌いをしている。正確に言うと過去形で、食わず嫌いをしていた。今では食べる機会があれば食べてみようという気になっているけれど、知らない味、食べられるかどうかわからない味のものを自分から積極的に買ったりはしないので結局のところあまり果物は食べない。だけど最近は実家暮らしで両親がたまに果物を買ってきてくれるのでそれを食べてみたりする。この前イチジクをちょっと食べて、その前はスイカをちょっと食べた。ブドウも買ってきてくれていたがなんとなく気乗りしなかったので見送った。
食べ物の好き嫌いがあるのは良くない。特にフルーツ全般がダメだというと、栄養が偏っていきそうな気がする。それに何かのめでたい機会にケーキ屋さんに行っても、ケースいっぱいに色とりどりのケーキがあるのにフルーツが食べられないとガトーショコラかチーズケーキの二択になってしまう。それには前々から寂しさというか味気なさを感じていた。
僕は味覚というのは積み重ねだと思っていて、一概には言えないけれど、食べなれてる味はおいしくて、食べたことのない味、知らない味を初めて食べた時においしいと感じることはありえないんじゃないかと思う。もし初めて食べたものがおいしいと感じたとしたら、それはこれまでに食べたことのある好きなものに味が似ているだけなのではないかと思う。本当に初めて食べる味を、その場ですぐに食べ物だと認識できるものなんだろうか。例えばコーヒーにしても、初めからおいしいと思う人はいるのか怪しい。僕の場合は、中学生ぐらいの頃に、ブラックコーヒーが飲めたら格好良いと思って意識的に特訓したから飲めるようになったし、周りに聞いてもそういう人が多い。飲んでるうちにおいしいような気がしてくるのだ。
大人になってから美味しさがわかるようになった野菜というのもあって、例えばナスとかピーマンとかニラとかミョウガとか、子供の頃は嫌いだった。だけど大人になって、一人暮らしをして自分で料理をしているうちに、野菜の方が安いから野菜をたくさん買って食べるようになって、そうしているうちに好きになった。
味覚の好き嫌いのメカニズムというか、どうして好き嫌いができるのか、ということはまだあんまり解明されてないらしいけれど、ある程度は慣れなんじゃないかと思う。僕がどうしても食べられないというか食べたくないものはネギと生の玉ねぎなんだけど、ネギに関しては初めてそれと知らずに食べた時にマーライオンに取り憑かれたので、それが身体に染み付いてるんじゃないかと思う。トラウマになってしまった食べ物を好きになることは難しいかもしれないけど、好きでも嫌いでもない、食わず嫌いのものは、食べているうちに好きになるんじゃないかと思う。何が言いたいかというとフルーツを食べられるようになりたくて、フルーツを食べる特訓をたまにしている。
初めての味や食感に戸惑うし、知らないことにチャレンジするのは体力や気力を使うので、毎日食べたことのないフルーツに挑戦したいと思っているわけではないけど少しずつ克服していきたい。イチジクに関しては、見た目も食感も奇抜で、覚悟が必要だったけど、味自体は馴染みがないこともない味で、おいしかった。本当においしいと感じたのかどうか自信が持てないけどそういう時はおいしかったと思い込んだ方がきっといい。
モモに似た味がしたような気がする。あるいはいつかカレー屋さんで飲んだグァバジュースみたいな味がした。食感は結構グズグズで、細かい種のようなものがグラニュー糖のような歯触りだった。水分もあって、甘いんだけどどこか苦いような酸っぱいような味も混ざっていて、初めての味と言えばそうだったけれど要素に分解すれば完全に初めて食べる味や食感というわけでもないような気がした。そのようなことを喋りながらイチジクを食べていたので両親からそんなにイチジクに一喜一憂する人は初めて見たと言われた。
それで思ったんだけど、23歳にもなって、知らない味、食べたことがないものがまだまだたくさん身近にあるということは幸せなことなんじゃないかと思う。よく優れたフィクションの作品についても、記憶をなくしてもう一度味わいたいとか、これから出会える人が羨ましいとかいうけれど、みんなが大好きな果物を、これから一から味わえるというのはひょっとしたら恵まれた体験になるかもしれない。
果物を食べられるようになりたいということについてこんなにクドクドとクダを巻けることにちょっと驚いているけど、とにかく食べ続けていればそのうちおいしいと思えるようになる折り返し地点が来るはずだ。おいしいというのは食べなれている味だということだという信念を持って、これからもチャレンジし続けていきたい。いつかフルーツタルトで誕生日を祝うのだ。