倫理観と楽しみ
実家で暮らすようになってから、両親がNetflixと契約しているのでそのおこぼれをよく頂戴している。はじめにアニメの『TIGER&BUNNY』を観て、とても面白かった。詩人の川口晴美がこのアニメを好きで、これを題材にした詩集を出して賞までもらったというのを聞いて、興味が出たのがきっかけだった。その後川口晴美がタイバニについて語りまくる座談会が収録されている同人誌『稀人舎通信』を買って読んだりもした。タイバニは普通に見ても面白いけれども、腐女子と呼ばれている方々から絶大な人気を誇っていたらしく、その座談会ではそのような視点での、pixivなどでの二次創作も視野に入れた楽しみ方が紹介されていて面白かった。たしかに24話の通称チャーハン睫毛事件は、普通に見ていても衝撃的なシーンだった。バニーちゃんかわいい。
去年の暮れあたりから暇なときにVtuberの動画を見るようになって、最近はもっぱらにじさんじ所属のヴァーチャルライバー、鈴鹿詩子さんの配信のアーカイブを寝る前に見ている。というよりラジオ感覚で流しっぱなしにしたまま寝ている。それではVtuberの意味がないんじゃないかとも思うけれど、やっぱりVtuberじゃなかったら知ることも聞くこともなかったと思う。Vtuberならではの表現方法とかそういうことにはあんまり興味がなくて、アバターによって、わかりやすく可愛い外見やキャラクター性が与えられることで、それまでは顧みられることのなかったその人の声や語りの内容にスポットが当たる、ぼくはVtuberというものに対してそういう認識を持っている。つまりは何か新しい文化というふうに捉えているわけではなくて、声や語りのためのパッケージだというふうに考えているのかもしれない。
それはさておき鈴鹿詩子さんは自他共に認める古の腐女子で、腐女子という言葉自体は僕が中学生ぐらいの頃から既にあったと思うんだけど、オタクの女性版くらいに思っていて、あまり深く考えたことはなかった。斎藤環さんだったか、男はキャラクターの属性に萌えるが、女は関係性に萌えているというようなことを言っていて、もちろんこれはそんなきっぱりと境界線が引けるような話ではないし、近年のきららアニメなどの日常系の消費のされ方を見ているとますます曖昧になっていると思うけれど、腐女子というのはどうやら単なるオタクの女性ということではないらしい、何やら独特の視点やコンテンツの楽しみ方を持っているらしいということに気づいてからは興味が湧いて、ユリイカのその手の特集号やら、よしながふみさんの対談集なんかを読みふけっている。さっきちょっと名前を挙げた『稀人舎通信』にも「腐女子という生き方」という特集号があってそれも読んだ。世代差や個人差は大いにあるみたいだけれども、腐女子的なメンタリティというのはフェミニズム的な視点とも関わってくるところがあるみたいで興味深い。例えばムカつく上司に怒られた時なんかに脳内で勝手にその上司をカップリングしてほくそ笑む、みたいな話があって、これはよくあるムカつく上司なんて死んじまえとかって愚痴るのとはまったく違うストレスの発散法で、現状としては別に何も変わらないんだけど、その人の頭の中では瞬時に力関係が逆転していて、言うなれば誰も傷つくことなく上手にその場をやり過ごしていて、すごいと思った。この表向きには波風立てない、という部分が魅力的でもあるけれど、それゆえにフェミニズムとは重ならないのかなとも思う。それが悪いことでもないと思うけれど。
よしながふみの対談集『あのひととここだけのおしゃべり』は、特に三浦しをんとの対談が面白いんだけど、フェミニズムや倫理的な話題は知った者が損をする、ということになりがちだけれども、そういうことを知った上で、胸に秘めたままで、いかに周囲と不必要の摩擦や軋轢を生まずに楽しく過ごすか、とうところにベクトルが向いていて、とても頼もしい人だと思った。
最近はNetflixでよくドキュメンタリーの映像を見ていて、特に畜産による環境への悪影響を告発するキップ・アンデルセン監督の『Cowspiracy;サステイナビリティの秘密』がショッキングだった。ここ一年くらい食に関する本を幾つか読んでいたので、ぼんやりとは知っていたけれど、食肉や畜産によって引き起こされる大規模な環境汚染が、ここまで広く深いものだということは知らなかった。大気汚染や森林伐採、水不足などの環境面への被害も深刻だけど、食料自給率の観点から見ても、食肉はコストパフォーマンスが悪いというか、日本の風土というか国土の狭さはそもそも畜産向きではない。戦前までの日本人の食事というのは理にかなったものだったのだなと思うと同時に、戦後、肉や乳製品も食べましょうという政府の指示のもと、国民の栄養状態がかなり良くなって寿命が延びたことも事実なので、一言で食肉は悪と言い切ることもできない。畜産業に関わる人たちの雇用問題もあるし。かといって、こういう複雑な問題、途方も無く解決の糸口もつかめないような問題に対して、知らないふりを決め込むのもどうかと思う。
先日僕は就職が決まって、福祉・介護業界に進むことになったんだけど、そうしようと決めたのがそもそも、年々需要が高まっていくだろうという予測に対して介護業界には人手が足りないからで、人手不足の原因の一つとしてイメージが悪いというのがあって、イメージだけじゃなくて実際にも長時間労働だとか薄給だとかフォローがちゃんとなされてない現場もいくらでもあるらしいんだけど、ともかく介護業界を志す若者というのは少なくて、そのような現状の中で、介護業界に入って、潰れずにへっちゃらでなんとか楽しく暮らしていくことができたら、それだけでちょっとした社会的意義があるんじゃないかと思ったから、その道に進むことにした。他にも幾つか理由はあるんだけど、今回のお話に関連するのはそれなのでそれだけ書きました。
知らない方が良かったと思うことってたくさんあるけれど、知ってしまったから無邪気に楽しむことができなくなったと思うことはたくさんあるけれど、自分の倫理観にがんじがらめになってしまうこともあるけれど、それでも知らないよりは知っている方がマシだと信じたい。倫理と楽しみは相反しないということにしておきたい。なるべく楽しく、なるべく倫理的に、やっていけたらいいと思う。まだまだ模索しているところで、今のところ倫理にこだわると楽しくなくなっちゃうんだけど。頑張りたい。
実家暮らし
引っ越しを済ませてから、早いものでもう一週間が経とうとしている。引っ越しする直前の一週間は冷蔵庫もエアコンも扇風機もない部屋で過ごさなければならなかったのでとても長かった。人生観が変わるかと思った。
実家に戻ると、今までは当たり前のようにやっていた、生活のためにしなければいけないことが、しなくても死なないことに格下げされて、その気になれば一日中何もしなくてもよくて、エアコンは効いていて涼しいし、実家に置きっぱなしにしていた漫画を久しぶりに読み返したりしていた。
京都を離れる日が近づいてから、こんなに友達がいたのかと思うくらい遊んでくれる人が増えて楽しかった。実家に戻ってからも、早くも遊びに連れ出してくれる友達がいたり、お盆の時期の予定が埋まってきたり、飲みに行こうと誘ってくれる人がちらほらいたりして、実感としてはなんというか引っ越したら友達が増えた。
引っ越してからの数日間は、人と会う予定もなかったし、毎日バカみたいに暑いだけで何事も起きないし、話す相手と言ったら両親くらいだったので、日に日に口数が減っていたけど、こうしてかまってくれそうな人たちがいるだけで、すこし体に力が入るというか、元気になる。それはそれとして夏バテはしている。
僕は夏が好きなんだけど、今年の夏はあまり好きじゃない。暑いのは苦手じゃないけど、今年は暑すぎる。35度を超えたらそれはもう危険な暑さで、危険なものは好きじゃない。集中力も落ちるし。頭がぼんやりする。しかし思えば一年のうちの半分は頭がぼんやりしている気がする。もっとかもしれない。
何を考えているのかわからない、と人に言われたことは何度もあって、ちょっと前までは自分なりにいろいろなことを考えていたけれど、最近はあんまり考えてない。何も考えなくなってから何を考えているのかわからないとも言われなくなった。何も考えていないのがばれてしまったのだろうか。
一人暮らしではなくなって、以前ほど本を読み耽ったりインターネットをしたりしなくなったので、毎日の情報量が少なくなった。読んだ本といえば川上弘美のエッセイや細野晴臣のインタビュー集くらいで、ちっとも頭は働いていない。頭が働かなくても生きていける環境ってすごい。
久しぶりに実家の本棚を見ると高校を卒業して出て行く前と比べて様変わりしていて、読みたい本が何冊もあるのでしばらくは自分で本を買わなくてもいいかもしれない。本棚が変わったということもあるけど約4年間を通じて自分の本の趣味や興味関心が変わったということもある。色褪せた本もあるし、枯れた味わいを帯びた本もあるし、思い入れがべっとり付着して気軽に近寄れない本もある。
読書は趣味の中でコストパフォーマンスがいいのか悪いのか、わからない。もちろん一冊一冊はそんなに高くはないけど、僕は大学生活を通じて可処分所得の七割くらいを本に使ったと思う。引っ越しのときも大変だった。家電の運搬を伴わない引っ越しだったのでもしも本がなかったら車で一往復すれば済んだと思う。
音楽は、物心をついた(14才)頃から趣味の一つで、今も生きている人間関係のほとんどは音楽を通じて知りあった人たちだ。一方で本をきっかけに仲良くなった人というのは、思い当たらない。だけど本を通じて仲が深まった人はいるのでいいや。本を読むことはひとりきりだということとどこかで結びついていて、だから僕は本を好きだと思う。
今日は下鴨神社の古本市らしくて、羨ましい。古本市と御手洗祭と夏の夜の鴨川はすでに恋しくなっている。あっても頻繁には行かないけど、歩いていける距離に川があるのはやっぱりとてもこころよいことだった。
それにしても実家で暑さにかまけてだらだらしていると、無職だという実感が半端じゃない。単位を取ったら、しっかり職探しをしようと決意を新たにしました。早いところ仕事を見つけて、免許を取ったりアルバイトをして遊んだりしたい。
引っ越し
引っ越しの日が近づいてきて、そのための準備もあらかた終わった。荷物はもう運んだし、不用品の処分も今日済ませた。あとは細々したものを回収日が来たらゴミに出すだけ。ここ半月くらい、少しずつそうやって引っ越しの準備を進めていたんだけど、住み慣れて自分の身体の延長のような感覚すらしていた部屋からだんだん馴染みの品々が消えていって、日に日によそよそしくなっていくのは奇妙な気分だった。
今日、不要品回収業者さんに扇風機も持っていてもらったので、エアコンのない、暑くて何もない部屋で時間を持て余していた。フィッシュマンズの"ゆらめき IN THE AIR"を聴いたり、ポール・オースターの『最後の物たちの国で』や絲山秋子の『海の仙人』をぺらぺらめくったりしていた。窓を開け放したがらんどうの部屋は心なしかいつもよりも風通しが良い気がして、しなければいけないことがひと段落したことも相まって心がとてもスースーした。
時間を持て余しまくっているとたいていは過去のことを思い出したり、先のことを考えて不安になったりするけれど、今日はぼーっとするばかりでなぜかそういうことは思い浮かばなかった。四年半も同じところに住んでいたから、いろいろなことを思い出して切なくなったりするかなと思っていたけど、頭がぼんやりするばかりであんまり寂しさは湧いてこない。
僕が住んでいるところは学校からも遠くて、住んでなかったらまず来ないだろうと思う。引っ越したらもう来ることはあんまりないと思うし、次に来るときには潰れていそうなお店も多い。四年半も暮らしていた部屋に来週からはもう入れなくなると思うと少しこみ上げるものがあるけど、いまいち実感がわかない。
さっきビールを買いに外に出たら夕焼けがとても綺麗だった。マジックアワーというのか、青みが強くて少し幻想的な色合いだった。
なんていうか、自分ひとりの町じゃないという気がする。自分が住んでいる町がそのまま「僕の住む町」になるわけではない。出て行くのがあんまりつらくないのは、四月から時間をかけてひとりになっていったからというか、もうすでにこの町が、京都が自分の町ではなくなっているからかなと思う。寂しいという感情は誰かの気配がなければ生じない。
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ずっと読みたかったけれど絶版になっていて中古本もほとんど出回っていなかった大森静佳の歌集『てのひらを燃やす』が先月の末に復刊されていたらしい。たぶん最近第二歌集を出したり色々と活躍されているからだと思うけど、歌集が復刊されるのはとてもうれしい。詩歌のジャンルの本は、たいてい発行部数も少なく、強い関心がある人しか買わないので、ひとたび絶版になってしまうと、ほとんど古本市場にも出回らないし、あったとしてもめちゃめちゃに高騰していたりする。そんな中で、今回のように復刊されるのはめでたいことだと思う。
ぼくは実作者でもないしそこまで熱心なウォッチャーじゃないけれど、近ごろ現代短歌がとても活気にあふれているように感じる。ぼくの体感では、2015年末に出た山田航の『桜前線開架宣言』から、2016年に文学ムック『たべるのがおそい』が始まったり、ユリイカで現代短歌の特集が組まれたりして、今年に入ってからも『短歌タイムカプセル』が出たり中澤系の歌集が何度目かの復刊をしたり、穂村弘が17年ぶりに歌集を出したり、この夏に新しいムック『ねむらない樹』がはじまったりと、短歌関連の明るいニュースをたびたび目にするようになった。
あといつからかは明確にはわからないけど、全国の大学で短歌サークルが息を吹き返したり新しく出来たりということも増えているらしい。つまりここ数年ずっと若い人たちが新しく短歌界?に参入し続けているわけで、そのきっかけの一つにツイッターがあると思う。短歌は基本的に31文字なので、1ツイートに4つまで収まるわけで、ネットを通じて拡散しやすい。また、現代短歌をランダムにツイートするbotも結構な数存在していて、今までだったら国語の教科書とか俵万智とか寺山修司とか穂村弘くらいしかなかった現代短歌に出会うきっかけが増えて、また新しい歌を探しやすくもなったことがあると思う。それからさっき言った『桜前線開架宣言』が出てからは、たぶん初めての「現代短歌に興味を持った人が最初に買うべき一冊」になって、現代歌人シリーズや新鋭短歌シリーズが10年台に入ってから続々と刊行されていたこともあって、掘り進めることも容易になった。それまでは「いまどんな歌人がいるのか」を把握するのも難しかったし、歌集も手に入れにくかった。
何はともあれ僕は現代短歌を読むのが好きなので、このままいつまでも元気であってほしい。引っ越す前に三月書房に行きたいな。
安東次男「藤原宮址」がすごい
渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』を本屋さんに注文していたのが届いたので取りに行った。アマゾンで頼んだ方が早いしそれでもいいんだけど、本を買うことは僕の数少ない外出の動機になるので、北大路の本屋さんまで注文しに行くことにしている。
詩の読み方を易しく解説、という趣旨の本は結構な数があるけれど、この本のユニークなところは、「詩はわからない」ということに軸足を置いていることで、簡単にはわからないということの面白さについてたびたび言及している。
詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年たっても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、 唯一解に到達する必要もない。
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』
これがこの本の基本的なスタンスであり、そこで紹介される詩人・作品も、いわゆる教科書に載るような詩ではなく、ほかの詩の入門書とは毛色がちがっている。
例えば「実感の表現」と云うとき、「実感」のもとになった現実世界における体験が、常にその表現に先立って存在しているということになる。つまり「実感の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。
そ れに対して塚本的な「何か」は、自らの表現が未来と響き合うことを期待している、とでも云えばいいだろうか。ここで云う未来とは過去の反対語としてのそれではなく、現実を統べる直線的な時間の流れからの逸脱そのものであるような幻の時である。
穂村弘『短歌の友人』
これはこの本の中で引用されている穂村弘による塚本邦雄評の一部であるが、『今を生きるための現代詩』で紹介されている詩は、ほとんどが「未来と響き合うことを期待している」ものである。著者は、中学の国語の授業で教えられた谷川俊太郎の詩(「生きる」)の良さがさっぱりわからずに困惑した記憶に粘り強く思考を巡らし、あの作品の良さは作者の、そして読者の「過去の経験」の厚さに依拠するもので、ほとんど過去を持たない当時の自分に理解できなかったのは当然だ、と結論している。そういう、ある程度の経験というか、年月を経ないとわからない、というか年齢を重ねてから読んだ方が味わいの増す詩というのがある一方で、「未来と響き合うことを期待している」詩というのは読み手の年齢や人生経験とは関係がなく、言い換えれば誰にとっても平等にわからない。そのような詩が本書では紹介されている。もちろんわからないとだけ言って投げっぱなしというわけではなく、唯一解的な読みを読者に押し付けないだけで、著者なりの読みも教えてくれる。当たり前だけど、詩の読み方には正解があるわけではなくて、たとえ作者が同じであっても、違う詩であれば読み方、読むスピードも変わってくるし、声に出すか目で読むかというのも詩によってちがう。詩を読むメソッドというのはありえなくて、詩の数だけ読み方もあると考えたほうがいい、ということを再認識させられた。
以上が僕なりのこの本の紹介だけど、僕が書きたいのは本当は本の紹介ではなくて、この本の中で紹介されている安東次男という人の詩に、すっかり惚れ込んでしまったということだ。特に気に入ったのが「藤原宮址」という詩で、引きずり込まれるような危うい魅力がある。
安東次男という人は、連句の実践・研究者としての側面も持っていて、それがこの詩に存分に発揮されている。連句というのはある人が出した五七五の長句に、次の人が七七の短句をつけ、その次の人がまた長句をつける…といった具合に進んでいき、前の句に対応するようにある句が出され、次の句はその句と対応するように作られる。つまり一つの句が前の句と後の句それぞれとペアになっており、少なくとも二つの文脈で読まれることになる。安東次男の「藤原宮址」にも、その連句を思わせる特性があって、この句読点がなく機械的に行分けされた詩句をどこで区切るかは読者に委ねられていて、ある言葉がどの言葉にかかっているのかを読み替えることによって刻々と幾通りもの意味や情景が生まれいく。そうやって行きつ戻りつしながら徐々に読み進めていくうちに、どんどんイメージが積み重なっていき、なかなか読み終わることができないでいるうちに、そとへの帰り方を忘れてしまうような、眩暈のような陶酔感がこみ上げてくる。狐に化かされた人が同じところをずっとぐるぐると歩き続けているうちに次第に陶然としてくるような感じだ。この詩のもつ妖しく波打つような、たゆたうような呪術的なリズムは、音楽でいうならミニマル・ミュージックというかポリリズム的で、イメージが少しずつ変化したり重なったりしていくのにひたすら身を委ねるのが気持ち良い。読むたびに意味が変わるようで、ちょっと俗な例え方をするならば、プレイするたびに展開の変わるチュンソフトのサウンドノベル『弟切草』にも通ずるところがある。
トリップ感のある詩というと、伊藤比呂美の『河原荒草』が圧倒的にナンバーワンだったんだけど、安東次男もかなりのものかもしれない。もっと色々と読んでみたい。
気になる詩人、もっとたくさん読んでみたいと思う詩人がまた一人増えた。そういう詩人にはそうそう出会えるものではないので、とてもうれしい。今年に入ってから、伊藤比呂美、蜂飼耳、高橋睦郎、安東次男と、続々と増えている。この四人は特にお気に入りで、他にも谷川俊太郎や松下育男、岡本啓、日和聡子、高良留実子、フランシス・ポンジュなども気になっている。これは自分のための忘備録。
謝意
この前書いたブログ記事に対して、僕の兄がお返事をくれた。僕の兄は4つ年上で、いつだって僕がまだ知らない面白いことをどこかから飄々と持ち帰ってくる人だ。僕が中学生だった頃、高校生になっていた兄が昔よりも楽しそうにしていたのを見て、高校生というのは中学生ほど悪くはないのかもしれない、と思ったし、大学生になって長い休みになるとたまに帰ってくる兄は高校生までとは比べ物にならないくらい活き活きとしていて、大学というところはとても楽しいところなのだなと憧れた。そして今だって、地理的に遠く離れて暮らしていて、直接に会って話すことや連絡を取り合うことは滅多にないけれど、母づてに聞いたり、インターネット越しに伺われる様子(SNSで相互フォローしているので)から、社会人になってもよくわからないことに関心を持ち続け、よくわからないものに手を出し続けている兄には、いつも、と言ったら大げさかもしれないけれど、ふとした時に、励まされている。
いまの僕の実感からすれば、弟の言う『若者からおっさんへのシフト』というのは、抽象に偏り過ぎたこどもが具体的な経験を得て具体への関心をも得るというだけのことに思える。(中略)関心が具体的な生活とその抽象的な昇華というところにあるから、なにを読んでも自分事として面白い。」
関係なくなる
重いものを運んで、泥のように眠る日々に、とりあえずの区切りがついた。引っ越しの日が近づいて、睡眠時間を削りながら必死こいて働かなくても食べるには困らないくらいのお金は手元にある。
だからせめて今週くらいは引っ越しの準備をしつつ久しぶりにのんびり過ごしてみるかと思ったんだけど、お金があんまりなくて時間がたっぷりある若い人間の性として、脈絡も手応えもない考えを弄ぶ時間が増える。環境や立場が人を作るというけれど、働かずにいると、というか大学生の頃と何も変わらない状況に置かれると、社会に出るはずの年齢になっても考えることはそう変わらないのだなと思う。
そうはいっても、やっぱりそっくり以前のままというわけでもなくて、働かないでいることの恥ずかしさというか、暇なのがいやという気持ちがいつの間にやら人並みに身についていて、以前ほど無為には過ごせなくなっている。たとえばいかにも90年代の暗いサブカルチャーに思い切り耽溺するというようなことに対して、常識的な抵抗感を覚えるようになった。なんというか、多くの人に良しとされていることからゴリゴリ離れていくのにも気にせずに好きなものに没頭することがあんまりできなくなってきた。何をしてても「これは社会適応という観点から見たときどうなんだ。望ましいことなのか」と自問してしまう。というか僕自身、たとえば「終わりなき日常」という言葉に対して、あんまりしっくりこなくなってきている。これはひとえに生活態度の変化によるものだと思うけれど、90年代の世紀末的なメンタリティとか、セカイ系的な価値観に感情移入することがしにくくなってきたというか、これからの自分には関係ないな、と思うようになった。
これからの自分には関係なさそうなものに対して、興味を抱きつづけることはとても難しくて、これからまあ何らかの仕事に決まるとして、自由に使える体力や時間がとても限られたものになったとき、関係がないと自分で思っているものを見たり読んだりすることはなくなるだろうと思っている。そして、自分の収入や生活や地位が安定したものになればなるだけ、自分に関係ない(と思える)ことというのはどんどん増えていき、それを認識することもできなくなっていくのかなと思う。一面的に過ぎる見方であるとは思うけど多かれ少なかれそういう部分はできてくるだろう。
ちょっと前まで僕はケアに関する本をたくさん読んでいて、その手の仕事を目指そうかとも思っていたんだけど、不規則な勤務時間や労働条件の悪さなんかを目の当たりにして、やっぱり無理かもなあと思った途端に読まなくなった。関係がなくなったというか、とりあえず急ぎのものではなくなったから。肉体労働を始めてからは、カーヴァーや瞑想の本なんかをよく読んだ。それは不慣れな日々の疲れを癒すものだったから。せわしない労働の日々がひと段落してお気楽な身分になるとそういうものは読まなくなった。
僕は本を読むとき、それを単純な娯楽として消費することはあんまりなくて、自分や自分の興味関心や考え事に関連させながら読んでいたんだなと気づく。するとどうだろう。就職したらビジネス書やハウツー本ばっかり読むようになるのかな。この前友達と集まって飲んでいるときに、ひとりがとても自然に「働くために生きてるわけじゃないから」と言ってのけたことに僕はとてもびっくりして、そういう考え方は、僕はすっかり諦めかけていたものだったので、感動したというと言い過ぎかもしれないけど、格好良いなあと思った。働いて食べて寝るだけの生活に対して、あんまり抵抗がなくなっていたけれど、そういう友達を間近に見ると、そういう所謂つまらない大人になるにはまだ早いのかもなとも思った。つまらない大人というのは外側から見た勝手な言い分で、主観的にはつまらない大人にも大人なりの楽しみ方のようなものがあって、そっちからものを言うと、それがわからないつまらない若者、ということになるんだろうけど。なんというかおっさんにはおっさんの価値観があって、それは若者の価値観とはかなり違うものだし相互理解は難しいものっぽいけど若者はいつかおっさんになるからいずれはそっちの価値観に飛び移らなければいけないんだけどそのタイミングを計るのはとても難しいなという話。