僕らが文を書く理由
最近、なにかを書くのが楽しくて、人からどうして書くのとか聞かれたりもして、書くってどういうことなんだろうということをよく考えてる。
「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確実にする」と書いたのはイギリス経験論の先駆けとして有名なフランシス・ベーコンで、違う翻訳だと「読書は充実した人間を作り、会話は気がきく人間を、書くことは正確な人間を作る」になってるらしいんだけど、自分を確実にするために書く、という気持ちはすごくよくわかる。
僕にとっての書くという行為は、自己確認の意味合いが強くて、自分が見たものや考えたこと、感じたこと、好きなものをベタベタ触ってその形を確かめるということだと思う。ぼんやりとしていてぐちゃぐちゃな自分っていうものの一部を言葉に変えて文章にして、ある程度まとまった形で外に出すことで初めてそれについてのまとまった認識が得られるというか。そういう風に今の自分や、これまでの自分を確かめてるんだけど、それと同時に未来の自分を少しずつ形作っているとも言えるかもしれない。少し大げさな言い方になっちゃうけど、僕は書くことによって未来の自分を少しずつ選んでいる、というような気がする。
どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩をするかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。村上春樹『村上朝日堂』
どんな風に書くかということと、どんな風に生きるかということ。どこに行ったか、行きたい場所はどんなところか、何を見たのか、何をしたのか、あるいはなにもしなかったのか。誰と話したか、どんなことを話したか。いま一番話したいことはどんなことか。どう感じたか、なにを考えたか。好きなものはあるか。どんな時に楽しいか。嫌いなものは。欲しいものはあるか。知りたいことはあるか。どんな人が好きか。次の休みにはなにがしたいか。
そのようなことについて語るときには、自然とどんな風に生きるかという問いがついて回る。どんな風に書くかというのは文体やスタイルの問題もあるけど、要は何を見て、何を見ないかって話になると思う。それには多くの場合、生きていく上での価値観や選択基準がそのまま適用される。今日は一日街を歩きました、みたいな文章を書くときにも、ある人は新しくできたクラブとか、おしゃれなバーを見つけたぜと書くかもしれないし、ある人は行き交う人々がみんな早歩きで怖かったという話に終始するかもしれないし、またある人は最近の若者はスマホばかり眺めて云々という話に流れていくかもしれない。
もしも書くという行為が少し先の生き方を選ぶことにつながっているとするならば、僕はこれまで具体性に欠ける生き方をしてきたのでこれからはなるべく意識して具体的なことを書いていきたいと思う。
あと最近ちょっと日本語ラップにハマりかけてるんだけど、彼らがリズムにゆられて吐き出す言葉、リリックからは、彼らのライフスタイルが透けて見えてすごく面白い。そして何より具体的だ。「海か、山か、プールか!?いやまずは本屋」といった具合に。俺はこういう人間なんだって言うことをラップすることを通じて表明して、確認して、肯定している。そのちょっと安易に思える自己肯定は賛否両論あるだろうけど、僕は格好良いと思います。考えないなら考えないなりに、考えないという選択をしているように思えるから。それに音楽は聴いてていい気分になれたらそれでいいと思うから。正しさとかはどうでもいい。ヒップホップは昔からファッションやらライフスタイルや遊びなんかと密接に結びついてて、ちょっと齧るとすぐに多方面に味が広がるからおもしろい。
いま一番好きなのがS.L.A.C.Kで、単純にトラックが格好良いのとテキトーでゆるい感じのラップがオラつき過ぎてないのと、D'angeloとかに似たリズムの崩し方が心地良くて最高。日常的に聴いてても違和感のないヒップホップって貴重だと思う。あと僕は暇な人が好きだから、彼のしたたかに暇してる感じのスタンスが好き。amazonでCDポチった。
ドライカレーをぐちゃぐちゃにして
コーヒーのまずい喫茶店で相撲中継を見ていたことなど
日記を書きます。日記なので、ですます調でいきたいと思います。一週間くらい前の、僕の一日。
この前、若者のすべて、ここにあります。と言いたくなるような、思わず14才の頃の笑顔になってしまうような夜を過ごしました。その日はお昼から地元の友達が遊びに来ていて、慣れないスパイスカレーなど食べました。メニューにスパイシーなので辛いの苦手な人は気をつけて!と書いてあった猪のカレーを注文して、本当に辛くて全身の、主に頭の毛穴を全開放しながら食べました。猪の肉は、歯応えはあるけど固くはなくて、僕は今肉を噛み、ちぎり、味わい、食べているという満足感がとっても得られて良かったです。あと理科の教科書以外で初めて紫キャベツを見て、食べました。店主さんはサボテンを買いに名古屋に行っていて留守だと、奥さんらしき人が話してくれました。僕は生まれてから高校を卒業するまで、名古屋で育ったのだけど、名古屋がサボテンの街だなんて、初めて聞きました。それからあんまりにも汗を垂れ流しながらカレーを食べる僕を見かねて、その人はグァバジュースをご馳走してくれました。僕はあんまり南国チックなフルーティな飲み物は好きじゃないけれど、スパイシーなカレーと一緒に飲むグァバジュースはおいしかったので、ありがとうという感謝の気持ち以外浮かびませんでした。
カレーを食べ終わったあと、夜の予定まで数時間ひまがあったので、近くにあった喫茶店に入りました。コーヒーでも飲みながら時間を潰そうと思ったのだけど、京都の昔からやっている、低体温な感じの喫茶店は、入った時に結構な確率でな、何しに来たの?みたいな顔をされます。しかし僕は京都に住んでもう四年目になるのでへっちゃらです。コーヒーを飲みに来たんだよ、オラオラと頭の中で啖呵を切りながらズケズケと店内に入り、一番奥の隅っこのテーブルにそっと腰を下ろすと、お年玉をもらうときの孫のような謙虚な態度でコーヒーを注文しました。出てきたコーヒーは麦茶と黒豆とコーヒーのキメラのような変な味がしました。健康に良さそうで、まずかったです。友達はミルクとシロップをたっぷり使って豪快な味変更をしたあと、半分くらい飲んで残していました。男らしいなあと思いました。店員なのか常連客なのか判別がつかないおじいさんおばあさんが、ボーッとテレビを見ていました。相撲の試合と野球中継を、20分おきくらいの間隔で行ったり来たりしていました。僕は昔からあまりテレビは見ないから、そのチャンネルを変えるタイミング、ないしはそれを支える法則性のようなものがさっぱりわかりませんでした。面白い番組やってないねえとおじいさんは呟いていましたが、全然不満そうじゃなくておもしろかったです。面白くても面白くなくても、どっちでもいいけどテレビを見る。それは僕らの世代以前にしかない習性だと思うのです。
初めてしっかりと見る相撲の試合は、意外とテンポが良くて、おもしろかったです。大きくて強そうな力士と、大きくて強そうな力士とがぶつかり合って、あっという間に勝負が決まる。大きくて強くて格好良くて、必殺技みたいな名前がついた男たちが恐い顔でしばき合う様を、僕はロボットアニメを見るような気分で眺めていました。野球も相撲も、見所とそうでもないところがハッキリと分かれていて、あんまりルールを知らなくても楽しめるいいスポーツだと思いました。僕にはいつか野球ファンになるという夢があって、応援するなら横浜ベイスターズと決めています。名前が好きだからです。だけど選手の名前とか成績とか、往年の名試合とかドラフトとか巨人が嫌いとか、その辺のことがよくわからないし覚えるのもめんどくさいのでまだ野球ファンになれずにいます。応援したチームが試合に勝った負けたとかで、嬉しくなったり不機嫌になったりしてみたいものです。
夜は、僕に銀杏BOYZと何軒かの美味しいお店と、男子中学生みたいに女の子に対して憧れを抱くことは恥ずかしいことじゃないぜということを教えてくれた先輩の誕生日ライブで、本当最高だったのですが、長くなってしまったので詳しくは書きません。お誕生日おめでとうございます。生まれてきて、よかったねと心の底から思えるピースフルな夜でした。グッドミュージックイズグッド。
以上、iPhoneから送信。
自分の好きは自分で決める?
岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。著者なりのオタク観や、世間から見たオタクのイメージの変遷、オタクの定義や特徴の移り変わり、オタクの世代論なんかが盛り込まれていて、面白かった。
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める/兵庫ユカすきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る/兵庫ユカ
世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。
川上未映子『オモロマンティック・ボム!』「2月、飛躍するチョコレート」
それはムード、甘いムード
六月になったからって、いきなり張り切りすぎている雨と風を横目に、頼りない部屋で山田詠美の「ラバーズ・オンリー」読んでいる。いろんなソウルミュージックを題材にした短編集で、研ぎ澄まされた身体感覚とクールな文体とがたまらない、とびきりムーディな小説だ。一篇を読み始める前と読んだ後に、タイトルになっている曲を聴く。"precious precious"がお気に入り。ホーン隊のタメがたまらない。これを流しながらゆらゆら踊りたい。青いカクテルだけを飲んで酔っ払っちまいたい。ピンボールに2000円使いたい。
意味を求めて無意味なものがない。それはムード、甘いムード。って妖怪みたいなバンドが歌ってたけど、僕もまったくそう思う。人を酔わせるようなムードってやっぱり素敵だ。雰囲気に任せて、夜を台無しにしてみたいとたまに思う。家で一人で缶のハイボールを飲んでいる。
ムードを作る上で、音楽は欠かせないと思う。グッドミュージックを聴くだけで、持て余していたはずの夜が良い夜になる。感動的なドラマや映画から、音楽を抜き取ってしまったら、きっと白けた印象になるだろう。あとはなんだろう、照明とか、香りとか?ムードは五感で作るもの、なんだなきっと。
触感的でムーディな映画と言えば、『ナインハーフ』が思い浮かぶ。
街の喧騒とそれを彩る音楽、歴史あるレストラン、水に浮かぶ部屋、ビリーホリディ。観覧車。目を閉じる女。氷やハチミツ。映画の前半のバブリーなデートの数々の、あまりの甘ったるさに、こ、これがムードか!アメリカの色男は女の子を口説くためにここまでするのか!と衝撃を受けた映画。おもしろいよ。家族とは、観ない方がいいけど。
山田詠美の小説を読むと、プライドが高くてわがままな女の子ってすごいなあと思う。ヒリヒリしてて。いつまでも、どこまでもわがままで、残酷なままでいてねって思う。そこから見える景色が気になる。
コンビーフをご馳走だと思う気持ち
あの子のことが好きなのは
昨日、今年初めての素麺を彼女と二人で食べた。揖保乃糸と迷ったんだけど、って言いながら彼女が安い素麺を買ってきた。僕はどっちでもいいよって思ったから、どっちでもいいよって言った。俺はあんまり食べ物の味がわからないから、安くても気にならないし、高かったら高かったで特別感があって嬉しいから、どっちでもよかった。人生は選択の連続だと言うけれど、どっちでもいいことって以外と多いよなって最近なんとなく思う。なんとなく思うだけだから、それ以上の広がりはないんだけど、少し心が軽くなる。
最近、大変なことも多いけど、社会って大変だね。大人って大変だね。とか言いながらでも、この子と一緒にご飯が食べられたら、他のことはどっちでもいいじゃんって思う。パンにジャムを塗ったり(僕はフルーツが食べられないので砂糖をぶっかけたりする)、魚を焼いたり、たまには餃子を一緒に作ったりとかできたら、それでいい。寝る前には100円で買った中古の文庫本や漫画を読んだり、旧作のレンタルビデオを観たりしてさ。3000円くらいの家庭用プラネタリウムとか買って、思い出した時に眺めたりさ。見通しが甘いって、誰かに怒られそうだな。
自分にはあんまり生命力がないということを再認識している。バイタリティ命みたいな業界ばかり見ていたからかもしれないけど、ホタル程度の生命力しか持っていないと感じる。涼しい季節になって、過ごしやすい気候になると外に現れて、暗くなると、少し光って、すぐにくたばる。久しぶりの友人に会ったりすると、元気?って聞かれる。元気じゃないよって言うと心配されるから、元気だよって答えるけど、別に元気ではない。今まで生きてきて元気だった時間は20%くらいで、80%の時間は元気がないまま過ごしてきた。だから元気じゃなくてもそれが普通だから心配しないでって言いたいけど、回りくどいから、元気だよって言う。元気じゃないといけないのかなって少し考える。ポジティブな人と、ネガティブな人。どちらがより多くの人に好かれるかといったら、それはポジティブな人なのは間違いないけど、僕がどちらが好きかと言われたら、ちょっと困る。元気はないけど、楽しいということが僕には結構ある。そういうささやかなぐっとくる瞬間が、突き詰めれば詩になるのでは、なんてことにぼんやり思い当たる。あの子のことが好きなのは、赤いタンバリンを上手に打つからじゃなくて、生命力が僕とちょうど同じくらいだからじゃないかな、ということをちょっと考えてる。