アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

たたみかた 2

誰かとぶつかり合うような意見を持つのではなく、しかし何にでも尻尾を振って加担するのでもなく、他者との対話に向かって開かれている問いを自分の中にいつも持つこと。それがぼくのやりたいことかもしれないと思った。

 


知らない人が多くいる場所に出向くとき、自分には何もない、言うべきこともやってきたこともなにもない、という後ろめたさを感じることが多かった。話したい、仲良くなりたい気持ちはあるけどこちらが話すことがない、というような。これはつまりコはミュニケーションを、自分の話をしながら、相手の話を聞いて、相互理解を深めていく、お互いの話を交換するものだとして捉えていたということだ。そうではなく、ある問いに向かって一緒にうんうん唸りながら考えていく、それこそが、とは言わないが、そういうコミュニケーションも全然アリだよな、ということに気づいた。コミュニケーションは単なる情報交換ではなくて、姿勢とか場とかそういうものなんじゃないかと思い始めた。ギブアンドテイクではなくて共同作業じゃないかと。

 


これはアタシ社のたたみかたを読んでいて考えたことだった。自分の中の言いたいことをつらつら吐き出すのではなく、自分たちの気になることに対して話を重ねること、言葉を費やすこと。自分にはずっと言いたいことがなかった。でも気になることはいつでもあった。考えたいと思うことはいくらもあった。それらについて、私はこのことが気になってます、わからないでいます、考えたいです、と表明すること。自分の中にいくつも問いを持ち歩くこと。それこそが開かれてあること、変わりながら生きていくことを受け入れることにつながっていくんじゃないかという予感がする。

 


しかし思い返せば、そのような"私"のあり方は、ずっと以前から知っているものだった。ここまで書いてみて、ん、それってなんか、知っているぞと思った。それは例えば小島信夫の小説であり細野晴臣の音楽だった。ゴダールの映画であるかもしれなかった。

 

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