アワー・ミュージック

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反復

 昨日自分が書いたことにそそのかされてずっと前に京都の古本屋で買って以来しまいっぱなしになっていたドゥルーズの『差異と反復』を引っ張り出して読んできた。一緒に読み直そうと思ってキルケゴールの『反復』も引越しのために詰めてそのままになっていた段ボールから出してきて枕元に置いた。

 読んでみるとさっぱりわからないので驚いた。どんな文脈で、どのような問題意識を持って、何の話をしているのか、まるでわからなかった。哲学の読めなさというのはそこにある、と僕は思っている。なぜ、こんな話を長々としているのか、そのことがまずわからないのだ。

 

自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのでないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわち、わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然として書こうとするのである。無知を埋め合わせてしまえば、それは書くこと(エクリチュール)を明日に延ばすことになる。いやむしろ、それは書くことを不可能にすることだ。おそらく、そこには、書くことが死とのあいだに、沈黙とのあいだに維持していると言われている関係よりも、はるかに威嚇的な関係がある。
—  ジル・ドゥルーズ著、財津理訳、『差異と反復』

  10ページか20ページくらい読んで、何とか意味が取れる文章はこのくらいだった。前後の文脈というか繋がりすら僕はよくわかっていないけど、おのれの知の尖端で書くのでなかったら、書くことは不可能である、というのはわかる気がする。自分にとってわかりきっていること、片がついてしまっていることについて、わざわざ書こうという気にはならない。そしてこれは読むことについても言えるのではないか。自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて読むのでなかったら、何を読むことができるだろうか。わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか読めないのではないか。しかしドゥルーズは僕にとって知の尖端ではなかった。もっとはるか彼方にいるのだった。僕の無知の領域に頭の先まで身を沈めているのがドゥルーズだった。時々彼の指先の色がちらりと見えるくらいのものだった。引用した箇所でも、最後の「書くことが死とのあいだに、沈黙とのあいだに維持していると言われている関係よりも、はるかに威嚇的な関係」というのが、何を念頭において、どのような関係のことを指しているのか、まるでわからなかった。

 

 ドゥルーズを読もうとして読めず、気晴らしに読める本でも買ってこようと思って古本屋さんに向かった。一緒に出したキルケゴールを読む気も萎えてしまっていた。時々行く古本屋さんには、小島信夫が幾つも置いてあるので、それを買おうと狙いをつけて行った。何冊かパラパラ読んでみて、いま読めそうな小島信夫を探した。『ハッピネス』という良いタイトルの小説を手にとって開くと、扉でキルケゴールの『反復』が引用されていた。それだけ確かめるとまっすぐレジに向かって買って帰った。昨日からそれを読んでいる。小島信夫がまだまともな小説を書いている頃、転機となった『別れる理由』を連載し始める直前の時期の短編集だった。

 小島信夫の小説には変な読み応えがある。時々接続の仕方が変だったり、なんでもない顔で飛躍をしたり、急にぶつ切りになったりする。それっきりだと思ったら急にまたその話の続きをし始めて、余計にこんがらがったところでまたたち消えてしまったりもする。だからゴツゴツしていて、一定のペースで読むことができない、一歩ごとに地面を踏んで確かめながらよじ登らないとすぐに振り落とされてしまう。注意深く進んでいたつもりが気が付いたらすっかり踏み間違えてしまっていることも多々ある。しかし小島信夫のつかみどころのないリズムだとか、どこかちぐはぐな、誰を見ても自分を見ているような、距離感がバグっているような、人間を見るときの独特な眼差しなど、不思議とくせになってくる。

 

私は直接の宗教体験というものはないが、自分が小説を書くのは、一つの宗教体験としているつもりでいたいと思う。鷗外が「寒山拾得」という小説を書いている。もともとあれは有名な話であるが、それはともかくとして、寒山拾得が笑ったような、横着でマジメで、不マジメな哄笑というようなものを、私は小説を書くときに、心構えとしてどこかに持っていたいと思っている。
 のがれがたい死というものを、どのように自分が膚でつかむか、といってもたいがい忘れているが、それでいて現世の肉体の甘美さというものを、どうしていっしょに考えるか。このことは、なるべく心の中で整理し、全身でわかりたいと思っている。
—  小島信夫『小説家の日々』

  小島信夫は相反するものだとか、矛盾するもの、折り合いの悪いものを、どうしてもいっしょに考えたがる。膚でつかみたがる、全身でわかりたがる。それだから小島信夫の文章になる。とはいえ小島信夫がなぜ小島信夫なのか、僕には全然わかっていない。小島信夫は哲学的に考えるということをあまりしない。哲学とはつまり論理を積み重ねて、こうとしか考えられないということを言うものだけど、小島信夫はもっと手探りで、いきなりこうとしか思えないというところに飛びついたあとに、本当にそうだろうかとか、これはどういうことだろうかという逡巡をはじめる。全身の実感にもとづいてものを言ったあとで、すぐさまそのことを問い直すから、そしてその実感は緻密な論理に裏付けられたものでもないから、すぐに揺らぎ、どんどん宙吊りの問いが増えていく。そのことにうろたえながら、それを望んでいるような、楽しんでいるようなところがある。そういう煮え切らなさ、どんどん絡まっていくようなところが、生きているような感じがして、読んでいておもしろい。小島信夫のおもしろいところはさらにその状況に心底巻き込まれることはないところだ。ずっとそのことが気がかりで、解決策を練ったり思いを巡らしたりはする一方で、いつでも心ここに在らずというか、全然違うことをふらふら考え出したりするところが、なんでも自分のスケールで考えるのに、自分自身のことについてそれほど真剣味を持っていないようなところがあってそれが面白い。ところで『ハッピネス』冒頭に引用されているのはこんな文句だった。「反復と追憶とは同一の運動である。ただ方向が反対であるというだけの違いである。つまり、追憶されるものは、既にあったものであり、それが後方に向かって反復されるのに、ほんとうの反復は、前方に向かって追憶される。だから反復は、それが出来るなら、人を幸福にするが、追憶は人を不幸にする。」小島信夫は記憶についてよく書いているが彼は追憶ではなく反復の作家である。彼の記憶は思い出されることによって未来に逃れ去るようでもある。ただ昔の甘さを思い出して口をもぐもぐしているだけではない。彼は前方に向かって追憶をしている。だから彼は反復の作家なのだ。しかし未来に向かって過去を思い出すというのは、どういうことであろうか。