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ウィトゲンシュタイン『青色本』を読もうとする・1

・なぜ青色本を読むか

 近頃ウィトゲンシュタインを読んでいる。ウィトゲンシュタインは哲学者だが、彼の哲学は一風変わっている。哲学書というのは一般に、ドイツ観念論などに顕著だが、その思想的な背景や前後の歴史を踏まえていなければわからないことが多い。難解な専門用語や日常言語とは意味の異なった用法が飛び交い、同じ哲学用語でも人が違えば解釈が微妙に違っていたりする。つまり哲学書を読むためには広く深い前提知識と、文脈に合わせた適用が必要になる。一方で、ウィトゲンシュタインは自身の哲学を治療であるという風に考えていたらしく、多くの人々を困惑させてきた難解な問いの数々を、その問いの問われ方に着目することで、問いを鮮やかに解決ないしは解消させてきた。このスタンス自体は初期から後期まで一貫しているように思える。ウィトゲンシュタインを読むと、どのように取り組めばよいのか皆目わからない問いに対して、ここから手をつければよいという取っ掛かりを得ることができる。問いの立て方を検証し、様々な角度から眺め回してつっついているうちに、問いそれ自体が知恵の輪のようにほどけていく。中期以降のウィトゲンシュタインの哲学は、読み手に体系的な知識や思想を与えるような性質のものではなく、どのように問いに取り組むか、いかに哲学をするか、というその方法についてのヒントを与えてくれる。様々な場合にそのまま使えるマニュアル本というわけでは勿論ないが、実際にどのように考えていくか、それは自分でじっくり考えるべきことなのだ。

 

青色本の位置づけ

 青色本は1933年から1934年にかけてケンブリッジで行われたウィトゲンシュタインの講義を記録したノートである。そのコピーが広く読まれ、青色の表紙がつけられていたことから一般に『青色本』と呼ばれている。

 ウィトゲンシュタインの活動は大きく初期・中期・後期の3つに分けられることが多く、初期が生前唯一出版された哲学書である『論理哲学論考』期を指し、死後出版された後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』を執筆し始める1936年以降が後期、その中間が中期であるとされている。『論理哲学論考』を書き終えたのち彼は哲学から身を引き、小学校の教員や修道院の庭師や建築物の設計などの仕事を経て、1929年に再び哲学に復帰するまで、前期と中期との間には数年間の空白がある。

 『青色本』の講義が行われたのはウィトゲンシュタインの思想が中期から後期へと移り変わっていく過渡期であり、のちに『哲学探究』に結実していく思想的アイデアの片鱗が各所に散りばめられている。

 

青色本を読みはじめる

 『青色本』は前述の通り講義録であるため、話が前後したり、いくつもの話題が入り組んでいたりするため、ときに読みにくいことがある。よっていくつかの段落ごとに区切って読み、その言わんとするところを慎重につかもうと努力してみることにする。一度通して読んでみたけれど途中で迷子になってしまった気がするので今回は、いまどのような問いが立てられているのか、何の話をしているのか、見失わないようにゆっくりゆっくり読んでいくつもりだ。また、僕は外国語ができないためちくま学芸文庫から出ている大森荘蔵訳のものを読んでいきます。以後特に断りがない場合、ページ数や引用などはちくま学芸文庫からのものです。僕って書くと途端にですます調になってしまいますね。

 

・語の意味とはなにか(p.7)

 語の意味とは何か。

 この問題に迫るためにはまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。

 こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役に立つのと同じ仕方で役立つ。

 『長さとは何か」「意味とは何か」「数1とは何か」等々、こういった問は我々に知的けいれんを起させる。それに答えて何かを指ざさねばならないのに、何も指ざすことができないと感じるのだ。(哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考えに迫られるのだ。) 

  「語の意味とは何か」。青色本はこの問いかけから始まる。そしてこの問いはこの本の通奏低音となっている。語の意味とは何か、という難しい問いに対して、ウィトゲンシュタインはまず問いをより考えやすい形にしようと試みている。ところで、「語の意味の説明とは何であるか」と、「語の説明とはどのようなものか」という二通りの問いは、同じものだろうか。縮めてみると、何であるかと、どのようなものか、は同じことを問いかけているのだろうか。僕には微妙に異なったものであると思える。一見よく似た問いであるけれども、その答え方は大きく変わってくる。

 何であるか、という問いに対しては、これであるという実物を差し出してやるのが最も簡単で確実である。勿論そのような直示定義であればどのような場合でも間違いなく伝えることができると考えるのは適切ではないが、たとえばみかんとは何であるかと尋ねられたらみかんを手渡して、実際に見て触って食べてもらうのが一番良いだろう。しかし、現実世界に対応するものが実在しない抽象概念等の場合、話は複雑になってくる。これといって指し示してやることができないのだから、言葉による定義が必要になってくるが、抽象概念を定義しようと思った場合、また別の抽象概念を持ち出さなければならず、しばしば循環定義に陥ってしまう。

 一方で、どのようなものか、という問いは、そのものの定義というよりもその性質やその語が使われる状況などを尋ねていると感じられる。このような問いであれば、みかんが手元になくとも、柑橘系の食べ物で、冬にこたつの中で食べるとおいしい、などと説明することができる。同じように、長さとは何か、を言葉で説明するのは難しいが、どうして長さを測るのか、と聞かれれば、長さによって距離や大きさや面積などについて、定量化が可能になり、異なる種類のものや遠く離れたもの同士での比較や、計算などの操作が便利になる、などと答えることができる。

 このように、「名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考え」に囚われずに、何であるかという答えることのできない問いを、どのようなものかという答えやすい問いへと変形してみること、そのように問い直すことで、止まってしまった手をとにかくまた動かし始めることが可能になる。これがウィトゲンシュタインの治療のやり方の一つである。引用部分の「語の意味の説明」と「語の説明」を、今回ははっきりとは区別しなかったが、それは次回以降に持ち越しとする。前置きを書くので消耗してしまったので今回はここまで。