アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

どうしたら外に出れるのか

 立冬の日も過ぎて、暦の上でも体感的にもすっかり冬になり、もともと自分の中に巣食っている外に出たくない気持ちが日増しにすくすく育っているのを感じます。

 外に出たくなさすぎて学校に行けない日があったりとか、「せっかく天気がいいからお出かけしたい」と言う彼女に「外に出たくないよう」と泣きついてかなり情けない気持ちになったこととか、外に出ないせいで人間関係が希薄になりつつあることとか、いろいろなことが重なって、「外に出る」と言うことについて最近よく考える。
 将来について考えたとき、それがどのようなものであったとしても、外に出なくてもいい、ということはありえないことであって、そうなるとやっぱり外に出る、とかコミュニケーションとか、他者という技法、などなどは万人にとって永遠の課題ということになる。
 なので外に出ることについて真剣に考える。参考に、Instagramを開いて眺めてみる。人は、外に出たときや友達と集まって遊んだときしかほとんどInstagramを更新しないから、Instagramには「みんなが考える楽しいこと」や「行ってみたくなるスポット」や「外に出かける用事」が溢れかえっている。しばらく眺めてみてぼんやり思うことは、学校やバイトとかのほとんど義務みたいなものを除いて、自主的に外に出る機会というのは、買い物か、飲み食いするか、ライブとかのイベント、あるいはレジャー施設とか観光・旅行がほとんどだ。観測範囲が大学生に限られているせいもあるかもしれないけど、だいたいみんな似たようなことをしている。だいたいがお金を使って楽しむことだ。だいたいがいわゆるレジャーというものだ。
 レジャーというのはwikipediaによると「雇用経営、家事雑事、教育、食事、就寝などの拘束活動から開放されていること。生きていくために必須な活動以外のもの」のことで、要するに余暇、自由時間にすること全般で、僕がここで問題にしているのは拘束活動以外でどうやって外に出るかということなので、レジャーの内容、人々は余暇をどのように過ごしているのか、ということはたいへん重要なことだ。
 ということで、ためしに主要なレジャーについて調べてみる。

1972年の国民生活センター発行の『余暇活動における満足度調査結果報告書』では東京都23区内住民を対象にした調査として主要なレジャーを列挙している。テレビをみる、新聞を読む、家族との談話、読書をする、外食ショッピング映画観劇などをみる、一泊以上の国内旅行、友人知人と会話を楽しむ、海水浴日帰り行楽ラジオを聴く、スポーツ博物館美術館動植物園へ行く、音楽鑑賞ドライブ散歩公園で過ごす、スポーツ観戦手芸日曜大工園芸囲碁将棋麻雀カードゲーム楽器演奏絵画書道写真パチンコパチスロ茶道華道洋和裁登山ハイキングペットコンサートバーキャバレー体操美容キャッチボール資格取得のための学習地域活動釣りギャンブル社会奉仕活動海外旅行切手コイン等の収集、宗教活動。 

  色々ありすぎて手に負えない。けど色々あって面白いと思う。とりあえずみんな色々なことをしていて、おもしろい。ひとまずそういうことにしておく。今度またそれぞれ検討しよう。

 話を広げすぎるとわけが分からなくなってしまうので、ひとまず自分のことを省みてみる。僕は普段、学校へ行くか、バイトに行くか、スーパーに行くかタバコを買いに行くか、あとはたまに髪を切りに行ったり眼科に行ったり、友達の家に遊びに行ったり鳥貴族に飲みに行ったりする以外はあまり外に出ない。この前『ブレードランナー 2049』を観に映画館に行ったけど。電車に乗ってどこかに遊びに行くということをほとんどしない。

 なんでそんな体たらくなのかと自問してみると、大きく分けて二つか三つくらいの原因がある。一つ目は、外に出るとお金がかかるから。散歩とか、図書館とか、お金がかからない外出もあるにはあるけど、ついつい喫茶店に入ったり、自販機でジュースを買ったりするからなんだかんだお金は使う。別に悪いことじゃないんだけど。外でだらだらお金を使ってしまうより、そのお金で本とか買いたいと思ってしまうので、あんまり細々とした外出はしなくなる。二つ目は、自炊をしっかりやり始めたのとamazonが便利すぎること。外に出る用事の一つとして、昔の自分を振り返っても周りを見渡しても、誰かと飲み食いするということが多い。授業がある平日なんかは、実際外食くらいしか人と会うような用事が作れない。だけど一度の外食にかかるお金で(安いお店や大学の食堂を選んだとしても)、三日くらいの食費になると考えると、腰が重くなる。あともう一つ、買い物も外に出るためのかなり大きい動機だけど、僕が欲しいものは日用品とか食糧とか徒歩10分圏内で手に入るものを除けば、主に本なんだけど、読みたい本は結構絶版のものも多くて、絶版じゃないものでも町の小さな本屋さんには売っていないものが多いので、結局Amazonで買っちゃう。というかAmazonでしか買えない。飲み食いと買い物という外出のための二本の柱を失ってしまっているので、外に出る回数はめっきり減った。

 あとは単純に寒かったり天気が悪かったり、寝不足だったり精神のバランスを崩してる時は外に出たり人と話すのがこわくなる性格とか、すぐ人酔いして疲れ果ててしまうとかで、外に出たくなくなる。あとは部屋が楽しすぎる。無限に暇を潰せる。これは僕の特技といっていいかもしれない。

 だけど最初に書いたようにこのままではいけない状態になっているので、どうにか外に出る動機や意欲を増やしたい。現実的なところだと散歩とかになるんだけど、同じところに何年も住んでると散歩にも飽きてくるし、そういうことについて考えててもあんまり楽しくないのでやめる。散歩が一番手近な外出だとしたら、一番縁遠いというか、ハードルが高い外出は海外旅行だと思う。しかし海外旅行について想いを馳せてもそれはそれで現実的じゃなさすぎておもしろくないので、国内を旅行することについて考えてみたい。

 僕はあんまり旅行はしないんだけど、なぜといえば計画を立てられないというか、目的地が決められないから。僕の頭の中はかなり茫漠としていて、ところどころ抜け落ちているし、どこに何があるとか、ここは何で有名で何が美味しいとか、そういうことを一切知らない。この前、そういうことに詳しい人にどうやって詳しくなったのか聞いていたら、テレビかなあと言っていた。旅行する目的地を探すには、テレビはとてもいいのかもしれない。だけど僕にはテレビを観る習慣がほとんどないので、それ以外を考える。目的地を決めるためには、何らかのとっかかりがないといけない。そのとっかかりを、全国各地に点在している何かに定めれば、自ずと行きたいところができていくんじゃないかと思う。パワースポットでもお城でも山でも何でもいいと思うんだけど、個人的に気になるのは温泉と美術館とか記念館かなと思う。つげ義春がよく行っていたようなひなびた温泉宿を巡ってみたい気持ちもあるし、『HOSONO百景』で細野晴臣がフェイバリット硫黄系の温泉として挙げていた長野の白骨温泉も気になるし、『ひきこもらない』の中でphaが理想のサウナと言っているウェルビー栄店にも行ってみたい。プールのやつで有名な金沢21世紀美術館には一度は行ってみたいし、日本一入館料が高くて展示物は全てレプリカってことで話題になった徳島の大塚国際美術館も見てみたい。宮沢賢治の家にも行ってみたいし、小豆島で海や星を見るついでに尾崎放哉記念館にも寄りたい。あとは荒川修作が構想した岐阜県養老天命反転地にも行ってみたい。週末にでもいけるラインを攻めるとすれば、『ファイナルファイト』がバリバリ駆動しているらしい梅田のロイヤルゲームセンターにも行きたいし、シネマヴェーラ梅田で『パターソン』が観たいし、小島信夫の『別れる理由』が全巻売っているらしい古本屋にも寄りたい。あとは京都の、最寄駅から徒歩五分で一泊600円と手ごろな笠木キャンプ場でキャンプしたい。

 考えてみると結構いろいろ出てくるもので、嬉しくなった。まとまった時間は長期休みにならないととれないけど、長期休みならできることなので冬休みにでもどれか行ってみようかな。

 本当はもっと身近なことでいろいろ考えたかったんだけど、長くなってしまったのでまた次の機会にする。食事や買い物で外に出なくてお金がないなら、あとはフラッと寄れるたまり場くらいしか選択肢はないかなと思う。この人が書いている、「ニアハウス」という考え方はとてもおもしろい。

皆でだらだらと適当に過ごせる場所について(試案) - 表道具

 

最後に、外に出ることについて最近読んでおもしろかった文章をペタペタ貼って終わりにします。

 

後藤 「今までの坂口さんの著作では“家はいらない” 、“家を所有することでしばられてしまう” というような記述があったと思うんですが、実際、この場所で生活を営んだり、逃げてきた人を助けたりするに際して、家のような場所が必要なんだと思い直されたというところが、とても面白いと思っていて」

坂口 「家っていうよりも、僕は“プライベートパブリックだ”って言っているんです。公共施設とか公共機関って僕は信用できなくて。(中略)僕は“家が必要ない”って言っていたわけじゃなくて、何故あのおじさん達の家(※1)が小さくて安いもので済んだかって言う話をしてきていたわけです」

後藤 「なるほど」

坂口 「それは何故かといえば、町自体を家の一部として利用していたんだと。僕達はプライベートな持ち物を購入し、ここは壁でおおって見せないようにして、公共の道を歩きながら買い物をして暮らしている。でも、そういう家じゃなくて、隅田川の鈴木さんの家(※1)は小さくて、一間(いっけん)くらいなわけです。でも、彼にとっては街の図書館が自分の書庫、公園のトイレがプライベートなトイレ。お店から捨てられるものを少しずつ採集して、ガソリンスタンドからは電源をもらって利用する。そうすると、彼が実践していたのは“家がいらない”んじゃなくて、“ここもあそこもわたしの家である”ってことなんじゃないかと。そして、そういうのを僕達が見ていると、“ここは私の空間である”という考え方が少しだけ揺らいでくるんじゃないかなと」

後藤 「面白いですね」

坂口 「従来の考え方だと“大きな家を建てる”という方向に言ってしまうところを、家自体はすごく小さくてよくて、近所にすごくいいレストランがあればそこが自分のキッチンみたいな…。そういうふうに捉えはじめたら、レストランも“これいくらで出すよ”とかっていう、単なる売るためのものじゃなくなるかもしれない。もうちょっとお客さんと提供する側との人間同士の関係になるっていうか。ここでコーヒーを飲むとおいしいとか、もう少しその人のリビングに近づけるような。なんとなくこういうのは理想的すぎて飛躍した話だと思っていたんだけど、鈴木さんは既にそれをやっていた。だからびっくりしたんです。鈴木さんは僕のレイヤーで言えば “超豪邸に住んでいる”って僕は言っていたんですよ。しかも、彼らは“所有”をしている」

後藤 「はい」

 

坂口 「“所有”っていう概念を僕は消したいわけじゃなくて、“あそこの場所は俺のもの”って思っている限り、それは“所有している”ことになるということ。でも、その“所有”は奪われたときに“まあしょうがねえか”って思えるものなはずなんですよ。だって、その場所に対して、なんらかの契約をしているわけじゃないから。アルミ缶だって“このおばちゃんからもらう”って鈴木さんは決めていて、ある意味では所有しているんだけど、彼より早い時間に他の人が来てしまって奪われてしまうこともあるわけです。そういうときに“あ、失敗したな”っていう感じがある。僕はそれを見たあたりから“所有”って言葉を使うようになってきたんですね」

http://www.thefuturetimes.jp/archive/no02/0center2/

 

坂口 「寝ているときは中でいいけど、だいたいは外に出ようと。路上生活者の生活を見ていても、“外にでようよ”というのはひとつのテーマなんですね。外に出なきゃいけない。都市っていうのは、人が外に出て動きまわることによって動く。でも今、みんなすぐに中に戻って行っちゃうので、だから日本の町が面白くないんだなと。アフリカの町がなんで面白いかっていうと、人がずっと外に出ているんですよ。そうすると、人が表に出ている分だけ町っていうのはほつれていきますから。今の日本ではなかなか見えにくくなっているけれど、でもあるんですよ、日本にもね。これまでも僕は、そういうものだけを日本の中で見つけ出してきたつもりですけど。ここは、そういうものを伝えるための起動装置にしたいと思ってる」

http://www.thefuturetimes.jp/archive/no02/0center2/ 

 

生活のどこまでを家の中で済ませてどこからを家の外にアウトソーシングするかというのに絶対的な基準はなくて、ライフスタイルや文化によっていくらでも変わるものだ。日本は数十年前にサラリーマンと専業主婦の組み合わせという家族スタイルが一世を風靡したせいか、家事に要求する水準が高い上に、できるだけ外注せずに家の中でなんとかするべしという傾向が強い気がする。
 タイのバンコクでしばらく暮らしていたことがあるのだけど、そのとき一番驚いたのは「タイ人はほとんど家で自炊をしない」ということだ。なぜかというと屋台やレストランなど外にあるご飯屋さんが安くて美味しくて店の種類もいろいろあるので、自炊するよりも外で食べたり外で買ってきて食べたりする方がリーズナブルだからだ。家で料理をするのは外で食事を買うお金もない貧乏な人か、豪華なキッチンで趣味として料理をするお金持ちのどちらかだ、というくらいの感じだった。
 それまで人間は世界中どこでもみんな家で料理を作るのが普通だと思っていたのだけど、そうじゃない場合もあるんだというのをそのときに知った。僕が知らないだけで、世界には他にも「日本では家でするのが当たり前だと思っていることを外でする文化」や「日本では家の外でするのが普通なことを全部家の中でやる文化」などがあるのかもしれない。例えば、みんな家で洗濯しないので洗濯屋がたくさんある文化とか、みんな自宅で髪を切るので散髪屋が全くない文化とか。
  pha『ひきこもらない』「街を家として使ってみる」

 

「国境なきナベ団」という活動をやっている人たちがいて、何をするかというと駅前や公園などで突発的に鍋を始めて、興味を示した通りがかりの人たちなんかも巻き込みながら鍋を囲む、というものらしい。そういうのはよいなと思うんだけど、警察を呼ばれて「撤去しなさい」という警官とのこぜり合いになることもあるらしい。鍋くらい別にいいじゃないかと思うんだけど。
 もうちょっと穏当なものとしては、インターネット界隈で行なわれている、公園でブルーシートを敷いてお菓子やお茶を持ち寄ってだらだらするという「ブルーシートオフ」とか、ファミレスやカフェでもくもくと本を読んだり作業をしたりする「もくもく会」とか、そういった集まりがあった。僕はきっちりとしたイベントは苦手なのだけど、そういう行っても行かなくてもいいような集まりは好きだ。なんかそういう小さな集まりや小さな居場所が、街なかにもっとたくさん生まれればいいなと思う。

pha「街なかに居場所がもっとあればいい」

 

「外に出る」ということは、とても大事なことだ。いまは、インターネットがまだもの珍しいせいで、「あなたは、お部屋で、いながらにして」というようなご親切なセールストークばかりが流れてくる。しかしさぁ、これって極端なかたちで言えば、「幽閉」「監禁」「座敷牢」じゃないのか?だって、「自由」ってことがあるのはちがうけれど、やってることは、同じになってると思うんだよね。なんでもかんでも、メディアの端末から流れてきて、なんでもかんでも、その端末で返していく。これがインタラクティブの理想か?これが、便利で未来的な豊かさか?自分自身も、外に出る機会がとても少なくなってるけど、それをいいことだとは思えないぜ。「ほぼ日」も、インターネットメディアだけれど、これを読んでいると人に会いたくなったり、外に出かけたくなったり、現実の景色を見たくなったり、そういうインターネットにしたいなぁ。毎日熱心に読んでくれる人がいるのは、むろんうれしいんだけど、これさえあれば、なんてことあるわけないし、とにかく外に出たくなるような、いきいきしたリアルな世界を想像させるようなメディアに、どうやったらできるか、一生懸命に考えていきます。
—  糸井重里邱永漢『お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ』

 

言論の自由の考えの基盤には, 真実か虚偽かは一人の人間が決定できることでは なく,開かれた場でできるだけ様々な考えが提示 されることを通じて,最終的に社会が真実に接す ることができる可能性が高くなるというミルトン の考え方がある
—  平井正三「自由連想あるいは言論の自由について」

 

フィクションがウソくさくてたまらぬ、というのは、文学的思考から生じるウソくささではないでしょうか。一種のこもったようなものでしょう。どんな人間にも、内部の、こもった部分はあるにしても、それをもとにしたもの、いわゆる文学的なものは、ゴメン、ということもあり、ウソくさくも思える、というのでしょう。もし文学的思考によるものが、沢山だというだけではなくウソくさく思われるとしたら、そして、それがフィクションがウソくさいということへとつながって行くのだとしたら、それはとても面白いことですね。
—  小島信夫保坂和志『小説修業』

 

 

ところで、何も考えなくても何も行動することができなくても、人間は生きている。目に何かが見え、耳に何かが聞こえ、肌が何かを感じているだけで、人間は生きている。考えるということは、五官が世界を感知していることを起源として進化したことなのだから、考えるということは、内=<私>に向かわせるのではなくて、外=世界に向かわせるべきものだ。何よりも奇跡的なことは、私の自我があることなのではなくて、「私のこの肉体がある」ということで、それ以上の奇跡はない。この肉体があるから、私は世界を感じることができているのだ。
 ーーと、まあ、一年分の連載を要約すると、どうしても宗教家の言葉のようないかがわしいものになってしまうので、これに補足的な説明を加えますと、連載の中では<人間>と<言語というシステム>との関係についての考察がかなりの量を占めているのです。どうしてそういうことになったのかというと、「言葉があってはじめて人間になる」という人間観のせいで、人間を考えるときに言語が強調されすぎて、「ただ私がここにいる」ことが見失われてしまったからです。
 「私はただここにいる。それでじゅうぶんじゃないか」
 という人間観は、思えば私がデビュー作の『プレーンソング』以来、ずうっとこだわってきたことでした。
—  小島信夫保坂和志『小説修業』 

 

 …今回はいつもと比べてかなり長くなった。あと最近衣食住と、ラブとジョブについてよく考えているので、近々書くと思います。誰かに向かって書くというよりも、自分に言い聞かせる感じで。