アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

この世からいちばん小さくなる形選んで眠る猫とわたくし

蒼井杏『瀬戸際レモン』「多肉少女と雨」 

 

 1K六畳のワンルームマンションに住んでいる。場所をとらないで生きている、と思う。電車でも縮こまって座る。喫茶店に入っても隅っこの席を選んで座る。肩らへんの骨が内側にめり込んでいるような姿勢、そういう癖が骨格についているように思う。もっと胸をひらいたほうがいい、と母に何度か言われたことがある。

 東京の空は狭い、と人は言う。たぶん大阪だって名古屋だって似たようなものだろう。街に住んでいても空が狭いと思ったことはない。狭い空に慣れきってしまっているのだろう。いま住んでいる家は通行量の多い道路の近くで、窓を開けているとトラックのエンジン音やら救急車のサイレンやらがひっきりなしに聞こえる。意識すると気が散るには散るが、やはりそれにも慣れてきている。

ろあろあと深夜のエンジンこの部屋に聞こえいてねむるまえのろあろあ

野口あや子『眠れる海』 

 小さい部屋に慣れきっていて、空間への感覚というのか、自分の持つ縮尺自体がみみっちくなっていることに気がつく。縮こまっていると、緊縮していると血が滞る感じがする。だから僕は冬が嫌いで夏が好きだ。夏になって日差しをむき出しの手に足に浴びながら汗をかいている、汗をかいているそれだけでなんとなく血が全身を駆け巡るような感じがする。サウナにいる気持ちよさと同じかもしれない。前の家は空調設備が壊れていた。今の家はきちんとエアコンが使える。寝苦しいときに二、三時間のタイマーをセットしてつけているが月々の電気代は1500円もいかないくらいで新しいエアコンは燃費がいいんだと感心している。エアコンが使えると、その気になれば涼しい部屋をいつでも実現できると思うと、よりいっそう夏が好きになる気がした。去年の夏はひどかった。四十度に近い日が続いて、そこから逃れる術もお金もなかった去年はいつでも熱中症すれすれでよろめきながら重いものを運んだり運ばなかったりした。命の危険を感じない夏はひたすらに気分が良い。今日は久しぶりに休みの日によく晴れて、早起きして洗濯を済ますとうどんを茹でてゆで卵と軽く茹でてあった小松菜とえのきを載せて腹ごしらえをすると自転車にまたがって行ったことのなかった近所の川へ向かった。目指してみれば自転車で10分くらいで川につき、工場とか倉庫とかが立ち並びコンビニはおろか自販機もあまりない川沿いの、間隔が広くて人のためではなく大型車のために作られているような道や橋を見ていると退屈な風景だけどなんとなくすっきりしてきた。堤防を下ると少しは人や自転車が通ることが念頭に置かれている感じになり、ベンチや切り株がぽつぽつと置かれている。しかしその間隔がまた広い。その広々とした場所に座って、鳥のはばたきや阪急電車の走る音を聞きながら本を読んだ。家で読んでもいいのだが僕は本が読みたくて、しかし外に出たくて、外に出ていると基本的に本が読めない、しかし一日家でまんじりともせず読書にふけっていると体がだるく頭が重く痛くなってくる。そこで僕は外で本を読めばいいというシンプルな解法にたどり着き、気候が良い時にはそうしている。以前は舟岡山にのぼってそれをしていた。今は近所に山がないので川に来た。広いところに来るとすっきりする。広いところに行くのと銭湯に行くのが今のマイブームだ。

 あと最近気になっているのが詩人の富永太郎で、飯島耕一が『萩原朔太郎』の中でいうには、「衰弱と解体の果てに、かえって生への転換を夢想した詩人である」と言っている。衰弱と解体といえば今の僕の生活にしっくりきて、昼夜の別もなく切れ切れの時間をなんとか生き延ばして貯金残高をせっせと増やしているだけの暮らしをしていて、自意識が高まったような霧散したようなどちらとも言えるような状況の中で、なんとか楽しく、というか生の実感を得て生きていきたいという自我が再び芽生え始めた僕にとって、とてもタイムリーな評言で富永太郎は一気に気になる存在に躍り出た。

 

ありがたい静かなこの夕べ
 何とて我がこころは波うつ
 
 いざ今宵一夜は
 われととり出でた
 この心の臓を
 窓ぎはの白き皿にのせ
 心静かに眺めあかさう
 月も間もなく出るだらう
—  富永太郎「無題」