アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

むずかしい本はむずかしい

 わたしはむずかしいことばがきらいだ。

 むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。
 なかなかわからないのだ。
 むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。
 本当に悲しい。
                (高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)

  難しい本が全然読めない。難解とされている哲学者の書いた本などを読んだことはある。だけど全然わからない。難しい本を読む前には、入門書とか思想史みたいな本を読んで、ある程度の予備知識を入れてから読む。そうなるとところどころにせよ、こういうことを言っているのだろうというのがぼんやりわかるような気がしてくる。時間をかけて一生懸命読んで、冗談ではなく4ページを1時間かけて読むようなペースで読んで、読み終わったことはほとんどないけど、本を閉じてふと気づく。読む前と何も変わっていないのだ。たとえば、デカルトは「我思うゆえに我あり」という有名な言葉を残していて、近代的な自我の形成に多大な影響を及ぼした、という知識を事前に知っていて、興味が出てそれに関連するデカルトの本を読む。読み終わった後にわかるのは、デカルトは「我思うゆえに我ありって言ってた」ということだけだ。ちょっと話を盛ってるけど、だいたいこんな調子で、テキストの精密な読解とか、どうやったらできるのか全然わからない。こういうことが書いてあるのかなと期待して読んで、それに該当する箇所だけが頭に残ってわかった気になって、すっかり満足してしまう。せっかく歴史的な名著を読んだとしても、僕は自分が読みたい文章を読みたいように自分勝手に読み替えているだけだ。その論旨を丁寧に一行一行辿っていこうとしてもすぐにわからなくなり、気がついたら同じ行を何度も読んでおり、イライラして、踊りだしたくなってしまう。きっと根がバカなんだろう。難しい本を読むのは、難しい。だけど大学の図書館には難しい本しか置いてないから、本を買うお金がない僕は大学の図書館に行って難しい本を読む。難しくてよくわからないと思う。

 

 ところで難しい本をちゃんと読むと、読み終った後しばらく、そうとしか考えられなくなる。その人が考えたようなやり方でしか、ものを考えられなくなる時期が始まる。大げさに言えば、世界認識の方法が根本から揺り動かされるわけで、もっと俗っぽい言い方をすれば「人生観が変わる」ので、疲れている時とかなげやりな気分の時は難しい本は読めない。疲れてる時に人生観を変えようなんて気にはならない。今までと違った考え方やものの見方を身につけることがしんどくなってきた。今まで見えなかったものが見えるようになるのに疲れてきた。あまり快くない現実に対して

「知らない方が幸せ」で済ませてしまうのは怠慢としか思わないけど、見えなかった問題や知らなかった留意点などがどんどん覆い被さってくるとちょっとしんどくなる。責任ばかりが増えていくように思える。ところで僕は論理というものをずっと誤解してきたような気がする。論理的な文章と線的な物言いの区別があんまりついていなかった。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の物言いを、論理的と勘違いしていたんじゃないかと、今になって思う。僕は難しい本は全然わからなくて悲しくなるからあんまり好きじゃない。だけど反知性主義的なものはもっと好きじゃない。だから時々頑張って難しい本を少しずつ読んでみる。そんなものなんじゃないかとも思う。放っておいたら僕は思い込みが強くて感情的で多分に差別的で偏屈な人間なので、自戒の念を込めてよく分からない本を読む。それは無駄ではないと信じたい。

 なんだろうなこの、ここ最近の無力感は。何を読んでも何を考えても何を言っても何をしても、何も変わらないと思えてしまうこの感じ。うまく言葉にすることすらできない。

エンドロールに名前が載る人

 エルレガーデンが復活したらしい。僕も高校時代に何曲かコピーしたし、大学に入ってからもエルレにまつわる思い出がたくさんあるし、エルレを聞いて元気を出したことも何度もある。ネタ的な動機が強かったけど、”高架線”のライブ映像のスクショをLINEのプロフィール画像にしていた時期もあった。思うよりあなたはずっと強いからねって歌ってるとこ。

 だけど、エルレが復活することそれ自体よりも、みんなが一斉にそわそわしてTwitterに集まって喜んでたり思い出話をしてたりするのを見るのがすごくうれしいなと思った。みんなまだ生きてるんだ、みんなまだ音楽が好きなんだ、ということが確認できて。

 人間関係について、友達とか恋人とか先輩後輩とか知り合いとかいう区別とは別に、「自分の人生のエンドロールに名前が載る人」というジャンルが自分の中にある。それは好きとか嫌いとか、よく遊ぶとか遊ばないとか、たくさん話したとかあんまり話したことがないとかは関係なくて、一緒に過ごした時間の量で決まる。ある場、あるコミュニティで居合わせて、たくさんの同じ時間を過ごした人は自動的に僕の人生のエンドロールに載るようになる。家族や恋人はもちろんだけど、高校時代の部活のみんなとか、大学時代同じサークルだったみんなは間違いなくエンドロールで流れる。なんならバイト先の人たちとか、同じ学部で授業でよく見かけた人なんかも入るかもしれない。

 綺麗事でもなんでもなくて、僕はその人たちがみんな元気にやっているといいと思っている。エルレの復活に沸く今日のツイッターのタイムラインを眺めていると、そういうもう連絡はしないかもしれない、もう会うことはないかもしれない、もう実際に話す事はないかもしれないけど僕の人生のエンドロールに名前が載る人たちがみんな今日もまだ生きている、そして今ちょっとウキウキしたり懐かしがったりしているんだということがわかって、それがとてもうれしかった。ツイッターはこういうとき最高だなと思う。

 ふとした時に、たとえば銀杏BOYZを久しぶりに聴いたときとかに、エンドロールで名前が流れる人みんなに、もう一度会って、飲み会で話しかけたりしなかった人とも、もう一度ちゃんと話がしてみたいと思うことがある。同じ時間を共有していた人たち、同じように音楽が好きで好きでしょうがなかったはずの人たちと、もう一度会って話がしたいと思うことがたまにある。実現するかは、わからないけどね。

 No.13と金星を聴きながら。

一日中ひまだった

 自分が今まで書いてきたものを読み返すまでもなく、僕はいつも同じようなことを書いていると思う。その理由は簡単に、僕がこのブログに何かを書くときの状況がワンパターンだからだ。一言で言えば、お金がなくて時間があるとき、つまりめちゃくちゃ暇なときだ。そしてたいていはへとへとに疲れている。何かに没頭するための体力や気力もなく、しょうがないからここらで一発何か書いていろいろ振り返ってみるか、というときだ。そういうときに自分のことについて時間をかけて考えようとすると、自然とロクでもない方向へと転がっていく。ロクでもないことがダラダラと書いてある文章を読むとロクでもない気分になると思うけど、書き散らかした本人は割合ケロッとしている。少し気分がすっきりするからだ。

 楽しかったことがあったとき、何かに熱中していてエキサイトしているとき、幸せな気分のとき、そういうときに文章を書いたら明るい文章になるとは思うけど、僕はそういうときに文章を書こうという気分にならない。というか書こうとしてもあんまり言葉にならない。言葉はいつでも遅れてやってくる。よかったことを書くには想像しているよりも長い時間が必要だ。文章を書きたいと思うときは大抵途方に暮れているときか、何もやる気がないとき、外に出たり動いたりしたくなくてひたすら頭をぐずぐずさせているときだから、無力感マシマシでくすぶった感じの文章だけがひたすら量産される。

 もちろん、ご察しの通り、今日も仕事がなくてお金もなく、今本を読むのにも音楽を聴くのにも飽きたところなので、こうして文章を書いている。

 

 あなたの「これなら誰にも負けない」と思うものは何ですか?という馬鹿げた質問が面接とかであるけれど、質問の意図とか相手への印象とかをまるっきり無視して答えるなら、「無力感」だと思う。けどこれじゃギャグになっちゃうな。

 前向きにでもなっていないとすぐに潰れてしまいそうな日々が続くと、後ろ向きでいられることの幸福とでもいうようなものを感じる。つまり今日のように、何もすることがなくて、実際に何もしないでプスプス煙を立てるだけの1日が送れることそれ自体がたまらなく幸せなことのように思える。前向きに頑張ることを常に要請される、というかそのような精神状態に自分を持っていかないと乗り切れない日々に疲れた時、今日も頑張ろうとかやっていきましょうとか全く言わなくても思わなくてもいい時間が飽き飽きするほど手に入るととてもうれしい。好きなだけ暗い音楽を聴いたりあんまり人に言えないような映画を観たり、ゴシックとか世紀末ウィーンの美術について調べたりしてると、そういうものにうんざりしてくる。前向きでいなければいけないのはとても疲れるしムカつくけど、後ろ向きでいるのもしんどいし飽きてくるものなのだ。だけどすっかり飽きてしまうまで思いっきり後ろ向きなものにどっぷり浸ることができる時間が僕はとても好きだ。バカみたいな話だけど丸一日かけてそういう泥沼をくぐり抜けると、自然とこういうの飽きたしもう一回くらい頑張るか、という気持ちになってくる。その繰り返しそれ自体が徒労に思えてたまらなく嫌になることもあるけど、そういうときでも落ちるところまで思い切り落ちてみると長くても二日で飽きる。ある意味ものすごくタフだと思う。いろいろなものに次々と飽きながら生きている。

 

 谷川俊太郎の考えた33の質問の中に、「あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。」というのがあって、なんていうかそういう問いってとても大切な気がした。どんなにささやかなことだろうと馬鹿げたことであろうと、理想について思いを巡らすことができなくなったら何かがだめなんじゃないかと思う。現実的かどうか、とかそういうことを検討するのとは別の次元で、もちろんそれも欠かせないけど、単純に理想について考える、理想について話す、語り合うということが許されるというかできるような環境であって欲しいと思う。去年は大雑把に言うと目の前にある現実に自分のサイズを合わせることにこだわってきたわけだけど、現実からの要請・制限を度外視して何かを見る・考えるということはとても大切なことで、そしてそれは一度欠けてしまうと埋め合わせることはとても難しいものなのだと今では思う。理想について好き勝手に考えるということは、一番身近で、手っ取り早い、持続可能性のある明日へのエネルギーの一つだと思う。僕は「明日へのエネルギー」という言い回しがとても好きでいつも頭の片隅に置いてるんだけど、これはandymoriの”CITY LIGHTS”からのアレです。

 WHO憲章の中の健康の定義に関する部分が、1998年に変更されたという話は有名だけれど、肉体的・精神的・社会的という側面だけでなく、霊的という観点が加わったことが主な変更点で、霊的な部分の充足ということを僕はしばしば忘れてしまう。だけど健康って結構複雑なのだ。あっちを立てればこっちが立たず、ということがしばしば起こるけれど、少しずつ、後戻りや寄り道もしながら、近づいていけたらいい。

手を動かして、よく眠れ

 業務用スーパーで2kgの鶏肉を買った。宇多田ヒカルばかり聴いている。最近少し眠りやすくなった。『収容所のプルースト』を読んだ。川口晴美の詩集を読んでいる。日の光がよろこばしい。ペーパードライバーという語の響きが気に入っている。自動車免許は持っていない。

 少し活字に疲れてきている。肉体労働はつらいが1日部屋の中にいるのもつらい。小林銅蟲にハマっている。映画をまた観るようになった。放射性廃棄物の処理をめぐる『100000年後の安全』というドキュメンタリー映画がいま気になっている。『チェルノブイリの祈り』という本も読んでみたい。石牟礼道子の『苦海浄土』はずっと部屋の隅に積んだまま読めていない。近所の古本屋さんは熊本びいきで良い。

 高橋睦郎の『永遠まで』と伊藤比呂美の『河原荒草』をとても気に入っている。半年で2冊もお気に入りの詩集ができることは珍しくてとてもいいことだと思う。

 長い文章や、論理的な話の運びができなくなってきている。今日は別に疲れているわけではないのだけど。だから箇条書きで書いている。改行をしないと箇条書きに見えないかもしれない。そもそも人を動かすことにあんまり興味がないというか、それよりもそんなことはまるっきり他人事だと思っているという方が近い。

 お金があんまりない。ギリギリ食いつないではいけるけれども家賃とタバコと食費以外に回せるお金がほとんどない。お金がない状態が続くと時々、店やコンテンツや言葉の背後に透けて見えるあらゆる作為が鼻について嫌になることがあって、そういう状態になると何にお金を使っても楽しくなくなるので少ししんどい。そういう目で見ると、世界は空でしかなくすべてのものはハリボテに感じられるけれど、たとえ本質的には薄いハリボテだとしても、多くの人がそれをあるかのように振舞っているということそれ自身に価値は宿っている。本質が見たいという気持ちがずっと強かったけれど、おそらく本質などというものはロクなものではない。本質の上には何も築くことはできないのではないかという疑念がいまでは強い。ここで本質という言葉を使うのは本当は正しくないかもしれない。僕は本質という語の意味をそこまで正確に調べたわけでも把握しているわけでもなく、何となくの印象で使っているから。なんにせよ限定的な物言いはよくない。多分だけど人生は想像しているよりもずっと長くて、減らしたり捨てたりするのは一思いにやってしまえば簡単なことで、今はというか若いうちは減らすよりもむしろ増やすことに執心するべき季節なのではないかと思う。増やそうと思っても増やせないようになる時がきっと来る。今ならまだかろうじて増やすことができる。清貧とか簡素な生活とか色々言うけれど、減らすことが得られるもののヴァリエーションなんて割と高が知れている。減らすとか足るを知るという方向でやっていっていると、思ったよりもたやすくガンガン減っていく。確かにそれ相応の満足感もあるにはあるが、減らすことから楽しみや豊かさを引き出せる年月はそんなに長くないんじゃないかと思う。やはりどこか死に支度という感触が拭えない。単純化しすぎた考え方かもしれないけれど、やはり減らすことは死ぬことと繋がっている気がしてしまう。生きることは増やすこと、というかどんどん散らかしていくことではないかと思う。減らすことに重点を置いた生き方を今からしていくと30歳ちょい過ぎぐらいにもう何も無くなってしまいそうな気がするのでおそろしい。何も期待しなくなってしまうことはおそろしい。憧れがなくなってしまうことはおそろしい。それが幻かどうかはあまり関係がない。何かを信頼していなければうまく息ができない。そうじゃないか?

 何だか宗教にハマりそうな人みたいな文章だな。だけどあるかないかよりそれを信じることができるかどうかということの方が活力に関してははるかに重要だと思うんだ。全部ごっこ遊びに見えてしまう、冷めた視線には気をつけたい。危ない思想にも。

最近よかったもの

 最近よかったものをメモしておきます。

音楽:

 


姫乃たま/人間関係

 姫乃たまの”人間関係”はいい。誰かよく知らない。他の曲も聴いてみたけどこの曲がダントツでいい。プリンスの"Sign of The Times"みたいな病み付きグルーブがたまらない。永遠に聴いていられる。発想としてはハバナエキゾチカに近いのかな。こういう硬派なトラックにゆるい感じの女の子のボーカルをのせるスタイルの元祖って誰なんだろう。相対性理論とか水曜日の人らへんから増えたような印象があるけど、もしかしたら森高千里とかかな。戸川純?あんまり音楽に詳しくないのでわからない…

 


SALU / 夜に失くす feat. ゆるふわギャング (Ryugo Ishida, Sophiee)【Official Music Video】

 この曲でゆるふわギャングを知ってちょっとハマりかけた。"Escape To The Paradise"が特に好き。こういう音楽の楽しみ方の一つとして、サンプリング元の曲を知っているとあの曲がこんな風な使われ方をするのか!という驚きがあって面白いんだけど、ゆるふわギャングは十代の頃に聴いてたもの・観てたものが同じなんじゃないかという感じが強くて良い。この曲だったらMGMTだし、"Escape〜"ではスーパーカーがサンプリングされていて、PVはパルプフィクションだし、曲の終わり方はサージェントペッパーだし、そういうみんな大好きなものをサラッと入れ込んでツボを刺激するのが上手すぎる。オシャレだな〜と思う。

 あと、単純に楽しい気分になれるのがいい。年齢というか、時期的にしょうがないことだとも思うけど、最近はどうも体制を整えることが先決で、幸せとか楽しみとかそういうものを先送りにしてしまうことに疑いを持っていなかったけど、別にいつだって今その瞬間を楽しくしちゃうことは別に悪いことではないなということを思い出した。youtubeにあがってる鶴見済とphaと大原扁理の”幸せの自給自足”をテーマにしたトークショーの中で、「みんなハッピーになることに罪悪感があるんじゃないか」というようなことが言われていて、確かにそうかもと思った。GWに久しぶりに友達と集まってバーベキューしたのはとても楽しかったのでよかった。

 


Prison Songs - Early In The Mornin'

 日雇い労働をしていると、ものによるけど、朝から車に他の人と一緒に押し込まれて会場までドナドナされることがあって、そういう時に覚悟を決めるために聴く曲。むかし黒人奴隷がつらすぎて歌っていた歌のひとつ。こういうプリミティブな、生々しいリズムが好きで、なんていうか人間の声ってすごいなと思わせる。ブルース以前の、もっと直接的な音楽。

 つらい時、どんな音楽も本もなんの助けにもなりゃしないよ、と言いたくなるくらいニヒルな気分に落ち込むこともあるけど、そこからさらにつらくなるとちょっとした物語や音楽が信じられないくらいの救いになることがある、ということが最近わかってきた。そういうわけで、まだ読んでないけどジョゼフ・チョプスキの『収容所のプルースト』を大学の図書館で借りてきた。留年したのでせめて本を借りまくって元を取る算段です。読むのが楽しみ。ヴェイユエリック・ホッファーも読んでみたいと思うけど、なんていうか、ハードなものに触れてハードな人生観を身につけると、それに比例する感じで自然と生活がハードな方向に転がっていく、そんな風な仕組みで世の中できているような気がするので、あまりハードになり切らずに、個人の幸福を盲信する感じというか、人生舐めてる感じを適度に残していきたいですね。

 

本:

頼むから静かにしてくれ (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER)

頼むから静かにしてくれ (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER)

 
愛について語るときに我々の語ること  THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈2〉

愛について語るときに我々の語ること THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈2〉

 

  カーヴァーをよく読んでいる、という話は最近よくしているけどよく読んでます。初期のカーヴァーはちょっとハードすぎて胸焼けすることがあるけど、『愛について〜』以降の、『大聖堂』とかそのへんに入ってる短編はすごくいい。カーヴァーを読むと、目の前のとっちらかった面倒ごとを一つ一つ片付けていくための体力やら気力がちょっと回復する感じがしていい。

 

聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017

聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017

 

  聴くと聞こえるをテーマにした谷川俊太郎の詩のアンソロジー。とても良かった。もっと耳を澄ませたくなる。 

地鳴き、小鳥みたいな

地鳴き、小鳥みたいな

 

 保坂和志の短編集。ずっと読みたかったんだけど、たまたま入った古本屋で見かけて以来記憶が飛んで、気がついたら家にあったから読んだ。まあ買ったのですが…

 「キース・リチャーズはすごい」とかいうふざけた名前の短編が抜群に良い。保坂和志は記憶についてよく書いているんだけど、音楽ほど記憶と結びつきやすいものもあんまりなくて、保坂和志が音楽と記憶について書いたこの短編がよくないわけがないんだけどめちゃめちゃによかった。

 

映画:

 『スペースバンパイア』と『死にたいほどの夜』と『夏物語』をみました。感想は別のところに書きました。

頭から離れない詩

 ここ数ヶ月、4ヶ月くらい、ずっと頭から離れない詩があって、それがやっと図書館で借りることができたので、メモしておくことにした。初めてその一節を読んだ時にはびっくりして、この詩のように生きていけたらいいなんてことを思った。変なことなのかもしれないけど、漫画の真似をして遊んだり、詩を読んでこんな風に生きていこうなんて思うことが、僕には楽しい。

 

 

  この家は私の家ではない 死者たちの館
 時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ
 色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている
 彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ
 と彼は言う 不思議でも何でもない 私がそう願っているからだ
 親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする
 帰りに呉れる浄め塩を 私は持ち帰ったことがない
 三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く
 もしよければ ぼくといっしょにおいで
 その代り ぼくの仕事を手つだってね
 そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない
 かならず死者たちの援けを必要とする

  この家は私の家ではない 死者たちの館
 ぼくのところにおいでというのは 厳密には間違いだ
 きみたちの住まいにぼくもいさせてね というのが正しい
 ここには はじめから死者たちが群れていて
 しぜん 新しい死者を呼び寄せるのだから
 いさせてもらう代りに 何かをしなければならないのは 私の方
 彼らの居心地をよくして 長くいついてもらうため
 こまめに窓を開けるとか つねに掃除を欠かさないとか
 彼らに何かを強要するなど とんでもないこと
 その結果として 詩が生まれたとしたら
 じつは それは私のではなく 彼らの手柄
 私は拙い代行者に過ぎないことを 銘記しよう


 この家は私の家ではない 死者たちの館
 私の家といえるのは 私が死者となった時
 それも正しくは 私たちの家というべきだろう
 死者たちのひとり 霊たちのひとつとなって
 私はもう詩を書かない 書く必要がない
 すでにすべての抽出が ここで書かれた詩であふれ
 しかも それらの詩はすべて生まれそこないの蛭子
 生きている誰かが来て 私たちのあいだに住む
 彼が詩人であるかどうかは 私たちの知るところではない
 ただ願わくは 彼がこの家を壊そうなど 謀反気をおこして
 私たちと彼自身とを 不倖せな家なき児としませんように
 生まれそこなった詩たちを 全き骨なし子としませんように

—  高橋睦郎「この家は」 詩集『永遠まで』より

 

彼女は今日

 映画の20センチュリーウーマンで主人公の母親が、主人公をいろいろなところに連れ出してくれる下宿人のお姉さんが撮ってきた息子の写真を見て、「あなたは外でのあの子を見ることができるのね。うらやましいわ。」みたいなことを言うシーンがあって、それがずっと忘れられなくて何度も思い返してる。

 母と息子の関係にそれは顕著だけど、それだけに限らずに僕が関わってきた人みんなの、僕と一緒にいるときのその人しか僕には見ることができなくて、そんな当たり前でどうしようもないことを時々寂しく思ったりする。恋人に対しても思うし、友達にだって思う。両親に対してだってそう思う。今よりもずっと幼い頃から思っていた。

 関係性が深まっていくほどに、話せることが増えていくのと同時に、話せないことも増えていく。打ち解ければ打ち解けるほど、距離感や緊張感をもって会話をすることがむずかしくなる。だけど友達に対してはやっぱりあんまりそういうことはない気がする。

 あんまり関係ないかもしれないけど、似たような話として、十代の頃、自分以外の男たちはどういう風に女の子を口説くのか、ということが気になっていた。デートに誘ったり手をつないだりキスをしたりするときに、どんな風にそれをするのか、それは友達に聞いてもわからない。そいつに口説かれた女の子にしかわからない。今はそんなことどうでもいいと思うようになったけど、当時は結構気になっていた。

 そういう感覚をピロウズが「彼女は今日」という歌にしていて、よくそれを聴きながらたまらなくなって頭を抱えたりしていた。


the pillows - Kanojo wa Kyou (Live)

 

 最近よく読んでいるカーヴァーにもその感覚を連想させる短編がちらほらあって、特に短編集の『頼むから静かにしてくれ』に入っている「隣人」「人の考えつくこと」「ダイエット騒動」「あなたお医者さま?」「自転車と筋肉と煙草」などがそのあたりを刺激してきていい。こういうのって一種の覗き症なのかな。