アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

頭から離れない詩

 ここ数ヶ月、4ヶ月くらい、ずっと頭から離れない詩があって、それがやっと図書館で借りることができたので、メモしておくことにした。初めてその一節を読んだ時にはびっくりして、この詩のように生きていけたらいいなんてことを思った。変なことなのかもしれないけど、漫画の真似をして遊んだり、詩を読んでこんな風に生きていこうなんて思うことが、僕には楽しい。

 

 

  この家は私の家ではない 死者たちの館
 時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ
 色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている
 彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ
 と彼は言う 不思議でも何でもない 私がそう願っているからだ
 親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする
 帰りに呉れる浄め塩を 私は持ち帰ったことがない
 三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く
 もしよければ ぼくといっしょにおいで
 その代り ぼくの仕事を手つだってね
 そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない
 かならず死者たちの援けを必要とする

  この家は私の家ではない 死者たちの館
 ぼくのところにおいでというのは 厳密には間違いだ
 きみたちの住まいにぼくもいさせてね というのが正しい
 ここには はじめから死者たちが群れていて
 しぜん 新しい死者を呼び寄せるのだから
 いさせてもらう代りに 何かをしなければならないのは 私の方
 彼らの居心地をよくして 長くいついてもらうため
 こまめに窓を開けるとか つねに掃除を欠かさないとか
 彼らに何かを強要するなど とんでもないこと
 その結果として 詩が生まれたとしたら
 じつは それは私のではなく 彼らの手柄
 私は拙い代行者に過ぎないことを 銘記しよう


 この家は私の家ではない 死者たちの館
 私の家といえるのは 私が死者となった時
 それも正しくは 私たちの家というべきだろう
 死者たちのひとり 霊たちのひとつとなって
 私はもう詩を書かない 書く必要がない
 すでにすべての抽出が ここで書かれた詩であふれ
 しかも それらの詩はすべて生まれそこないの蛭子
 生きている誰かが来て 私たちのあいだに住む
 彼が詩人であるかどうかは 私たちの知るところではない
 ただ願わくは 彼がこの家を壊そうなど 謀反気をおこして
 私たちと彼自身とを 不倖せな家なき児としませんように
 生まれそこなった詩たちを 全き骨なし子としませんように

—  高橋睦郎「この家は」 詩集『永遠まで』より