アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

めめんともり?

 よく生老病死のことを考える。この世の四苦八苦のことを考える。それは伊藤比呂美の最近の著作をいくつか読んでいたからかもしれないし、昭和一桁生まれのご老体を日常的に目にする職場で働いているかもしれない。気がついたらフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』とか、ジム・クレイスの『死んでいる』とか、死をテーマにしている本を手にとって読んでいる。前者は死んでいく主体の視点で書かれた、いくらか幻想的な、そしてラテンの香りがする小説で、後者は死んでいく客体、動物学者の夫婦の腐敗し分解されてゆく過程や、そこに至るまでのあまりドラマチックとは言えない人生や、彼らがすれ違ってきた死、そして娘が彼らの死を知り、受け止める物語が描かれる。ジム・クレイスは徹底的な無神論者で、この小説は無心論者はどのように死を捉えるのか、そこに虚無以外の何物かを見出すことはできるのか、という試みであると思えた。その即物的というのか、唯物論的というのか、ある意味では冷徹とも言える淡々と距離を置いた描写や、粛々と行われる自然の浄化作用の様をひたすら追っていくうちに、この語り口それ自体が、一つの答えとまでは言えないまでも、一つの受け止め方を示唆するものであるし、この小説、この試みがすでに、一つの弔いになっているのではないかという印象を受けた。死後や救済といったものを持ち出さずに、死者を弔うには、やはり語るということ、夜通し語りつつ悼むこと、残された記憶をとっておくこと、少なくとも残された者たちが生きているうちは、なかったことにしないこと、それぐらいしかできないのかもしれない。自然のサイクルの中で一人の人間の死を捉えるのでは、それはあまりにちっぽけで、取るに足らない出来事で、納得はできるかもしれないが慰めにはならないと感じる。人間の死にはやはり人間的な対処をするべきではないかと思ってしまう。人間的だなんていうよくわからない言葉を使ってしまった。

 そもそも死が、考えるに値するものなのかどうか、疑わしいと思うところもある。それはただの厳然たる事実、当然の結果なのであって、考えたところで何が変わるわけでもない、いくら思いを巡らしたところで想像の域を出ることはない、と言えるかもしれない。死ぬ瞬間、私は死んでいるのだから、それを知覚する意識はないのだから、私の意識は死ぬことはない、みたいなことを昔のギリシアの人が言っていたっけ。そうであるならば死のことを考えても仕方がない、死は考えるに値しないということになるかといえばやはりそうではない。生きている限り必ず死ぬわけで、死は虚無以外の何物でもないとするならば、それに連なる生も虚しいものになってしまわないか。もちろん生は虚しいと嘯いてみせることは簡単だが、心底そう思いながら生活していくことはできない。虚しいもののために苦しい思いをして日をつないでいこうなどと思う方が頭がおかしいと思う。

 死に対して我々ができることが、語ることであるとするのが『死んでいる』ならば、生きることは語ることだとするのがジャネット・ウィンターソンの『灯台守の話』で僕はこれをとても明るい気持ちで読んだ。物語を読むことによる、あるいは物語ることによる救い、と言ってしまえば陳腐かもしれないが、陳腐でもなんでも物語にはやはり救いという側面はある。光を当てられるだけで、掬い取られるだけで、救われる思いがする時がある。十代の頃、自分の気持ちを言い当てられたかのような文章を読んだ時のあの気持ちは、救いと言っても大げさではないものだったと思える。ケアの分野でもナラティブ・ケアという考え方がある。僕はまだ詳しくないので今年中にでも関連書籍を読もうと思う。そういえば伊藤比呂美も、語りのスタイルで詩を多く書いている。それは救いとはまた別のものだけど、草いきれのような、夥しいような感じのする、強烈な生の充満を感じさせるものだった。『河原荒草』がすごいので読んだほうがいいです。」

死後の電話であなたのために歌うとき声は水面を羽ばたく水鳥

 

電話の声は死後に似ていておもいだすとき声はいつでも鳥に似ていて

カニエ・ナハ『なりたての寡婦』 

 

生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび

大森静佳『手のひらを燃やす』 

 

音楽

 最近は毎日工事の音がうるさくて、正確なことはわからないがドリルやらトンカチのような音がひっきりなしに鳴り響いてきて、神経がカリカリしてくるので耳コピした。勢い良く振り下ろされるトンカチの音はミ、徐々に高まっていくドリルの音はド#からレを経由してミになる。だから賑やかになってくるとキーをEとして捉えてセッションしていた。そうやって一度乗りこなしてしまえば、半分は自分が鳴らしていると思うと悪い気はしなくなって、作業がひと段落したのか静かになってしまうと逆にちょっと寂しく思った。街でうるさい若者の集団の近くにいると身が縮こまる思いがするが、自分が友達と喋りながら練り歩いている時は一緒にいる友達や自分の話し声がうるさいとは思わない。もしくはスタジオに入って音を合わせている時にドラムやベースの音が耳障りだと思わないのと一緒で、自分も当事者になるというか、参加してしまえばあまり気にならなくなる。自分に関係がないのに、騒音の被害を被っているからムカムカしてくるのであって、一方的な思い込みであっても、何らかの関係を取り結んでしまえばちょっとした情が湧いてくる。

 
 話は変わって、この前母と二人でポール・マッカートニーの来日ライブを観に行ってきて、それに感銘を受けた母が、僕がギター始めたての頃によく練習していたビートルズの”Blackbird”を教えて欲しいと言い出したので今朝はじめの数小節の弾き方をレクチャーした。それでたどたどしくギターを爪弾く母を見ていると、かつての自分を見ているような気がして、というわけではないんだけど当時の体感がまざまざと蘇ってきて、目の前の光景やメロディーが二重写しのように感じられた。そうやって記憶の揺らぎというか存在がダブる感覚に浸るのはなんとなく気分が良かった。堀江敏幸の『燃焼のための習作』を読んでいて少し考えたことだけど、例えば子供を育てるというのは、しばしば同じ目線に立ってみたりしながら、自分の人生をもう一度生き直すような側面もあるのかもしれないと思うと僕は子供は苦手だけど子育てに少し興味が出てくる。それは保坂和志の『季節の記憶』を読んだ時も少し思ったことだった。子供を育てるということは単純に種の保存とかそういう意味だけではなしに、自分の人生を一過性のものではなくする試みなのかもしれない。一度きりの人生を一度きりじゃなくするというか、過ぎ去った時間や感覚の虚像を見つめ直すというか。まあどっちみちこんな自分本位な興味で新たな命をこの世に生み出そうなんて気にはならないですが…
 
 また話は変わるけどギターを始めたての頃の感触を思い出して、振り返ってみると本当に音楽を始めたことで僕の人生は大きく変わったんだなと思った。交友関係ももちろんだけど出かける場所とか時間の使い方とかやりたいこととか聴く音楽とか考え方とかにまできっと音楽が深く根を下ろしている。例えば僕はフジファブリックに季節が変われば町の匂いが変わるということを教わった。そういう例はいくらでもある。14才の頃から長らくロックに心酔していたわけだけど、音楽は世界を変えるなんて嘘っぱちだとしても少なくとも僕の人生は変えてくれたと思うと嬉しくなった。

小笠原鳥類に

この前京都に行ったときに三月書房に寄って、目当ての本が売り切れちゃっていたので何の気なしに手に取ったのが小笠原鳥類の『鳥類学フィールドノート』。小笠原鳥類の名前は知っていたしちらっと読んだことはあったけど前衛っぽい感じが鼻について好きじゃなかった。だけどこれをパラパラ立ち読みしてみたらすごく良くて、すぐにレジに運んで有り金を叩いて買った。帰り道に調べてみるとこれは小笠原鳥類の今年出たばかりの最新詩集で、とても安全で安心、安全で、安心ということだった。これですっかりハマって既刊の読める詩はだいたい読んだけど、この『鳥類学フィールドノート』がいちばん詩集全体のまとまりがあって、一編が短く、そして胸いっぱいの音楽なので小笠原鳥類の入門書として最適だと思う。シュルレアリスティックなとっつきにくさもだいぶ薄まっているし、円熟したというか、渋みを増したというか、凄みがあるというか、余裕を感じるというか、どれもあまりそぐわない形容だけど、とにかくこの詩集からは書くものすべてが詩になってしまうような神懸かり的な何かを感じる。ピカソの晩年の絵画のような軽みと音楽がある。

 

 

 

小笠原鳥類の詩は数限りない生き物たちが泳ぐ水槽、あるいは色とりどりの図鑑のようで、そこに切り取られたたくさんの名前や色彩、体の模様、描かれる曲線を眺めているだけでもうっとりするが、声に出してみると素晴らしい音楽だ。「水槽の熱帯魚から 離れられなくなっていた」とスピッツがデビュー曲で歌っていたが、僕は小笠原鳥類の詩から離れられなくなった。図鑑の中にお気に入りの生き物を探すように、詩の中に素晴らしい音楽を聴きつける。無意識を海になぞらえる比喩があるが、とすれば魚は夢であり、彼の詩の中では魚は音楽でもある。

 


小笠原鳥類の詩が音楽だというのは、例えばパウル・クレーの絵画が音楽的だと言われるのと同じ意味で音楽だ。そこには色彩のリズムがある。

 


衝動的に買ってよかった。ちなみにYouTubeで小笠原鳥類と検索すると地下アイドル?が小笠原鳥類の書き下ろしの詩を朗読するミュージックビデオが上がっていてそれもとても安全で安心で最高なのでひまな人や小笠原鳥類が好きな人やアイドルならみんな好きって人は見てみてください。

 

iPhoneから送信

slintに

まず2ndのジャケットの写真が大好きで、この前ふとそのことを思い出したからツイッターのアイコンをこれに変えた。ポストロックの元祖とか色々言われてるらしいけどそのジャンルには明るくないので、歴史とか影響とか位置付けについてはよくわからない。

蛇のように冷ややかな手触りで刻々と形やニュアンスを変えるギターがとにかくよくて、聴いているうちに徐々に呑み込まれていくようで気がついたらクセになっている。

モグワイとかの後世のバンドにも受け継がれているような、極端な静と動のコントラストや、法則性のよくわからない変拍子が聴いてて飽きない。寄せては返す波のようだと言えるかもしれないが、それは足元をそよそよとやさしく洗うような種類のものではなくて、気がついたら元いた場所から遠く流されているような、大きな蜘蛛に巣の上でこねくり回されているような変幻自在なバンドサウンドがとにかく気持ち良い。なにか揺れるものがある。

PILみたいな金属質なギターの音とか、バスドラの音とか、音のひとつひとつも気持ちいいけどそれらがすべてうまく噛み合って絡み合っていてとても良い。全体としては音数は少なくて、不快ではない緊張感が保たれているし、ノイズが鳴っていてもうるさくない。とにかく良い。良いなあこれ。

ちょっと調べたらもともとはスティーヴ・アルビニがプロデュースしてたバンドらしくてなにかと合点がいきました。PixiesとかCloud Nothingsとか好きな人は好きなのかな。

 

iPhoneから送信

カルテット観ました

 遅ればせながらドラマの『カルテット』をみました。晴れて期限付き無職となったので、これまで観ようと思っていたけれどずるずると観ないままになっていたドラマや映画を観ていこうと思っていて、その一環です。これまで僕が観た最新のドラマはずっと『最高の離婚』で止まっていたのですが『カルテット』になりました。次はシャーロックを観ようと思っています。

 最初に言っておきますがネタバレとか気にせず感想を書くので、僕のように観よう観ようと思いつつも未だに観ていないという人がいたら読まない方がいいかもしれません。

 

 久しぶりに観終わるのが寂しいドラマに出会ったというか、毎回毎回ここ好き!ポイントがありすぎて自分を抑えるのがたいへんでした。なによりキャストと脚本がいい。キャスティングで一番好きなのがサンドウィッチマンの冨澤で、脇役だけど出てくるだけでニヤニヤしてしまう絶妙な配役だった。あとは単純に満島ひかりの顔面が昔からすごく好きなので嬉しかった。お茶を淹れる松田龍平も可愛いし、高橋一生も最高にあざといし、松たか子の目で語る演技も良かった。

 坂元裕二の脚本の良さは、例えばnaverまとめに載るような、深いい感じの名言とか、誰もが一度は飲み込んだことのあるような、うまく言葉にならない、どうでもいい思いをすくい上げるようなあるある系の小ネタの数々とか、なんでもない会話やモチーフが伏線になってたりする巧みな筋運びとか、いろいろあるんだけど、一番の魅力はいい意味での不親切さだと思う。全てを台詞で説明するんではなくて、ちょっとした挙動とか、表情や視線で表現する。視聴者があれこれ想像出来る余白やさりげない対比や伏線がふんだんにある。ドラマに限らず映画でも漫画でも文章でもバラエティ番組でも、「わかりやすさ」が称揚されがちな現状において、そういう読み込む楽しさがある作品は少なくなってきている。その点に関しては受け手のリテラシーが低下しているというより作り手の「アホな受け手」幻想が肥大化して勝手に強迫観念のようになっているんじゃないかという気がするけど。

 

 全部で10話あって、それぞれの話にここ好き!ポイントが10個はあるので到底語りつくせないんだけど、特に好きなのが満島ひかり回の3話で、胡散臭いお父さんが高橋源一郎なのがそもそも好きなんだけど、なんといってもやっぱり蕎麦屋のシーンが良い。蕎麦屋に入って躊躇なくカツ丼を頼むすずめちゃんに合わせて「カツ丼二つ」と注文をするマキさんの気遣いがあるからこそ、その後の「髪の毛から同じ匂いして/同じお皿使って/おんなじコップ使って/パンツだってなんだって/シャツだってまとめて一緒に洗濯物に放り込んでるじゃないですか/そういうのでも いいじゃないですか」という台詞が何倍にも輝くのだし、お父さんが死にかけているから「病院に行こう」と説得しようとするマキさんに対してすずめちゃんが絞り出す「怒られるかな…ダメかな/家族だから行かなきゃダメかな/行かなきゃ…」という一連の台詞の中の「怒られるかな」の部分がすごくて、「怒られるかな」という台詞はすずめちゃんからしか出てこない。お母さんはとっくの昔に亡くなっていて、お父さんが死にかけているというのに、それに駆けつけなかったからと言って誰に怒られるというのだろう。すずめちゃんの口から咄嗟に「怒られるかな」という台詞が出てくるのは、誰に、というのは問題ではなく、彼女が子供の頃にインチキ魔法少女として過去に汚名を背負う羽目になり、誰とも知れない不特定多数の第三者から強烈なバッシングを受け続けたからであり、表面上では笑ってやり過ごしていても、やはりそのことに深く深く傷ついていて、その傷は未だにちっとも癒えてはいないということがこの「怒られるかな」からありありと伝わってきて、とてもつらい気持ちになった。そんないじらしい姿を見せられたら誰だって「いいよいいよ」って言うよなあという説得力があった。

 

こんな調子で語りたくなるポイントが少なめに見積もってもあと99個はあって、つくづくすごいドラマだと思う。これはリアルタイムで、ほかの人とああでもないこうでもないと意見を交わしながら観ていたかったなと思う。

味覚の積み重ね

 この前初めてイチジクを食べた。僕は小さい頃からフルーツが嫌いで、バナナ以外は食べられなかった。今でも好んで食べるのはバナナとみかんくらいで、ほかのものはほとんど食べたことがないから好きか嫌いかもよくわからない。食わず嫌いをしている。正確に言うと過去形で、食わず嫌いをしていた。今では食べる機会があれば食べてみようという気になっているけれど、知らない味、食べられるかどうかわからない味のものを自分から積極的に買ったりはしないので結局のところあまり果物は食べない。だけど最近は実家暮らしで両親がたまに果物を買ってきてくれるのでそれを食べてみたりする。この前イチジクをちょっと食べて、その前はスイカをちょっと食べた。ブドウも買ってきてくれていたがなんとなく気乗りしなかったので見送った。

 食べ物の好き嫌いがあるのは良くない。特にフルーツ全般がダメだというと、栄養が偏っていきそうな気がする。それに何かのめでたい機会にケーキ屋さんに行っても、ケースいっぱいに色とりどりのケーキがあるのにフルーツが食べられないとガトーショコラかチーズケーキの二択になってしまう。それには前々から寂しさというか味気なさを感じていた。

 僕は味覚というのは積み重ねだと思っていて、一概には言えないけれど、食べなれてる味はおいしくて、食べたことのない味、知らない味を初めて食べた時においしいと感じることはありえないんじゃないかと思う。もし初めて食べたものがおいしいと感じたとしたら、それはこれまでに食べたことのある好きなものに味が似ているだけなのではないかと思う。本当に初めて食べる味を、その場ですぐに食べ物だと認識できるものなんだろうか。例えばコーヒーにしても、初めからおいしいと思う人はいるのか怪しい。僕の場合は、中学生ぐらいの頃に、ブラックコーヒーが飲めたら格好良いと思って意識的に特訓したから飲めるようになったし、周りに聞いてもそういう人が多い。飲んでるうちにおいしいような気がしてくるのだ。

 大人になってから美味しさがわかるようになった野菜というのもあって、例えばナスとかピーマンとかニラとかミョウガとか、子供の頃は嫌いだった。だけど大人になって、一人暮らしをして自分で料理をしているうちに、野菜の方が安いから野菜をたくさん買って食べるようになって、そうしているうちに好きになった。

 味覚の好き嫌いのメカニズムというか、どうして好き嫌いができるのか、ということはまだあんまり解明されてないらしいけれど、ある程度は慣れなんじゃないかと思う。僕がどうしても食べられないというか食べたくないものはネギと生の玉ねぎなんだけど、ネギに関しては初めてそれと知らずに食べた時にマーライオンに取り憑かれたので、それが身体に染み付いてるんじゃないかと思う。トラウマになってしまった食べ物を好きになることは難しいかもしれないけど、好きでも嫌いでもない、食わず嫌いのものは、食べているうちに好きになるんじゃないかと思う。何が言いたいかというとフルーツを食べられるようになりたくて、フルーツを食べる特訓をたまにしている。

 初めての味や食感に戸惑うし、知らないことにチャレンジするのは体力や気力を使うので、毎日食べたことのないフルーツに挑戦したいと思っているわけではないけど少しずつ克服していきたい。イチジクに関しては、見た目も食感も奇抜で、覚悟が必要だったけど、味自体は馴染みがないこともない味で、おいしかった。本当においしいと感じたのかどうか自信が持てないけどそういう時はおいしかったと思い込んだ方がきっといい。

 モモに似た味がしたような気がする。あるいはいつかカレー屋さんで飲んだグァバジュースみたいな味がした。食感は結構グズグズで、細かい種のようなものがグラニュー糖のような歯触りだった。水分もあって、甘いんだけどどこか苦いような酸っぱいような味も混ざっていて、初めての味と言えばそうだったけれど要素に分解すれば完全に初めて食べる味や食感というわけでもないような気がした。そのようなことを喋りながらイチジクを食べていたので両親からそんなにイチジクに一喜一憂する人は初めて見たと言われた。

 それで思ったんだけど、23歳にもなって、知らない味、食べたことがないものがまだまだたくさん身近にあるということは幸せなことなんじゃないかと思う。よく優れたフィクションの作品についても、記憶をなくしてもう一度味わいたいとか、これから出会える人が羨ましいとかいうけれど、みんなが大好きな果物を、これから一から味わえるというのはひょっとしたら恵まれた体験になるかもしれない。

 果物を食べられるようになりたいということについてこんなにクドクドとクダを巻けることにちょっと驚いているけど、とにかく食べ続けていればそのうちおいしいと思えるようになる折り返し地点が来るはずだ。おいしいというのは食べなれている味だということだという信念を持って、これからもチャレンジし続けていきたい。いつかフルーツタルトで誕生日を祝うのだ。

倫理観と楽しみ

 実家で暮らすようになってから、両親がNetflixと契約しているのでそのおこぼれをよく頂戴している。はじめにアニメの『TIGER&BUNNY』を観て、とても面白かった。詩人の川口晴美がこのアニメを好きで、これを題材にした詩集を出して賞までもらったというのを聞いて、興味が出たのがきっかけだった。その後川口晴美がタイバニについて語りまくる座談会が収録されている同人誌『稀人舎通信』を買って読んだりもした。タイバニは普通に見ても面白いけれども、腐女子と呼ばれている方々から絶大な人気を誇っていたらしく、その座談会ではそのような視点での、pixivなどでの二次創作も視野に入れた楽しみ方が紹介されていて面白かった。たしかに24話の通称チャーハン睫毛事件は、普通に見ていても衝撃的なシーンだった。バニーちゃんかわいい。

 去年の暮れあたりから暇なときにVtuberの動画を見るようになって、最近はもっぱらにじさんじ所属のヴァーチャルライバー鈴鹿詩子さんの配信のアーカイブを寝る前に見ている。というよりラジオ感覚で流しっぱなしにしたまま寝ている。それではVtuberの意味がないんじゃないかとも思うけれど、やっぱりVtuberじゃなかったら知ることも聞くこともなかったと思う。Vtuberならではの表現方法とかそういうことにはあんまり興味がなくて、アバターによって、わかりやすく可愛い外見やキャラクター性が与えられることで、それまでは顧みられることのなかったその人の声や語りの内容にスポットが当たる、ぼくはVtuberというものに対してそういう認識を持っている。つまりは何か新しい文化というふうに捉えているわけではなくて、声や語りのためのパッケージだというふうに考えているのかもしれない。

 それはさておき鈴鹿詩子さんは自他共に認める古の腐女子で、腐女子という言葉自体は僕が中学生ぐらいの頃から既にあったと思うんだけど、オタクの女性版くらいに思っていて、あまり深く考えたことはなかった。斎藤環さんだったか、男はキャラクターの属性に萌えるが、女は関係性に萌えているというようなことを言っていて、もちろんこれはそんなきっぱりと境界線が引けるような話ではないし、近年のきららアニメなどの日常系の消費のされ方を見ているとますます曖昧になっていると思うけれど、腐女子というのはどうやら単なるオタクの女性ということではないらしい、何やら独特の視点やコンテンツの楽しみ方を持っているらしいということに気づいてからは興味が湧いて、ユリイカのその手の特集号やら、よしながふみさんの対談集なんかを読みふけっている。さっきちょっと名前を挙げた『稀人舎通信』にも「腐女子という生き方」という特集号があってそれも読んだ。世代差や個人差は大いにあるみたいだけれども、腐女子的なメンタリティというのはフェミニズム的な視点とも関わってくるところがあるみたいで興味深い。例えばムカつく上司に怒られた時なんかに脳内で勝手にその上司をカップリングしてほくそ笑む、みたいな話があって、これはよくあるムカつく上司なんて死んじまえとかって愚痴るのとはまったく違うストレスの発散法で、現状としては別に何も変わらないんだけど、その人の頭の中では瞬時に力関係が逆転していて、言うなれば誰も傷つくことなく上手にその場をやり過ごしていて、すごいと思った。この表向きには波風立てない、という部分が魅力的でもあるけれど、それゆえにフェミニズムとは重ならないのかなとも思う。それが悪いことでもないと思うけれど。

 よしながふみの対談集『あのひととここだけのおしゃべり』は、特に三浦しをんとの対談が面白いんだけど、フェミニズムや倫理的な話題は知った者が損をする、ということになりがちだけれども、そういうことを知った上で、胸に秘めたままで、いかに周囲と不必要の摩擦や軋轢を生まずに楽しく過ごすか、とうところにベクトルが向いていて、とても頼もしい人だと思った。

 最近はNetflixでよくドキュメンタリーの映像を見ていて、特に畜産による環境への悪影響を告発するキップ・アンデルセン監督の『Cowspiracy;サステイナビリティの秘密』がショッキングだった。ここ一年くらい食に関する本を幾つか読んでいたので、ぼんやりとは知っていたけれど、食肉や畜産によって引き起こされる大規模な環境汚染が、ここまで広く深いものだということは知らなかった。大気汚染や森林伐採、水不足などの環境面への被害も深刻だけど、食料自給率の観点から見ても、食肉はコストパフォーマンスが悪いというか、日本の風土というか国土の狭さはそもそも畜産向きではない。戦前までの日本人の食事というのは理にかなったものだったのだなと思うと同時に、戦後、肉や乳製品も食べましょうという政府の指示のもと、国民の栄養状態がかなり良くなって寿命が延びたことも事実なので、一言で食肉は悪と言い切ることもできない。畜産業に関わる人たちの雇用問題もあるし。かといって、こういう複雑な問題、途方も無く解決の糸口もつかめないような問題に対して、知らないふりを決め込むのもどうかと思う。

 先日僕は就職が決まって、福祉・介護業界に進むことになったんだけど、そうしようと決めたのがそもそも、年々需要が高まっていくだろうという予測に対して介護業界には人手が足りないからで、人手不足の原因の一つとしてイメージが悪いというのがあって、イメージだけじゃなくて実際にも長時間労働だとか薄給だとかフォローがちゃんとなされてない現場もいくらでもあるらしいんだけど、ともかく介護業界を志す若者というのは少なくて、そのような現状の中で、介護業界に入って、潰れずにへっちゃらでなんとか楽しく暮らしていくことができたら、それだけでちょっとした社会的意義があるんじゃないかと思ったから、その道に進むことにした。他にも幾つか理由はあるんだけど、今回のお話に関連するのはそれなのでそれだけ書きました。

 知らない方が良かったと思うことってたくさんあるけれど、知ってしまったから無邪気に楽しむことができなくなったと思うことはたくさんあるけれど、自分の倫理観にがんじがらめになってしまうこともあるけれど、それでも知らないよりは知っている方がマシだと信じたい。倫理と楽しみは相反しないということにしておきたい。なるべく楽しく、なるべく倫理的に、やっていけたらいいと思う。まだまだ模索しているところで、今のところ倫理にこだわると楽しくなくなっちゃうんだけど。頑張りたい。