アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

カーヴァーを読んだりしている

 今住んでいる部屋の近所に、自分の一部のように思えてならない場所がある。月が綺麗な夜とか、陽の光を浴びたいときとか、パン屋さんでパンを買った時なんかによく行った。一人で行くこともあったし、誰かを連れて行ったことも何回かある。よく行ったと書いたけど、本当はそんなに頻繁に通ったわけじゃないし、ここ1年では2、3回しか行ってないかもしれない。だけどなぜか僕の中ではよく行く場所という認識だし、近く感じている。ちょっとした山のような場所の頂上で、木に囲まれているけどそこは開けていて、座れるところがいくつかある。そこで座ってパンを食べたりパックの牛乳を飲んだりイヤホンで音楽を聴いたりしていると、太陽をたっぷり浴びることができるし、とても退屈で、いい気分だった。あんまり人はいないけど、たまに他にも同じように暇を持て余しているような感じのカップルや老人がいることもあった。ちょっとだけ星が見えやすいので、流星群や満月の日にはちょっとだけ人が集まることもある。そういうのがちょっと好きだった。

 引っ越すことになったら急にそういう場所とか記憶が懐かしくなって、ふとした時にいろいろなことを思い出してたんだけど、退去の手続きをミスってなんだかんだ夏の初め頃まで今の家に残ることになった。それまでの家賃や生活費を稼がなきゃいけなくて、日雇いのバイトを始めた。初めての肉体労働をして、爪が割れて血が出たし腕が棒になるくらいくたびれて泣きそうにもなったけどなんとかやり遂げて、うれしかった。今までそういう体を使う仕事をすることなんて考えもしなかったけど、数ヶ月後に引っ越すようわからん輩を雇ってくれるバイト先もないだろうし、体力作りにもなると思って重い物を運ぶバイトをした。くたくたになるまで体を動かして小銭を稼ぐのは、煩わしい人間関係もないし、責任の伴う選択もないし、すごくシンプルでまっとうな達成感があって、めちゃめちゃしんどかったけど悪くないなと思った。冷やかしテンションでやっているからそういう風にお気楽に思えるだけかもしれないけど。だけど自分が曲がりなりにも働ける体を持っているということが確認できて、それはやっぱりうれしいことだった。少し心が軽くなった。

 最近はカーヴァーの小説をよく読んでいる。カーヴァーの小説を読むのは好きだと思う。『必要になったら電話をかけて』という彼の未発表短編集を買って読んだ。その中の「薪割り」という短編が好き。アル中の療養施設に入っている間に妻に逃げられてしまった男が、新しく移り住んだ独り身用の下宿先で、これをやりきったら自分は変われると自分の中で約束をして、一心不乱に薪割りをする、というだけの話なんだけど、ついつい感情移入して読んでしまった。僕もいま、僕なりの薪割りの最中だ。

 カーヴァーの描くささやかな回復の物語が好きだ。ほんの少しの兆しを見せるところで終わってしまうし、元どおりにはならないし、増えてしまった皺は消えないけど、それでもともかくまた再び日々を生活を人生を自分の手に取り戻そうとしはじめるストーリーに救われる思いがする。カーヴァーの小説にはどれも、簡潔な文体の裏に、いくら掃除をしても気がついたらまた積もっている埃のような哀しみがこびりついていて、変な話だけどそれで気が楽になるようなことがある。心強い、素敵な友達みたいな親しみを感じる。

 カーヴァーの小説には、彼の作品のタイトルにもなっているけど、たくさんの「ささやかだけれど、役にたつこと(A Small Good Thing)」が含まれている。声にならない声に溢れていて、風が吹いたらかき消えてしまいそうないい気分があり、転がり続けた果てにたどりついたどうしようもない別離があり、何度も繰り返されたやりとりの焼き直しのうんざりするようないざこざがあり、大きな声にはならないし思い出というにはちゃちな忘れられないいくつかの場面がある。

 『必要になったら電話をかけて』に入っている「夢」という短編も良くて、毎朝妻を起こしに行くと、その日見た夢について話してくれる。彼自身は夢を見ず、「書き留めておけば?」とあまり気の利かない返ししかできないが、それなりに楽しく聞いている。隣家からは、料理中の奥さんのハミングが聞こえてきたり、眠らない夜に窓の外を見やるとまだ電気がついていたりして、自然な親しみを感じている。ある日隣家に不慮の事故が起こり、慰めたいと思うが力になれない。彼の親愛の情はあまりに一方的なものだったから。自分の妻の見る夢や、隣家からの灯り、聞こえてくるハミング、そういったささやかな励みに囲まれながらも、彼はそのどちらとも関係を持つことはできない。手は届かないけど、いつだってそばにある。その距離感が素晴らしいと思った。カーヴァーの代表作の一つである「大聖堂」もそうだけど、カーヴァーの作品は一見無愛想にも感じるけど、思いもよらなかった関係性のあり方やつながりを不意に感じさせるときがある。それが彼の作品の素晴らしいところだと思う。カーヴァーの描く、ささやかだけれど役に立つものの数々がたまらなく好き。