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正しく考えるとはどういうことか

最近考えていることがある。「考える」とはどういうことなのか、ということだ。また、「思考力」とはどんなものなのか。

思考力があるといった場合、だいたい正しく考える能力があるという意味だが、正しく考えるとはどういうことなのか。正しい結論にたどり着けることなのか、筋の通った道筋を順序よく辿ることができることなのか、粘り強く問いにしがみつくことができることなのか、僕にはよくわからない。

考えることとわかることとは、密接に関わっているように思える。しかし、なにかについて考えて、なにかをわかったと思ったことは、ほとんどないような気がする。なにかをわかったと感じるときはたいてい、外からのきっかけ、思いがけない出来事だとか、たまたま読んだ本の一節だとか、友人の何気ない一言によってもたらされることが多い。だけれども、それがなにかのきっかけによって不意にわかるということは、以前にそれについて考えたことが、考えようとしたことがあったからで、そのときはまったくわからないという結論に達したのだとしても、一度自分の中でそれについての問いを立てたことがあり、頭のどこかにひっかかっていたためにある時他の何かに結びついてあるまとまった考えが閃いたのだと思う。

だから、考えるということは問いをたてるということから出発する。言い換えると、あることが気になる、というところに端を発する。そして、わかるということには、とにかく時間がかかる。問いに対して、ちゃんとした筋道を立てて、じっくりと粘り強く考えていたら、必ずわかるというものではない。そういったものであるのならば、それは初めからわかっていたことなのだと思う。わかることと知っていることもまた違って、地動説はみんな知っているけれども、地球が毎秒すごい速さで自転をしているということをわかっている、実感しているひとはいないんじゃないかと思う。

考えるということは、A=B、B=CだからA=Cであるといった風に物事を繋げて回答をみちびき出すということだけではなく、もっと曖昧なものなのではないだろうか。僕は、とにかく頭の中に問いを放り込んでおく、そうするとある時急にわかることがある、そういうものだと思う。

そうやって僕が身につけてきたたくさんの知っていること、わかったことは、本当は全部誤解かも知れない。僕の考え方は正しくないのかも知れない。本当はすごく恥ずかしいことを言っているのかも知れない。正しく考える、より善く生きるということにとことん拘った人にプラトンがいる。彼の書いたものは数冊しか読んでいないが、彼は誰から見ても同じ物、明らかな物、間違っていない、矛盾がない物を正しいものだとしている。ように僕には思える。たとえば客観的な数字だとかイデアだとかそういうものだ。これはそもそも、この世には正解がある、どこかに真理がある、ということへの強い信頼に裏打ちされている考え方であって、真理などどこか遠くに吹き飛んで、神話は色褪せ神様は死んでしまった現代において、正解なんてものは存在しないのかも知れない。正解が存在しないのだとしたら、間違いなんてものも存在しないのかも知れない。そうなると、今の僕達がするべきことは、各々が勝手にあれこれ考えて、たくさんの誤解を身につけることなのかもしれない。学校で教えられたことは、あれは間違いだったと気づくときがある。だけどそれは、ある誤解から他の誤解へと、すり替えられただけなのかもしれない。現代思想なんていうのも、言葉の枠組みの中だけで完結した、まったくのでたらめなのかもしれない。みんながすでに好き勝手にでたらめをわめきちらしているだけなのかもしれない。二十歳を過ぎても、世の中わからないことばかりだと思う。