アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 雑な問いの立て方をするとモヤモヤしか出力されない。生きるとは何かがその代表例だ。自分には考えられることと考えられないことがある。言い換えれば答えられる問いと答えられない問いがある。答えられる問いは、それは答えられるものであるから、きちんとした良い問いを立てることができたなら、それはもうほとんど答えだ。

 答えられない、手に負えない、抽象的・観念的な問いを立てたふりをしてモヤモヤしていることが許される期間がモラトリアムだとすると、僕は年齢的にはそれを卒業してしかるべきなので、やたらと観念的な悩み事を作り出して身動きが取れなくなることを自分に許すのはそろそろ良くない。最近あんまりそういうのないけど。かといって、簡単には解決できない、しかし見て見ぬ振りをするのも望ましくない問いを捨ててしまうのも如何なものかという気持ちもある。引っ掛かりを懲りずに持ち続けることによって、考え続けることによって、時間の経過とともに、答えというには頼りないにしても、ちょっとした手応えのようなものが得られることがある。だからこのことについては保留にする。

 生きるとは、とか、欲望の原理とか是非とか、正直そんなことを考えていても結論は無になるだけでなんにもならない。無なものは無だと言われても現に僕はいま生きているしとりあえず天寿は全うするつもりでいる。生きていることや欲望の存在は所与のものとしてまず受け入れるべきで、自分で自分の足場を切り崩すような真似を素人がいたずらに試みるのはたぶん百害あって一利ない。根本を考えることは共有するべき前提を作る上では有効かもしれないけれどそれ自体が目的なのではない。僕の目的はというとなるべく平気で生きること、なるべく楽しく暮らすことなので、そういう観点で言ったら、自分は何をしているときが楽しいのか/苦しいのかを検討した方がきっと実りがある。欲望の原理やその是非についてクダを巻くよりも、どのような欲望が自分にとって望ましいのか、つまりどのような欲望を選択するべきなのか、を考えた方がいい。僕は欲望は恣意的なもので、環境を変えることである程度の方向性はコントロールできるものだと思っている。恣意的というのはちょっと違うかもしれない。自分にどんな欲望が流れ込んでくるかを予測して環境を整えることで自分がどのような欲望を抱くことになるのかがある程度コントロールできる、といった方がいいかもしれない。そんなに単純じゃないことの方が多いかもしれないけど。

 僕は将来の夢がいくつかあって、好きな人と暮らすこと、毎日料理を作ったり休みの日にはお菓子とかピザとか焼くこと、本が読める生活をすること、蜜柑の木を植えることです。当面の目標はいい感じに日焼けすること、筋肉でもつけてなかなか疲れなくなること、仕事をもらうこと、です。いま欲しいものは穂村弘の新しい歌集とプロテインのヘヴィーウェイトゲイナーです。

禁欲主義的

 禁欲的な生活態度について考える。僕は必要に迫られて、主に金銭面で、禁欲的な生活態度でもって日々をやり過ごすことを余儀なくされることがしばしばある。ちょっとした都市に暮らす僕たちにとって、何かをすることは大なり小なり金銭のやりとりが発生するから、金銭面での節約は全面的な節制につながる。

 禁欲主義的な態度は、歴史を振り返ってみるとあらゆる時代の様々な地域に見出される。ぱっと思いつくだけでもストア派の人々、キリスト教徒、禅僧などなど。それらを大雑把に見てみると、禁欲というのはだいたいそれ自体が目的なのではなく、それによって近づくことのできる真理だとか死後の救済だとかと強く結びついている。今の僕は真理への探究心はそこまで強くない。ある程度の良識というかコモンセンスを外さなければまあいいかと思っている。真理への渇望も何らかの信仰も死後の救済もべつに信じていない僕も含めた現代を生きる多くの人々にとって、禁欲はどのような意味を持つのか。何らかの必要に迫られたり、宗教的な感情と結びついた禁欲なら理解できるけれど、そうではない自主的・積極的な禁欲は今日どのような意味を持つのか。

 「悟りとは平気で死ぬことではなく、平気で生きること」であるみたいなことを正岡子規がどこかで書いていて、禁欲の意義というとまずそれではないかと思う。欲望にいたずらに振り回されたり、我を失ったりすることなく、地に足をつけて自分の生を生きるための方法として、禁欲があるのではないかと。ミニマリストがものを減らすのは不要そうなものが目に入った時に「これ捨てようかな、どうしようかな、でも人にもらったものだし、思い出もあるし…」などと思い煩うコストを根本から断ち切るためだというのを聞いたことがある。何らかの仕事なり目標なりに打ち込むために、それへの集中を妨げる障害になりうる要素をあらかじめ取り除いておいて、生活をシンプルにしてしまって、生命維持や日常生活に関わるような活動をルーチン化して、それらに気をとられる時間や些細な決断で消耗するリソースを温存しておいてここぞというところに集中させるという、合理的な精神の持ち主が合理的な判断に基づいて禁欲を選び取る場合が多いんじゃないかと僕は思う。

 僕は合理的な考え方を内面化するのがあまり好きじゃない。コストパフォーマンスに徹底的にこだわるならいまこの場で自分の腹をかっさばいてしまうのが一番の節約ではないかと思う。僕のこれも大概だけど合理主義につきまとう単純な考え方があまり好きになれない。基準をこれと決めてしまったら、そのまましかるべき手順を辿れば出てくる答えは一定で、個人的にはそういうのにはすぐ飽きてしまう。だから僕は合理主義的な動機から積極的に禁欲に取り組むことはない。

 必要に迫られて禁欲生活を強いられることがあると書いたけれど、ちょっとお金に余裕ができてそこまでストイックにならなくてもいい時期が来ることもあって、そういう時はちょっと困る。欲望を持ち続けるのもけっこう大変というか意志がいることで、例えば何かが欲しいと思っても三日くらい放っておけば大体の物欲は色褪せて差し迫ったものではなくなる。つまり見ないようにしていれば欲望は勝手に萎んでいくので、むしろ長期間にわたって同じ欲望を持ち続ける方がよっぽど大変じゃないかと思う。それはすごいことなので夢と呼ばれたりする。欲望は他者の欲望を欲望するという言葉があるけれど、実際に振り返ってみても自覚される欲望のうちの大部分は他者を経由して入ってきたもので、自分が自分で欲望したものではない。というか突き詰めて考えると自分が自分で欲望するのはせいぜい最低限の生理的欲求のみなんじゃないかと思う。そんな風にして過ごしていると、急にちょっとは好きに過ごしていいよということになっても、別にやりたいこととか欲しいものとか特に思い浮かばないなということになる。かといってせっかくの休日に一日中座禅に取り組む、みたいな過ごし方は僕は退屈してしまう。何かがしたいという気持ちが起こらない状態は抑鬱状態と似ていて、欲望がないとか、したいことがないことは現代では不健康なことなんじゃないかとすらちょっと思う。

 欲望がなくなってしまうことは退屈だけども、欲望に身を任せて生きていくのもいやだ。面倒臭い。欲望は欲望を生み出すし果てがないし原理的に満足することはない。疲れそうだし虚しくなりそうなので興味がわかない。かといって過度に欲望を否定し続けていると次第に虚無が見えてくる。生が生前から死後へと向かう過程の一瞬の息継ぎであるかのように思えてくる。ところで生まれる前には僕は存在しなかったし、死後も存在しない。「ない」から来て「ない」に行き着く命であるのに無が恐ろしいというのは一体どういう仕組みなんでしょうね。意識は「ある」しか知らないからでしょうか。でもどっちみち死ぬとき意識は「ない」を認識できないけどね。いつからか自分の中にちっぽけな無常観がインストールされていて、ふとしたときにトカトントンと音をたてます。まあいつか無に還るその日までできるだけ頭と五感を喜ばせましょう。

指折り数える

 ミシマ社の『ちゃぶ台』とか公式サイトとかでちょくちょく見かけて気になっていた森田真生の『数学する身体』が文庫化されていたから買っていま読んでいる。新潮文庫は安いからいい。ワンコインで買える。まだ第2章までしか読んでないけど、人間にとって、数学とは何かみたいなことから、数学の歴史がわかりやすく書かれている。数を指折り数えることから始まって、数学が人間の身体を拡張するツールとして少しずつ肉付けをされながら徐々に形成されていき、古代ギリシアや、中世イスラーム世界や西欧近代においてその存在が根本から作り直されるような転換点があって、現代において数学が人間の身体から離れて次第に自律性を帯びていくまでの通史が、因数分解のやり方すらも忘れてしまった僕にもなんとかわかるレベルの日本語で書かれている。

 とはいえ数学的な語彙に慣れていなさすぎて、頭の普段は使っていない部分を使ったような気がして疲れて、今とても甘いものが食べたい。数学はある時点から人間が直接的に実感できるような次元を跳び越えていくようになったらしいんだけど、思い返してみれば僕が数学の授業についていけなくなったのも、扱うものが具体的な数(かず)から数(すう)に移り変わっていくその過程だったような気がする。このような言い方が正しいものかどうかすらわからないくらい数学には疎いんだけど。

 そういうことに思い当たって、僕はかなり原始的というか即物的というか、具体的な頭の使い方ばかりする癖が染み付いているなと気がついた。なんていうか天動説を信じるような人間だと思う。ダーウィンを叩いて、水素水をがぶ飲みするタイプ。

 僕の頭の使い方にはかなり偏りがあって、正直中高生の頃は自分は頭がいい方なのではないかと思っていた時期もあったけど、今はそんな幻想も潰えて、僕が人よりも得意なのはせいぜい類推と現状分析とそれへの対応ぐらいだという気がしている。基本的には倫理意識が少し強いだけのペシミストです。

 

 僕が一番好きなのか、得意なのかはよくわからないが、自分に向いていると思える頭の使い方は、現状与えられている環境や枠組みのなかでいかにのうのうと暮らすかを考えることで、このことに関してはそこらの動物並みのしぶとさがあるのではと最近は思っている。限られたテリトリーや少ない予算の中でいかに暇をつぶすか、みたいな。もしくは生きる上で解決しなければならない難題を前にして、今足りないものは何で、それは何によって得ることができる/補えるかについての情報を集めること。そういう情報を集めるにあたっての執念の強さは、才能と言ってもいいんじゃないかと思う。それを駆使してお金はないけど自炊できるようになったし、肉体労働にも慣れてきました。おかげでとりあえず必要なお金は稼ぐことができて一安心なので、こうして休みの日に自画自賛の文章を書いているのです。

 あと類推というのは二つのものの間に何らかの繋がりを見出すことで、これがあると一つの楽しみから次の楽しみを見つけることが簡単になるので、精神的な健康の維持にとても役立ちます。あとは人に何かをオススメするときとか。

話すこと

 クッツェーという南アフリカの作家の『マイケル・K』という小説を読んだ。アパルトヘイトの時代に書かれたもので、生きることと食いつなぐことが同義の世界でマイケル・Kという名のひとりの男が、ときに獣のように家も持たず身一つで、ときに強引な福祉政策や暴力に絡め取られながら、ひとりで土のように生きていこうとする物語だ。いろいろな切り取り方や読みができる小説だと思うけれど、僕はこれは「人はひとりでは生きていけない」というテーゼを真摯に突き詰めた作品だと思った。

「人はひとりでは生きていけない」とみんなが言う。僕もたぶんそうだろうと思っている。ひとりで生きていくには、知らないことが多過ぎるし、持っていないものが多過ぎる。もし仮に十分な土地と知識と筋肉があったとしても、僕はひとりで生きていけるだろうか。町中の店という店には究極的には不必要なものばかりが溢れていて、手間や労力を惜しまずに、そして見栄や外聞というものの一切を投げ捨ててしまったら、いらないものばかりだ。物質的には、ある程度の土地と家と動物と植物があれば、ひとりで生きていくのは不可能ではないんじゃないかと思う。問題はつまり精神的な孤独に耐えられるかということだけど、それはわからない。無理そうな気がするけど、そもそもたわいのない仮定の話なので突き詰めるのはやめにする。

 ひとりで生きることを選ばないのなら、社会のなかで、他人とともに生きていく必要がある。そしてそうするためには、少なからず話す必要が出てくる。職を得るためには面接で自分のことを熱っぽく少々劇的に語らなければいけないし、日雇いのバイトでも休み時間に天気の話ぐらいはする。先に挙げた小説のなかでも、住んでいた街から強制労働から難民キャンプからすり抜けて大地とともに生きようとするマイケル・Kは何度も社会の中に引き戻されて、その度に話すことを強いられる。そのうちのワンシーンで、頑なに口を閉ざす彼は次のように問い詰められる。

 「ここへきみを連れてきたのは話をするためだ、マイケルズ」と私。「上等のベッドをあてがい、食べ物もたくさんあたえ、一日中居心地よく寝そべって、鳥が空を飛んでいくのを見ていられるようにしているんだから、われわれとしてもそのお返しが欲しいところだな。そろそろ吐いてもいいんじゃないか、な。きみには語るべき話があり、われわれはそれを聞きたい。どこからでもいいから始めたらいい。母親のことでもいい。父親のことでもいい。きみの人生観でもいいさ。母親のことを話したくないというなら、あるいは父親のことや人生観なんて嫌だというなら、このところ考えてる耕作プランとか、ときたま山からおりてきてちょっと立ち寄り、食事をしていく仲間のことを話してくれ。われわれが知りたいことを話してくれれば、君を独りにしてやれるんだがな」
 私はここで一息ついた。彼は頑固ににらみ返してきた。「話せよ。マイケルズ」私はまた口を開いた。「話すなんて簡単だろ、わかってるよな、話せよ。いいか、よく聞け、ほら私は難なくこの部屋にことばを響かせているだろ。一日中飽きずにしゃべりまくる人間だっているし、あたり構わずしゃべりまくる人間だっている」ノエルと目があったが、私は続けた。「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、きみの話を語れ!われわれが聞いてやろうじゃないか!こんなふうに親切に、文明人の紳士が二人して、必要とあらば昼も夜も、きみの話に耳を傾けようとしてるなんて、おまけにノートまでとろうとしてるなんて、いったいどこの世界にあるというんだ?」

  ここでは話すことは自分に中身をあたえることだと言われている。話さなければ誰にも気づかれず、簡単に忘れ去られ、すぐに数字の一単位に過ぎなくなってしまう。語られないことは存在しないものとみなされて、声の大きい意見がたやすくまかり通ったりする。しゃべることは誰にでもできる、ささやかで地道な存在証明なのかもしれない。語り続けることは、確かに何かを変えうるのかもしれない。言葉を持つということは、言語化できるということは、それだけで一つの力なのかもしれない。

 僕はいま日雇い労働をしていて、毎回違う人と仕事をするわけだけど、自分が話していない事柄は一切相手には伝わらないということを強く実感する。例えば気圧が下がると頭が痛んで身体に力が入らなくなることも、主張しなければ相手にはそんなこと思いもよらずに考慮はされない。僕が最近ラテンアメリカ小説に凝っていることや、音楽が好きなこと、ギターが弾けること、前の晩にチキン南蛮を作って食べたことなどを相手は知らない。そのことについて喋っていないからだ。そして相手のことも何も知らない。普段どんなものを食べているのか、恋人はいるのか、どんな学生時代を過ごしたのか、一万円をポンと手渡されたら何に使うのか、想像もつかない。そのことについて聞いていないからだ。もちろん日雇い労働の現場でそんな個人的な立ち入った話を持ちかける必要はまったくないけれど、とにかく話さなかったことは決して相手には伝わらないという当たり前の事実になんだか改めて気がついたような、そんな新しい気持ちになったのです。

むずかしい本はむずかしい

 わたしはむずかしいことばがきらいだ。

 むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。
 なかなかわからないのだ。
 むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。
 本当に悲しい。
                (高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)

  難しい本が全然読めない。難解とされている哲学者の書いた本などを読んだことはある。だけど全然わからない。難しい本を読む前には、入門書とか思想史みたいな本を読んで、ある程度の予備知識を入れてから読む。そうなるとところどころにせよ、こういうことを言っているのだろうというのがぼんやりわかるような気がしてくる。時間をかけて一生懸命読んで、冗談ではなく4ページを1時間かけて読むようなペースで読んで、読み終わったことはほとんどないけど、本を閉じてふと気づく。読む前と何も変わっていないのだ。たとえば、デカルトは「我思うゆえに我あり」という有名な言葉を残していて、近代的な自我の形成に多大な影響を及ぼした、という知識を事前に知っていて、興味が出てそれに関連するデカルトの本を読む。読み終わった後にわかるのは、デカルトは「我思うゆえに我ありって言ってた」ということだけだ。ちょっと話を盛ってるけど、だいたいこんな調子で、テキストの精密な読解とか、どうやったらできるのか全然わからない。こういうことが書いてあるのかなと期待して読んで、それに該当する箇所だけが頭に残ってわかった気になって、すっかり満足してしまう。せっかく歴史的な名著を読んだとしても、僕は自分が読みたい文章を読みたいように自分勝手に読み替えているだけだ。その論旨を丁寧に一行一行辿っていこうとしてもすぐにわからなくなり、気がついたら同じ行を何度も読んでおり、イライラして、踊りだしたくなってしまう。きっと根がバカなんだろう。難しい本を読むのは、難しい。だけど大学の図書館には難しい本しか置いてないから、本を買うお金がない僕は大学の図書館に行って難しい本を読む。難しくてよくわからないと思う。

 

 ところで難しい本をちゃんと読むと、読み終った後しばらく、そうとしか考えられなくなる。その人が考えたようなやり方でしか、ものを考えられなくなる時期が始まる。大げさに言えば、世界認識の方法が根本から揺り動かされるわけで、もっと俗っぽい言い方をすれば「人生観が変わる」ので、疲れている時とかなげやりな気分の時は難しい本は読めない。疲れてる時に人生観を変えようなんて気にはならない。今までと違った考え方やものの見方を身につけることがしんどくなってきた。今まで見えなかったものが見えるようになるのに疲れてきた。あまり快くない現実に対して

「知らない方が幸せ」で済ませてしまうのは怠慢としか思わないけど、見えなかった問題や知らなかった留意点などがどんどん覆い被さってくるとちょっとしんどくなる。責任ばかりが増えていくように思える。ところで僕は論理というものをずっと誤解してきたような気がする。論理的な文章と線的な物言いの区別があんまりついていなかった。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の物言いを、論理的と勘違いしていたんじゃないかと、今になって思う。僕は難しい本は全然わからなくて悲しくなるからあんまり好きじゃない。だけど反知性主義的なものはもっと好きじゃない。だから時々頑張って難しい本を少しずつ読んでみる。そんなものなんじゃないかとも思う。放っておいたら僕は思い込みが強くて感情的で多分に差別的で偏屈な人間なので、自戒の念を込めてよく分からない本を読む。それは無駄ではないと信じたい。

 なんだろうなこの、ここ最近の無力感は。何を読んでも何を考えても何を言っても何をしても、何も変わらないと思えてしまうこの感じ。うまく言葉にすることすらできない。

エンドロールに名前が載る人

 エルレガーデンが復活したらしい。僕も高校時代に何曲かコピーしたし、大学に入ってからもエルレにまつわる思い出がたくさんあるし、エルレを聞いて元気を出したことも何度もある。ネタ的な動機が強かったけど、”高架線”のライブ映像のスクショをLINEのプロフィール画像にしていた時期もあった。思うよりあなたはずっと強いからねって歌ってるとこ。

 だけど、エルレが復活することそれ自体よりも、みんなが一斉にそわそわしてTwitterに集まって喜んでたり思い出話をしてたりするのを見るのがすごくうれしいなと思った。みんなまだ生きてるんだ、みんなまだ音楽が好きなんだ、ということが確認できて。

 人間関係について、友達とか恋人とか先輩後輩とか知り合いとかいう区別とは別に、「自分の人生のエンドロールに名前が載る人」というジャンルが自分の中にある。それは好きとか嫌いとか、よく遊ぶとか遊ばないとか、たくさん話したとかあんまり話したことがないとかは関係なくて、一緒に過ごした時間の量で決まる。ある場、あるコミュニティで居合わせて、たくさんの同じ時間を過ごした人は自動的に僕の人生のエンドロールに載るようになる。家族や恋人はもちろんだけど、高校時代の部活のみんなとか、大学時代同じサークルだったみんなは間違いなくエンドロールで流れる。なんならバイト先の人たちとか、同じ学部で授業でよく見かけた人なんかも入るかもしれない。

 綺麗事でもなんでもなくて、僕はその人たちがみんな元気にやっているといいと思っている。エルレの復活に沸く今日のツイッターのタイムラインを眺めていると、そういうもう連絡はしないかもしれない、もう会うことはないかもしれない、もう実際に話す事はないかもしれないけど僕の人生のエンドロールに名前が載る人たちがみんな今日もまだ生きている、そして今ちょっとウキウキしたり懐かしがったりしているんだということがわかって、それがとてもうれしかった。ツイッターはこういうとき最高だなと思う。

 ふとした時に、たとえば銀杏BOYZを久しぶりに聴いたときとかに、エンドロールで名前が流れる人みんなに、もう一度会って、飲み会で話しかけたりしなかった人とも、もう一度ちゃんと話がしてみたいと思うことがある。同じ時間を共有していた人たち、同じように音楽が好きで好きでしょうがなかったはずの人たちと、もう一度会って話がしたいと思うことがたまにある。実現するかは、わからないけどね。

 No.13と金星を聴きながら。

一日中ひまだった

 自分が今まで書いてきたものを読み返すまでもなく、僕はいつも同じようなことを書いていると思う。その理由は簡単に、僕がこのブログに何かを書くときの状況がワンパターンだからだ。一言で言えば、お金がなくて時間があるとき、つまりめちゃくちゃ暇なときだ。そしてたいていはへとへとに疲れている。何かに没頭するための体力や気力もなく、しょうがないからここらで一発何か書いていろいろ振り返ってみるか、というときだ。そういうときに自分のことについて時間をかけて考えようとすると、自然とロクでもない方向へと転がっていく。ロクでもないことがダラダラと書いてある文章を読むとロクでもない気分になると思うけど、書き散らかした本人は割合ケロッとしている。少し気分がすっきりするからだ。

 楽しかったことがあったとき、何かに熱中していてエキサイトしているとき、幸せな気分のとき、そういうときに文章を書いたら明るい文章になるとは思うけど、僕はそういうときに文章を書こうという気分にならない。というか書こうとしてもあんまり言葉にならない。言葉はいつでも遅れてやってくる。よかったことを書くには想像しているよりも長い時間が必要だ。文章を書きたいと思うときは大抵途方に暮れているときか、何もやる気がないとき、外に出たり動いたりしたくなくてひたすら頭をぐずぐずさせているときだから、無力感マシマシでくすぶった感じの文章だけがひたすら量産される。

 もちろん、ご察しの通り、今日も仕事がなくてお金もなく、今本を読むのにも音楽を聴くのにも飽きたところなので、こうして文章を書いている。

 

 あなたの「これなら誰にも負けない」と思うものは何ですか?という馬鹿げた質問が面接とかであるけれど、質問の意図とか相手への印象とかをまるっきり無視して答えるなら、「無力感」だと思う。けどこれじゃギャグになっちゃうな。

 前向きにでもなっていないとすぐに潰れてしまいそうな日々が続くと、後ろ向きでいられることの幸福とでもいうようなものを感じる。つまり今日のように、何もすることがなくて、実際に何もしないでプスプス煙を立てるだけの1日が送れることそれ自体がたまらなく幸せなことのように思える。前向きに頑張ることを常に要請される、というかそのような精神状態に自分を持っていかないと乗り切れない日々に疲れた時、今日も頑張ろうとかやっていきましょうとか全く言わなくても思わなくてもいい時間が飽き飽きするほど手に入るととてもうれしい。好きなだけ暗い音楽を聴いたりあんまり人に言えないような映画を観たり、ゴシックとか世紀末ウィーンの美術について調べたりしてると、そういうものにうんざりしてくる。前向きでいなければいけないのはとても疲れるしムカつくけど、後ろ向きでいるのもしんどいし飽きてくるものなのだ。だけどすっかり飽きてしまうまで思いっきり後ろ向きなものにどっぷり浸ることができる時間が僕はとても好きだ。バカみたいな話だけど丸一日かけてそういう泥沼をくぐり抜けると、自然とこういうの飽きたしもう一回くらい頑張るか、という気持ちになってくる。その繰り返しそれ自体が徒労に思えてたまらなく嫌になることもあるけど、そういうときでも落ちるところまで思い切り落ちてみると長くても二日で飽きる。ある意味ものすごくタフだと思う。いろいろなものに次々と飽きながら生きている。

 

 谷川俊太郎の考えた33の質問の中に、「あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。」というのがあって、なんていうかそういう問いってとても大切な気がした。どんなにささやかなことだろうと馬鹿げたことであろうと、理想について思いを巡らすことができなくなったら何かがだめなんじゃないかと思う。現実的かどうか、とかそういうことを検討するのとは別の次元で、もちろんそれも欠かせないけど、単純に理想について考える、理想について話す、語り合うということが許されるというかできるような環境であって欲しいと思う。去年は大雑把に言うと目の前にある現実に自分のサイズを合わせることにこだわってきたわけだけど、現実からの要請・制限を度外視して何かを見る・考えるということはとても大切なことで、そしてそれは一度欠けてしまうと埋め合わせることはとても難しいものなのだと今では思う。理想について好き勝手に考えるということは、一番身近で、手っ取り早い、持続可能性のある明日へのエネルギーの一つだと思う。僕は「明日へのエネルギー」という言い回しがとても好きでいつも頭の片隅に置いてるんだけど、これはandymoriの”CITY LIGHTS”からのアレです。

 WHO憲章の中の健康の定義に関する部分が、1998年に変更されたという話は有名だけれど、肉体的・精神的・社会的という側面だけでなく、霊的という観点が加わったことが主な変更点で、霊的な部分の充足ということを僕はしばしば忘れてしまう。だけど健康って結構複雑なのだ。あっちを立てればこっちが立たず、ということがしばしば起こるけれど、少しずつ、後戻りや寄り道もしながら、近づいていけたらいい。