アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

指折り数える

 ミシマ社の『ちゃぶ台』とか公式サイトとかでちょくちょく見かけて気になっていた森田真生の『数学する身体』が文庫化されていたから買っていま読んでいる。新潮文庫は安いからいい。ワンコインで買える。まだ第2章までしか読んでないけど、人間にとって、数学とは何かみたいなことから、数学の歴史がわかりやすく書かれている。数を指折り数えることから始まって、数学が人間の身体を拡張するツールとして少しずつ肉付けをされながら徐々に形成されていき、古代ギリシアや、中世イスラーム世界や西欧近代においてその存在が根本から作り直されるような転換点があって、現代において数学が人間の身体から離れて次第に自律性を帯びていくまでの通史が、因数分解のやり方すらも忘れてしまった僕にもなんとかわかるレベルの日本語で書かれている。

 とはいえ数学的な語彙に慣れていなさすぎて、頭の普段は使っていない部分を使ったような気がして疲れて、今とても甘いものが食べたい。数学はある時点から人間が直接的に実感できるような次元を跳び越えていくようになったらしいんだけど、思い返してみれば僕が数学の授業についていけなくなったのも、扱うものが具体的な数(かず)から数(すう)に移り変わっていくその過程だったような気がする。このような言い方が正しいものかどうかすらわからないくらい数学には疎いんだけど。

 そういうことに思い当たって、僕はかなり原始的というか即物的というか、具体的な頭の使い方ばかりする癖が染み付いているなと気がついた。なんていうか天動説を信じるような人間だと思う。ダーウィンを叩いて、水素水をがぶ飲みするタイプ。

 僕の頭の使い方にはかなり偏りがあって、正直中高生の頃は自分は頭がいい方なのではないかと思っていた時期もあったけど、今はそんな幻想も潰えて、僕が人よりも得意なのはせいぜい類推と現状分析とそれへの対応ぐらいだという気がしている。基本的には倫理意識が少し強いだけのペシミストです。

 

 僕が一番好きなのか、得意なのかはよくわからないが、自分に向いていると思える頭の使い方は、現状与えられている環境や枠組みのなかでいかにのうのうと暮らすかを考えることで、このことに関してはそこらの動物並みのしぶとさがあるのではと最近は思っている。限られたテリトリーや少ない予算の中でいかに暇をつぶすか、みたいな。もしくは生きる上で解決しなければならない難題を前にして、今足りないものは何で、それは何によって得ることができる/補えるかについての情報を集めること。そういう情報を集めるにあたっての執念の強さは、才能と言ってもいいんじゃないかと思う。それを駆使してお金はないけど自炊できるようになったし、肉体労働にも慣れてきました。おかげでとりあえず必要なお金は稼ぐことができて一安心なので、こうして休みの日に自画自賛の文章を書いているのです。

 あと類推というのは二つのものの間に何らかの繋がりを見出すことで、これがあると一つの楽しみから次の楽しみを見つけることが簡単になるので、精神的な健康の維持にとても役立ちます。あとは人に何かをオススメするときとか。