アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

老作家、書くことの極致、武者小路実篤の晩年

 僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。
 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。
 しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。
 ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。
 皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いい人間になりたい。
 いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。
 僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。
 人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。
 ますます利口になり、万事賢くなりたく思っている。我々はますます利巧になりたく思っている。
 益々かしこく。
武者小路実篤『ますます賢く』

これはあの『友情』で有名な、武者小路実篤の晩年の文章である。一見、ボケ老人が書いたかのような、というより何度読んでも、耄碌しているのかと思えるような文章だが、僕はなぜか忘れることができない。

主語もコロコロ変わるし、同じようなこと、それも当たり前と思えるようなことばかり繰り返していて、結果としてなにが言いたいのかよくわからないが、なんとも言えぬ力強さと言うか、生命力と言うか、老作家の書くことへの意地のようなものを感じる。こんな文章、書こうと思って書けるものではない。八十九歳の武者小路実篤にしか書けないのではないかと思えるような迫力がある。強烈な人間主義に貫かれた老作家の人生や作品が透けて見えるかのようで、こんなありふれた、今更誰も取り立てて口にしないような正論めいたことを、堂々と、力強く、愚直なまでに真っ直ぐに書き連ねたこの文章には、僕はミケランジェロの描き出す生命力に満ち満ちた人間を連想してしまう。武者小路実篤は、『友情』よりもなによりも、この文章を書くために、この境地にたどり着くために、生まれて、書いたのではないかとすら思ってしまう。自分自身も、言葉もバラバラにしてしまうような熱量を持っていて、それを信じられない粘り強さで一つの線にまとめあげている。そんな老作家の気骨を感じる。何十年も言葉を書き続けてきて、とうとう言葉を突き抜けてしまった。そう思えるほどの、神業めいたなにかがこの老作家の文章にはある。こんな文章にはなかなかお目にかかれない。
僕が大好きな小島信夫の晩年の作品、たとえば『うるわしき日々』や、『残光』にも、同じような不思議な魅力がある。『残光』のラストシーンの文章などは、この上ないほど美しいと思う。
 十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」
 と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑を浮べて、
「お久しぶり」
 といった。眼はあけていなかった。

上手に、精巧に、そつなく書くというだけが、名文というのではない。流れるような美しい文章というのは勿論魅力的ではあるが、この晩年の武者小路実篤や、小島信夫のような、後戻りをしたり、躓き躓きしながら、 じりじりと全身全霊で進んでいくような文章は、人間にしか書けない。益々利口になって、万事に賢くなって、その果てにたどり着いた書くことの極致。僕はそんな文章を読むと、とてもうれしくなる。歳を取るのも悪くはなさそうだと思える。いつかこうなりたいと強くあこがれる。

今ここから読む石川啄木

石川啄木は、1886年に生まれて岩手県で生まれて、17歳の時に文学を志し上京し、あれこれ生活に苦心をしながら、1912年に結核で死ぬまで、詩を作ったり、歌を詠んだり、小説を書いたりしていた。

彼自身は小説家を目指していたようだが小説はあまりおもしろくなくて、後世の評価としては歌にすぐれていた人である。その歌を読んでいると、彼の人となりというか、だめだめっぷりがひしひしと感じられる。ロマンチストで、甘ったれで、プライドは高いが傷つきやすい。ものぐさで、嘘ばかりついて、夢を見つつも幾度となく生活にぶちのめされる。なんというか、永遠の十七歳といった風情がある。彼の作る歌はいつでも感傷的で、くたびれていて、夢見心地で、おかしみがあって物悲しさがある。今で言うと『シティライツ』などで有名な大橋裕之の漫画を読んだ時と同じような気分にさせられる。

とにかく、石川啄木という人は純粋なのである。太宰治は『みみずく通信』という短編の中で、「青春とは半狂乱の純粋ごっこ」であると言っているが、石川啄木の短歌は、「夢に夢見るくたびれた田舎者の半狂乱の純粋ごっこ」といったような趣があって、青春のイメージと切り離すことができないように思われる。

石川啄木の短歌は、難しい言葉や古めかしい言葉が使われているわけでもないので、今読んでも読みやすい。「キス」だとか「死ね」などの言葉が、ごく自然に使われていて、この言語感覚には、当時の人は驚いたんじゃないかなと思う。なんとなく神聖かまってちゃんというバンドの『夕方のピアノ』という曲を思い出す。このバンドはサブカルチャーに頭からどっぷり浸かった新しい言語感覚を持っていて、おもしろいと思う。

このように、石川啄木の感覚というのは、今を生きるいたいけな若者(僕も含め)にも、そのまま通用するものであると思う。ためしに、石川啄木の短歌と、それに通じる物がある気がする作品とをつらつら並べ立ててみようと思う。

大いなる水晶の玉を
ひとつ欲し
それにむかひて物を思はむ
 
水晶の玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何の心ぞ
石川啄木『一握の砂』より
 
転校生となりの席の
美少女は水晶玉を見つめてばかり
笹公人『念力家族』より

 「水晶」というモチーフが共通している。それに、切り口というか、つぶやきに似た素朴な作風がなんとなく似ている気がする。ちなみに後に挙げた笹公人の『念力家族』は、念力が当たり前に存在する世界の日常を切り取ったイラスト付き歌集というなんとも変な本である。

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見ていぬ
人の語るを
石川啄木『一握の砂』より
 
こいびとの顔を見た
 
ひふがあって
裂けたり
でっぱったりで
にんげんとしては美しいが
いきものとしてはきもちわるい
 
こいびとの顔を見た
これと
結婚する
 
帰り
すれ違う人たちの顔を
つぎつぎ見た
 
どれもひふがあって
みんなきちんと裂けたり
でっぱったりで
 
これらと
世の中 やっていく
 
帰って
泣いた
松下育男『顔』

人の顔に対する違和感が共通している。ほとんどの人は、人の顔について疑問を抱いたことがない、というか、引っかかりを感じたことはないと思うが、啄木と、松下育男はそこで立ち止まって驚いている。いや、啄木に至っては驚いてすらいない。たしかに言われてみれば、人の顔が「けものめいて」見えるときはあるし、「裂けたりでっぱったりで」、「いきものとしてはきもちわるい」かもしれない。

 さりげなく言ひし言葉は

さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
石川啄木『一握の砂』より
 
元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より

 コミュニケーションに関する歌であるが、両者のベクトルは食い違っている。ように見えるが、同じようなことを言っているような気がしないでもない。さりげなく言った言葉は、さりげなく聴かれる。本気で言った言葉は、本気で受け止められる。この二つのありふれた情景からは、つながりというものへのあこがれが強く感じられるように思う。

 

物悲しくて、おかしくて、飄々としているようで、焦っていて、すべてをあきらめたかのような、あきらめきれていないような、センチメンタル自意識過剰な石川啄木の微妙な作風は、大橋裕之や、永井祐が好きな人にはハマるのではないだろうか。

言いたいことはなくなった

あるテーマを設定して、それについてこう書こうとすると、書けなくなる。なんだか間違いだらけなような、嘘っぽい感じになる。ついつい上手にまとめようとしてしまうし、背伸びがしたくてしたくてたまらなくなる。
自分が知らないことについては、訳知り顔でしゃべることはできないし、そうなると当然書くこともできない。すごいものを書いてやろうとしてしまうと、細かいことが気になって、ここは僕の誤解なんじゃないかとか、まったく見当はずれのことを言っていて、後々恥ずかしくなるんじゃないかとか、いろいろなことを考えてしまって、自分がどんどんどんどん小さくなって、理想はどんどん大きくなって、身動きがとれなくなるというか、外に出られなくなる。
そのことは結局、人の目を気にしているからだと思う。素敵なセンスを持っているとか、賢いやつだなあとか、こいつはひと味ちがうなあとか思われたくて、ついつい格好つけてしまうけれど、それではいろいろなことが怖くなって、結局どこにも行けないし、なんにもできないし、なにも言えなくなってしまう。そのことに前より自覚的になって、最近では、僕は別に賢くないし、大した野心もないし、伝えたいこともあんまりないから、脈絡も結論も裏付けも正しさもなにもない文章を書いていても別にいいんじゃないかという気がしている。
僕は文章を読むのが好きで、書くこともわりかし好きで、物心ついたときから心に浮かぶよしなしごとを取り留めのないままに大学ノートに書きなぐっていた。日記とも忘備録とも感想とも愚痴ともつかない内容を飽きることなく書いていて、何を書いたかは今ではほとんど忘れてしまったけれど、同じようなことを何度も何度も書いていたような気がする。自分のその時々の気分だとか感傷だとかを、どんな形でも言葉にして書いてみると、スッキリするというか、心が軽くなるような気がして、誰かに見せるつもりなんてなくて、ひたすら書いていた。その頃は、なにを書くべきかだとか何が正しいとか一切考えないで書いていたから、何を書いてもすらすら書けた。気にしてなかったからだと思う。たしかそのノートには、ヒトラーの『我が闘争』をもじって、『我が感想』という名前を付けていた。『我が闘争』を読んだことはなかったし、今もないしこれからも読む予定はない。
何が言いたいのかハッキリしない文章を書いているけれど、何か言いたいわけじゃなくて、ただ頭を空っぽにして浮かんでくることをぼんやりと言葉にしてただただ吐き出す作業っていうのは、なんだか楽しいなあってことを思ってるだけです。「私」とか「個性」とかいったものへのこだわりを捨てて、皮膚感覚だけに頼って海をたゆたうクラゲみたいに自分の中に引っかかっているものをなんとなくつかまえて眺めてみる。そうやって出来上がった文章が誰かにとっておもしろかったら万々歳だなあくらいにひとまず落ち着きました。だからこれからしばらくは今日と同じような気の抜けたサイダーみたいな文章が続くと思います。
二葉亭四迷の『平凡』を読んでいて、なんとなくこれまで書いてきたようなことを考えていました。まる。
ミイラズというバンドに『言いたいことはなくなった』という曲があるのだけれど、すごく素朴な音で素直な言葉でシンプルに格好良いロックンロールで僕は好きです。

川上未映子『わたくし率 イン歯ー、または世界』 「私」の問題

 

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 

 

人は、自分以外の誰かになることはできない。言い換えると、私は私の外側に出ることはできない。自意識と言う監獄に閉じ込められている。と一般には言われている。だが、本当にそうだろうか。この小説は、そのような「私」像に徹底的に乗っかることによって、そのような「私」観の問題点、気味の悪さを暴き出し、そこから一歩進んだ私と世界との関係性を予感させた。

 

一口に「私」といっても、「私」は一つではなく、いくつかの領域に分かれる。

アタマとカラダ、肉体と精神、理想と現実、もしくはそのような二項対立とは関係のないところでグチャグチャしているものなど、エトセトラエトセトラ。

この小説の主人公は、そんな「私」を、私とわたしとわたくしとに分けている。

ここでは、私は自分の精神、自己とか自我とか呼ばれるようなもので、わたしは自分の肉体、表象であり、その二つをまとめたものをわたくしと呼んでいる。

そして主人公は、その「わたくし」は、奥歯である、という妄想に意識的にしがみついている。そして妊娠してもいないのに未来の自分の子どもに向かって手紙とも日記ともつかない文章を綴っている。

この小説は一人称の関西弁まじりのしゃべり言葉によって書かれてて、初めから終わりまで、徹頭徹尾わたくしの見たもの、わたくしの思い出、わたくしの感情、考え、印象がまくしたてられている。この世界のすべては、わたくしと結びついていて、わたくしとは切り離せない、わたくしの世界は、わたくしなしでは存在し得ないとでも叫んでいるようだ。

世界の中心はわたくしである。このような「我思うゆえに我あり」的なスタンスで、この物語は進んでいく。そして物語のクライマックスで、わたくしがそうして疑いをもつこともなく築き上げ守り続けてきたわたくしの世界観が、他者によって揺さぶりをかけられる。世界は、わたくしが思い描いているようなものではない、という現実を突きつけられる。そうしてわたくしの限界を感じた主人公は、デカルト的な「我思うゆえに我あり」の世界像とは別の世界像を志向するようになる。

それはたとえば川端康成の『雪国』の冒頭のような、西田幾太郎の純粋経験のような、主語のない、わたくし偏重の世界観から脱却した世界像である。それがどういったものであるか、この作品の中では具体的には描かれていない。気になるので、これから川上未映子のほかの作品も読んでみようと思う。

 

この本の宣伝文句に、「哲学的テーマをリズミカルな独創的文体で描き」というものがあるが、このような哲学と小説の関係は、とてもおもしろいと思う。哲学はあくまで理論や考え方、世界認識の方法であって、そのままそれだけでは机上の空論とまではいかないまでも、ただの計画に過ぎないものであって、あまりにも抽象的すぎる。というか、哲学は現在の世界やら個人やら世界やらを捉えようとしながら、未来に向かって書かれているようなものであると僕は思っている。だから哲学や思想というものはそもそも広く知られなければ意味がないと思うのだけど、たいていの人は小難しい見慣れない理論なんかを読み解いて解釈するようなヒマも興味もないのが現実で、そのような普通の人も読む小説というジャンルでこんな風に哲学を解釈して実践してみせたこの小説はすごくおもしろいし、こんな風な「哲学の実践」めいた小説が増えていったらいいなあと思った。もちろんこの小説のおもしろさっていうのはそれだけではないのだけれど。

 

なんていうか、この小説で描かれる極めて個人的な物語と、人類の考えてきたこと、哲学の歴史が響き合うさまに、現代らしさを感じておもしろかった。

現代短歌の可能性

僕たちはいつだって、「いま・ここ・わたし」を生きるしかない。

そして時々、僕たちの「いま・ここ・わたし」は頼りない。今ここにあるすべてでは、どうやって生きていけばいいのかわからなくなる時がある。
そんなとき、たった一つでも、ささやかでも、ありふれたものでも、なにか実感があれば、と思う。頭でわかっているだけじゃなく、全身に染み渡るような、ハッキリとした実感があれば、明日を信じる強さが持てるのに、自分を、自分の身体、現在地、現在にしっかりと繋ぎ止めていられるのに、と思う。僕たちはいつもとりとめがなくて、自分自身がわからない。それで何度でも不安になる。さみしくなる。自分がいやになったりもする。
 
だけど的確な言葉を見つけたとき、人はよろこびや、かなしみ、さみしさ、怒りといった、自分の気持ちを実感する。なんだか、ちょっぴり救われたような気がして、心が軽くなる。目の前の世界がちがって見える。自分が本当に欲しいもの、やりたいことが見えてくる。
 
確かな言葉が欲しくて、大傑作と言われているような文学を読んでみても、なかなかわからなくて、入り込めなかったりする。現代に生まれ、現代に生きる僕たちが、最も実感を得やすい言葉、共感しやすい言葉は、現代の言葉なのだ。なるべく身近な文学。現代の、話し言葉で書かれているもの。それにいま最も近いのは、現代短歌であると思う。みんなあんまり知らないだけなのだ。短歌というと、なんだか長い伝統を感じさせて、古めかしい言葉が使われていてよくわからないもの、と思うかもしれないが、まったく違う。
短歌とはそもそも、誰でもできるものなのだ。上手い下手はあるものの、昔の人は、自分の気持ちを短歌に込めて、お手紙をやりとりしたりしていたのだ。今では、ツイッターに自分が作った短歌を載せる人もいる。短歌は原則的に31文字で、ツイッターの文字数制限が140文字なので、一度のツイートで短歌を書き付けてもまだ少しおつりが来る。SNSと現代短歌は、きっと相性がいい。SNSが今僕たちにとって身近であるように、現代短歌だってもっと身近になってもいい、と思う。
 
大掛かりな文学作品では、取りこぼしてしまうような、生活レベルの実感を、現代短歌は捕まえることができる。僕らの一生は、日常と非日常の連続でできていて、だから、生活の実感というのは、生きることの実感にだって繋がる。
 
現代短歌をたくさん集めて、目の前の世界をころころ変えて遊ぶのも楽しいし、大切な人と共有してほっこりするのもいいし、やり場のない自分の中の激しさをその中にそっと隠してやり過ごすのもいいだろう。ロマンチックな一首を見つけて、口説き文句に使ったっていいかもしれない。
ここまで読んで、少し現代短歌に興味を持ってくれた人のために、僕が好きなものをいくつか載せておこうと思う。
 
眼をとじて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ/穂村弘
朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜/穂村弘
完全にだめだと思う生きている夜の海には朱肉の匂い/穂村弘
夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。お会いしましょう。/穂村弘
金星を見ても両目は焼けなくて笑う二人はとても色白/雪舟えま
目がさめるだけでうれしい 人間がつくったもので空港が好き/雪舟えま
寝顔みているとふしぎに音がない。来たくて来た場所はいつも静か/雪舟えま
百枚の手紙を君に書きたくて書けずに終わりかけている夏/俵万智
へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ/正岡豊
かぎりあるいのちのあさをたわみつつ海のひかりはかへる 海へと/永井陽子
君とわれ宇宙に浮きし塵のころ地球の誕生ながめていたり/野口恵子
背をあわせ皺をあわせて干しぶどうの袋の中のしんみつさになる/東直子
口ずさむ歌があなたと違っても同じ黒さの影を抱きたい/文月郁葉
肯定も否定もすべて受け入れて寄せては返す波でありたい/文月郁葉
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)/笹井宏之
Without youとはたぶん星たちが透けるくらいに青い空の名/植松大雄
 
この中のいくつかを気に入ったり、気になったりして、もっとたくさん読んでみたいけれど、なにから読んだらいいのかわからない。どうやって探したらいいのかもわからない。そんな人たちに、いいお知らせがある。先月、現代短歌の地図のような、すばらしい本が出た。山田航という人の、『桜前線開架宣言』だ。この本では、1970年以降のすてきな歌人をピックアップして、表現の特徴やら、その人が作った短歌が見開きページいっぱいに載っている。「歌集が欲しいんだけどどうすれば手に入るのかな?」なんていうコラムまであって、これ以上ないくらい最適な現代短歌の入門書だと思う。適当なページをパッと開いてなんとなく拾い読みするだけでも、気に入る言葉に出会えるはずだ。
桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 

 

天才と悪魔 <快ー不快>という尺度


Robert Johnson- Crossroad

ロバートジョンソンという伝説のブルースマンがいる。ローリングストーンズだとか、その後のたくさんの音楽に影響を与えた。僕にはイマイチぴんとこないが、ポップソングの祖だなんてことも囁かれている。

彼には一つ、おもしろい逸話がある。ある日、彼が歩いていると十字路に突き当たり、そこで悪魔と契約をして、誰もがアッと驚くような天才的なギターの腕前を手に入れて、それと引き換えに彼の魂を売り渡したのだ、と。

天才とは、すばらしいもの、新しいものを、次々にひょいひょいっと作り出してしまう人のことを言う。その常人離れした才能は、伝説を作る。たとえば、上に挙げたロバートジョンソンの話のように。

 

60年代のアメリカで、若者たちがエルヴィス・プレスリーや、ほかの生まれたてのロックンロールに熱狂していた頃、ロックンロールは悪魔の音楽だ、と、大人たちは眉をひそめていたという。それでも若者たちはそれを気にも留めずに踊り狂った。

芸術において、「悪魔のような」というのは褒め言葉だ。常人の感覚とはまったく違う、卓越した天才にしか使われない言葉だ。

 

ドイツの偉大な知性、ゲーテは、モーツァルトの音楽を、悪魔のような音楽だと言っているのも、おもしろい。

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。

小林秀雄『モオツァルト』

 映画評論家の淀川長治も、ゴダールの映画を評して、「悪魔のような映画だ」と言っていた。それまでの映画の枠組みから、あまりにも大きく、あまりにも平然とはみ出してしまっていたからだ。

 

悪魔とは、いろいろな解釈があるが、とにかく悪とされているものだ。その正体は、僕が思うに、キリスト教の戒律において、忌避すべきだとされているもの、すなわち快楽である。快楽は人を堕落させる。だから悪なのである。

 

神は死に、ニーチェも死んだ現代の芸術においては、もはや<善ー悪><真ー偽>といった単純な二項対立的な評価基準はふさわしくない。この世界は、唯一神によって七日間で作られたものだとは、大半の日本人は信じていないだろう。この世界の始まりは、ビッグバンと言う大きな混乱、カオス状態から始まった。一度散らかったものは、くっついたり離れたりを繰り返して、また散らかり続ける。そんな風に誕生して、今日まで続いてきたこの世界に、たった一つの真実があるわけではもちろんない。わかりきっていることだが、この世界はその根本から既に多様なのだ。それでは、そんな世界像が当たり前になった現代において、なにを基準に評価すればいいのだろうか。それは、気持ちが良いかどうか、ゾクゾクするような刺激があるかどうか、陶酔感があるかないか、つまり、<快ー不快>の尺度ではないだろうか。もちろんこの価値基準がすべてではない。これもまた一つの物差しでしかない。だけどとにかく、気持ちのよいことはいいことだ。二十一世紀の快楽主義者でありたい。

 


踊ってばかりの国 「ハロー」 live (神戸スタークラブ2010/3/7)

気持ちよくなれるなら 僕はゴミでも食えるよ

汚い食べカスも どんな臭い燃えカスも 

 そういう意味で、踊ってばかりの国は大好きだ。バンド名からして、最高だ。踊ってばかりいる国だなんて、なんてアホらしいんだろう。彼らは、気持ちよくなるための音楽を作り続けている。花に囲まれて生まれた子どもたちが、すくすく大人になって歌い出した音楽だ。大人たちがきっと嫌な顔をする、悪い子のための音楽だ。

「意味がない」ということについて

なにかの意味を実感するためには、信じることがその前提にある。

意味の背後の価値、及びそれを形作るところの価値観を、全面的に受け入れて肯定し信じることができなければ、何事も意味を為さない。
神様を信じない人にとっては、祈りなんて無意味だし、ロックンロールを信じない人には、夢を追いかけフリーターを続けてときどきライブをするような人生は、滑稽に映るかもしれない。愛を信じない人に幸福な結婚はできないだろう。
 
私たちはしばしば、なにかにつけて”意味”を求めようとする。”生産性”に固執する。しかしそれがなんだというのだろう。そのような考えを突き詰めていくと、人の一生はただ生まれて死ぬだけで、なんの意味もないというところに行き着くのではないだろうか。
ぼくたちが意味を感じるのはふつう、僕らが子どもから大人になるまでに、無意識のうちに植え付けられてきた常識や偏屈、先入観に沿ったものだけだ。だからぼくたちが持っている感受性というやつは、国や、学校や、親や、その他大勢の周りの大人たちが、時代の波に揉まれながら、よかれと思って押し付けてきた価値観の集積だ。それだけの話なのだ。
その枠の中でのほほんとして、これが自分だなんて言って、そぐわない考え方や価値観、芸術作品、人間に出会えば、否定をしにかかる。そういう現場を見ると僕はとても悲しくなる。学校で教えられたような、学校の勉強をちゃんとして、いい学校を出て、いい会社に就職をして、よく働いてたくさんお金を貰う、それだけが人間の幸福だ、と信じきっているならばそれでいいと思う。だけど、人の数だけ幸せってものはちがうのだ。みんなが同じことをして、みんなが同じだけ幸せになれるわけではない。欲張りたい人もいれば、休みたい人だっている。欲張りたい人は大いに欲張って、休みたい人は適度に休みながら頑張ればいいのではないだろうか。どうしてそれじゃいけないのか。僕にはまだよくわからない。人の数だけ、しあわせの形も違うのだ。
 
少し話が逸れすぎたが、僕がここで言いたいのは、「意味がない」と思ったら、それを切り捨てるのではなく、それに意味を与える価値を、肯定する価値観を探してみるべきなのではないかということだ。哲学は昔からずっと、一口に言えば人間が生きる”意味”について考えてきた。そうして”私”という概念を発明したり、神は死んだと叫んでみたり、実存主義がどーたらとか言って、常に新たな意味、価値、価値観(世界観と言ってもいいかもしれない)を生み出してきた。新しい哲学が浸透すれば、すべてもまた新しくなるのだ。こんなにダイナミックな学問はほかにないと思う。すごく素敵だ。
ゴッホは生前まったく評価されなかった。今では世界中のみんながその名前を知っている。知っている画家の名前を挙げてみてください、と言ったら、二三番目に口に出るんじゃないかと思う。なんでそんなことが起こっているのか。時代が追いついた、という言い方がよくされる。これは、ゴッホが死んで何年も経ってから、ようやく彼の絵の美しさを発見できる人が現れて、そしてその人の考え方が広く知られるようになり、いろんな人がそれにせっせと肉付けをして、やっと世の中にゴッホの絵を美しいとするに足る価値観が形成された、ということだ。
 
だから、”意味がない”ということは素敵なことだ。まだ誰もその美しさに気づいていない、意味を与えるための価値観を自分が作り出すチャンスがある、ということだ。
既存の価値観、道徳、倫理にそぐわないからと、落ち込んでしまうよりは、そんなもの作ってしまえばいいのだ。
 
僕は何も無駄にしたくない。無意味だなどと切り捨てたくはない。
この世のすべてを、日に三度の食事も、90分の教授の長話も、鉄のように鋭い冬の風の感触も、なにもかも歓んでいたい。
生まれてきたからには、幸せにならなければもったいない。楽しくないのならやめちまえ。人生は短い。
 
いつも以上に未熟で青臭くてくだらない文章を長々と書いてしまったけれど、きっとこの曲の熱に浮かされて、ロックンロールの魔法とやらに騙されてしまったんだろう。
 
この街で俺以外 君のかわいさを知らない
今のところ 俺以外 君のかわいさを知らないはず
大宮サンセット 君はなぜ悲しい目で微笑む
大宮サンセット 手を繋いで歩く土曜日