老作家、書くことの極致、武者小路実篤の晩年
僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いい人間になりたい。いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。ますます利口になり、万事賢くなりたく思っている。我々はますます利巧になりたく思っている。益々かしこく。武者小路実篤『ますます賢く』
これはあの『友情』で有名な、武者小路実篤の晩年の文章である。一見、ボケ老人が書いたかのような、というより何度読んでも、耄碌しているのかと思えるような文章だが、僕はなぜか忘れることができない。
十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑を浮べて、「お久しぶり」といった。眼はあけていなかった。
上手に、精巧に、そつなく書くというだけが、名文というのではない。流れるような美しい文章というのは勿論魅力的ではあるが、この晩年の武者小路実篤や、小島信夫のような、後戻りをしたり、躓き躓きしながら、 じりじりと全身全霊で進んでいくような文章は、人間にしか書けない。益々利口になって、万事に賢くなって、その果てにたどり着いた書くことの極致。僕はそんな文章を読むと、とてもうれしくなる。歳を取るのも悪くはなさそうだと思える。いつかこうなりたいと強くあこがれる。
今ここから読む石川啄木
石川啄木は、1886年に生まれて岩手県で生まれて、17歳の時に文学を志し上京し、あれこれ生活に苦心をしながら、1912年に結核で死ぬまで、詩を作ったり、歌を詠んだり、小説を書いたりしていた。
彼自身は小説家を目指していたようだが小説はあまりおもしろくなくて、後世の評価としては歌にすぐれていた人である。その歌を読んでいると、彼の人となりというか、だめだめっぷりがひしひしと感じられる。ロマンチストで、甘ったれで、プライドは高いが傷つきやすい。ものぐさで、嘘ばかりついて、夢を見つつも幾度となく生活にぶちのめされる。なんというか、永遠の十七歳といった風情がある。彼の作る歌はいつでも感傷的で、くたびれていて、夢見心地で、おかしみがあって物悲しさがある。今で言うと『シティライツ』などで有名な大橋裕之の漫画を読んだ時と同じような気分にさせられる。
とにかく、石川啄木という人は純粋なのである。太宰治は『みみずく通信』という短編の中で、「青春とは半狂乱の純粋ごっこ」であると言っているが、石川啄木の短歌は、「夢に夢見るくたびれた田舎者の半狂乱の純粋ごっこ」といったような趣があって、青春のイメージと切り離すことができないように思われる。
石川啄木の短歌は、難しい言葉や古めかしい言葉が使われているわけでもないので、今読んでも読みやすい。「キス」だとか「死ね」などの言葉が、ごく自然に使われていて、この言語感覚には、当時の人は驚いたんじゃないかなと思う。なんとなく神聖かまってちゃんというバンドの『夕方のピアノ』という曲を思い出す。このバンドはサブカルチャーに頭からどっぷり浸かった新しい言語感覚を持っていて、おもしろいと思う。
このように、石川啄木の感覚というのは、今を生きるいたいけな若者(僕も含め)にも、そのまま通用するものであると思う。ためしに、石川啄木の短歌と、それに通じる物がある気がする作品とをつらつら並べ立ててみようと思う。
大いなる水晶の玉をひとつ欲しそれにむかひて物を思はむ水晶の玉をよろこびもてあそぶわがこの心何の心ぞ石川啄木『一握の砂』より転校生となりの席の美少女は水晶玉を見つめてばかり笹公人『念力家族』より
「水晶」というモチーフが共通している。それに、切り口というか、つぶやきに似た素朴な作風がなんとなく似ている気がする。ちなみに後に挙げた笹公人の『念力家族』は、念力が当たり前に存在する世界の日常を切り取ったイラスト付き歌集というなんとも変な本である。
けものめく顔あり口をあけたてすとのみ見ていぬ人の語るを石川啄木『一握の砂』よりこいびとの顔を見たひふがあって裂けたりでっぱったりでにんげんとしては美しいがいきものとしてはきもちわるいこいびとの顔を見たこれと結婚する帰りすれ違う人たちの顔をつぎつぎ見たどれもひふがあってみんなきちんと裂けたりでっぱったりでこれらと世の中 やっていく帰って泣いた松下育男『顔』
人の顔に対する違和感が共通している。ほとんどの人は、人の顔について疑問を抱いたことがない、というか、引っかかりを感じたことはないと思うが、啄木と、松下育男はそこで立ち止まって驚いている。いや、啄木に至っては驚いてすらいない。たしかに言われてみれば、人の顔が「けものめいて」見えるときはあるし、「裂けたりでっぱったりで」、「いきものとしてはきもちわるい」かもしれない。
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむそれだけのこと石川啄木『一握の砂』より元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より
コミュニケーションに関する歌であるが、両者のベクトルは食い違っている。ように見えるが、同じようなことを言っているような気がしないでもない。さりげなく言った言葉は、さりげなく聴かれる。本気で言った言葉は、本気で受け止められる。この二つのありふれた情景からは、つながりというものへのあこがれが強く感じられるように思う。
物悲しくて、おかしくて、飄々としているようで、焦っていて、すべてをあきらめたかのような、あきらめきれていないような、センチメンタル自意識過剰な石川啄木の微妙な作風は、大橋裕之や、永井祐が好きな人にはハマるのではないだろうか。
言いたいことはなくなった
川上未映子『わたくし率 イン歯ー、または世界』 「私」の問題
人は、自分以外の誰かになることはできない。言い換えると、私は私の外側に出ることはできない。自意識と言う監獄に閉じ込められている。と一般には言われている。だが、本当にそうだろうか。この小説は、そのような「私」像に徹底的に乗っかることによって、そのような「私」観の問題点、気味の悪さを暴き出し、そこから一歩進んだ私と世界との関係性を予感させた。
一口に「私」といっても、「私」は一つではなく、いくつかの領域に分かれる。
アタマとカラダ、肉体と精神、理想と現実、もしくはそのような二項対立とは関係のないところでグチャグチャしているものなど、エトセトラエトセトラ。
この小説の主人公は、そんな「私」を、私とわたしとわたくしとに分けている。
ここでは、私は自分の精神、自己とか自我とか呼ばれるようなもので、わたしは自分の肉体、表象であり、その二つをまとめたものをわたくしと呼んでいる。
そして主人公は、その「わたくし」は、奥歯である、という妄想に意識的にしがみついている。そして妊娠してもいないのに未来の自分の子どもに向かって手紙とも日記ともつかない文章を綴っている。
この小説は一人称の関西弁まじりのしゃべり言葉によって書かれてて、初めから終わりまで、徹頭徹尾わたくしの見たもの、わたくしの思い出、わたくしの感情、考え、印象がまくしたてられている。この世界のすべては、わたくしと結びついていて、わたくしとは切り離せない、わたくしの世界は、わたくしなしでは存在し得ないとでも叫んでいるようだ。
世界の中心はわたくしである。このような「我思うゆえに我あり」的なスタンスで、この物語は進んでいく。そして物語のクライマックスで、わたくしがそうして疑いをもつこともなく築き上げ守り続けてきたわたくしの世界観が、他者によって揺さぶりをかけられる。世界は、わたくしが思い描いているようなものではない、という現実を突きつけられる。そうしてわたくしの限界を感じた主人公は、デカルト的な「我思うゆえに我あり」の世界像とは別の世界像を志向するようになる。
それはたとえば川端康成の『雪国』の冒頭のような、西田幾太郎の純粋経験のような、主語のない、わたくし偏重の世界観から脱却した世界像である。それがどういったものであるか、この作品の中では具体的には描かれていない。気になるので、これから川上未映子のほかの作品も読んでみようと思う。
この本の宣伝文句に、「哲学的テーマをリズミカルな独創的文体で描き」というものがあるが、このような哲学と小説の関係は、とてもおもしろいと思う。哲学はあくまで理論や考え方、世界認識の方法であって、そのままそれだけでは机上の空論とまではいかないまでも、ただの計画に過ぎないものであって、あまりにも抽象的すぎる。というか、哲学は現在の世界やら個人やら世界やらを捉えようとしながら、未来に向かって書かれているようなものであると僕は思っている。だから哲学や思想というものはそもそも広く知られなければ意味がないと思うのだけど、たいていの人は小難しい見慣れない理論なんかを読み解いて解釈するようなヒマも興味もないのが現実で、そのような普通の人も読む小説というジャンルでこんな風に哲学を解釈して実践してみせたこの小説はすごくおもしろいし、こんな風な「哲学の実践」めいた小説が増えていったらいいなあと思った。もちろんこの小説のおもしろさっていうのはそれだけではないのだけれど。
なんていうか、この小説で描かれる極めて個人的な物語と、人類の考えてきたこと、哲学の歴史が響き合うさまに、現代らしさを感じておもしろかった。
現代短歌の可能性
僕たちはいつだって、「いま・ここ・わたし」を生きるしかない。
眼をとじて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ/穂村弘朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜/穂村弘完全にだめだと思う生きている夜の海には朱肉の匂い/穂村弘夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。お会いしましょう。/穂村弘金星を見ても両目は焼けなくて笑う二人はとても色白/雪舟えま目がさめるだけでうれしい 人間がつくったもので空港が好き/雪舟えま寝顔みているとふしぎに音がない。来たくて来た場所はいつも静か/雪舟えま百枚の手紙を君に書きたくて書けずに終わりかけている夏/俵万智へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ/正岡豊かぎりあるいのちのあさをたわみつつ海のひかりはかへる 海へと/永井陽子君とわれ宇宙に浮きし塵のころ地球の誕生ながめていたり/野口恵子背をあわせ皺をあわせて干しぶどうの袋の中のしんみつさになる/東直子口ずさむ歌があなたと違っても同じ黒さの影を抱きたい/文月郁葉肯定も否定もすべて受け入れて寄せては返す波でありたい/文月郁葉このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)/笹井宏之Without youとはたぶん星たちが透けるくらいに青い空の名/植松大雄
天才と悪魔 <快ー不快>という尺度
ロバートジョンソンという伝説のブルースマンがいる。ローリングストーンズだとか、その後のたくさんの音楽に影響を与えた。僕にはイマイチぴんとこないが、ポップソングの祖だなんてことも囁かれている。
彼には一つ、おもしろい逸話がある。ある日、彼が歩いていると十字路に突き当たり、そこで悪魔と契約をして、誰もがアッと驚くような天才的なギターの腕前を手に入れて、それと引き換えに彼の魂を売り渡したのだ、と。
天才とは、すばらしいもの、新しいものを、次々にひょいひょいっと作り出してしまう人のことを言う。その常人離れした才能は、伝説を作る。たとえば、上に挙げたロバートジョンソンの話のように。
60年代のアメリカで、若者たちがエルヴィス・プレスリーや、ほかの生まれたてのロックンロールに熱狂していた頃、ロックンロールは悪魔の音楽だ、と、大人たちは眉をひそめていたという。それでも若者たちはそれを気にも留めずに踊り狂った。
芸術において、「悪魔のような」というのは褒め言葉だ。常人の感覚とはまったく違う、卓越した天才にしか使われない言葉だ。
ドイツの偉大な知性、ゲーテは、モーツァルトの音楽を、悪魔のような音楽だと言っているのも、おもしろい。
エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。
小林秀雄『モオツァルト』
映画評論家の淀川長治も、ゴダールの映画を評して、「悪魔のような映画だ」と言っていた。それまでの映画の枠組みから、あまりにも大きく、あまりにも平然とはみ出してしまっていたからだ。
悪魔とは、いろいろな解釈があるが、とにかく悪とされているものだ。その正体は、僕が思うに、キリスト教の戒律において、忌避すべきだとされているもの、すなわち快楽である。快楽は人を堕落させる。だから悪なのである。
神は死に、ニーチェも死んだ現代の芸術においては、もはや<善ー悪><真ー偽>といった単純な二項対立的な評価基準はふさわしくない。この世界は、唯一神によって七日間で作られたものだとは、大半の日本人は信じていないだろう。この世界の始まりは、ビッグバンと言う大きな混乱、カオス状態から始まった。一度散らかったものは、くっついたり離れたりを繰り返して、また散らかり続ける。そんな風に誕生して、今日まで続いてきたこの世界に、たった一つの真実があるわけではもちろんない。わかりきっていることだが、この世界はその根本から既に多様なのだ。それでは、そんな世界像が当たり前になった現代において、なにを基準に評価すればいいのだろうか。それは、気持ちが良いかどうか、ゾクゾクするような刺激があるかどうか、陶酔感があるかないか、つまり、<快ー不快>の尺度ではないだろうか。もちろんこの価値基準がすべてではない。これもまた一つの物差しでしかない。だけどとにかく、気持ちのよいことはいいことだ。二十一世紀の快楽主義者でありたい。
踊ってばかりの国 「ハロー」 live (神戸スタークラブ2010/3/7)
気持ちよくなれるなら 僕はゴミでも食えるよ
汚い食べカスも どんな臭い燃えカスも
そういう意味で、踊ってばかりの国は大好きだ。バンド名からして、最高だ。踊ってばかりいる国だなんて、なんてアホらしいんだろう。彼らは、気持ちよくなるための音楽を作り続けている。花に囲まれて生まれた子どもたちが、すくすく大人になって歌い出した音楽だ。大人たちがきっと嫌な顔をする、悪い子のための音楽だ。
「意味がない」ということについて
なにかの意味を実感するためには、信じることがその前提にある。
この街で俺以外 君のかわいさを知らない今のところ 俺以外 君のかわいさを知らないはず大宮サンセット 君はなぜ悲しい目で微笑む大宮サンセット 手を繋いで歩く土曜日