読書の楽しみ
たまに、たくさん本を読んでいてすごいね、とかえらいね、とか言われることがある。
褒められるともちろんうれしいけれど、別に褒められたくて読んでいるわけではない。ただ楽しいから読んでいるのだ。僕は本を読むのは楽しいことだと思うけれど、そう思わない人も結構多いようだ。だから、僕はどうして本を読むのか、なにがそんなに楽しいのか、ということについて少し書いてみたい。
すべて人間は、知ることを楽しむことを求めることが本性なり。彼らが見聞を好むのは、その象徴なり。実際の役に立たなくとも、見聞はただ見聞として愛好されるからなり。すべて人間は生まれながらにして知ることを欲する。
”ジャズな書き方”試論
壊してね 壊してね こうやって作るんよ壊してね 壊してね こうやって作るんよせやけどね 戻らんよ 壊したもんは戻らんよ別物や 別物や 全くもっての別物や
ジャズな人ってのは、向上心がないんだよね。誤解されたら困るけど、向上心がある人は「今日」が「明日」のためにあるんだよ。向上心が無い人は「今日」は「今日」のためにあるわけだ。これがジャズの人よね。向上心=邪念てことだよね。
行き当たりばったりで、目の前のことを、好きなようにやる。目先の用事がぜんぶなくなってしまったら、その都度またどこかから探し出してくる。タモリは、「人生は用事の積み重ねだ」とどこか別のところで言っていた。
ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』 あの日から僕らが考えている「豊かさ」について
ランド・オブ・プレンティ スペシャル・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: アスミック・エース
- 発売日: 2006/05/12
- メディア: DVD
- 購入: 4人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (83件) を見る
坂口安吾『恋をしに行く(「女体」につづく)』 「恋愛とは性欲の詩的表現にほかならない」のか?
実際、そんなものなのかもしれない。堀江敏幸は、『回送電車』という本の中で、恋を「永続するはかなさ」と表現している。なんともダンディで格好良い表現ではあるが、きれいすぎるためか、なんだか作り物の言葉のような気がする。これまた男女が出会っては別れる映画ばかり撮っているゴダールは、こう言っている。
「今日では、リズムの点ではすべてがみな同じです。人々は車に乗り込んだりパンを買ったりするのと同じリズムで接吻をかわしたりしています。」J・Rゴダール『映画史』
魂とは何物だらうか。そのやうなものが、あるのだらうか。だが、何かが欲しい。肉欲ではない何かが。男女を繋ぐ何かが。一つの紐が。すべては爽やかで、みたされている。然し、ひとつ、みたされていない。あるひは、たぶん魂とよばねばならぬ何かが。
太宰治『富嶽百景』 ぼくのかんがえるさいきょうの作家
日記かと見まごうほどにあけすけに、金銭的な事情やら、心境やら、彼が見たもの、感じたことなどが、素直な言葉で綴られている。太宰治の生活と、思考と、文学が、富士の山を通して境界が曖昧になっていく。日々の実感と、浪漫チックな理想と、彼の文字を書くための右手とが、「富士には、月見草がよく似合う。」という一文に結晶している。僕はそれをとても美しいと思う。『富嶽百景』は僕がこの世で一番好きな小説だ。
本谷有希子『生きてるだけで、愛。』 純文学は今どこにあるのか。
文学とは、生きることだ。純文学とは、その国で、その時代で、その人が生きていくための言葉なのだ。生きとし生けるものの、よろこびだ。生まれ出づるものへの手紙だ。
ジュリアン・グリーン『アシジの聖フランチェスコ』
映画『ゴダールのマリア』で、主人公が読んでいたのが気になって、学校の図書館で借りて読んだ本。
アシジの聖フランチェスコは、13世紀の人で、教会の権力化に伴う腐敗がすすむ中、聖書の言葉を信じて祈り、語り、行動をして、生きた実在の人物で、聖人とされていて、早すぎた福音主義者だとか、第二のイエス・キリストだとか言われている。
この本は、著者ジュリアン・グリーンが、聖フランチェスコの生涯を、著者がさまざまな記録を比較・検討しながら、熱意を持って、愛を込めて、慎重に、史実に忠実に、素朴な言葉で、美しく描いたものである。
アシジの聖フランチェスコ像
フランチェスコは、神様を信じた。神様を、キリストを、神様やキリストの言葉である聖書を深く信じた。そして、こよなく愛した。
彼は、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、何一つ不自由のない少年時代を過ごした。そして青年時代には、お金をたくさん使って、贅沢の限りを尽くして遊び回った。やがて当時の流行であった騎士道精神に感化され、騎士を夢見るようになり、挫折し、また放蕩の限りを尽くした。彼はその生活を心の底から、全身で謳歌していた。その徹底した駄目っぷりは読んでいて心楽しく、彼の気持ちの一つ一つがよくわかった。聖人とて、生まれたときから立派であったわけではないと思うと、おかしかった。
様々な原因や偶然が重なり、やがてフランチェスコは改心し、神の道を歩むようになる。彼は神を、神の言葉を深く信じるようになった。それから、彼の生涯は、神と共にあることに捧げられた。
その後の彼は、聖書にもある「清貧・貞潔・服従」をモットーに、それまでの富すべてを捨てて、その後の生涯を通じて世界を放浪する。彼は、己の肉体と、神の言葉と、愛以外は、何も所有しなかった。彼は祈り、語り、物乞いをし、歌い、神の恵みを歓んだ。やがてそんな彼を見た人々が仲間に加わり、兄弟会となっていくのだが、彼らのひたすらわかち合い、祈り、そして歓ぶという姿勢は彼の死の際まで一貫していた。
フランチェスコは愛の人である。隣人への愛、自然の美しさへの愛、神への愛、そして神が造りたもうたこの世界への愛。愛をもって、彼はこの世の全てを歓んだ。その素朴な美しさに、読んでいて強く心を打たれた。All You Need Is Loveっていう噂は、本当かもしれないなんて思った。