アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

読書の楽しみ

たまに、たくさん本を読んでいてすごいね、とかえらいね、とか言われることがある。

褒められるともちろんうれしいけれど、別に褒められたくて読んでいるわけではない。ただ楽しいから読んでいるのだ。僕は本を読むのは楽しいことだと思うけれど、そう思わない人も結構多いようだ。だから、僕はどうして本を読むのか、なにがそんなに楽しいのか、ということについて少し書いてみたい。

 
たとえば、見たことのない景色を見ることは、食べたことのない料理を食べることは、知らない国の音楽を聴くことは、たのしいことだ。’
あたらしいことは、たのしいことだから。
 
誰かの頭の中を覗けたら、好きな女の子の心の中に居座ることができたなら、読んだことのない本を読むのは、たのしいことだ。
自分とちがうものだから。自分の知らないことだから。
 

すべて人間は、知ることを楽しむことを求めることが本性なり。彼らが見聞を好むのは、その象徴なり。実際の役に立たなくとも、見聞はただ見聞として愛好されるからなり。すべて人間は生まれながらにして知ることを欲する。

 

 
これは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの言葉だ。古代ギリシアの人たちは、奴隷にばかり日々の仕事をさせていて、自分たちはたっぷりの時間を持て余していた。だからいろいろなことを考えた。詩をつくったり、劇に興じたり、哲学をしたり、いろんなことをして時間をつぶした。せかせかと忙しくしがちな僕らからしたら、耐えきれないほど長い時間を、そうやって過ごした。そんな古代ギリシア人の中でも、ひときわいろんなことをじっくりと考えたアリストテレスが言うからには、きっとほんとうなんだろう。知ることは、楽しいことなのだ。
 
映画を観るのも、本を読むのも、女の子とデートをするのも、新しいことを知りたいからだ。まだ見たことのない人・街・景色、知らない言葉・思想・世界観、聞いたことのない会話、言葉になっていない自分の気持ち、自分一人では想像することすらできない幸せ・不幸せ、味わったことのない味・空気・手触り。単調の毎日も、悪くはないけれど、だんだん退屈してくる。退屈すると気が塞ぐ。楽しいことなんてもう何もないって気がして、鬱々としてくる。それからの毎日は苦痛だから、なにかわくわくするようなことを見つけなきゃいけない。そんな時、僕は本を読む、映画を観る、どこかへ出かける。世界を広げる、と言ったら大げさすぎるけれど、どうしたって目の前にあるこの世界を前にして、退屈しているよりは、見方を少し変えてみたくて、僕は知らない言葉を探す。
 
何の変哲もない空だって、ジョン・フォードが撮ったのと同じ空だと思うと、詩情豊かにきらめいて見える。andymoriを聴きながら空を見ると、何もかも捨ててしまいたくなる。どこかへ旅立つきっかけになる。結局どこにも行かないにしても、鬱々とした気分を、なんとなく撫でてあやしてくれる。
 
そんな風に、僕は、手を変え品を変え、退屈に落ち込むことなく、毎日を楽しくやり過ごしている。そのために、来る日も来る日も本を読んでいる。映画を見ている。たまには絵画なんかも見ている。アホみたいに音楽を聴いている。残念ながら、教養にはなっている気がしない。だが、誰かに言われてやっていることでもないので、ただ楽しければいいのだ、と思う。

”ジャズな書き方”試論

壊してね 壊してね こうやって作るんよ
壊してね 壊してね こうやって作るんよ
せやけどね 戻らんよ 壊したもんは戻らんよ
別物や 別物や 全くもっての別物や


ミドリ (Midori) - ちはるの恋

 

 
ジャズには、テーマと呼ばれるメロディがあって、決められたコード進行の枠組みの中で、即興演奏(アドリブ)が行なわれる。ジャズを聴く楽しみの一つには、演奏者がテーマのメロディやリズムを崩して、壊して、作り替えるそのスリリングさがある。最初に一度テーマがきちんと演奏された後は、テーマは演奏によって殺され、もう一度生まれる。よく言われることだが、ジャズには一つとして同じ演奏はないのである。だからこの人のこの曲が好きではなく、この人のこの場所、この時の演奏が好きといった語られ方をされる。同じ演奏者が同じ曲を演奏したとしても、出来映えはまったく異なる。ある時は、まるで翼が生えたかのようにすばらしいフレーズを連発し、このままどこまでもいってしまうのではないかと思えるような熱い演奏をしたかと思うと、ある時はほとんどテーマのメロディや常套句的なフレーズからはみ出せず、窮死してしまうような演奏をする時もある。
そのような一回性、スリリングさを持った、想像力の生まれる場所、それがジャズである。
ジャズはどこまでいけるかわからない。だけど行けるところまで行ってみよう。そんな能天気でストイックな、場当たり的な楽しさがある。
 
タモリが夜タモリという番組の中で、”ジャズな人”について言及したことがある。

ジャズな人ってのは、向上心がないんだよね。誤解されたら困るけど、向上心がある人は「今日」が「明日」のためにあるんだよ。向上心が無い人は「今日」は「今日」のためにあるわけだ。これがジャズの人よね。向上心=邪念てことだよね。

 

行き当たりばったりで、目の前のことを、好きなようにやる。目先の用事がぜんぶなくなってしまったら、その都度またどこかから探し出してくる。タモリは、「人生は用事の積み重ねだ」とどこか別のところで言っていた。

 

僕は、ぼんやりとだが、”ジャズな文芸批評”というものを目指している。ある本を読んで、ある文章に心惹かれる。それを書き取る。そしてしばらく考え事をする。そうして出てきてきた言葉は、僕のものというよりも、その本によって考えさせられたもの、その本の内容の変奏曲とでも言うようなものだろう。僕はそれでいいと思う。ある本の内容をテーマとして、僕が即興演奏をするのだ。行けるところまで行っちまえばいい。どこにも行けなくたっていい。書いている間は、確かなリズムが、躍動が、生命が感じられるのならば。それを読んで、誰かがまた違うことを考える。そうやって、緩やかになにかの律動が、広がっていけばいいと思う。
 
ゴダールもそうだ。彼もまるで即興演奏をするかのように、目の前に広がる世界を、カメラを通して変奏する。だから彼の映画は、あらかじめ決められた筋書きなんてないかのようなスリリングさがある。彼についてはもう少し考えがまとまったらまたじっくり書いてみたいと思う。

ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』 あの日から僕らが考えている「豊かさ」について

 

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アメリカ合衆国。USA。日本に住む僕らからしたら、まったくのよその国のはずなのに、僕らはみんなアメリカの大統領の名前をフルネームで言える。誰もがアメリカ製のピカピカした映画を観たことがある。ジーンズを履いたことがある。人によっては、ニューヨークに住むのが夢だなんて言っている。だけど、僕らが多かれ少なかれ憧れている、アメリカって一体なんなんだろう。
古くは、新大陸として、新しい思想と、新しい自由と、新しい生活が、新しい人間が、夢見られた国。今だって、アメリカン・ドリームなんて言葉がみんなに通じるくらい、世界中の夢とあこがれが集まる国だ。
アメリカはこれまで、素敵なものをたくさん生み出してきた。たくさんのわくわくする映画を生み出してきたし、ロックンロールが産声を上げたのもアメリカだし、アメリカの文学は、村上春樹をはじめとしてたくさんの人に影響を与えている。
 
だけど、アメリカは良いことばかりをしてきたわけではない。そもそもインディアンを大量に虐殺してできた国だし、そのあとも戦争をたくさん戦争を起こして、たくさんの人を殺した。ランド・オブ・プレンティ、豊かさの国。アメリカは、その豊かさ、武力を使って、たくさんたくさん、他の国のささやかな幸せを叩き潰してきた。そうして世界中の豊かさを自分のものにした。
 
それでもずっと、平気な顔をして、私には夢があるだとか、ラブ&ピースだとか、月までロケットを飛ばして、この一歩は小さいが、人類にとっての偉大な一歩だとか、汚いことは何も知らないような顔をして嘯いてきた。
 
その大きな嘘にみんなが疑いを持ち始めたのは、9・11のテロがあってからだ。大きなビルに飛行機が突っ込んで、みんなが今まで見ないようにしてきたことに目を向けるようになった。ずっと間違ったことをしていたのかもしれないと、すべてに対して疑いだした。そうして、本当の豊かさ、本当の幸せってものを、真剣に考え出した。
 
この映画は、そんな悲しみを忘れないままに、ある一人の女の子と、ベトナム戦争の傷跡を消せないで、それに気づいてすらいない伯父が、二人で新しい自由や、幸福、豊かさを探す旅をするお話だ。
 
どんなにささやかでも、ありふれたものでも、かまわない。みんなが、誰も傷つけずに、自分の居場所を、自分の幸せを見つけられたらいいと思う。ラブ&ピースだなんて、嘘みたいなことを、本気で歌える、そんな世界がいつかきたらいいと願っている。

 

ランド・オブ・プレンティ スペシャル・エディション [DVD]
 

 

 

坂口安吾『恋をしに行く(「女体」につづく)』 「恋愛とは性欲の詩的表現にほかならない」のか?

 

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まずタイトルが、洒落ている。ちょっとそこまで買い物に行ってくるよ、とでも言う風に、「恋をしに行く」。ふしだらな男女の小説を書いてばかりいる安吾が言うと、不思議に格好良く、説得力があって、しびれる。

実際、そんなものなのかもしれない。堀江敏幸は、『回送電車』という本の中で、恋を「永続するはかなさ」と表現している。なんともダンディで格好良い表現ではあるが、きれいすぎるためか、なんだか作り物の言葉のような気がする。これまた男女が出会っては別れる映画ばかり撮っているゴダールは、こう言っている。

 
「今日では、リズムの点ではすべてがみな同じです。人々は車に乗り込んだりパンを買ったりするのと同じリズムで接吻をかわしたりしています。」J・Rゴダール『映画史』
 
愛こそすべてと言う人もあるが、人々は愛だけあってもお腹は減るし、公共料金も払わなければいけない。愛があってもなくても生活はつづくのだ。
だけど愛のない毎日はさみしくて、つまらなくて、物足りない。
だから人々は車に乗ったり、パンを買ったり、髪を切ったりしに行くのと同じように、「恋をしに行く」ものなのかもしれない。
 
恋とは、どういったものだろうか。「恋愛とは性欲の詩的表現に他ならない」と言っていたのは、芥川龍之介であったっけか。この小説では、ある男の肉体の恋が、詩的性欲の移り変わりが描かれている。ある女に恋をして、肉体が欲しいと思い、執拗に言い寄る。苦労の果てにやがて男はその女と肉体関係をもつようになる。恋をして、あの手この手で近づいて、実を結び、むつびあい、その果てで、男が思うこと。その最後の独白が、見事である。
 
魂とは何物だらうか。そのやうなものが、あるのだらうか。だが、何かが欲しい。肉欲ではない何かが。男女を繋ぐ何かが。一つの紐が。
すべては爽やかで、みたされている。然し、ひとつ、みたされていない。あるひは、たぶん魂とよばねばならぬ何かが。

 

 
僕は恋愛とは、性欲の詩的表現などとは思いたくない。それでは少しさみしすぎる。人間は、血と肉の詰まっただけの袋ではない、と思いたい。
二人一緒の時間をたくさん過ごして、いろいろな場所へ行って、たわいのない話もまじめな話もたくさんして、お揃いの記憶を集めて、だんだんとお互いの”たましい”を通わせていく。そういったものであったらいいと思う。

太宰治『富嶽百景』 ぼくのかんがえるさいきょうの作家

 

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作家と作品の関係は、しばしば論争の対象となる。作品と作家の私生活とは関係がないという人もいるが、批評では作品と作家の生い立ち、環境、日記などを照らし合わせて作品を分析する、という方法がよく行われている。
 
中でもとりわけ作品が、作者の生活や人生と結びつけられて語られやすい作家に、太宰治がいる。彼の最後は心中自殺であり、遺作のタイトルは「グッドバイ」である。そのせいで彼はしばしば、まるで死ぬために生まれてきたかのような扱い方を受けている。「人間失格」が、彼そのもののように読まれている。それが良いか悪いか、僕にはわからないが、僕は昔から太宰治が大好きで、彼の作品はほとんど読んだ。「うじうじした暗いやつ」という世間一般のイメージ通りの初期や晩年のものよりも、結婚して精神的な調子も良い時期に書かれた、中期のものが好きである。
 
彼は決して、死ぬために生まれてきたのではない。苦しむのが好きであったことは否定しきれないが、苦しむために小説を書いていたのではない。彼は『一日の労苦』という作品の中で、「作家はロマンスを書くべきである。」と書いている。彼は、文学によって、ままならぬ生活の中に一輪の文化の華を咲かせようとしていたのだ。
 
彼の作品の中で、僕が特に好きなのは、『富嶽百景』である。
生きることと、考えることと、書くこととが一致している。彼の生活が、生きるじたばたが、彼の見た夢が、そのまま文学になっている。
 

日記かと見まごうほどにあけすけに、金銭的な事情やら、心境やら、彼が見たもの、感じたことなどが、素直な言葉で綴られている。太宰治の生活と、思考と、文学が、富士の山を通して境界が曖昧になっていく。日々の実感と、浪漫チックな理想と、彼の文字を書くための右手とが、「富士には、月見草がよく似合う。」という一文に結晶している。僕はそれをとても美しいと思う。『富嶽百景』は僕がこの世で一番好きな小説だ。

 

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

 

 

 

本谷有希子『生きてるだけで、愛。』 純文学は今どこにあるのか。

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文学とは、生きることだ。純文学とは、その国で、その時代で、その人が生きていくための言葉なのだ。生きとし生けるものの、よろこびだ。生まれ出づるものへの手紙だ。

 
朝、目が覚めて、静かな気持ちで君を想うということ。さみしさや、焦燥感にやられて、騒がしい夜の街へ出かけて、わけもわからず踊ること。きっと幸せなはずなのに、なぜだか泣きたい気持ちになること。人と人とはわかりあえない、と信じたくないこと。
 
人が感じて、人が考えて、人が吐き出した言葉は、すべて文学になり得るはずだ。どんなにくだらなくても、眠れない夜を過ごして、朝に起きられないってことでも。喜びも悲しみもさみしさもためらいも、きっと無駄なんかじゃないって、生きているだけで、愛だって。そう叫んでいるこの小説は、たとえ眉をひそめたくなるような言葉遣いであっても、紛れもなく二十一世紀の日本の純文学だ。

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

 

 

ジュリアン・グリーン『アシジの聖フランチェスコ』

映画『ゴダールのマリア』で、主人公が読んでいたのが気になって、学校の図書館で借りて読んだ本。

アシジの聖フランチェスコは、13世紀の人で、教会の権力化に伴う腐敗がすすむ中、聖書の言葉を信じて祈り、語り、行動をして、生きた実在の人物で、聖人とされていて、早すぎた福音主義者だとか、第二のイエス・キリストだとか言われている。

この本は、著者ジュリアン・グリーンが、聖フランチェスコの生涯を、著者がさまざまな記録を比較・検討しながら、熱意を持って、愛を込めて、慎重に、史実に忠実に、素朴な言葉で、美しく描いたものである。

 

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 アシジの聖フランチェスコ

フランチェスコは、神様を信じた。神様を、キリストを、神様やキリストの言葉である聖書を深く信じた。そして、こよなく愛した。

彼は、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、何一つ不自由のない少年時代を過ごした。そして青年時代には、お金をたくさん使って、贅沢の限りを尽くして遊び回った。やがて当時の流行であった騎士道精神に感化され、騎士を夢見るようになり、挫折し、また放蕩の限りを尽くした。彼はその生活を心の底から、全身で謳歌していた。その徹底した駄目っぷりは読んでいて心楽しく、彼の気持ちの一つ一つがよくわかった。聖人とて、生まれたときから立派であったわけではないと思うと、おかしかった。

様々な原因や偶然が重なり、やがてフランチェスコは改心し、神の道を歩むようになる。彼は神を、神の言葉を深く信じるようになった。それから、彼の生涯は、神と共にあることに捧げられた。

その後の彼は、聖書にもある「清貧・貞潔・服従」をモットーに、それまでの富すべてを捨てて、その後の生涯を通じて世界を放浪する。彼は、己の肉体と、神の言葉と、愛以外は、何も所有しなかった。彼は祈り、語り、物乞いをし、歌い、神の恵みを歓んだ。やがてそんな彼を見た人々が仲間に加わり、兄弟会となっていくのだが、彼らのひたすらわかち合い、祈り、そして歓ぶという姿勢は彼の死の際まで一貫していた。

フランチェスコは愛の人である。隣人への愛、自然の美しさへの愛、神への愛、そして神が造りたもうたこの世界への愛。愛をもって、彼はこの世の全てを歓んだ。その素朴な美しさに、読んでいて強く心を打たれた。All You Need Is Loveっていう噂は、本当かもしれないなんて思った。