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阿部和重『グランド・フィナーレ』、現在進行形の文体

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小説と、ぼくたちが普段書いている普通の文章との違いってなんだろう。小説と、日記やエッセイや詩、歴史や神話との違いはどこにあるだろう。 小説には、ストーリーがある。というのを小説の定義だと思っている人は多いけど、それだけではないと思う。うんと昔に書かれた『千夜一夜物語』や『デカメロン』や、『竹取物語』は、ストーリーのある物語ではあるけれど、小説だと言う人はあんまり多くない。ストーリーを突き動かすような大事件が一切起こらないような小説だって世の中にはたくさんある。 小説とはなにか、だなんて今の僕には難しすぎる問題なので、いつかに後回しにするとして、おもしろい小説とはどんなものなのか。を考えてみたい。 僕は、ショッキングな題材や、手に汗握る展開や、血沸き胸躍る大事件、予想できない大どんでん返し、巧みな構成、二転三転するストーリーなどを売りにしている小説にはあまり興味が湧かない。どうして?と聞かれても、なんとなく好きじゃない。としか言えない。 この阿部和重の『グランド・フィナーレ』の主人公はロリコンである。そして夜中にクラブで仲間たちと最近起こったテロについて話したりもする。センセーショナルな題材がちりばめられている。でも僕はこの小説を、とてもおもしろいと思った。現代的な題材に興味を惹かれたわけでも、緻密な構成に舌を巻いたわけでもない。それでも夢中で読んで、本を読むのがとても遅い僕にしては珍しく、一日で読み切ってしまった。こんな小説今まで読んだことない、とまで思った。 なにがそんなにおもしろかったかと言うと、阿部和重の文体である。文体は、小説の魅力を形作る大きな要素だ。その人のほかにはないような、魅力的な文体を身につけることができたら、その作家は一生おもしろい小説を書き続けることができるだろう。文体とは、世界認識の方法である。作者の、世界に対するまなざしである。なにを、どんな順番で、どんな風に、どれだけ書くか。小説家によって文体というのはかなり違っていて、あっさりしていたり、ベタベタしすぎていたり、なんだかボーッとしていたり、思いやりが滲んでいたり、ヒリヒリしたりする。 ではこの『グランド・フィナーレ』での、阿部和重の文体とは、どういうものかというと、僕は読み初めてすぐに、現代的な文体だなあ。と感じた。その理由は少しあとに書くが、まずは彼の文章を読んでみて欲しい。この小説はこんな風な文章で始まっている。

 可愛らしいピンク色のウサギと青色の子グマが手を繋いで横に並び、眼前に立ちはだかっている。

 どちらも一丁前に小洒落た洋服を着込み、頭に花飾りなどを付けて粋がっている。

  どこからか、バニラ風の甘い香りが放たれてもいるようだが、微かな程度にすぎず、嗅ぎ取った直後に消え失せてしまった。

 傍らを通りすぎていった年配の女性客が付けている化粧品の匂いか、ベビーボーロとかミルクプリントかの菓子類を食したばかりの赤ちゃんの口臭が、空調の風に乗ってわたしの鼻先に届けられたのかもしれない。

 僕はこの文章を読んで、機械的な印象を受けた。いま目に見えるもの、感じたことを順番に、精密に記述していく、そんな文章だと思った。この小説の中にもたびたび登場する機械「カメラ」のように、淡々と、立ち止まらずに、目に映ったもの、心に起こった情念を書き取っている。小説家には、自分語りが好きな人がたくさんいて、しょっちゅう立ち止まったり、同じことを何度も言い換えたり、ベタついた言葉を使う人が多い。しかし阿部和重は、かなり意識的に、この現代的な、機械のような、直列的なまなざし・文体を貫いている。だから、この小説は情報量が多く、それでいて映像を観るようにスラスラと読める。そして、そこに物事の大小だとか、道徳やモラルといったものは一切介入しない。「私」は中枢神経を持っただけのビデオカメラのようであり、自分のことばかり考えていて、他者と積極的にコミュニケーションを取ろうともせず、人間味があまり感じられない。いびつである。そしてそのいびつさを、強調することもなく、隠すこともなく、いびつなまま、小説はどんどん進んでいく。そしてそのいびつさによる違和感が、ぼくたちの普段の考え方や感じ方のズレが、ぼくらが普通考える「人間らしさ」と平行線を描き続けるその様が、だんだんクセになっていく。ずっとこの文章を読んでいたいと思う。この小説を読んでいる時に感じるこの不思議な恍惚、ほのかな高揚感が僕は大好きで、これはこの人の文体によるものなのだ。そしてこのストイックな、無駄のない、カメラが撮った映像を言葉に翻訳したような文体は、今までにあまりなく、僕は初めて読んだ。阿部和重は、この小説でこれまでにない新しい文体を一つ作り上げたのだ。この小説が芥川賞を取ったのも頷ける。

 

グランド・フィナーレ (講談社文庫)

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読む・書く・考える

考えたことを言葉にするのはむずかしい。考えるように読むことも、読むように考えることもむずかしい。書くように考えることもむずかしい。書くように読むことだってむずかしい。読んだことを考えて、言葉にして語ること、すごくむずかしい。

 

読むことと書くことはちがう。読むことと考えることはちがう。考えることと語ることは同じようですごくちがう。言葉にはそれぞれ意味がある。言葉にするということは、切り取ることだ。限定することだ。ほかの意味を、すべて捨て去ることだ。

 

言葉はいつでも遅れてやってくる。たった今考えていることや感じていること、目の前に起こっていることに、言葉は追いつくことができない。しかし言葉によってしか、ぼくたちは、考えていることや、感じたことを他人にわかってもらうことができない。ゴッホの絵画の美しさを表現する言葉はなかなか見つからなかったから、ゴッホの絵はみんなにわかってもらえなくて、彼は生前まったく評価されなかった。

 

考えたことは、語らなければ、それは自分の外側に出ることはない。ほかの誰にもわからない。せっかく考えたのだったら、誰かにわかってもらいたい。「喜びをほかの誰かとわかり合う それだけがこの世の中を熱くする!」と小沢健二は歌っていた。たとえ限りない喜びを感じても、綺麗な景色を見ても、自由で充実した気分になったとしても、それを誰にも伝えられなければ、やっぱり空しい。ここまで書いた時に、何年か前に観た映画『イントゥ・ザ・ワイルド』が頭に浮かんだ。いい映画なのでひまがあったら一度は観て欲しい。いつか改めてくわしく書くかもしれない。

僕は、ここにとりとめのない文章を書き連ねることを通じて、自分の考えたことを、自分の考えたように、自分の考えただけ言葉にする術を少しずつでも身につけていけたら、と思う。

 

古代ローマの雄弁家キケロは、「哲学と弁論の一致」を生涯探し求めて、立派に体現した。僕の敬愛する小説家・保坂和志は、小島信夫の『私の作家遍歴』を評して、「(この本が)すごいのは、『読む』と『書く』と『考える』が完全に一体化しているところだ。」と言っている。僕が考えるすばらしい文章とは、この読む・書く・考えるが一体化しているものだ。考えなしに書かれた文章はつまらない。読むことなしに、一人きりでうんうん考えて書かれた文章もあんまりおもしろくない。あたりまえの範疇から飛び出すことができていないことが多いからだ。

読む・書く・考える文章にあこがれるのは、それがおもしろいからだ。そういう文章は、人類が言葉を話すようになって以来、たくさんの言葉によって形作られてきた現在の世界像・感性・人生観に、ちょいと一筆描き足すようなもので、そういったものを読むと、大げさに言えば、自分の見える世界が少し変わったような気持ちになる。

 

先日、ゴダールの「表現と感化のちがい」に関する文章を読んで、これは素敵な文章を書く手がかりになりそうだ、と思った。少し長いけど引用して、今回はおしまいにします。

私はいつも他人の言葉をコピーしてきました。私が最初にコピーしなければならなかったのは、すべての人の場合と同様、パパとママの言葉です。それに私は、複写と印刷の歴史に興味をひかれます。また私は今、人々とは違って、<感化すること>と<自分を表現すること>を区別して考えはじめています。

(中略)

私が思うに、<なかから外に出すこと>である<表現>と<外からなかに入れること>である<感化>の間には、ある違いがあります。また、ひとつの関係があります。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そしてこのことこそ、私が今、より意識的でより明確なやり方でしようとしていることです。

ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史』p.66-67 

 

 

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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キケロー弁論集 (岩波文庫)

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ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)

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ブログ始めます。

一人の人が見てきたもの、聞いたこと、行ったことのある場所、好きなもの、嫌いなもの、感じたこと、考えたこと、知っていること、覚えていること、忘れてしまったたくさんのこと。そのようなものたちは、いつかその人がいなくなってしまったら、それっきり全部どこかへ消えてなくなってしまうのだろうか。消えてしまったら、初めから何もなかったのと同じことなのだろうか。

もしもそうだとしたら、とっても贅沢で、素敵なことのように思える。だけど、やっぱりすこしさみしい。心細い。

俺は、普段ヒマな時間をたっぷり持て余しているので、本を読んだり、映画やアニメを観たり、音楽を聴いたり、散歩をしたりしながら、たくさんいろいろなことを考える。たくさんたくさん考えて、そのつどほとんど忘れてしまう。

俺の頭の中は、日々刻々と変わっていく。昨日は恋人が死んでしまう映画を観てかなしい涙をこぼしていたのが、今日は朝から晩までゴロゴロ漫画を読んで、明日にはウォッカを片手に夜の街に繰り出してはしゃいでいたりする。同じ日に人にやさしくなろうと決心したり、あんなやつ早いとこくたばっちまえと願ったりする。欲張りはよくないと反省したばかりなのに、数時間後にはAmazonのカートが一杯になってたりする。

そんな俺の頭の中を、文章にして読み返してみたらおもしろいかもしれない。覚えておいたら後々なにかの役に立つことを、今日の俺は考えているのかもしれない。

そんなことを考えて、なにもすることがないのに早起きしてしまったことも手伝って、ブログを始めてみようと思い立った次第です。

内容はおそらく観た映画とか読んだ本とか、好きな音楽、考えたことばかりになると思います。ちょっとばかりの承認欲求が込められただけの、自分のための忘備録のような文章ですので、温かい目で読んでください。

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これがスローガンです。