アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

言いたいことはなくなった

あるテーマを設定して、それについてこう書こうとすると、書けなくなる。なんだか間違いだらけなような、嘘っぽい感じになる。ついつい上手にまとめようとしてしまうし、背伸びがしたくてしたくてたまらなくなる。
自分が知らないことについては、訳知り顔でしゃべることはできないし、そうなると当然書くこともできない。すごいものを書いてやろうとしてしまうと、細かいことが気になって、ここは僕の誤解なんじゃないかとか、まったく見当はずれのことを言っていて、後々恥ずかしくなるんじゃないかとか、いろいろなことを考えてしまって、自分がどんどんどんどん小さくなって、理想はどんどん大きくなって、身動きがとれなくなるというか、外に出られなくなる。
そのことは結局、人の目を気にしているからだと思う。素敵なセンスを持っているとか、賢いやつだなあとか、こいつはひと味ちがうなあとか思われたくて、ついつい格好つけてしまうけれど、それではいろいろなことが怖くなって、結局どこにも行けないし、なんにもできないし、なにも言えなくなってしまう。そのことに前より自覚的になって、最近では、僕は別に賢くないし、大した野心もないし、伝えたいこともあんまりないから、脈絡も結論も裏付けも正しさもなにもない文章を書いていても別にいいんじゃないかという気がしている。
僕は文章を読むのが好きで、書くこともわりかし好きで、物心ついたときから心に浮かぶよしなしごとを取り留めのないままに大学ノートに書きなぐっていた。日記とも忘備録とも感想とも愚痴ともつかない内容を飽きることなく書いていて、何を書いたかは今ではほとんど忘れてしまったけれど、同じようなことを何度も何度も書いていたような気がする。自分のその時々の気分だとか感傷だとかを、どんな形でも言葉にして書いてみると、スッキリするというか、心が軽くなるような気がして、誰かに見せるつもりなんてなくて、ひたすら書いていた。その頃は、なにを書くべきかだとか何が正しいとか一切考えないで書いていたから、何を書いてもすらすら書けた。気にしてなかったからだと思う。たしかそのノートには、ヒトラーの『我が闘争』をもじって、『我が感想』という名前を付けていた。『我が闘争』を読んだことはなかったし、今もないしこれからも読む予定はない。
何が言いたいのかハッキリしない文章を書いているけれど、何か言いたいわけじゃなくて、ただ頭を空っぽにして浮かんでくることをぼんやりと言葉にしてただただ吐き出す作業っていうのは、なんだか楽しいなあってことを思ってるだけです。「私」とか「個性」とかいったものへのこだわりを捨てて、皮膚感覚だけに頼って海をたゆたうクラゲみたいに自分の中に引っかかっているものをなんとなくつかまえて眺めてみる。そうやって出来上がった文章が誰かにとっておもしろかったら万々歳だなあくらいにひとまず落ち着きました。だからこれからしばらくは今日と同じような気の抜けたサイダーみたいな文章が続くと思います。
二葉亭四迷の『平凡』を読んでいて、なんとなくこれまで書いてきたようなことを考えていました。まる。
ミイラズというバンドに『言いたいことはなくなった』という曲があるのだけれど、すごく素朴な音で素直な言葉でシンプルに格好良いロックンロールで僕は好きです。