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川上未映子『わたくし率 イン歯ー、または世界』 「私」の問題

 

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 

 

人は、自分以外の誰かになることはできない。言い換えると、私は私の外側に出ることはできない。自意識と言う監獄に閉じ込められている。と一般には言われている。だが、本当にそうだろうか。この小説は、そのような「私」像に徹底的に乗っかることによって、そのような「私」観の問題点、気味の悪さを暴き出し、そこから一歩進んだ私と世界との関係性を予感させた。

 

一口に「私」といっても、「私」は一つではなく、いくつかの領域に分かれる。

アタマとカラダ、肉体と精神、理想と現実、もしくはそのような二項対立とは関係のないところでグチャグチャしているものなど、エトセトラエトセトラ。

この小説の主人公は、そんな「私」を、私とわたしとわたくしとに分けている。

ここでは、私は自分の精神、自己とか自我とか呼ばれるようなもので、わたしは自分の肉体、表象であり、その二つをまとめたものをわたくしと呼んでいる。

そして主人公は、その「わたくし」は、奥歯である、という妄想に意識的にしがみついている。そして妊娠してもいないのに未来の自分の子どもに向かって手紙とも日記ともつかない文章を綴っている。

この小説は一人称の関西弁まじりのしゃべり言葉によって書かれてて、初めから終わりまで、徹頭徹尾わたくしの見たもの、わたくしの思い出、わたくしの感情、考え、印象がまくしたてられている。この世界のすべては、わたくしと結びついていて、わたくしとは切り離せない、わたくしの世界は、わたくしなしでは存在し得ないとでも叫んでいるようだ。

世界の中心はわたくしである。このような「我思うゆえに我あり」的なスタンスで、この物語は進んでいく。そして物語のクライマックスで、わたくしがそうして疑いをもつこともなく築き上げ守り続けてきたわたくしの世界観が、他者によって揺さぶりをかけられる。世界は、わたくしが思い描いているようなものではない、という現実を突きつけられる。そうしてわたくしの限界を感じた主人公は、デカルト的な「我思うゆえに我あり」の世界像とは別の世界像を志向するようになる。

それはたとえば川端康成の『雪国』の冒頭のような、西田幾太郎の純粋経験のような、主語のない、わたくし偏重の世界観から脱却した世界像である。それがどういったものであるか、この作品の中では具体的には描かれていない。気になるので、これから川上未映子のほかの作品も読んでみようと思う。

 

この本の宣伝文句に、「哲学的テーマをリズミカルな独創的文体で描き」というものがあるが、このような哲学と小説の関係は、とてもおもしろいと思う。哲学はあくまで理論や考え方、世界認識の方法であって、そのままそれだけでは机上の空論とまではいかないまでも、ただの計画に過ぎないものであって、あまりにも抽象的すぎる。というか、哲学は現在の世界やら個人やら世界やらを捉えようとしながら、未来に向かって書かれているようなものであると僕は思っている。だから哲学や思想というものはそもそも広く知られなければ意味がないと思うのだけど、たいていの人は小難しい見慣れない理論なんかを読み解いて解釈するようなヒマも興味もないのが現実で、そのような普通の人も読む小説というジャンルでこんな風に哲学を解釈して実践してみせたこの小説はすごくおもしろいし、こんな風な「哲学の実践」めいた小説が増えていったらいいなあと思った。もちろんこの小説のおもしろさっていうのはそれだけではないのだけれど。

 

なんていうか、この小説で描かれる極めて個人的な物語と、人類の考えてきたこと、哲学の歴史が響き合うさまに、現代らしさを感じておもしろかった。