アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

春、ほだし

 陽の光が乳白色の印象を与え、なんとなく風景が霞むような淀んだような空気をまとっている春だ。しきりに何かを思い出し違っているような気がするけど、どんな記憶や名前にも焦点が定まらずに、なんの考えもまとまらないでいる。なにか考えようとしていることはわかるけど、どんな形にも言葉にもならない。要は春だからぼーっとしていると、それだけのことかもしれない。曖昧な物事は曖昧なものによってしか語れない、というような意味のことをどこかでユングが書いていたのを思い出した。

 春だから世を儚んでいるわけではないけどさみしさを感じる。引っ越してしまった友達の家の前を通るときの気持ちは、さみしさという気持ちでは言い表せている気が全然しない。言い尽くせないというのでもなく、はじめからピントが合っていないようなズレを感じる。さみしいとか悲しいとかそんなに白黒はっきりした、ある意味折り合いのつけやすい感情ではなくて、もっと全体的な、漠然とした、いろいろなものが混じり合った感触がある。複雑というのもちょっと違う。わかりやすく身を切られるような悲しい気持ちになることもあって、悲しい気持ちにとらわれてしまうと体に力が入らなくなる。

 いま抱いている思いを表すのには、未練がましいというのが一番近いかもしれない。後悔があるとか、やり残したことや言い残したことがあるというのでもなく、絆のようなものを感じている。ここでいう絆はいまでいう絆(きずな)ではなくて「ほだし」と読んでいた頃の意味での絆だ。「ほだし」というのは、いつからいつまで使われていたのか知らないけど、僕が知っているのは平安時代に、王朝文学なんかのなかで使われてたことで、今生に対する未練、断ち切りがたい、離れがたい、あきらめがつかない、というような意味だった。当時は、現代の自己実現という言葉に集約されているこの世での立身出世やメイクマネーや幸福の実現を追求するという生き方よりも、死後に無事に極楽浄土に行くということのほうが大事で、そのためには出家をするのがいいんだけど、それを妨げるものとして絆はある。だから当時の死生観とか宗教観と密接に結びついた言葉ではあるんだけど、いまぼくが感じているのはこの絆(ほだし)じゃないかという気がする。特に根拠もなければ、断ち切りたいわけでも、いい悪いでもないんだけど。何が言いたいのかと言われたら分からないとしか言えない。けどなんとなくそう思った。

 

 ところで、いちいち回りくどく書くのが億劫なので仮にさみしさとして、ぼくがカラになった友達の家を通るときのさみしさは、「引っ越した友達の家の前を通るのは寂しい」と言ったところで、ちっとも伝わらないと思う。嫌な言い方かもしれないけど、人の気持ちには目的が伴う気持ちというのがあって、そういう種類の気持ちは人に伝えようとした時にストレートに言えばまあまあの精度で伝わる。一方で、さみしさとか悲しさといった、はっきりとした対象を持たない、原因も目的もないような、漠然としたところのある気持ちは、その曖昧さや意味の幅の広さから、そのまま悲しい、寂しいと訴えたところで、相手には一般化されて矮小化された、悲しい・寂しいの辞書的な意味が了解されるだけじゃないかと思う。じゃあどうすれば、そういう感情を言葉にのせることができるのかと考えたら、風景描写になるんじゃないかと僕は考えている。これは詳しく説明できるほどには考えがまとまっていないけれど、物語とか、小説とかっていうのは、そういうひとかたまりの名づけ得ぬ感情をそのまま手渡せる可能性を持ったものなんじゃないかと思う。あらすじやネタバレや批評を読んでもその小説を読んだことにはならない、小説は小説を読んでいるその時の中にしかない、と保坂和志はいろいろなところで繰り返し述べているけれど、名づけ得ぬもの、分節できないものをそのままの形で提示できるというのは、文芸的な言葉の可能性の一つではないかと思う。明確なメッセージやテーマがあるなら小説なんか書かないだろ、とはよく言うけれど、小説の形でしか表せないことが本当にあるんだと、なんだかしみじみわかったような気がする春だ。