アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

しりあがり寿とリアルと死

 最近、しりあがり寿の漫画を読むのにはまっている。そもそものきっかけは、『真夜中の弥次さん喜多さん』(全2巻)をブックオフ的なお店で安く買って読んでとても良かったからだ。みんな名前は知っているけど読んだことある人はほとんどいないことで有名な十返舎一九東海道中膝栗毛』を下敷きにしたもので、と言っても弥次さんと喜多さんの二人が主人公で、江戸から出発してお伊勢さんを目指すという点が同じというだけで、弥次さんと喜多さんはゲイカップルだし、喜多さんはヤク中で目を離すとすぐにクスリをキメてブッ飛んでしまう。そんな喜多さんが麻薬をやめるために、二人でお伊勢さんを目指すというあらすじ。その道中で彼らは夢か現かわからない、様々な妙な場面に出くわす。虚実の境界が曖昧になり、時には主体と客体が混ざり合い、あの世とこの世を行き来して、時間の感覚もぼやけて、何がリアルで、何がリアルでないのかがはっきりしない、なんともトリッピーなお伊勢参りがつづく。大げさに言えば、生と死や、善と悪、夢と現、その他あらゆる二項対立をごた混ぜにした、リアルを巡る旅の漫画だ。90年代にサブカル系の社会学者たちが盛んに論じていた、「終わりなき日常」だとか「いったいリアルはどこにあるのか」と言った問題に関する文脈で語ることもできるかもしれない(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』、中沢新一『リアルであること』など)。たびたび顔を出す悪夢のような、生よりもむしろ生々しい手触りを感じさせる幻の描写は、ひょっとしたら現実よりもはるかにリアルだ。「リアルよりリアリティ」と14才という曲の中でハイロウズが歌っていたけど、リアルとリアリティは別物なんだと思う。現実にいつもリアリティがあるとは限らない。真夜中の弥次さん喜多さんの一巻、「保土ヶ谷之宿」の章で、真夜中のベイブリッジで喜多さんが「すげえリアルだ すげえリアルだ」「う〜〜リアルだ……」とか言いながら冷たい鉄の柱をよじ登っているうちにアメリカのヤクの密売人と日本人との抗争に巻き込まれて落っこちて、ふと気づくと保土ヶ谷の茶店で団子を食べている、というシーンがあって、往来の人々がまるで意味のないやりとりを交わし合ってニコニコしているのを眺めながら「へへ なんだかちっともリアルじゃねえ…」とつぶやいて終わるのがすごく好き。たまにそういう風に、目の前の出来事がハリボテみたいによそよそしく感じることが確かにある。

 そんなこんなで『真夜中の弥次さん喜多さん』にどっぷりハマり、その続編である『弥次喜多 in DEEP』、99年から00年にかけてQuick Japanで連載された『方舟』、割と初期の作品集『夜明ケ』、ピンクの帯に白抜きの丸っこい文字で「でも人はいつか死ぬんですよ」と書いてある『オーイ♡メメントモリ』などを買ってみた。

 『弥次喜多 in DEEP』はより深化していて、全部で8巻あるんだけど、ディープなのであまり一気に読み進められず、1日1,2章ずつくらいちまちま読み進めてる。『方舟』はいかにも世紀末らしいテーマだけど設定がユニークで、ある日降り始めた雨がそのまま止まずに世界が終わる話で、隕石とかミサイルとか宇宙人とかと違ってはっきりとした敵もいないし、明確な盛り上がりどころというか節目もなく、ただじわじわと、静かに、淡々と終わりに向かっていく様はある種の静謐さというか、滅びの美学みたいなものを感じさせる。働き盛りのサラリーマンとか、うぶな高校生カップルとか、自分勝手なバンドマンとか、コメディアンや流行りのモデルとか、様々な人が出てきて、人によって自暴自棄になったり、昔のアルバムをひたすら見返したり、故郷に帰ったり、恋人と駆け落ちしたり、希望を捨てずに前向きに過ごそうとしたり、やまない雨の受け取り方やリアクションがみんな違って、読んでいるうちに、もしも世界が終わるとしたら、自分はどうするんだろうなんて小・中学生みたいなことを改めて考えてみたりした。それでふと思ったのが、「人はいつか死ぬ」ということはとても怖いけど、その怖さは「死ぬ」ということよりもむしろ「いつか」の部分にあるのではないかと思う。死を紛らわすためにこれまでずっと一役買ってきたのが宗教であって、その拠り所をすっかり失くした僕たちが持ちうる死生観というのは結局のところ、身も蓋もない言い方をすれば「あきらめる」以外にありえないのではないかと思う。ある日死神が目の前にあらわれてあんた来月死ぬよと告げられたら、泣いたりわめいたり暴れたり後悔したり恨んだりやたらお金を使ったりはするかもしれないけど、結局はあきらめて残りの日々を目一杯エンジョイする方向に落ち着くと思う。だから死ぬということに対しては怖いというよりもどうしようもないが先にくる。それよりもいつ死ぬかわからない、ということのほうがよっぽど怖い。余命一年のつもりで暮らしていたのに40年以上生きてしまったら悲惨だ。その逆もまた悲惨だ。まっとうに生きることはおそろしい。しかし、どうせ明日死ぬかもと思って、なにも頑張らないで過ごすことは、やはりそれはどうしようもない体たらくというほかはない。まっとうに生きるには、ある程度の見て見ぬ振りというか、先送り的な態度が不可欠ではないかと思います。資本主義って、そういうとこあるよね。とにかく、しりあがり寿の漫画は、等身大の哲学がちりばめられていて、とても面白いです。