アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

自分の頭で考えられない

 最近、自分で考えるということをあんまりしていないような気がする。いつからかわからないけど、自分で考えるというよりも、自分に合った考えを選ぶことが多くなった。この二つは似ているようで、ちがう。自分に合った考えを探し出して選択するということには、ある程度の能動性がいるけれど、一度水脈を見つけたらあとはすいすい流れに乗るだけだし、選ぶときには判断が伴うけれどそれは反射的に行われることが多い。なんていうか頭を使っていない。だけどそのスタイルにもいいところはもちろんあって、服を着るのに似た楽しみというか、普段は着ないような服を着て別人みたいな気持ちを味わうように、自分に似合ってはいるけど自分が考えたわけではない考えに則っていると、それまでとは違ったものの見方ができたりもする。学ぶという言葉の語源は真似をするという意味のまねぶだし、最古の芸術論とも言えるアリストテレスホラティウスの詩論でも模倣がその中心的な話題だし、名前忘れちゃったけど読書とは他人の頭で考えることであるみたいなこと言ってる人もいるし、何かを勉強することはそういう面があるんだろうけど、それにしてもあんまりにも自前で考えることを放棄しすぎている気がする。

 借り物の考えを考え続けていると、どうしても頭でっかちになってしまう。自分で考えるということは、たぶん自分の経験とか観察結果とか実感とかを照らし合わせて思考するということだと思うんだけど、勉強ばっかりしていると自分の頭の中身と実際の行動との間に隔たりが生まれてくる。斉藤環の本の中で、ひきこもりは自信はないのに自尊心は人一倍あるから苦しいんだというようなことを言っていて、それは技術もスキルも実績もないのに完璧主義者というか、何にせよそういうメンタリティを持っていると腰が重くなりがちなのかも、と思う。そういう面で、料理の本を読むのは実際にやってみるまでのハードルが低くてスピードも速いのでたのしい。一人で完結できることには存分に熱心になれる。

 まあ自分で考えることは無条件で素晴らしいということでもなくて、気をつけないとすぐ安易な現状追認というかその場しのぎの自己肯定みたいになったりするし、すぐに自分の都合のいいようにごまかしてしまうから、そういう風に偏りすぎないように本を読んで自分じゃない考えを定期的に取り入れて換気することは大切なんだけど、本を読みすぎるのも身体に毒かもしれない。でも読みたい本っていつでもいくらでもあるから困る。例のあの虫じゃないけど、一冊読んだら五冊は読みたい本が増える、みたいなところが読書にはあると思う。

 今一度、身の丈にあった考え方を模索する必要があると感じている。頭も体の一部なわけで、やっぱり自分にぴったりのサイズというのがあるんじゃないかと睨んでいる。必要以上に大きなことを考えすぎて疲れてしまうことがよくある。最近フェミニズムの本をちらほら読んだりネットの言説を追いかけたりしてるんだけど、ちょっと疲れてきた。フェミニズムは一人一派という言い方があるけど本当に玉石混交で、みんなが共有するべき新しい当たり前をきちんと主張している人もいれば、すべての男性を自分の仮想敵とダブらせてひたすら罵り続けるだけの人もいて、フェミニズム全体としての理念とか、目的とか、そういったものが非常に掴みづらい。そのわかりづらさがフェミニズムの可能性と言えなくもないかもしれないけど。ハンパ勉強でこの領域に何かいうのは気がひけるけど、ぼくはフェミニズムは誰も生まれ持った性別で苦しむことがないように、という人権運動だという風に捉えることにしました。

 大きいことを考えると疲れてしまう。ついでに自分がいくら考えても何も変わらないじゃんという無力感にも陥りやすい。大きいことを考え続けられる人はすごい。なんだか結局、今日はなに食べようとか、次の週末はなにをしようかとか、お金が入ったらこれがしたいとか、将来こういう暮らしがしたいとか、次はどんな本を読もうかとか、そういう細々としたことを考えるのにかかりきりになってしまう。というか大きいことに関しては、自分の考えを持つなんて不可能ではないかといま書きながら思った。自分で考えられることは自分が当事者である身の回りのこととかでしかなくて、身の丈よりも大きいことに関しては、どこかから考えを借りてくるしかないんじゃないかと。あるいは論理とか。僕はあんまり論理的に考えるタイプじゃないけど、論理ってやっぱりすごいと思う。自分ではない力が働くというか、論理を積み重ねていく方が自分でうんうん唸っているよりもはるかに遠いところまで行ける。論理的に考えるやり方、身につけたいな。でも論理じゃぼくは動かない気もするな。迷走してます。

本の整理をしていて思ったこと

 引っ越しに向けて、本の整理をしていて思ったことがある。どういう風に本を仕分けしているかというと、絶対に本棚に入れておきたい本・押入れの奥に押し込んでいたい本・いらない本の三つに分けて、いるかいらないか微妙な押入れ本を再検討する、というやり方で徐々に減らしている。絶対にいる本ともういらない本はスムーズに分けることができた。そうやって分けているうちに自分の中の本の序列みたいなものがちょっとわかってきた。

 まず、もういらない本の代表格は、面白いけど大好きじゃない巻数が多い漫画、1,2巻だけ買って止まってる漫画、どこのブックオフでも100円で売ってるような本だ。単純にかさばったり、もう読み返さない・漫画なら続きを買わない本はいらない。安いからという理由で衝動買いしたような本・どこのブックオフでも売ってるような本は、いくら安くても、引っ越しの時にいらなくなるという学びを得た。あと、自分の中の興味の文脈にそぐわない本、一冊だけ他と浮いているような本はいらないと思うことが多かった。あとアニメ化・ドラマ化した勢いでついつい買っちゃったやつとかも後々いらなくなりがち。それと買ったはいいけどずっと読まずにいる長編漫画。これはもう読まないんじゃないかと思う。この先どんどん時間がなくなっていくわけで、もう読まないのではないかと思う作品が増えてきた。『ドグラマグラ』とか『死霊』とか『チボー家の人々』とか『ドン・キホーテ』とか、大西巨人とかトマス・ピンチョンとか大江健三郎とかジョイスとか、読書好きの定番ではあるけどこの先も読まないんじゃないかという気がする。あとナルトとかブリーチとかも、結局全部は読んでないけどもう読まないんじゃないかと思う。プルーストだけはあきらめたくない。

 ちょっと難しいのが、好きな作家の好きじゃない作品、興味はあったけどハマらなかったジャンル、気になる特集の文芸誌、ヴィレヴァンで売ってそうなサブカル系の漫画、十代の頃に読んでた青春小説、新潮文庫から出てる海外文学の名作、コーヒーテーブルブックというのか、たまにパラパラめくるだけで決して通読はしない本、ネオアカなど古くなった思想、社会学系の本など。

 興味はあるけどハマらなかったジャンルが難しくて、具体的にはミステリー・SF・エンタメ系・ライトノベルなんだけど、どうしようか迷う。サラ・パレツキーとかシドニィ・シェルダンとか。江戸川乱歩夢野久作とか。とっといたらいつか読むような気もするけど、微妙。あとはサブカル系の漫画や高校・大学が舞台の漫画や小説、エキセントリックな感じのやつや、はしか的な作家も処分するか迷っている。買った当時はめちゃくちゃ感情移入して読んで夢中でハマりまくったし今思い返してもいい思い出になってるけど、この先読み返すかどうかは微妙なので。寺山修司村上龍山田詠美片岡義男など。漫画だと魚喃キリコとか松本大洋古屋兎丸よしもとよしともなど。本谷有希子や前田司郎も迷ったけど、前田司郎はいくらなんでもおもしろいのでとっておくことにした。太宰治は大好きなので全部残した。

 浅田彰山口昌男中沢新一蓮實重彦柄谷行人などのネオアカ系の人たちも迷ったけど結局残した。庄司薫田中康夫島田雅彦は当たり外れがあるので厳選して残した。

 新潮文庫から出てるような海外文学も難しい。もう読んだし読み返すか微妙なやつも結構あって、手放してもまたすぐ手に入りそうなものも多い。サン=テグジュペリパウロ・コエーリョは手放すことにした。ケストナーは残す。トルストイは手放す、チェーホフは残す。サルトルカミュは保留。カフカは残す。ジッドやヘミングウェイやヘッセは悩みどころ。ゲーテは残す。フィッツジェラルドも残す。ポール・オースターも残す。岩波文庫から出てるようなのはとっておこうと思うものが多くて、リルケノヴァーリスフローベールは残す。全体的に、アメリカ文学フランス文学は好きだから残したいものが多かった。ロシア文学、イギリス文学はこれから好きになりそうな予感があるので残した。

 

 絶対に本棚に残したい本を考えると、昔から好きだった作家が多い。保坂和志小島信夫高橋源一郎柴崎友香穂村弘太宰治あたりは大好きなのでそっくりそのまま残すことにした。あとは村上春樹も実は好きなので残す。村上春樹の小説も好きだけど村上春樹が好きな小説が好きという感じもする。フィッツジェラルドやチャンドラー、カーヴァーなど。アメリカの小説が好きなのはひとえに高橋源一郎村上春樹柴田元幸の影響だと思う。保坂和志の影響もかなりあって、彼が褒めてる作家はつられて好きになってしまう。小島信夫田中小実昌チェーホフカフカベケット、ウルフなど。あとは高橋源一郎から派生して読むようになったブローティガンヴォネガットサローヤンなども残す。ホイットマンやソーロー、ホーソーンなどの古いアメリカの小説も好きなので残す。ワーズワースマンスフィールドなどのイギリス系の人はこの先ますます好きになりそうなのでとっておく。

 あとは実用的な本も残す。料理本や身体関係の本、禅、発酵など。読み返すので。ミシマ社の本もなんだか捨てられない。趣味の本、音楽や映画の本も残す。これまた後々も読み返しそうなので。美術書や哲学書も残す。大学で勉強したことなので無駄にしたくない。同じ理由でブルトンアラゴンアルトー、エリュアールなどシュルレアリスム系の人は残す。詩歌も残す。一回読んだらおしまいというものでもないしすぐに絶版になって手に入らなくなるので。

 心底好きな漫画も残す。志村貴子山本直樹は大好きなので残す。大島弓子萩尾望都山岸凉子なども残す。つげ義春も残す。福満しげゆきもほとんど残す。あとは作品ごとにとっておく。きりがないのでタイトルは挙げない。

 

 そんなこんなで一通りの仕分けは終わりました。本棚に入れときたい本といらない本はもう確定で、押入れに眠らせておきたい本をもうちょっと検討する作業がしばらく続きます。4年間で本格的な本の整理は初めてだったので、自分の変化や趣味嗜好が改めて浮き彫りになってちょっと楽しかったです。さみしさもありますが。サブカル!!みたいな時期はもう終わったのかと思うと寂しいです。

春、ほだし

 陽の光が乳白色の印象を与え、なんとなく風景が霞むような淀んだような空気をまとっている春だ。しきりに何かを思い出し違っているような気がするけど、どんな記憶や名前にも焦点が定まらずに、なんの考えもまとまらないでいる。なにか考えようとしていることはわかるけど、どんな形にも言葉にもならない。要は春だからぼーっとしていると、それだけのことかもしれない。曖昧な物事は曖昧なものによってしか語れない、というような意味のことをどこかでユングが書いていたのを思い出した。

 春だから世を儚んでいるわけではないけどさみしさを感じる。引っ越してしまった友達の家の前を通るときの気持ちは、さみしさという気持ちでは言い表せている気が全然しない。言い尽くせないというのでもなく、はじめからピントが合っていないようなズレを感じる。さみしいとか悲しいとかそんなに白黒はっきりした、ある意味折り合いのつけやすい感情ではなくて、もっと全体的な、漠然とした、いろいろなものが混じり合った感触がある。複雑というのもちょっと違う。わかりやすく身を切られるような悲しい気持ちになることもあって、悲しい気持ちにとらわれてしまうと体に力が入らなくなる。

 いま抱いている思いを表すのには、未練がましいというのが一番近いかもしれない。後悔があるとか、やり残したことや言い残したことがあるというのでもなく、絆のようなものを感じている。ここでいう絆はいまでいう絆(きずな)ではなくて「ほだし」と読んでいた頃の意味での絆だ。「ほだし」というのは、いつからいつまで使われていたのか知らないけど、僕が知っているのは平安時代に、王朝文学なんかのなかで使われてたことで、今生に対する未練、断ち切りがたい、離れがたい、あきらめがつかない、というような意味だった。当時は、現代の自己実現という言葉に集約されているこの世での立身出世やメイクマネーや幸福の実現を追求するという生き方よりも、死後に無事に極楽浄土に行くということのほうが大事で、そのためには出家をするのがいいんだけど、それを妨げるものとして絆はある。だから当時の死生観とか宗教観と密接に結びついた言葉ではあるんだけど、いまぼくが感じているのはこの絆(ほだし)じゃないかという気がする。特に根拠もなければ、断ち切りたいわけでも、いい悪いでもないんだけど。何が言いたいのかと言われたら分からないとしか言えない。けどなんとなくそう思った。

 

 ところで、いちいち回りくどく書くのが億劫なので仮にさみしさとして、ぼくがカラになった友達の家を通るときのさみしさは、「引っ越した友達の家の前を通るのは寂しい」と言ったところで、ちっとも伝わらないと思う。嫌な言い方かもしれないけど、人の気持ちには目的が伴う気持ちというのがあって、そういう種類の気持ちは人に伝えようとした時にストレートに言えばまあまあの精度で伝わる。一方で、さみしさとか悲しさといった、はっきりとした対象を持たない、原因も目的もないような、漠然としたところのある気持ちは、その曖昧さや意味の幅の広さから、そのまま悲しい、寂しいと訴えたところで、相手には一般化されて矮小化された、悲しい・寂しいの辞書的な意味が了解されるだけじゃないかと思う。じゃあどうすれば、そういう感情を言葉にのせることができるのかと考えたら、風景描写になるんじゃないかと僕は考えている。これは詳しく説明できるほどには考えがまとまっていないけれど、物語とか、小説とかっていうのは、そういうひとかたまりの名づけ得ぬ感情をそのまま手渡せる可能性を持ったものなんじゃないかと思う。あらすじやネタバレや批評を読んでもその小説を読んだことにはならない、小説は小説を読んでいるその時の中にしかない、と保坂和志はいろいろなところで繰り返し述べているけれど、名づけ得ぬもの、分節できないものをそのままの形で提示できるというのは、文芸的な言葉の可能性の一つではないかと思う。明確なメッセージやテーマがあるなら小説なんか書かないだろ、とはよく言うけれど、小説の形でしか表せないことが本当にあるんだと、なんだかしみじみわかったような気がする春だ。

色とか

エスカレーターの手すりとか、ガードレールとか、駐車場のフェンスとか、選挙ポスターとか、商店街のシャッター、電話ボックス、自動販売機、ブロック塀、室外機、そういう日本でありふれたものたちって、どうしてあんなにはっきりしない、くすんだような、くたびれたような色をしているんだろう。もっと鮮やかで、明るい、ハキハキした色にした方が、喜ぶ人が多いんじゃないかと思うんだけど。写真でしか見たことないけど、チュニジアの白い建物が並んでいる街並みは、青い空がよく映えて、それだけでちょっとうれしいじゃないか。
ぼんやりとした色のほうが、他のいろんなものと並んだときに、ぎくしゃくすることが少ないからだろうか。ぼくが地味な色の服ばかりを選んで買ってしまうのと同じような、小心的な防衛の構えなんだろうか。触らぬ神に祟りなしというか、けばけばしい色彩に不快感を感じる人のほうが、地味な色にわざわざ文句を言うような人よりもずっと多いんだろうか。

話は変わるけど、人間らしい生活という言葉を目にするたびに、もやもやする。人間らしい生活、それはとても尊くて良いものとされているような口ぶりで発せられるけど、人間らしいって一体なんだ。人間は時代や地域によって、本当にコロコロと生活態度を変えているじゃないか。人間らしい生活なんて、まだ確立されてないんじゃないか。◯◯するのは人間だけ、とかも言うけど、それが人間の本性のように語られるのにも違和感がある。怒ったときに出るのがその人の本性だ、という物言いに感じるのと同じ質の違和感がある。極端な部分をクローズアップして、これこそが本来の、正直なあり方ですって囃し立ててるみたいで、乗り切れない。
人間は動物とはちがう、ならまだわかるけど、人間は動物じゃない、とでも言いたげな態度をみるとうーんと思う。それじゃ動物と一緒じゃん、と言うとき大抵は侮蔑のニュアンスが含まれているけれど、そうじゃなくても人間は動物と一緒だと思う。でもこれは適切な言い方じゃない気もする。同じ部分もあるけど、固有な部分もある。そしてこれでは何も言っていないのとおんなじだ。ものを言うのはむずかしい。言いっぱなしならいいけど、誤解を避けようと思ったら、無駄に引き伸ばされてしまうし、角が取れて、結局なにも言っていないような感じになる。そもそも、不特定多数に向かって言いたいような大層な何かなんて持ち合わせてない。そういえば、この前寝て起きたら、「主体性はあるけど能動性はない」っていう文句が頭に浮かんで、なるほどと思った。ここに書いているのは、すべて宛先のないただの雑感。用もないのに長電話をかけるような、そんな感じ。ひとりで文字でしゃべっていると、軽い運動をしたあとに似たすっきりした気持ちになれる。

思っていたより屈託がなかった

サークルの同回生でぞろぞろ旅行に行った。その夜の飲み会で、楽しかった思い出話を交えつつ、いまだから笑って言えるけどあの頃実は…みたいな悩みとかをぽつぽつ語りあったりもしていた。人間関係で悩んでいたとか、今後の身の振り方がわからなくなっていた、などなど。
そのときに我が身を振り返ってみても、そのようなわだかまりがあんまり思い当たらなくて、その時々で大好きな人たちと一緒に好きなことや楽しいことをすることに夢中になったり飽きてしまったりを繰り返してきただけだったように思う。そうして、ぼくは自分が思っていたよりもはるかに屈託がなかったんだなと気づいた。
迷惑をかけたり、持て余していた激しさを受け止めてもらったりはしたけれど、いたずらに殴り合ったり傷つきあったりということはなかったと思いたい。これはもちろんぼくが鈍感で記憶力に乏しく責任感に欠けているだけかもしれず、周りの人たちが底抜けにやさしかったり、どうしようもなく気が合ってしまっていたことに由来するものではあるけれど。

ぼくらの代は今までで今が一番関係が良好で、これから先に集まったときに、それぞれ環境も考え方も遊び方も変わって、そりが合わなくなってしまうんじゃないかという不安の声を洩らす友達もいたけれど、個人的にはこれまでに好きだと思ってきた人たちとはつながりが切れたことがなく、屈託なく楽しい関係性を維持し続けられているので、そこは心配していない。来週も地元の友達とキャンプをしに行く予定がある。自分のこういうところは、きっといい面もわるい面もあるけれど、いまはただその単純さを喜ぼうと思う。

ぼくが一番感謝をしている友達のひとりが、ぼくらがまだ一回生の、頭の中ではハチミツとクローバーがぎっしり詰まってはち切れそうになっていた頃から、もっと距離感に気を遣えとしきりに諭してくれていたことを今もまだ思い出す。今なら彼女が言いたかったことが少しだけわかるような気がする。ずっと人間関係にはゴールがあるというか、人と人は際限なくかなり深いところまで繋がりうると思っていた節があったけれど、人間関係にはゴールなんてハナから存在しなくて、強いていえばつづけていくことが最大の目標で、もしかしたらつづけることすらも大した問題じゃないのかもしれない。安易に近づく必要もなければ、わかりあうことも、なにかを共に楽しむことも必要じゃないのかもしれない。その人自体を愛するだけではなく、その人と自分の間に頑として横たわる距離を慈しむという関係の結び方もあるのかもしれない。そんなようなことを宇多田ヒカルも歌っていたような気がする。挨拶をするだけという距離感が適切な相手もいるかもしれなくて、それが不意にどうしようもなく心を軽くしてくれることだってあるのかもしれない。一切の留保もなく受け入れること、それは必ずしも歩み寄ることを意味しない。なにが言いたいかわからなくなってきたけど、とにかく宇多田ヒカルはすごい。DISTANCEを聴け。

四年間

 四年間続けたサークルの引退ライブがあった。三日間ぶっ通しのライブで、体力的にも精神的にも完全に燃え尽きた。僕らの二個上の先輩の名言で、「セックスみたいなライブがしたい」というのがあるんだけど、今回のライブは完全にそれだったと思う。同じ音楽を愛する人たちにしかわからない、「わけがわからないけど気持ちが一つになってる感じ」が最高潮だった。

 大学生活のほとんどをつぎ込んで、これからも続いて欲しいし続くであろう人間関係の大半を育んだサークルだったので、思い入れが深くてとても言い尽くせるものではないし、伝えるべきことは個々に直接伝えたつもりなので、ここではあんまり詳しいことは書かない。また会いましょう。これまでのように、たいした理由もなく、張り切らずに集まることができなくなることと、きっとこれからは集まれた時も思い出話の占めるウェイトが増えていくんだろうということがたまらなく寂しい。

 最高で終われて良かったという気持ちと、こんなに最高なのに終わってしまってさみしいという気持ちの両方がある。ライブ後の飲み会の終わり際に、「こんなに最高なのになんで終わるんだよ」とか言いながら泣きじゃくる友達のあきらめの悪さが格好良かった。

 四年間を一緒に過ごしたからといって、何から何まで分かり合えるわけではもちろんない。それどころか、四年間一緒にいたって気が合わないものは合わない奴だっていた。それにもかかわらず、わかりあえなくても、気が合わなくても、あんなに最高な三日間を一緒に作ることができたこと、それはわかりあうことよりも気が合うことよりもよっぽどすごくて、素敵なことだと思う。音楽が好きだという点以外では、僕らはてんでバラバラで、それでもそれぞれが最高のライブをした。そのことを一緒になって喜んで、馬鹿みたいにお互いに讃えあって感謝を伝え合って別れた。

 中学生の頃から、音楽ばかり聴いていた。高校でも大学でも、音楽をきっかけにできた友達がほとんどだ。それと、昔よく聴いていた音楽を聴くと、その当時の情景や心境がふっと蘇ってくることがある。これから先、NUMBER GIRLの”omoide in my head”を聴くたびに、最高だった三日間、最高だった四年間、最高だったみんなのことを思い出すんだと思う。音楽が好きで本当によかった。ありがとうございました。

冬はつとめて

誰かが自分が好きなことについて、気持ちのいいように綴った文章ってやっぱりいいなと思う。初期の村上春樹羊をめぐる冒険より前)は、笑うのが好きなジャズミュージシャンがソロをとるみたいに、自分が気分が良くなるように好き勝手書いていたらしいけど、実際村上春樹の初期の短編集を読むとなんとなく気分が良くなる。デビュー作の風の歌を聴けの中に出てくる架空の作家の作品のタイトルは、『気分が良くてなにが悪い?』だった。

春は曙。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて。自分なりの枕草子みたいな文章を、できることなら書いていきたいと思う。

最近好きなもの。ビョークジョニ・ミッチェル。葉っぱの多い大根、チョコチップクッキー、喫茶店、厚着の人、プレイステーション、コインランドリーからはみ出てくる熱気、ナイキのランニングシューズ、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、Post Malone、川上弘美、空き瓶、植物の名前、セーター、針山、伊藤比呂美アールヌーボー

ぼくの両親は、すねたようなところがなくて、そこがすごく好きだし尊敬してるし感謝している。なんで自分ばっかり、とか、あいつが妬ましい、とか、疲れ切ったときにはそういう方向に引っ張られたりもするけれど、なんだか居心地が悪くて、長続きしなくて、そういう風に考えるのはやめようと思い直せるのは、すねたようなところがない人たちが暮らす家で育ったからかなと思う。それはすごく恵まれたことだってわかってる。

やっぱりスマホからだとあんまりたくさん書けないな。

 

空気よりよいものはないのです


それも寒い夜の室内の

空気よりもよいものはないのです


煙よりよいものはないのです


煙より 愉快なものもないのです


やがてはそれがお分かりなのです


同感なさる時が 来るのです
空気よりよいものはないのです


寒い夜の痩せた年増女の手のような


その手の弾力のような

やはらかい またかたい
かたいやうな

その手の弾力のやうな
煙のやうな

その女の情熱のやうな
炎えるやうな消えるやうな
冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです

中原中也「冬の夜」