アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

いきもの

やっぱり外部からの刺激に敏感すぎる。音や光や、他人のまなざしや気分、気候や天候、季節や流行やムード、そういったものをすぐに内面化して擦り切れてしまう。
感受性強めの人が、心のバランスを崩しやすいのは、入ってくる情報が大きすぎて、自分の中で中毒を起こしてしまうからだと思う。極端な気分の上がり下がりがあるときは、やっぱり外部からの刺激に極端な変化があって、それを処理しきれずにガタがくる。
入ってくるものと出ていくものが釣り合うような生活を心がけたい。いつか死ぬとき手ぶらがベスト。

数日前までちょっと体調が悪くてこんなようなことを書いた。今はすっかり良くなったけど、それはたぶん日差しの中に春の予感が混じってきて、今日がいい天気だったからだと思う。やっぱり、環境からの影響をとても受けやすいんだと思う。今日は本当に朝から踊り出したいくらいいい気分だった。朝から公共料金払って洗濯もした。
野口晴哉の『体癖』という本の中で、「健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。」という文章がある。ぼくも、たくさん食べて、一日を使い切って、ぐっすり眠れるようになりたい。

 

脈絡ないけど思ったこと。論理や理屈というものは、自分も含めて、誰かを説得するための方便なんじゃないか。本はたくさん読んだから、春になったら外に出よう…

とりとめのない

お金を使うことは投票と一緒だという考え方がある。たぶんここ15年くらいで特に広まってきた考え方だ。いろんなことがちょっとずつ絡み合っている、というのはこわいことだと思う。なにをどこでどんな風に買うかによって、世界が少しずつ変わっていく、というか、変わってしまうということ。それに取り返しのつかなさを感じてしまう。水の流れが石を削るみたいに、放っておいたら部屋が散らかっていくみたいに。
いろんなことが関わりあっている。音楽は、ファッションとも、どんな態度で暮らすかということとも、深い関わりがあると改めて思う。背筋を曲げたり伸ばしたりすることで目に入るものや考えることが変わったりする。食べたものによって力の入り具合に違いが出てくる。そういう相関、因果関係は、とても言い尽くせるものではない。意識することも、気が遠くなって、むずかしい。

あ、なんかいい感じ、って思ったときとか、誰かの話にそうそう!って思ったとき、いい気分になったり頷いたりするだけにとどまる節度がほしい。比較とか、分析とかひとまず置いとける落ち着きがほしい。
ずっと前に驚きつつも黙って飲み込んだ何かが、長い時間を経て少しだけ形を変えたり言葉になったりして不意に腑に落ちる瞬間が大好きだけど、そのためにはただ受け止める、しまっておく、とどめておくってことが不可欠になる。
ただ最近は簡単にでもメモしたりしてひっかかりを作っとかないとそのまますっかり忘れてしまうことが増えた。ぐずぐずさせ続けるのってむずかしい。体力や集中力がいる。
一度でも好きになったものは、ひとつ残らず覚えておきたいなと思ってしまう。

インターネットで考え中

まとまった情報、すっきり読みやすい記事よりも断片的なもの、垂れ流されたもの、電子の海をたゆたうささやかなきらめきや澱み、インターネットにはそういうものを期待したい。
脳に直接つながっているような、無防備な文章に出会ったとき、インターネットをやっていてよかったなあと思う。すらすら書けるとこまで書いて、続きはまた今度とか言って、二度と続きは書かない、予告編だけの映画みたいな、そういう気ままさに出会いたい。
本、雑誌、テレビ、ラジオ、いろんな媒体があって、インターネットはそれぞれのある部分の寄せ集めみたいなところもあって、だけどインターネットの特徴的なところは、出したあとでいくらでも書き直せることだと思っていて、とりあえず出す、肩肘張って作り込まない、何球か投げてたまたまストライクゾーンに入るものが混じってたらいいな、本来そういう気楽さが似合うメディアなんじゃないかと思う。言葉尻を捕まえて炎上させるようなことは、本当は似合わないんじゃないかと思う。考え中のことをしゃべりっぱなす。リンクを辿る。そうしていくうちにかすかな意味が重なっていく。そんな風な使い方ができたらいい。
これは単なる思いつきだけど、インターネットは、不特定多数とのコミュニケーションとは向かないんじゃないか。双方向的な、というか責任が生じるような、ほっとけない関係ってインターネットにはあんまり向いてないんじゃないだろうか。果てがないから。やっぱり匿名との相性がいいのでは。ひっそりとリンクでつながるくらいの距離感がいいんじゃないか。面と向かう代わりに、画面越しに殴りあうのはギスギスしててこわい。
思いがけないものどうしが細い糸で繋がっている、インターネットのそういうところが好きだ。ニュースを集めるためとか、商売道具とか、誰からも相手にされないトゲトゲした感情のはけ口とか、インターネットはそれだけじゃなくてもいいはずだよなと思う。きっとこれからも、インターネットは商売と結びついていくだろうけど、全然そうじゃない、手つかずの、雑草が生えっぱなしのインターネットも、細々と生き続いていってほしい。それを食べたい虫もいる。

いっそひと思いに

 インスタグラムを見てみると、いつでも誰かがどこかに行っている。大学生は春休みの時期に入ったからか、どこか遠くに出かけている人が目立つ。ある人は車に乗って、ある人は飛行機に乗って、遠くに出かけている。

 最近、本を買う以外のたのしいお金の使い方を、二つか三つくらいは身につけておきたいと思うようになった。節約は気を抜くと我慢になって、我慢はともすれば人生の楽しみを根こぎにしてしまう。我慢をするのは、たばこの吸いすぎと、コンビニでの買い食いと無闇にジュースを買うのと、一度もろくに使わないものの衝動買いと、ちょっと手間をかければなくせる出費に対してだけでいいんじゃないかという気がしてきた。
 遠出をしてみたいと思うようになった。執着を手放すためのレッスンとして、旅をしてみたくなった。出会うための、変わるための、開いていくことの練習として、一思いにどこかに出かけたりしてみたくなってきた。
 去年の印象深い出来事を振り返ってみると、ちょっと遠くに出かけてみたときのことがまず思い浮かぶ。夏に友達とキャンピングカーを借りて、夜明けまで海で焚き火をして魚を焼いて食べたりしたこと、翌朝フライパンでまずそうな色のホットケーキを焼いたこと。秋に兄に誘われて熊本に行って初めて見るタイプの人たちに囲まれてキャンプをしたこと。ここでも一晩中いろんなところで薪や草やドラム缶が燃えていた。
 熊本に行ったときに感じた、言葉にならない引っかかりが、鷲田清一の『「聴く」ことの力』を読んでいるうちに少しだけ浮かび上がってきた。まだうまく言えないけど、(例えば観察者としての)一つの立場に固執していたから、溶け込んだり、参加したり、関わったりすることがうまくできなかったのかもしれないと。自分が何もできないことを気にして、自分を差し出す準備ができていなかったこと。なにかを探しているつもりで、変わる気がなかったこと。あの時は、たぶんまだ単純に量的な時間が必要だったんだと思う。落ち着きを取り戻すための、息をととのえるための、まとまった時間が欲しかっただけだったように思う。後付けの、言い訳かもしれないけど。
 ぼくはまだ何も知らないなと改めて思う。人のことも、土地のことも、時間のことも、歴史のことも、自然のことも、身体のことも、ことばのことも、自分のことも、生活のことも、仕事のことも、お金のことも、楽しみのことも、苦しみのことも、生き死にのことも、何一つさえ知らないなと思う。
 凝り固まるには、まだ早い。悟ったような気になるには、まだ早い。まだ何も知らなすぎるし、知りたいと思う。何かや誰かと出会う、関わるということは、まず自分や自分の時間を差し出すことで、相手や対象に向かって(とは限らないけど)、自分が作り変わっていくことで、変わるということはきっといくばくかの傷つく可能性を孕んでいる。
 

 到来者にはウィ(oui)と言おうではありませんか、あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆる同定(アイデンティフィケーション)以前に。到来者が異邦人であろうとなかろうと、移民、招待客、不意の訪問者であろうとなかろうと、他国の市民であろうとなかろうと、人間、動物あるいは神的存在であろうとなかろうと、生者であろうと死者であろうと、男であろうと女であろうと、ウィと言おうではありませんか。

ジャック・デリダ『歓待について―パリのゼミナールの記録』 

 

拒絶することにおいて、あくまでも先へ進まねばなりません。祖国と家族、この二つは互いに似ており、対応し合っているのです。『テオレマ』の客の重要な啓示は、男親はつねに養子縁組によってしか親となれないということではないでしょうか。みんながよそから来るのです。だからといって、ここが自分の場所であっていけないわけではありません。外国人などどこにもいない、いや、われわれ皆が外国人なのです。こことはいたるところのことです。どこにいたってそこが<ここ>なのです。したがって、そう、侵入に万歳!願わくは、客たちの時代の来たらんことを!もはや迎えるものと迎えられるものの区別のない時代、誰もが自分のことを客の客であると言うことができる時代の来らんことを!

ルネ・シェレール『歓待のユートピアーー歓待神礼賛』 

 

 だがパパラギにとって、考えるということは、道をふさいでどけようもない、大きな溶岩のかたまりのようなものだ。楽しいことも考えるだろう。だが笑いはしない。悲しいことも考えるだろう。だが泣きもしない。腹がすいても、タロ芋やパルサミ(サモア人の好む料理)を食べるわけではない。パパラギという人間の中では、欲望と精神が敵意を抱いて対立しているようだ。彼らは、くだけてふたつに割れた人間だ。

 パパラギの生き方は、サバイまで舟で行くのに、岸を離れるとすぐ、サバイへ着くのに時間はどのくらいかかるかと考える男に似ていると言えるだろう。彼が考える。だが、舟旅のあいだじゅう、まわりに広がる美しい景色を見ようとはしない。やがて左の岸に山の背が迫る。それをちらっと見ただけで、もう止まらない ーーあの山のうしろにはいったい何があるだろう。おそらく湾があるのだろう。深いのかな?せまいのかな?こういう考えのために、若者たちといっしょに歌っていた舟歌どころではなくなってしまう。若い娘たちの冗談も聞こえなくなってしまう。

 湾と山の背が過ぎ去ると、また新しい考えが彼を悩ます。「夕方までに嵐になるのじゃないか」。そう、嵐になるのじゃないか。彼は晴れた空に黒雲をさがす。来るかもしれない嵐について思いわずらう。嵐は来ずに、夕方ぶじサバイに着く。ところがこれでは、旅行はしなかったのと同然だ。なぜなら彼の思いはいつも彼の身体を離れ、舟を離れて遠くにあったのだから。これならウポルの自分の小屋に寝ていたのと変わらない。

エーリッヒ・ショイルマンパパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』

 

  そこでもう一度「ホスピタリティ」の概念である。「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される」。前にも引いた『歓待のユートピア』のR・シェレールは、そのように書く。シェレールによれば、ホスピタリティとは、<客>を迎え入れるものをその同一性から逸脱させるものであった。<客>ではない、あくまで<客>を迎え入れる者を、である。<客>を迎え入れるというのは、<客>をおのれに同化することではなく、逆におのれ自身をよそよそしいものへと異他化することである。これを言いかえれば、ホスピタリティは同一性への固執、つまり何かへの帰属へのこだわりを棄てるところにこそ成り立つということである。ある場所、特定の意味空間のなかのある位置、それへの帰属に無関心になること。自己の同一性よりも、「われわれ」の掟よりも、<客>の存在のほうが優位を占めるような絆、それがホスピタリティだというのである。「他者への生成なくしては、他者の承認とは、つまるところ空虚な言葉にすぎない」。

 このような視点からすると、ホスピタリティは、世界をじぶんの法から視る、じぶんのほうへ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあることになる。私は自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは<わたし>になる。わたしの固有性とは、したがって、わたしがその内部に見いだすもの(わたしがじぶんの能力、素質あるいは属性として所有しているもの)ではなく、むしろ他者によるわたしへの呼びかけという事実のなかでそのつど確証される。まさに<わたし>としてのその存在を脱臼させられつつ、である。

鷲田清一『「聴く」ことの力』

 

おなじことは客のほうにも言える。ホスピタリティをめぐる梅木の解釈はここに注目する。客がみずからの同一性に閉じこもろうとすると、歓待は起こらない。歓待は相互的なものでないかぎり、血みどろの同化か排除に反転しうる。「受け入れられるものは受け入れるものでなければならない。それが歓待のーーそして愛のーー掟である」。他者に「出会う」というのは、少なくともおのれの同一性の外に出る用意があるということだ。護るべき同一的なものをもたぬこと(=奪われてあることprive)、つまりなんの財(=所有物propriete)、も固有性(propriete)もーーいうまでもなくproprieteはetrangete(他者性)の対立概念だーーも所有しないこと、これが他者に開かれてあるための条件となる。

 「ジュネによれば、「何ももたないこと」が逆に他者の願いに即座に対応することを 可能にしてくれる。定住する場も持続的な人間関係ももたぬものは他者に差し出すものを何も持たない、自分自身の身軽さを除いては。ところが無であることによってこそ、他者を即座に留保なく迎い入れることができるのだ。(中略)ジュネは、自分が他者に歓待されることを無制限に受け入れることによって、他者を歓待する」(梅木達郎、『放浪文学論』)。固有の場をもたぬこと、つまり非-場所、非-固有の場にあること、これがジュネからの「他者への贈り物」だったというわけだ。

鷲田清一『「聴く」ことの力』

 

滞りなく

  ぼくがいちばん好きな幸福の定義はゼノンによる、「生に滞りがないこと」なんだけど、滞りなく、心地良く、適当なタイミングで適切な変化をしていくためには、どうしたらいいのか、頭で考えていても仕方がなさそうな事柄ではあるけど、そのことについてよく考えている。はっきりとした方向付けはまだできてないけど、なんとなく、これは関係あるかもなと思った文章を覚え書きしておく。

臨機応変之事は思量を以て転化するにはあらず、自然之理を以て思わずとも変じ、量らずとも応ずる者也。
— 

古藤田俊定『一刀斎先生剣法書』

私は動きの柔らかさを一応次のように定義している。
  「からだの一部に生じた状態の変化が’、次から次へと順々に伝わってゆく、その伝わり方のなめらかさを柔軟性という。」
 しかし、これではまだどうにも本質的なものがとらえられないので、次のように情報理論的な考え方をしてみる。
  「内部環境あるいは外部環境からある情報(力・刺激)があたえられたとき、それを高い感度で正確に受けとり、それを伝えるべきところへなめらかに速やかに伝え、その間に適当に選択・濾過・制御して、適切に反応(適応)する能力を柔軟性という。」
 柔軟性を意識のうえで、それも分析の論理でとらえる姿勢になってしまうと、このようにむずかしくなってくるが、素朴な総合的直感によれば、現実の問題として、誰にとっても特別むずかしいものでないところにおもしろさがある。結局は、柔軟心の柔軟・融通無礙・変幻自在・透明平静・無・空の概念にいたる東洋の直感的思考でとらえる他はないと思っている。
—  野口三千三『原初生命体としての人間』

 

辰巳 なぜキリストは自分の形見として、パンとぶどう酒をお選びになったのでしょう。
竹内 その背景にはいろいろありますが、素朴なレベルで、当時の人々にとって、パンとぶどう酒は、最も基本的で身近な食物でした。食といのちとは、切っても切れない関係にあります。それは、例外なく、すべての人に共通したことです。人々全体に共通する最大公約数は「食べること」なんですね。
 生命をいのちたらしめるのは、食事です。人間は、何を食べるかによって、どういう人間になるかが決まってくるのではないか、と思います。この場合の「何」とは、ただ単に食物だけではなく、人間が人間として人間らしく生きるために必要なものすべてを含んでいます。ですから、もし誰かが、「わたしを食べなさい」と言われたイエスを食べるなら、その人は、おのずからイエスに似た者へと変わらざるをえないのではないでしょうか。イエスは、「わたしはいのちである」と語り、「わたしを食べなさい」と私たちを招きます。「いのちを伝える」ということと、「食」とが直結しているのは、明らかですね。
—  辰巳芳子『食といのち』
 

 スタイルはすでに思想である。ある思想を学ぶというのは、まずはある思想が世界を見る、世界に触れるそのスタイルに感応するということである。もうそういう見方しかできなくなるということである。その意味で、哲学はその語り口、その文体をないがしろにしてはいけないと、つよくおもう。

鷲田清一『「聴く」ことの力』

 

世の中とおんなじで、映画でも、おもおもしさとか、感動の深さとかなんてことがいい作品の尺度みたいにされている。しかしおもおもしさなんてバカでもできることなのよ。また、バカはしつこいから、しつこくおもくする。それをまた、世間ではほめてくれる。おもおもしくするのは、外部から重しをつければいい。ストーリイをおもくしたり、あれこれ、重しをつける方法はいくらでもある。 だけど、かるさは、外部からではなく内部から、かるくならなくちゃいけない。これは、なかなかできない。ただ、知的であることによって、精神的な自由を得、かるくなることもある。バカには見えかったものが、スカッと知的だと、すんなり見えてきて、どうってことはなくなるのだ。
—  田中小実昌『ぼくのシネマ・グラフィティ』

  

 それはそれとして、気温が上がって天気が良いと信じられないくらい元気になって、気温が下がったり、空が曇ったり気圧が下がったりすると信じられないくらい調子が悪くなることを最近とても実感している。ある意味健康なのかもしれないけどたびたび生活に支障をきたすので、できることなら改善したい。

 

 自立、地に足をつける、倚りかからない、そんな単語を頭の片隅に転がしつつ日々を送るようになって、だいたい一年になる。自立するとはどういうことなのか、どうすればそれが可能になるのか、ということを時には熱心に考え、時にはすっかり忘れて過ごした。毎日自炊をしてみたり、日常的に運動をしてみたり、家計簿をつけて節約に励んだり、禁煙を試みたりもした。

 自炊と節約生活から得たものが特に大きかった。自分がある程度健全に生命を維持するためにかかる必要最低限のコストを身を以て知ることができたことは、精神衛生上とてもよかったように思う。詳しく内訳を書くことはしないけれど、どんな職業・働き方をしてもなんとか賄えるくらいの金額だった。

 また、お金に頼りすぎないように意識して暮らしていると、足るを知ると同時に不足を知ることもできた。お金をなるべく使わないようにして暮らすことも意義のあることだと思うのと同時に、お金を使っていいものを買ったり遊んだりするのも楽しいという当たり前のような実感を得た。お金は飯の種であると同時に誰が使ってもだいたい同じような効力をもつとても質の良いコミュニケーション・ツールだ。お金のことをたくさん真面目に考え続けてお金のいろんな側面を微見ることができた。拝金主義やマテリアルビッチじゃこの先きつそうとは思うけれど、必要以上に嫌悪することも、ミニマリズムもできそうにない。ミニマリズム原理主義的に実践しようとすると、そもそも生きている必要があるのかと疑問に思ってしまう。「動的平衡」で有名な福岡伸一が料理研究家の辰井芳子との対談の中で、次なようなことを言っていた。

辰巳 出発点の「気づき」から、それが確固とした「認識」に到達するまでの過程については、どういうことが大事なのでしょう?
福岡 私は「振り幅」が大きいということが大事だと思います。貯金通帳の残高を見るのが大好きという人もいるようですが、人生は残高じゃなくて振り幅だ、と私は思うんです。なるべく総収入が大きくて総支出も大きいのがいい。どうせ残高を棺桶に入れて持っていくわけにはいかないんですからね。やっぱり大事なのは振り幅で、それが大きいほど豊かな確固たる認識に到達すると思います。
—  辰巳芳子『食といのち』

 安定ということ、主に精神的な安定についていつも思いを巡らしているけれど、これまでは安定というと、振れ幅が少ない、お金で言えば支出が少ないような状態こそが安定であると、心が揺さぶられることがなるべくないことが安定なのではないかと思っていたけれど、求道的な節約生活に片足を突っ込んでみて、勘違いだったように思い始めている。振り幅が大きくても、極端に大きく振り切ってしまった場合にも上手に揺り戻しが効いていれば、それも安定の一つの形なんじゃないか。独楽のように回り続けることではじめて得られる安定もあるんじゃないか。長い目で自分の来し方を振り返ってみると、とてもとても振り幅が大きい。そしてそれがとても楽しかった。これからも一つのところに長くとどまることはきっとなくて、それでいいんだと思う。フロイトが、人間には生への意志(エロス)と一緒に死への欲動(タナトス)も備わっていることを発見したけれど、それぞれ無理に力を加えて抑え込もうとしても無駄に消耗してジリ貧になるだけなので、適度に、問題にならないうちにこまめに発散していった方がきっと良い。これまた手垢にまみれた用語だけど、ハレとケのバランスというか。何にせよ一辺倒というのは健全じゃない。

 

 地に足をつけるとはどういうことかを考えたときに、まだまだ途中ではあるけれど、そしてありふれた結論ではあるけれど、毎日きちんと食べるということとの関わりは根深いように思う。生きることは食べることという、人はパンのみにて生きるにあらずともいう、そのどちらも正しいけれど、個人のささやかな実感として、慌ただしく日々を飛ばして間に合わせの食事を詰め込んで摂取したカロリーでなんとか体を動かす日々が続くと、浮き足立っていると感じる。落ち着かないと感じる。食事をする時間が乱れがちになるとうまく眠れなくなる。飽きてきた。終わります。

 地に足をつけるとか、浮き足立つとか、落ち着かないとか、そういう語源に身体感覚が根ざしているような言葉に最近とても面白味を感じる。言葉の中に先人たちの知恵や実感がぎっしり詰まっている。前にも書いたような気がするけど、みんなと一緒が安心なら死者たちの真似をするのが数が多いしいちばん手っ取り早いと思う。高橋睦郎の「この家は」という詩がそのあたりとんでもなくすごい。


死者より(From The Dead) / 坂本慎太郎(zelone records official)

 ここ数日は、また本を読むのが楽しくてしょうがなくなって、とても調子がいい。

冬に埋まる

朝の5時に起きた。ノートパソコンがキンキンに冷えている。寒波がきて急激に冷え込んで、全国で連日雪が降っているらしい。昨日も外に出たら耳がちぎれそうなくらい寒くて、嘲笑うかのように細かい雪がちらちら舞っていた。
寒いとたいへんだ。体に変な力が入りっぱなしになって肩がこるし、外に出たくなくなるしそれに伴って気分も塞ぎがちになる。夜空は澄んで、事物の解像度が上がって見える。輪郭がはっきりと鋭くなって、それぞれがヒリヒリと孤立しているように感じる。息を深く吸い込んだ時に鼻の奥がツンとする。冬はつらい。
数日前まで春みたいな陽気だったけど、思わせぶりなことはやめて欲しい。行きつ戻りつしながら進んでいく季節がうっとおしい。もっとキビキビ動け。だけど近ごろすこし日が長くなってきたのでうれしい。あと、寒いときは背中で息をするイメージをするとすこしぽかぽかしてくる気がする。
禁煙は10日を過ぎました。なにがしたかったんだっけ。最近したいことないな。ワカサギ釣りくらいしかしたいことない。なんかズブズブだ。冬に埋められる気がする。外は寒いよ。

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