アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

過去との折り合いのつけ方

 去年の暮れに行くすえ来し方に思いを巡らせて、自分は過去との折り合いがうまくつけられないということに思い当たった。過去の出来事や、昔感じていた気持ちや感覚、かつて深く関わっていた人々とかのことを思いやるとあっという間に足場がゆらいで今がどこだかわからなくなってなんにも手がつかなくなってしまう。たとえば、いま住んでいる町に両親が遊びに来る、などのイベントがあるといまの生活実感と過去の感覚が混じりきらずに溶け合って頭の中がマーブル模様になってきりきり舞いをはじめてしまう。つらい記憶にはその中で閉じ込められてしまいそうになるし、良い思い出にはとことん甘えたくなってしまう。ちょうどいい距離感で過去を振り返り味わい明日へのエネルギーに変えていくことがうまくできない。

 そういうわけで僕にとっての過去はこれ以上ない楽しみでもあり悩みの種でもあって、時には僕を守って時には僕を閉じ込める、取り扱いが難しい厄介者だった。過去との折り合いのつけ方、ということをぼんやりと意識しながら生活しているうちに、「過去とは想起することによってはじめて生じるものである」的なことを大森荘蔵が書いていたことをうろ覚えだけど思い出して、そうやって考えることが一番穏当で無理がないように思えた。

 そもそもどうしてそんなに過去に執着するのかといえば、きっと自我が脆弱だからで、自分というものは自分の中にこれまで降り積もった時間の総和であると今までは考えていて、そうすると忘れてしまうということは自分の一部を失うということで、過去の自分を裏切るような真似は自傷行為に他ならなくて、それで忘れることをこわがって過去をとても大げさに、大切に扱ってきたのだと思う。だけどこんな風に自分や過去や記憶を捉えていると、上に書いたようにとても振り回されて疲れるし(本当に疲れる)、長い目で見て、いつか死が受け入れられるようになるとは思えない。というか加齢とともに閉じていく生き方であるような予感がする。過去はきっと書いては消して遊ぶ落書きで、自分勝手に楽しむのがいちばんいい。

 それよりもむしろ、自分は一つの点景に過ぎないと考えた方が、いろいろとスムーズに事が運ぶんじゃないかと思う。自分を取り囲む環境や人間関係を翻訳する、一つの身体といくらかの思考の枠組みを備えた装置だと考えるというか、一つの身体と、さまざまな微生物とか事象が交わる交差点というか結節点、それがたまたま自分という形をしているというふうに捉えた方が、風通しが良いし広がりがあっておもしろいんじゃないか。他者(それが人間であるとは限らない)と関係を取り結ぶことによってしか、自分は自分になりえないんじゃないか。自分が為したことだけが自分である、みたいなバリバリの人間観もあるけど、こっちの方が幅や動きがあって僕にとってはわくわくする。

 7年で全身の細胞が入れ替わるように、7年も経てば、自分というものもまるっきり変わってしまうというふうに考えるのが妥当なんじゃないか。現に、1歳の僕と8歳の僕と15歳の僕と22歳の僕は好きなことや考えていることなど、別人と言っていいほど全然違う。大人になったら変わらなくなるんじゃないかとも思うけど、きっとそれは職場とか人間関係とか関わる世界とか自分なりの処世術とかお金の稼ぎ方とか読む本の傾向や関心の領域が固定化していくからで、絶えず自分をめぐる環境や自分の身体や読む本のジャンルなどが変わり続けるとしたら、やはり自分というものも変わり続けていくんじゃないか。と思うのですが、どうなんでしょうね。

 

 デカルト的な世界観というか、明治の自然主義文学とか私小説めいた自我にはもうつかれた。自意識過剰は一握の砂だ。そこにはざらざらとした虚しい手応えしかない。考え込むな。テキトーにいけよ。自分を通り過ぎていく景色を、書き残していこう。

 しばらくこの旅中りょちゅうに起る出来事と、旅中に出逢であう人間を能の仕組しくみと能役者の所作しょさに見立てたらどうだろう。まるで人情をてる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまではぎつけたいものだ。南山なんざん幽篁ゆうこうとはたちの違ったものに相違ないし、また雲雀ひばりや菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間をてみたい。芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、じいさんもばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似まねをするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本をぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤じんじかっとう詮議立せんぎだてをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見ればつかえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ているわけに行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらのふところには容易に飛び込めない訳だから、つまりはの前へ立って、画中の人物が画面のうちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。あいだ三尺もへだてていれば落ちついて見られる。あぶななしに見られる。ことばえて云えば、利害に気を奪われないから、全力をげて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識かんしきする事が出来る。

夏目漱石草枕』 

 

だからあれですね、自意識過剰は色々と不幸なことが多々あるということで、人々が前向きに、大きく、明るく、明日を笑顔で生きていこう、と判り易い言葉で大げさに励ましあってる意味がなんとなく判ってきたりもするぞ。何が幸せか不幸かは判らんが、ネガティブに物を感じることは結局しんどいものよ。根暗はしんどいものよ。だからといって仮に明るく取り繕ってしてもそれがその人にとって自然じゃないならひたすらにしんどいものよ。
—  川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』「子供は誰が作るのんか

 

 

 

言葉にならない

 さっき文章を書くための準備期間がどうこうみたいな話をしたけど、言葉にならない、といった方が当たっているかもしれない。ギターを弾くときのフォームを直そうと思って変えたら、それが正しい姿勢であっても、最初は変える前よりも下手になる。音が安定しなかったり、速く弾けなかったりする。それでもなんとかやっているとコードを鳴らした時に以前よりも音の粒がきれいに揃ったり、力の抜けた演奏ができるようになったりする。

 言葉とか考え方においても、それと同じような現象が起こるんだと思う。今まで考えたこともないアイデアとか、自分の中にまるでなかった考え方や言葉遣いを自分の中に取り入れるためには、言葉や思考の枠組みの矯正とでもいうようなものが必要で、その作り変わっていく過程においては、言葉遣いや考え方がきっと前よりも一旦下手になる。
 
 分かり合えないということは、簡単にわかったつもりになられてしまうということだと前に書いたような気がするけど、わかるということは自分が持っている枠組みの中に物事をぎゅうぎゅうと押し込んで無理やり当てはめることではない。思春期の頃、どうしようもなく迸るフラストレーションが抑えきれずに周りの大人にぶつけてしまった時、「そういうことってあるよね、わかるわかる。」的なリアクションをされたのがとても嫌だった。単純に「そういう時期なのでイライラする繊細な若者」とか「思春期だから不安定」とかいうよくある図式に当てはめて理解を示されたことを感じ取ってイライラした。たとえありふれたものであっても、誰も通る道だとしても、そう簡単に理解されてたまるか、この気持ちはお前らにはわからねーだろ、と思っていた。今振り返ってみても、たとえ自分がかつて経験したことであっても、あの頃のとんでもない焦燥を肌で感じることはもうできない。はっきりと感覚まで思い出すことはできても、それはもう感傷のヴェールに覆われた別物なのだ。今の僕にはもうわからないのだ。軽々しくわかるなんて言うなよ、と今でも強く思う。ちなみにこれは『20センチュリーウーマン』を観て思った。ほんまいい映画やで〜。
 というか、「わかる」ということにはきっと幾つかのレベルがあるんだと思う。「頭ではわかる」「言っている意味はわかる」「同じことを別のとこで聞いたことがある」とか、「身体にすっと入ってくる」「腑に落ちる」とか、「まったくもって共感、お前は俺か?」とか「そういう時期俺にもあったわー」とか。
 ひとりひとり違った身体を持っていて、違った環境で育って、違った判断基準を持ち、違った生理感覚、言語感覚、思考の枠組みを持っているわけで、そう簡単に人が人のことをわかるわけがない。20歳くらいまではなんとなく誰とでも分かり合えそうな感覚があったんだけど、今では誰ともわかりあうことなんてできないんじゃないかくらいに思っている。もちろん誰もがなんとなく共有している考え方や文法というのも存在する。新書とかビジネス書とか、よく売れる本はそう言った語彙で書かれている。いいとか悪いとかではなくて。だから誰にでも伝わる話し方とか書き方とかってどういうものだろうと悩んだ時にそういうものを読むとすごくチューニングの助けになる。
 逆にたぶん一番理解されない言葉が詩で、これはものによるけど、その人に固有の身体感覚をそのまま言語化しようとしているというか、世界というものを詩人の身体を通じて翻訳したものが詩だから、詩のわからなさというのはそのまま個人のわからなさなんじゃないかと思う。
 
ルボーは一方、詩のやくわりを、
「外部でつくられたものではない映像で、
頭を満たすこと」と定義して、言う、
おそれるのは、個人の記憶が、
消滅してゆくことだ、なぜなら、
「われらの記憶は、外部があたえる映像で、
満たされているからだ、
内がわが空っぽになる傾向にある」と。
藤井貞和「明るいニュース」
 
 わかるってことは、わからないことや未知のこと、新しいことに対応して、自分を作り変えていけることなんじゃないかと最近は思う。とても面白い本を読むと、感想がとても書きにくいことに気づく。わくわくしながら読んだし、こんなに興奮しているのに、どうして言葉にできないんだろうと不思議だったけれど、言葉にするということは、無理やり自分の形に当てはめるということでもあるので、うまく言葉にならないということは、それまでの自分の枠組みに収まりきらないこと、従来の自分では処理しきれないということで、自分が少しずつであれ組み変わっていっている証拠であって、そこで生じる沈黙は、生まれ直していくために骨が軋む音、もしくはかすかな胎動なのだと考えている。
 身体や禅や発酵の本をよく読んでいるけど、そのどれもが今まで触れたことのない分野で、そこで使われる語彙がこれまで慣れ親しんできたものとまったく違うのが、新鮮で面白くてしょうがない。だけど感想がうまく書けない。それを語るための言葉をまだ僕は持たない。けど焦ることはきっとない。
 
・最近読んだ本
スペクテイター「発酵のひみつ」
小倉ヒラク『発酵文化人類学
渡邊格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 タルマーリー発、新しい働き方と暮らし』
 
兄に勧められて読んだ発酵の本。おもしろくてまんまとハマっちゃった。
『発酵文化人類学』の中で、現在発酵は「オーガニック」「美容」「オルタナティブ・カルチャー」「テクノロジーイノベーション」とかのいろんな観点から注目が集まってると書いてあった。個人的には、微生物のはたらきとか、人の暮らしとの関わりとのダイナミズム、とかの微生物すげー!みたいな楽しみ方もあるけど、それよりも「これならできそう!」という、DIYムーブメント的な文脈での関心が強い。DIYと言うと、憧れはあったけど、例えば日曜大工でも、必要な道具を買い揃えるのも大変だし、十分なスペースもないし、毎週釘とか打ってたら苦情がやばそうだしで、自分にはとても無理だ…と思っていたけど、簡単な発酵食品作りなら、容器と水と塩があればできるし、待ってたら勝手に進むし、静かなのでこれならできそうだと思った。土井善晴に倣って一汁一菜スタイルの食事を最近はしていて、一菜を発酵食品にしたら腸にもいいっぽいしよくね、ということで今年は醸していきたい。
 
発酵食品にはなんだかよくわからないところがあって、そのため多くの人は発酵食品を自分で作ることに及び腰になるようです。工場で作られた発酵食品はすべて、薬品による徹底的な殺菌、厳密な温度管理、管理の行き届いた微生物培養などで同じ仕上がりにしているため、発酵食品を作るにはこうした条件すべてが必要なのだろうと一般的に思われています。そしてビール作りやワイン作りに関する本がこうした誤解をさらに根強いものにしています。
 僕からのアドバイスは、専門家崇拝の偏った思想を断固として拒否することです。恐れてはいけません。ハードルが高いなんて思っちゃダメです。どんな発酵食品作りも、技術革新がその製造工程をなんだか複雑にしてしまう前から存在していたことを忘れないでください。発酵に専用の道具など必要ありません。温度計すら入らないのです(あると便利ですけど)。発酵させるのは簡単だし、ワクワクします。誰にだってできます。微生物たちも柔軟に僕たちに合わせてくれます。もちろんどの発酵食品作りでも、かなりの微妙なさじ加減を学ぶ必要はありますが、継続していけな、それまでの経験が教えてくれます。とはいえ基本の作り方は単純でわかりやすいものです。十分自分でできます。
—  サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
 
スペクテイター「ボディトリップ」
内田樹『私の身体は頭が良い』
内田樹平尾剛『僕らの身体修行論』
野口晴哉『体癖』
矢田部英正『からだのメソッド』
 
発酵にハマると共にスペクテイターにもハマる。とても面白そうな企画が多くて、時代の空気を捉えるその嗅覚におどろきまくり。
去年から筋トレを始めて、筋トレというのは最大限に負荷をかけて筋肉を一度壊して、プロテイン飲んでタンパク質を補給してぐっすり眠って、筋肉が治る時に以前よりも太くなる、ってことなんだけど、プロテインがまあまあ高くて、筋肉っていうのはタダじゃないんだ、贅沢品だ…と思って東洋的な身体運用の方向にシフトしました。筋肉をつけることを諦めたわけじゃないけど、いかに疲れないように身体を使うか、っていうのもバイタリティの一つのかたちではないかと思ってる。今はコミュニケーションにおける身体の役割にも興味がある。そのへんは多分竹内敏晴がつよい。
あと、『からだのメソッド』に書いてあったちゃんとした立ち方(どこに重心を置くかとか)を学んで実践してみたら、立ち仕事のバイトが格段に楽になったので、姿勢とか身のこなしを見直してみようと思って、整体関係の本やらアレクサンダー・テクニークやらを勉強してみようと思ってる。
 それと、野口晴哉の『体癖』のなかの、「健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。」っていうのは本当その通りなんだと思う。毎日ちゃんと夜に眠れるように過ごすしかない…
 
・ちびちび読んでる本
小泉武夫『発酵』
一島英治『麹』
サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
阪本順治微生物学 地球と健康を守る』
村尾澤夫・藤井ミチ子・荒井基夫 共著『くらしと微生物』
 
竹内敏晴『思想する「からだ」』
竹内敏晴『ことばが啓かれるとき』
野口晴哉『整体入門』
野口晴哉『風邪の効用』
野口三千三『原初生命体としての人間』
三浦雅士『考える身体』
平尾剛『近く遠いこの身体』
サラ・パーカー『アレクサンダー式姿勢術』

書くための期間

 日記でも感想文でも手紙でも、どんな形であっても、書くということは続けていきたいと思っている。書くことは楽しいし、書くことによってはじめて、ぼくはいろいろな意見や実感を持ったりして、主体的になることができるような気がするから。

 書くための期間、ということについて最近よく考える。一冊の本を書くためには、100冊の本を読む必要がある、って、うろ覚えだけどたしかphaの『持たない幸福論』か何かに書いてあって、たしかに何かを書くためにはそれなりの充電期間が必要だと思う。ひとりよがりな実感を気ままに書き連ねるだけでも、来る日も来る日も新たな実感にしみじみしているわけではないから、やっぱり何らかの実感が訪れるまで待たなければ書けない。なにかしらの有益な情報をまとめたり、読んで面白いコンテンツを仕上げようと思ったら、たくさんの情報やネタを集めたり、縫い合わせたり、切ったり貼ったりするための準備期間がある位程度必要になる。かといって、書いていない時間が長くなると、多分スポーツと同じように、ブランクが長ければ長いほど思うように体が動かなくなっている。頭がうまく動かずに、文章の組み立て方がさっぱりわからなくなったりする。ぼくは基本的に文章を書きながら考えを進めていくタイプなので、何も書かないでいると信じられないくらいぼけーっとしたまま毎日をやり過ごすことになる。あるいはいつまでも同じ考えに固執して過ごしている。要は思考能力が極端に衰える。
 それに、よく言われることではあるけど、その時のその人にしか書けない文章というのがやっぱりあって、そういうものを書かずに放っておいてしまうのは、ちょっと勿体無いんじゃないかと思ってしまう。恥ずかしい文章だとしても、どこかに書き残しておくと、後からアルバムをめくるみたいに、懐かしい音楽を聴くみたいに、時間が経ってから読み返した時に変ないい気分に浸ることができる。去年の暮れに、一年間を振り返ってみようとした時に、読んだ本とか、観た映画が全部記録してあったから、それを順に眺めているだけで一年間に考えたこととか感じていた気持ちとかをわりにはっきりと辿ることができて楽しかった。
 だからなるべくたくさん書いていたいと思うんだけど、書きたい気持ちだけあって書くことがない。もしくは頭の中がうるさくて一向にまとまらない、ということがよくある。毎日何かしらの文章を書いている人を見ると尊敬する。事実のみを羅列した日記だとしても、毎日書くのは大変だ。僕は多くの人と同じように日記をつけようと思って二日で挫折したことが何回もあるんだけど、毎日日記に書くような何かが起こるわけではないし、充実した日はそれはそれで日記を書く時間や気力がない、という現実に直面して打ちのめされてやめた。
 日記が続かないのは、素敵な思い出を書き残そうと思っているからで、文章を継続的に書いていくためには、きっと力んではいけないんだと思う。おもしろいものを書こうとか、びっくりさせてやろうとか、誤解のないようにとか、いろいろなことに気をつけながら書くのは疲れるから続かない。
 「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく」るくらいが、きっとちょうどいいんだと思う。毎日ブログを書いてる人ととか、新聞で毎日四コマを連載している漫画家とかを見ると、そこに修辞的な工夫や形式的な気遣いはあれど、その時何となく思ったことを、何となくそのままたらたらと書いている、という印象を受ける。自己批評をすることは大事なこともあるけれど、そればかりでは何もできない。とりあえずやってみる、ということもきっと大事。この前とりあえずやってみようと思ってヨーグルトづくりにチャレンジしてみたら、部屋が寒くてまったく発酵が進まなかった。今度友達と味噌の仕込みをやってみるつもり。同じ日に同じ材料、同じやり方で仕込んでも、置いておく環境によって味が大きく変わるらしい。だから今のうちに仕込んで、夏が過ぎるくらいに出来上がるらしいんだけど、出来上がったら交換会でもするようにしたら、ちょっとしたタイムカプセルみたいでたのしそう。
 なんか書きたいけど書くことないわ、という話を何も考えず読み返しもせず無心でキーボードに打ち込んでいたら、それなりの文字数にはなった。書くことないという話を延々とすることによって結果的に2000字近く書いたことになった。なんかふしぎだ。

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。2018年になりました。年々色々な種類の人を見て、年々人付き合いというものがわからなくなっていきます。そして、自分自身も年々色々な種類の人間になっていきます。文学少年的に青春を過ごしたので、いつも人生というものを捕まえようと励んできましたが、追いかけようとするほど今までの想像が幻想や思い込みの類であったことが自覚され、よく言えば自由に、感じたままの言葉を使えば曖昧になっていきます。悪い気はしません。

 今年は、去年に引き続き生活を掘り下げて、もっと動ける開けた身体を作っていくのが抱負です。それに加えて今年は、勉強したいことがあるのでそれを勉強して、あとは主体的な遊び上手になれたらいいと思います。最近街に出かけると、街での遊び方をすっかり忘れていることに気づいて愕然とします。ここ10年くらい、ただお金を使って遊ぶよりも、自分たちで作ったり、そこにしかないものを使って遊ぶのがトレンドらしいので、その方向でなんか、やっていきます。

 年末年始は、いつもより長めに帰省して、いつもより予定を入れずにゆっくりと家族と過ごしました。人と暮らしていると、どんな日も最低限の元気や社会性が維持されるのがいいですね。一人暮らし特有の、あのブレーカーが落ちたような気持ちになることがほとんどありません。

 実家への行き帰りは、行きはバスで、帰りは電車だったのですが、長距離を移動するときはバスの方がはるかに快適です。電車だと、周囲の人がめまぐるしく入れ替わるので、いちいちその人たちがまとっている現実感にあてられてくらくらしたりイライラしたりします。今日電車で帰ってきたのですが、くたくたです。次からは絶対にバスにします。

  実家の本棚からこっそり盗んできた、ミシェル・フーコーの『自己のテクノロジー』という本を読んでいるのですが、「なんじ自身を知るべし」という古代ギリシアの有名な言葉は、今でこそすっかり一人歩きをしているけれど、本来は「なんじ自身に気を配るべし」という規範に従属するものであったそうです。そこから始まって、「なんじ自身に気を配る」こと、自己管理、もっとキャッチーに言えば自己啓発歴史学といった内容で、晩年のフーコーはこんなことを考えていたのかと思うと、イメージと違っておもしろいです。プラトンの(実はプラトンの著作じゃないという説もあるそうですが)『アルキビアデス I』から始まって、キケロセネカマルクス・アウレリウス・アントニヌスへと繋がっていく、「なんじ自身に気を配る」ことをめぐる考え方や実践の変遷。この思想は僕の好きな新プラトン主義や初期のキリスト教へも繋がっているそうです。1,2世紀のギリシア・ローマにおいては自分がしたことに重きを置いていたのが、キリスト教によって心の内部の出来事、自分が何を思ったのかへと中心が移っていき、それが「なんじ自身を知るべし」の逆転に繋がって、デカルトなどの近代以降の哲学の考え方にも受け継がれて今に至る、という感じらしいです。こういう話が僕は好きです。

 他に今読んでいて面白い本は、佐久間裕美子『ヒップな生活革命』、竹内敏晴『思想する「からだ」』、土井善晴『一汁一菜でよいという提案』や禅の本などなどです。

 『ヒップな生活革命』では、2008年の金融危機以降にアメリカで起こった消費意識やライフスタイルの変化を食やファッション、文化など様々な面から見る本で、こんなことがあるんだよ、という報告集というか、お手紙のような本です。どこにお金を払うかは、どこに投票するかと同じ、みたいな価値観が根底にあるみたい。

 『思想する「からだ」』は、まだあんまり読み進めてないけど、からだと言葉、からだと精神、からだとコミュニケーションとの関わりとかそれをときほぐすためのあれこれが書いてあるっぽい本。まだあんまり読んでないので全然違うこと言ってるかもしれないけどおもしろそうな本。

 『一汁一菜でよいという提案』は文字通り、具沢山の味噌汁と漬物とごはん、毎日の食事はそれでいいんじゃない?っていう話。味噌汁の底力というか、可能性を感じる一冊。これ読んでから味噌汁作るのが楽しくなった。僕はまだ試したことないけどトマトと卵の味噌汁とかまで載ってる。おいしい日もあればまずい日もある、それが当たり前、という主張がおもしろい。

 

 今年もたくさん本を読みたい。今年もテキトーなことばっかり書いていきます。読み書きはたのしい。毒にも薬にもなるけどお金にはならない。

 

 書き記すこともまた自己への気配りの文化のなかでは重要であった。気配りの主要な特徴の一つとして、読みかえすために自分自身のことについてメモを取るとか、論文をしたためるとか友人を助けるために友人あてに手紙を書くとか、自分が必要とする真実を自分のために再活性化する目的で記録を作るとか、が含まれていた。ソクラテスの書簡は、この自己鍛錬の一つの模範である。
 伝統的な政治生活においては、口述の文化が広く支配的であって、したがって、修辞学が重要であった。しかしながら帝政時代の統治構造の進展および官僚制は、政治領域における書記作業の量ならびに役割を増大させた。プラトンの著作のなかでは、対話は文学的な仮の対話という形をとっていた。しかしながらヘレニズム時代までには、書き記すことが優勢となり、真の弁証法は往復書簡の形をとるようになった。人が自分自身に気を配ることは、恒常的な書記活動と結びつけられるようになった。自己とは、書きしるされるべき何かであり、書記活動の主題ないしは客体(主体)なのである。それは宗教改革とかロマン主義とかから生まれた近代的特色ではないのであって、最も古い西洋の伝統の一つなのである。アウグスティヌスが『告白』を書き始めたときには、それは定着しており、深く根づいていたのである。
—  ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』

 

 自己へのこの新たな配慮は、新たな自己体験を含んでいた。自己体験のこの新たな形式が見出されうる時代は、内省ということがますます細部に及んでいく紀元一、二世紀である。書記作業と注意深い観察とのあいだに関連がひろがった。生活や気分や読書の細部に注意がはらわれ、そして、自己体験はこの書記行為のおかげで強化され拡大された。以前には欠如していたある体験領域全体が開かれた。
 キケロを後期のセネカもしくはマルクス・アウレリウスと比較するとよい。すると目につくのは、たとえば、日常生活の細部とか精神の動きとか自己分析とかに寄せる、セネカマルクスの細々とした関心である。師フロントあての紀元百四四、五年の、マルクス・アウレリウスの書簡のなかには、帝政時代の何もかもが存在している。(中略)
 この書簡は日常生活を記述している。自分自身のことに気を配るその細部すべてが、ここには述べられているのである。彼の行った重要でない事柄のすべてが。キケロは重要な事柄だけを述べるが、しかし、アウレリウスの書簡では、これらの細部が重要なのである。なぜなら、これらの細部が私どものことーー私どもが考えたこと、私どもが感じたことーーなのだから。
—  ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』
 

 

あ、あと今年はアウトドアにも励みたいです。ゆるキャン△のアニメもはじまったし。

ひとつのカラダの来年の抱負

度を過ぎた食べ過ぎは体に悪い。誰からも好かれようと思うのは精神に悪い。何にでもやたらめったら節度を持たずにのめり込むことも、社会適応にとってよくない。
食べ過ぎは良くないけど、食べたいものがたくさんあるのはいいことだと思う。行きたいレストランをリストアップしてみたりすることは悪いことじゃないけど、それを1日で回ろうとするのは良くない。誰かと行ったりいつかの楽しみにしておくのも悪くない。そうしているうちに潰れてしまうかもしれないけど、それはそれで仕方がないじゃないか。腹八分目で満足した方がいいし、よく噛んで食べることも大事だ。そして食べ終わったら歯を磨くべきだ。
同じことが趣味とか娯楽にも言えるんじゃないか。食べ物をある程度貯蔵するのはいいけど、必要以上に買い漁って腐らせたり捨てたりしちゃだめだ。ちゃんと料理するなら料理して、保存食にするならするでその分だけ蓄えておけばいい。どうしても行きたいレストランがあったら、それはもう今週末にでも行ったらいいよ。食べ物には旬があるしね。旬の食べ物は安いしおいしいし栄養もあるから、本も自分にとっての旬なものをなるべく選んで読んだり買ったりするようにしたい。それはきっと悪いことじゃない。

メディアは身体を拡張するツールである、ってマクルーハンが言っていたけど、小学生の頃にはすっかりインターネットが普及していて高校時代にスマホが当たり前になった世界に育ったぼくは、自分でもわけがわからないくらいに身体感覚や欲望が膨張してしまっているんじゃないだろうか。
ここで自然に帰れ、みたいなことを言い出したらなんかちょっと安直な気がしちゃうけど、でも安直だとしてもぼくは実際ひとつのカラダでしかないのだ。NBAの選手になってW杯にも出て柔道で金メダルをとろうと思っても無理がある。一人で内野も外野も守れない。わかっちゃいるけどついついボールを追いかけてしまう。


今年は今までおろそかにしていたカラダに振り回される一年だった。でもおかげで少しはちゃんと向き合えるようになってきた。低気圧ってだけでゲロを吐いたり、急に指が動かなくなったりすることがなくなった。作れる料理もかなり増えた。一番大事な睡眠に関してはまだまだダメダメだ。来年はもっと、自分のカラダや財布とこまめに相談しつつ、身の丈にあった、そしてまだ若いんだからできればちょっとだけ背伸びをした生活を、焦らず作っていけたらいい。

コミュニケーション

こないだインターネットを徘徊していたら、こんな言葉に出会った。

行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである
ジャレド・ダイアモンド長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』

コミュニケーション能力ってなんだろう…ということは常々ぼんやり考えていたけど、総括的な定義としてはこれがベストなんじゃないかと思う。
ちょっと小難しい言い方がされてるけど、要するに自分にしっくりくる、自分の調子が良くなる状況を自分から相手にはたらきかけて作る能力が、コミュニケーション能力ということかな。幅広い適応力を持っているっていうだけでも、それはそれだけコミュニケーション能力があるって考えてもいいんじゃないかな。
そうなると自分にとってしっくりくる人間関係とか状況とか環境ってどんなものか、ちゃんとわかってないといけない。そしてその逆も。
理想の人間関係なんて、時と場合と相手によって変わるけど、話すことがあるときは話して、ないときは黙ってていい。一緒にやる方がいいようなことがあれば一緒にやって、一人になりたいときには会わない。話を聞いてもらいたいときに聞いてもらって、相手が話したがってることを聞く。イラつかせるようなことはせずに、なるべく楽しい方向でやる。自分が気になることについて話し合いたいから、事前にある程度の興味とか知識とか情報の共有が済んでたら最高…っていちいち並べてたらキリないな。
自分も相手も楽しく過ごすには、気が合うとか趣味が合うとかだと一番手っ取り早いけど、そうじゃない人ともいい感じの関係築こうって思うと、たいへんだな〜。世代が違えば色々なことに対する認識や意識をすり合わせることから始めなきゃいけないだろうし、言葉が違えば言語の習得からだし、見てるものや目的がまるっきり違ったらもうどうしたらいいかわからないし、人参嫌いな人に人参の魅力を語っても仕方ないし、たいへんだなぁ〜〜〜。
コミュニケーションって相当たいへんだ。なんでも一からわかりやすく素早く正確に説明できる魔法の言葉に憧れるより、自分の適応できる範囲をなるべく広げる方向でいく方がまだ楽そうだ。スポーツとかお笑いとかテレビとか新聞とか流行りとかギャンブルとか、わかるようになったら楽になれるかな…女、パチンコ、喧嘩、単車………

有限

 最近、禅を学びはじめた。禅関係で一番有名な、鈴木大拙の本も読みながら、それが現在、どういうふうに理解され、どんなふうに消化されているのか、わかるような本も並行して読んでいる。マインドフルネスとか言われている、そういうやつ。ライフハックの記事や本を読むのは、バカにしたいような気持ちがありつつも結構好きだ。常に、生活をもっとよくしたいという気持ちを抱えているので。

 
 で、そういう禅の考え方やそれを申し訳程度に取り入れた生活態度やなんらかのメソッドを読んでいるうちに、僕はひねくれてるけど単純な性格なので頭がすっきりしてきた。どちらかといえば屈託マシマシ人間ではあるけど、日々頭に去来する心配や不安などの大部分は、認知の歪みからもたらされているという実感を得た。こういう素直なところ、いいと思う。
 
 自分の悩み事とかを、人生とか、社会とか世界とか、性格とか人格とか、そういうあらゆる混ぜるな危険ワードをふんだんにぶち込んでこねくり回す癖があるので、必要以上に怖がったり尻込みしたり自分を責めたりしているなあと気づいた。
 
 今日、大規模な部屋の整理をしていて、いらないものを捨てたり、まとめて片付け(押入れの奥に押し込んで目の前から消すこと)たりしているうちに、これまでのことを色々思い出して懐かしくなって寂しくなったりしているうちに、自分で自分の遺品整理をしているみたいだと思ってしまって精神が終わったんだけど、結局大事なものは何ひとつ捨ててないし、引越しに向けて部屋を片付けることに人生に関わるような大した意味はない。どうにか意味をひねり出すなら、部屋が綺麗になってよかった、くらいなものだ。
 
 つらいことや、暗いこと、悲しみやさみしさに対して病的なまでに敏感であることは、感性が豊かとか、感受性が鋭いとか言ったら聞こえはいいけど、それは単なる認知の歪みだ。こうやって断言するとそれはそれで別ベクトルの歪みであるような気もするけど、多分ポジティブもネガティブも同じくらい病的といえば病的なんだと思う。問いのあるところにしか答えはない、って禅の本に書いてあった。どんな二項対立も結局は便宜的なもので、二項対立で表せたり解決するような単純なことはほとんどない。自分の悩みって結局自分のからだや環境や生活から生まれるものだから、自分の習慣や生活を改善することでしか解決しなくて、まあなるべく気分良くいられたらいいよね。
 
 あと最近の大きな気づきとしては、時間は有限だってこと。命あるものはいずれ死ぬ、というようなことじゃなくて、まあそれはそうなんだけど、1日は24時間だってことに今日気づいた。今までわかってなかったから、これは大発見だった。例えば、今月に入ってから数えてみたら17冊本を買ったんだけど、そんなに読みきれるわけがない。漫画とか新書とかだったら1日足らずでさっさと読みきれるけど、小説とか思想書・学術書の類は1日じゃ到底無理だし、僕は読むのが遅いので一週間とか一ヶ月とか余裕でかかったりする。気分によって読む本を変えたり並行して何冊か読んだりするし、どうせいつかは読むから買わなくてもよかったとは思わないけど、1日が24時間しかなくて、その中で本を読む以外にも色々やらなくちゃいけないことがあるっていうことを全くわかっていなかった。
 生活に支障をきたさないように本を読める時間はせいぜい2〜6時間くらいのはずなんだけど、1日に30時間くらい本を読むつもりで本を買ったり読んだりしてたように思う。精神と時の部屋に住んでいるつもりだった。本に限らず何かに夢中になるといつもそうなっちゃう。もっとこう、計画性というか、自制心というか、1日のリズムやその日その日のスケジュールや身の丈に合わせて、好奇心とか知識欲みたいなものを調整できたらいいんだけど、無理に抑えようとすると途端に生きる気力を失ってしまうから難しい。
 これから少しずつ、時間をかける、ということを身につけていきたい。
 
   欲しい本をかたっぱしから買っていたら一週間も経たずに破産する。お金をやりくりする能力や、欲望を必要に応じて我慢したり先延ばしにしたりする能力がなかったらあっという間に身をもち崩すことは誰でもわかる。俺だってわかる。
だけどそれはお金に限った問題じゃない。時間だってそうだし、体力だってそうだし、やる気だってそうだし、頭の処理能力だって注意力だってそうだ。人間には限界がある。家にあるものを全部背負って歩くのは無理だし、この世にあるものを全部家に詰め込むのも不可能だ。選んだり捨てたりとりあえず仕舞っといたりしなきゃいけない。
  世の中には死ぬまでにとることができる食事の数を数えたりする人がいるらしいけど、そういうのも必要なんだろう。人が一生のうちで身につける教養とか興味関心の幅は25歳までに決まるとかいうけど、そうでもしなきゃやっていけないんだと思う。いらないものを捨てることはきっと必修科目なんだ。一度しっかりいるものといらないものを分けてみなきゃ。断捨離とかミニマリズムの本を読んでみようかな。と、また本を増やそうとする矛盾が生じました。バグが多いぜ。
 
 思ったより時間がかかることって、思ったより多いな。急がなきゃいけないことと、急ぐ必要のないことの見極めってむずかしい。