音楽
音楽は慰めであるけれど、時には足かせにもなる。思い出を焼きつけるフィルムのような役割を果たすときもあれば、すべて忘れたい時にも聴ける。BGMや雰囲気作りにもなるし、天からの声のように響くこともある。音楽を聴いて、身体の芯から力がぐらぐらとみなぎってくることもあれば、突然の雨に打たれたみたいに気持ちが萎んでしまうこともある。音楽が人を生かすことがあれば、音楽が人を殺すことだってきっとあるんだろう。
音楽がぼくをころす。
青春をころす。
いつか、恨む日が来るだろうと、
わかっていたのに、ぼくは爆音の前へ行く。
音が、
ぼくから引きはがし吹き飛ばした、ちりみたいなものだけが、
ぼくの全てだった。死んだ人の音楽が、ぼくをころす。
かれらがぼくを愛することなど、
永遠にないのだということが、ぼくをわずかに生かしている。
— 最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』「レコードの詩」
どういうマインドで物を買ったり、あるいは職業に就いているのかってことは、投票みたいに真っすぐには政治に結びつかないかもしれないけれど、ある場合には投票以上の影響力を持つこともある。つまり、十分に政治的なことなのだ。なにしろ、俺たちの行動の集積が社会なのだから。ゆえに、政治と生活の境界はとてもぼんやりとしていて、なんとも言葉で表しにくいものだと俺は考えている。俺の音楽だって、そういう生活のなかから生まれている。電車に乗り、バスに乗り、ふらっと小汚い中華料理屋で炒飯を食べて、自分の作業場で曲を作って、自宅で歌詞を書いている。どんな街でどんな暮らしぶりなのかということは、ものすごく作品に影響する。どこにいっても顔がバレてしまって大変、みたいな状況ではやっていけない。普通という言葉は扱いがとても難しいけれど、俺が考える普通の暮らしのなかから、一切の音楽と言葉が生まれている。そう考えると、音楽と政治との間にだって、大きな、はっきりとした隔りなんてないのだ。屁理屈ではなく、どこかで地続きなのだ。(中略)君がどんな音楽を選んで聴くのかということは、どこかで社会に関わっている。どのような方法で聴くのかについても、聴いた後でどんな気分になるのかということも、どこかで社会に関わっている。ー後藤正文『何度でもオールライトと歌え』
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エンドレスリピート。大のお気に入り。
メリメリ
メリハリのある生活、という言葉にまぶしさを感じている。ぼくは地を這うような志を持ちそれに見合った生活をしているけど、「早く人間になりたいと」という気持ちをいつも抱えているので、実用書めいたものもたまに読む。この前読んだ睡眠に関する本でも、自律神経を整えようみたいな本でも、結局安定した生活リズムとそれに基づいたメリハリのある生活がいちばん大事、ということになっていた。
メリハリの効いた、活き活きとした毎日を送れたらいいなとはもちろん思う。ところで、メリハリというのはもともと邦楽の用語で、メリが低い音、ハリが高い音を指すらしい。だからメリハリのある生活というのは、高い音と低い音がバランスよく響き合っているような暮らしのことなのかもしれない。思えば低音が効いた音楽ばかりが好きな気がする。これを無理やりあてはめると副交感神経が優位な暮らしをずっとしているということかな。昼間は高い音が目立つものを、夕方くらいからは低い音を聴くようにしてみようと思う。なんだかズレているような気もするけど。ちょっと楽しそうだから。
Lee Perry And The Upsetters - Jungle Lion - YouTube
Wes Montgomery - Here's That Rainy Day - Live London 1965 - YouTube
生き延びるために聴いてる音楽が自分で死んだひとのばかりだ/岡野大嗣『サイレンと犀』
これすごくおもしろかった。↓
ゼロから始める自炊生活
鍋のようだ
生活っていそがしい。今年から、生活というものを意識してちゃんとやろうとしてきたのだけど、そうすると季節の移り変わりが身にしみてわかるようになった。今週は冬将軍がやってきて秋を惨殺して街をすっかり冬に変えてしまったけど、スーパーに行くだけでもそのことがよくわかる。スーパーで並んでいる野菜の顔ぶれが変わった。今ではすっかり大根、白菜、レンコン、ごぼう、キノコ類がでかい顔をして棚にどかっと並んでいる。夏と同じような食材を買おうとすると夏のときよりもはるかに高くなる。生活をするようになってから初めての冬なので、冬の食材の調理方法がいまいちわからない。特にごぼう。なんだあれは。長すぎる。
よしながふみの『きのう何食べた?』を一月一冊くらいのペースでちまちま買って読んでるんだけど、その中に出てくるけんちん汁と、炊き込み御飯が冬の食材をたくさん使ってて美味しそうだから、近々真似してみるつもり。この漫画の筧史朗と佳代子さんの、特売情報や食べきれない食材をシェアする関係性が素敵。
それから、人参、キャベツ、じゃがいもあたりは、一年を通してほとんど値段が変わらずに安く手に入るからやっぱり偉い。特にキャベツは量も多いし、キャベツをものにしたら、自炊生活はかなり安く、快適になるんじゃないかという予感がある。だからキャベツの調理法をなるべくたくさん身につけたくて、ほぼ日刊イトイ新聞・編『がんばれ自炊くん!』の「キャベツで生き延びよ!」のコーナーを熟読している。キャベツ一玉がまるまる冷蔵庫に居るときの対処法がたくさん書かれていておもしろい。
あとは吉田戦車の『逃避めし』もおもしろい。ものぐさだけど絶妙にそれっぽい、冷蔵庫にあるものでなんとか様になるようなものを作ろうとするハードルの低さがとてもよい。
なんとなくこの連載は、小さい人や若い人に読んでもらいたいような気持ちが常にありました。
適当でいいから、基本さえおさえれば、自分の身を養うシンプルな食事は自分でまかなえる。こんな程度のものでいいんだよ、と。
自分の子供へのメッセージでもあったかもしれません。
今赤ん坊がいるわけですが、10年後には10歳になります。
その時にたとえば親の留守中、一人で冷や飯に味噌汁をかけて一食とすることができるような「食う力」を身につけてくれたら、どれほど安心なことでしょうか。吉田戦車『逃避めし』あとがき
食は生きる上での楽しみの一つかもしれないけれど、楽しみだろうがめんどくさかろうが毎日なにかを食べなければいけないわけで、生きてる限り食事はし続けるわけだから、まず「食う力」を養うことがいまの僕の目標。「食う力」には興味津々だけど僕はもともとあんまり食に関心がないので、施川ユウキの『鬱ごはん』はいちいち共感しながら楽しく読めました。あとフランス人の適当な食事情の話とかも好き。
細野晴臣の『HOSONO百景』を読んで、この人は食事をとるみたいに音楽を聴いて、料理をするように音楽を作るんだなあと思いました。あのごった煮感は、クセになる。
季節が変われば暮らしが変わるみたいな話にしたかったけどぐちゃぐちゃして終わりました。それはそれで鍋みたいでいいかなと思います。冬だし。
外に出るためのメンタルをととのえる
(1)タモリ式入浴にする
しんどいけど、なんとか軽い入浴ならいける!という程度のときにおすすめなのがタモリ式。
タモリ式入浴、その名の通りタモリさんがやっているとテレビで紹介した入浴法です。その内容はというと
【髪・顔・脇・陰部・足だけを石鹸(シャンプー)で洗い、その他は湯船につかるだけ】
というものです。シャワーの場合は流すだけでOK。これだけでいくらか負担は軽減されますし、この5ヶ所がしっかり洗えていればだいぶサッパリします。
(2)蒸しタオルで体を拭く
風呂に入るのなんて絶対無理!でも外に出なければならない!そんなときは蒸しタオル。
タオルを濡らして固く絞って、電子レンジで1分チンして蒸しタオルを作りましょう。少し冷ますとちょうどいい温度になります。で、それで全身を顔から足の先まで拭きます。
これで体はけっこうサッパリしますし、体臭対策にもなります。ちなみに病院でもお風呂に入れない患者さんは体を拭くそうです。
「しんどいお風呂を工夫で乗り切ろう」http://menhera.jp/4036
最後に、やらなきゃいけないことを余裕を持ってちゃんとやって時間的なゆとりを持つ、ですが、これが一番大事かもしれません。人生で一番自己嫌悪が激しくなったり死にたくなったり喉を掻き毟って叫びまくりたくなるのは間違い無く時間に追われている時です。やらなきゃいけないこと、今だったらたとえば卒論やバンドでやる曲のコピーですが、全く取りかかれないし全く進んでいません。ついつい他のことをして逃避してしまいます。ちなみに問題に直面した時に、逃避するくせがある人は、自殺するリスクがかなり高いそうです。データが言っていました。なので、しっかりと問題に取り組んで解決することができる人になることが、生存のために一番必要なことかもしれません。というかそれができれば生きる上で悩みなんてなくなるのでは、とすら思います。
思えば、昔から宿題が全然できない子供でした。やりたくない気持ちも確かにあるのですが、やりたくてもできませんでした。ADHD的な傾向がかなりあるんだろうと思います。それは置いといて、22年間生きてきて、家で宿題が出来た試しがありません。なので、これからもできないんだろうなと思います。今までは場所を変えたり、隙間時間にチマチマやったりして、なんとか間に合わせてきました。最近は節約に凝っているので、宿題をやるためにいちいちファミレスや喫茶店に行ってちゃ大変だ、と思っていたのですが、生活に支障をきたしたり精神をぶっ壊したりすることはちっとも節約じゃありません。健全な精神状態でいるためには宿題をきっちりやることが必要で、家ではできないので場所を変えることが必要ならば、それにかかるお金は必要経費であって、節約とは区別して考えなければいけないことです。場所を変えたり、他のものに物理的に手が届かない環境を作ったり、人の目があったりしないと、まるっきり集中ができなくて、とにかく家で宿題が出来ないことはもう嫌というほどはっきりわかっています。
本当に、生活を変えなければ宿題はできないと感じています。もっと生活にメリハリをつけたいというか、上手な時間の使い方というか、計画を立てたり見積もったり段取りをしてそれを実行する能力をつけなければこの先到底サバイブできなくてやばいです。
やるべきことに集中できない、見通しが甘い、とりかかるのが遅い、計画的に物事を進められない、やる気が起きない、と問題は山積みですが、どうにか一つ一つ解決していきたいものです…
今だって卒論を進めなきゃいけないのですが、こうやってブログに意味のわからない文章を書いてばかりいます。まことに、人間というのは不思議な生き物であることよ。
次回、「冬なのに外に出る」というタイトルで冬ならではの楽しみとかそういうことについてなるべく身近な範囲で考えていきたいと思いますが、その前に卒論をやりたいです。
どうしたら外に出れるのか
立冬の日も過ぎて、暦の上でも体感的にもすっかり冬になり、もともと自分の中に巣食っている外に出たくない気持ちが日増しにすくすく育っているのを感じます。
1972年の国民生活センター発行の『余暇活動における満足度調査結果報告書』では東京都23区内住民を対象にした調査として主要なレジャーを列挙している。テレビをみる、新聞を読む、家族との談話、読書をする、外食・ショッピング、映画・観劇などをみる、一泊以上の国内旅行、友人知人と会話を楽しむ、海水浴や日帰り行楽、ラジオを聴く、スポーツ、博物館・美術館・動植物園へ行く、音楽鑑賞、ドライブ、散歩・公園で過ごす、スポーツ観戦、手芸・日曜大工・園芸、囲碁・将棋・麻雀・カードゲーム、楽器演奏・絵画・書道・写真、パチンコ・パチスロ、茶道・華道・洋和裁、登山・ハイキング、ペット、コンサート、バー・キャバレー、体操・美容、キャッチボール、資格取得のための学習、地域活動、釣り、ギャンブル、社会奉仕活動、海外旅行、切手・コイン等の収集、宗教活動。
色々ありすぎて手に負えない。けど色々あって面白いと思う。とりあえずみんな色々なことをしていて、おもしろい。ひとまずそういうことにしておく。今度またそれぞれ検討しよう。
話を広げすぎるとわけが分からなくなってしまうので、ひとまず自分のことを省みてみる。僕は普段、学校へ行くか、バイトに行くか、スーパーに行くかタバコを買いに行くか、あとはたまに髪を切りに行ったり眼科に行ったり、友達の家に遊びに行ったり鳥貴族に飲みに行ったりする以外はあまり外に出ない。この前『ブレードランナー 2049』を観に映画館に行ったけど。電車に乗ってどこかに遊びに行くということをほとんどしない。
なんでそんな体たらくなのかと自問してみると、大きく分けて二つか三つくらいの原因がある。一つ目は、外に出るとお金がかかるから。散歩とか、図書館とか、お金がかからない外出もあるにはあるけど、ついつい喫茶店に入ったり、自販機でジュースを買ったりするからなんだかんだお金は使う。別に悪いことじゃないんだけど。外でだらだらお金を使ってしまうより、そのお金で本とか買いたいと思ってしまうので、あんまり細々とした外出はしなくなる。二つ目は、自炊をしっかりやり始めたのとamazonが便利すぎること。外に出る用事の一つとして、昔の自分を振り返っても周りを見渡しても、誰かと飲み食いするということが多い。授業がある平日なんかは、実際外食くらいしか人と会うような用事が作れない。だけど一度の外食にかかるお金で(安いお店や大学の食堂を選んだとしても)、三日くらいの食費になると考えると、腰が重くなる。あともう一つ、買い物も外に出るためのかなり大きい動機だけど、僕が欲しいものは日用品とか食糧とか徒歩10分圏内で手に入るものを除けば、主に本なんだけど、読みたい本は結構絶版のものも多くて、絶版じゃないものでも町の小さな本屋さんには売っていないものが多いので、結局Amazonで買っちゃう。というかAmazonでしか買えない。飲み食いと買い物という外出のための二本の柱を失ってしまっているので、外に出る回数はめっきり減った。
あとは単純に寒かったり天気が悪かったり、寝不足だったり精神のバランスを崩してる時は外に出たり人と話すのがこわくなる性格とか、すぐ人酔いして疲れ果ててしまうとかで、外に出たくなくなる。あとは部屋が楽しすぎる。無限に暇を潰せる。これは僕の特技といっていいかもしれない。
だけど最初に書いたようにこのままではいけない状態になっているので、どうにか外に出る動機や意欲を増やしたい。現実的なところだと散歩とかになるんだけど、同じところに何年も住んでると散歩にも飽きてくるし、そういうことについて考えててもあんまり楽しくないのでやめる。散歩が一番手近な外出だとしたら、一番縁遠いというか、ハードルが高い外出は海外旅行だと思う。しかし海外旅行について想いを馳せてもそれはそれで現実的じゃなさすぎておもしろくないので、国内を旅行することについて考えてみたい。
僕はあんまり旅行はしないんだけど、なぜといえば計画を立てられないというか、目的地が決められないから。僕の頭の中はかなり茫漠としていて、ところどころ抜け落ちているし、どこに何があるとか、ここは何で有名で何が美味しいとか、そういうことを一切知らない。この前、そういうことに詳しい人にどうやって詳しくなったのか聞いていたら、テレビかなあと言っていた。旅行する目的地を探すには、テレビはとてもいいのかもしれない。だけど僕にはテレビを観る習慣がほとんどないので、それ以外を考える。目的地を決めるためには、何らかのとっかかりがないといけない。そのとっかかりを、全国各地に点在している何かに定めれば、自ずと行きたいところができていくんじゃないかと思う。パワースポットでもお城でも山でも何でもいいと思うんだけど、個人的に気になるのは温泉と美術館とか記念館かなと思う。つげ義春がよく行っていたようなひなびた温泉宿を巡ってみたい気持ちもあるし、『HOSONO百景』で細野晴臣がフェイバリット硫黄系の温泉として挙げていた長野の白骨温泉も気になるし、『ひきこもらない』の中でphaが理想のサウナと言っているウェルビー栄店にも行ってみたい。プールのやつで有名な金沢21世紀美術館には一度は行ってみたいし、日本一入館料が高くて展示物は全てレプリカってことで話題になった徳島の大塚国際美術館も見てみたい。宮沢賢治の家にも行ってみたいし、小豆島で海や星を見るついでに尾崎放哉記念館にも寄りたい。あとは荒川修作が構想した岐阜県の養老天命反転地にも行ってみたい。週末にでもいけるラインを攻めるとすれば、『ファイナルファイト』がバリバリ駆動しているらしい梅田のロイヤルゲームセンターにも行きたいし、シネマヴェーラ梅田で『パターソン』が観たいし、小島信夫の『別れる理由』が全巻売っているらしい古本屋にも寄りたい。あとは京都の、最寄駅から徒歩五分で一泊600円と手ごろな笠木キャンプ場でキャンプしたい。
考えてみると結構いろいろ出てくるもので、嬉しくなった。まとまった時間は長期休みにならないととれないけど、長期休みならできることなので冬休みにでもどれか行ってみようかな。
本当はもっと身近なことでいろいろ考えたかったんだけど、長くなってしまったのでまた次の機会にする。食事や買い物で外に出なくてお金がないなら、あとはフラッと寄れるたまり場くらいしか選択肢はないかなと思う。この人が書いている、「ニアハウス」という考え方はとてもおもしろい。
皆でだらだらと適当に過ごせる場所について(試案) - 表道具
最後に、外に出ることについて最近読んでおもしろかった文章をペタペタ貼って終わりにします。
後藤 「今までの坂口さんの著作では“家はいらない” 、“家を所有することでしばられてしまう” というような記述があったと思うんですが、実際、この場所で生活を営んだり、逃げてきた人を助けたりするに際して、家のような場所が必要なんだと思い直されたというところが、とても面白いと思っていて」
坂口 「家っていうよりも、僕は“プライベートパブリックだ”って言っているんです。公共施設とか公共機関って僕は信用できなくて。(中略)僕は“家が必要ない”って言っていたわけじゃなくて、何故あのおじさん達の家(※1)が小さくて安いもので済んだかって言う話をしてきていたわけです」
後藤 「なるほど」
坂口 「それは何故かといえば、町自体を家の一部として利用していたんだと。僕達はプライベートな持ち物を購入し、ここは壁でおおって見せないようにして、公共の道を歩きながら買い物をして暮らしている。でも、そういう家じゃなくて、隅田川の鈴木さんの家(※1)は小さくて、一間(いっけん)くらいなわけです。でも、彼にとっては街の図書館が自分の書庫、公園のトイレがプライベートなトイレ。お店から捨てられるものを少しずつ採集して、ガソリンスタンドからは電源をもらって利用する。そうすると、彼が実践していたのは“家がいらない”んじゃなくて、“ここもあそこもわたしの家である”ってことなんじゃないかと。そして、そういうのを僕達が見ていると、“ここは私の空間である”という考え方が少しだけ揺らいでくるんじゃないかなと」
後藤 「面白いですね」
坂口 「従来の考え方だと“大きな家を建てる”という方向に言ってしまうところを、家自体はすごく小さくてよくて、近所にすごくいいレストランがあればそこが自分のキッチンみたいな…。そういうふうに捉えはじめたら、レストランも“これいくらで出すよ”とかっていう、単なる売るためのものじゃなくなるかもしれない。もうちょっとお客さんと提供する側との人間同士の関係になるっていうか。ここでコーヒーを飲むとおいしいとか、もう少しその人のリビングに近づけるような。なんとなくこういうのは理想的すぎて飛躍した話だと思っていたんだけど、鈴木さんは既にそれをやっていた。だからびっくりしたんです。鈴木さんは僕のレイヤーで言えば “超豪邸に住んでいる”って僕は言っていたんですよ。しかも、彼らは“所有”をしている」
後藤 「はい」
坂口 「“所有”っていう概念を僕は消したいわけじゃなくて、“あそこの場所は俺のもの”って思っている限り、それは“所有している”ことになるということ。でも、その“所有”は奪われたときに“まあしょうがねえか”って思えるものなはずなんですよ。だって、その場所に対して、なんらかの契約をしているわけじゃないから。アルミ缶だって“このおばちゃんからもらう”って鈴木さんは決めていて、ある意味では所有しているんだけど、彼より早い時間に他の人が来てしまって奪われてしまうこともあるわけです。そういうときに“あ、失敗したな”っていう感じがある。僕はそれを見たあたりから“所有”って言葉を使うようになってきたんですね」
坂口 「寝ているときは中でいいけど、だいたいは外に出ようと。路上生活者の生活を見ていても、“外にでようよ”というのはひとつのテーマなんですね。外に出なきゃいけない。都市っていうのは、人が外に出て動きまわることによって動く。でも今、みんなすぐに中に戻って行っちゃうので、だから日本の町が面白くないんだなと。アフリカの町がなんで面白いかっていうと、人がずっと外に出ているんですよ。そうすると、人が表に出ている分だけ町っていうのはほつれていきますから。今の日本ではなかなか見えにくくなっているけれど、でもあるんですよ、日本にもね。これまでも僕は、そういうものだけを日本の中で見つけ出してきたつもりですけど。ここは、そういうものを伝えるための起動装置にしたいと思ってる」
生活のどこまでを家の中で済ませてどこからを家の外にアウトソーシングするかというのに絶対的な基準はなくて、ライフスタイルや文化によっていくらでも変わるものだ。日本は数十年前にサラリーマンと専業主婦の組み合わせという家族スタイルが一世を風靡したせいか、家事に要求する水準が高い上に、できるだけ外注せずに家の中でなんとかするべしという傾向が強い気がする。
タイのバンコクでしばらく暮らしていたことがあるのだけど、そのとき一番驚いたのは「タイ人はほとんど家で自炊をしない」ということだ。なぜかというと屋台やレストランなど外にあるご飯屋さんが安くて美味しくて店の種類もいろいろあるので、自炊するよりも外で食べたり外で買ってきて食べたりする方がリーズナブルだからだ。家で料理をするのは外で食事を買うお金もない貧乏な人か、豪華なキッチンで趣味として料理をするお金持ちのどちらかだ、というくらいの感じだった。
それまで人間は世界中どこでもみんな家で料理を作るのが普通だと思っていたのだけど、そうじゃない場合もあるんだというのをそのときに知った。僕が知らないだけで、世界には他にも「日本では家でするのが当たり前だと思っていることを外でする文化」や「日本では家の外でするのが普通なことを全部家の中でやる文化」などがあるのかもしれない。例えば、みんな家で洗濯しないので洗濯屋がたくさんある文化とか、みんな自宅で髪を切るので散髪屋が全くない文化とか。
pha『ひきこもらない』「街を家として使ってみる」
「国境なきナベ団」という活動をやっている人たちがいて、何をするかというと駅前や公園などで突発的に鍋を始めて、興味を示した通りがかりの人たちなんかも巻き込みながら鍋を囲む、というものらしい。そういうのはよいなと思うんだけど、警察を呼ばれて「撤去しなさい」という警官とのこぜり合いになることもあるらしい。鍋くらい別にいいじゃないかと思うんだけど。
もうちょっと穏当なものとしては、インターネット界隈で行なわれている、公園でブルーシートを敷いてお菓子やお茶を持ち寄ってだらだらするという「ブルーシートオフ」とか、ファミレスやカフェでもくもくと本を読んだり作業をしたりする「もくもく会」とか、そういった集まりがあった。僕はきっちりとしたイベントは苦手なのだけど、そういう行っても行かなくてもいいような集まりは好きだ。なんかそういう小さな集まりや小さな居場所が、街なかにもっとたくさん生まれればいいなと思う。pha「街なかに居場所がもっとあればいい」
「外に出る」ということは、とても大事なことだ。いまは、インターネットがまだもの珍しいせいで、「あなたは、お部屋で、いながらにして」というようなご親切なセールストークばかりが流れてくる。しかしさぁ、これって極端なかたちで言えば、「幽閉」「監禁」「座敷牢」じゃないのか?だって、「自由」ってことがあるのはちがうけれど、やってることは、同じになってると思うんだよね。なんでもかんでも、メディアの端末から流れてきて、なんでもかんでも、その端末で返していく。これがインタラクティブの理想か?これが、便利で未来的な豊かさか?自分自身も、外に出る機会がとても少なくなってるけど、それをいいことだとは思えないぜ。「ほぼ日」も、インターネットメディアだけれど、これを読んでいると人に会いたくなったり、外に出かけたくなったり、現実の景色を見たくなったり、そういうインターネットにしたいなぁ。毎日熱心に読んでくれる人がいるのは、むろんうれしいんだけど、これさえあれば、なんてことあるわけないし、とにかく外に出たくなるような、いきいきしたリアルな世界を想像させるようなメディアに、どうやったらできるか、一生懸命に考えていきます。
言論の自由の考えの基盤には, 真実か虚偽かは一人の人間が決定できることでは なく,開かれた場でできるだけ様々な考えが提示 されることを通じて,最終的に社会が真実に接す ることができる可能性が高くなるというミルトン の考え方がある
フィクションがウソくさくてたまらぬ、というのは、文学的思考から生じるウソくささではないでしょうか。一種のこもったようなものでしょう。どんな人間にも、内部の、こもった部分はあるにしても、それをもとにしたもの、いわゆる文学的なものは、ゴメン、ということもあり、ウソくさくも思える、というのでしょう。もし文学的思考によるものが、沢山だというだけではなくウソくさく思われるとしたら、そして、それがフィクションがウソくさいということへとつながって行くのだとしたら、それはとても面白いことですね。
ところで、何も考えなくても何も行動することができなくても、人間は生きている。目に何かが見え、耳に何かが聞こえ、肌が何かを感じているだけで、人間は生きている。考えるということは、五官が世界を感知していることを起源として進化したことなのだから、考えるということは、内=<私>に向かわせるのではなくて、外=世界に向かわせるべきものだ。何よりも奇跡的なことは、私の自我があることなのではなくて、「私のこの肉体がある」ということで、それ以上の奇跡はない。この肉体があるから、私は世界を感じることができているのだ。
ーーと、まあ、一年分の連載を要約すると、どうしても宗教家の言葉のようないかがわしいものになってしまうので、これに補足的な説明を加えますと、連載の中では<人間>と<言語というシステム>との関係についての考察がかなりの量を占めているのです。どうしてそういうことになったのかというと、「言葉があってはじめて人間になる」という人間観のせいで、人間を考えるときに言語が強調されすぎて、「ただ私がここにいる」ことが見失われてしまったからです。
「私はただここにいる。それでじゅうぶんじゃないか」
という人間観は、思えば私がデビュー作の『プレーンソング』以来、ずうっとこだわってきたことでした。
…今回はいつもと比べてかなり長くなった。あと最近衣食住と、ラブとジョブについてよく考えているので、近々書くと思います。誰かに向かって書くというよりも、自分に言い聞かせる感じで。
寒いとカサカサした気分になる
寒い季節の日暮れ時、手も足もすぐ冷たくなって、食器洗うのが億劫になって、顔や唇がカサカサして、暗くなるのが早い。外も暗くなるのが早いし、僕も暗くなるのが早い。
針葉樹林が見たくなっている。針葉樹林なんて、見たことあったかしら。多分あるんだろうけど、いままで意識したことなんてないから覚えてない。カサカサしてて、じっと息を潜めてるような生命力のある木をたくさん見たい。小さい頃、リスが冬眠のために作る巣の図解を見るのが好きだった。枯葉をたくさん集めて穴の中に敷き詰めて、そこにどんぐりを蓄えたりくるまって寝たりするらしくて、それがなんだかとても良いことに思えた。
Twitterでフォローしてる漢方屋さんのアカウントが、冬は蓄える季節で、あまり活動的に動かずじっくりしていましょうみたいなこと書いていた。そんなものかと思った。冬でも活動的でたのしそうな人はたくさんいるけど、彼らは命を削ってはしゃいでいるのだろうか。
デビュー当時のハイロウズがテレビでしゃべってる映像を見たことがあって、インタビュアーに最近のマイブームを聞かれたときに、メンバーみんなで鍋をする。水炊き。って答えてて、なぜかそれをすごく眩しく思った。そのことを最近ふと思い出した。
最近、スーパーに行くたびに大根を買おうか迷う。大根おろしは好きだけど、大根ってあんまり好きじゃない。それなのに一本買って使いきれるかなとか、考える。考えるのはめんどくさいからやめて買わないことにする。もし買ったとして、ぱっと思いつく使い道はふた通りある。小松菜と油揚げと一緒に煮浸しにするか、大根おろしにしてご飯と一緒に食べたりサンマを焼いたりする。適当に鍋に入れても様になりそうだ。いざ買ったら使いそうな気もしてくるけど、やっぱり買わない。あんまり好きじゃないから。だけど時々食べたくなる。あんまり好きじゃないのに。
今期の大学の授業で、仏教美術の講義をとっていて、如来がトップで次は菩薩とか、如来になると体の32箇所が変化して、それぞれすべて現生との繋がりがないことを示すとか、菩薩の方が着ている服がゴージャスで運動感があるとか、いろいろな話を聞いてるうちに、仏像見るのもたのしそうだなと思い始めた。寒い季節にお出かけする理由として、仏像を見にいくっていうのは案外しっくりくるような気がした。如意輪観音と弥勒菩薩がかっこよくて、見に行きたい。
寒い日も雨の日も、元気をなくさずに外に出るのが好きな感じになりたいから、寒い日や雨の日ならではの楽しみを探してる。今のところあんまり見つかってない。寺行こうかなってだけ。