アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

謝意

 この前書いたブログ記事に対して、僕の兄がお返事をくれた。僕の兄は4つ年上で、いつだって僕がまだ知らない面白いことをどこかから飄々と持ち帰ってくる人だ。僕が中学生だった頃、高校生になっていた兄が昔よりも楽しそうにしていたのを見て、高校生というのは中学生ほど悪くはないのかもしれない、と思ったし、大学生になって長い休みになるとたまに帰ってくる兄は高校生までとは比べ物にならないくらい活き活きとしていて、大学というところはとても楽しいところなのだなと憧れた。そして今だって、地理的に遠く離れて暮らしていて、直接に会って話すことや連絡を取り合うことは滅多にないけれど、母づてに聞いたり、インターネット越しに伺われる様子(SNSで相互フォローしているので)から、社会人になってもよくわからないことに関心を持ち続け、よくわからないものに手を出し続けている兄には、いつも、と言ったら大げさかもしれないけれど、ふとした時に、励まされている。

 古い話をすれば、家族で出かける車の中で兄が流していた音楽、覚えているものでは、ニルヴァーナフジファブリックフラカンピロウズなどは、僕が音楽に目覚めるきっかけの一つであったし、去年の秋には熊本のオルタナティブな生き方をする人たちが集まる村へのキャンプに連れ出してくれたり、僕の知らない面白い本などを教えてくれたりもした。同じ家の本棚を眺めて育ったので、兄と本の話をするときは、他の誰よりも話が早くてとてもたのしい。電車の中で、兄が疲れて眠る前に、僕の退屈しのぎに貸してくれた『パパラギ』は、面白かったので僕も買って読みました。
 
 話は逸れてしまったけれど、前回書いた、年をとって生活が具体性を帯びれば帯びるほど、自分に関係のないように思える事柄が増えていって、関心がなくなっていることにすら気づかずに日々をやり過ごすようになるんだろうか、と言うことをふにゃふにゃと書いた記事に対して、兄が返事のようなものを書いてくれた。僕はそれが嬉しくて今こうしてはしゃいでいるわけだけど、僕が今から書くことは返事への返事ということになるんだろうか。返事までならいいけど返事への返事、返事への返事への返事…となっていくとなんだか空恐ろしいというか面倒くさい感じをどうしてもまとってしまうので、もしこれを見ていても返事はいりません。
 
 兄はまず、学生時代と社会人になった今を、「抽象/具体」と言う軸で比較していて、社会人になってからは具体的な問題が自分ごととして無視できなくなるというのがまずあって、これは僕も日雇い労働者として日々を送る中でとても痛感した。一日働いて、また次の日に働くまでの時間に考えることは、ロックに心酔していた頃の僕が聞いたら黙ってすすり泣くくらい細々としていて具体的だ。「肉体労働をするには米と肉を食わねば」「7時間は寝たい」「そろそろ洗濯しなきゃいけないから明日はちょっと早起きしよう」「水筒に入れるにはお茶がちょっと足りないから新しく作っておこう」「押し麦がそろそろなくなる」などなど。また、仕事があって、一ヶ月の収入や、自由に使える時間がある程度予測できるようになると、仕事をしていないときの考え方も、いくらか具体性を帯びてくる。今週は時間はあるけどお金はないから、料理を少し張り切って作るのと、せいぜい花を買うぐらいを楽しみしよう、とか。映画を観る時間や気力はしばらく湧きそうにないから映画の本は返して短編小説を借りてこよう、とか。フェラーリの値段は自分には関係ないが、旬の野菜がどれかは関係ある、というように、自分に関係あるものとないものの区別も自ずとついてくるようになる。
 
 僕が読んでいてさっすが兄ちゃん!と思ったのは、「自分の具体的に困った状況をサバイブするためには、具体的な実践が勿論不可欠であるのだけど、抽象的に俯瞰することを忘れてしまっては息苦しくなってしまう。」という箇所で、僕が前回書きたかったのは本当はこういうことだったかと思う。つまり、僕はなにもビジネス書やハウツー本や労働や単調な日常会話を毛嫌いしているわけではなくて、むしろそういったものにすぐに過剰適応してしまう僕自身の俗物根性というか不器用さ、それによる自家中毒への恐れが僕にあって、それが前回のような内容を僕に書かせたのだと思う。言葉足らずな気がするのでもうちょっと言うと、気を抜くとすぐに僕は呼吸するTo doリストと化してしまうところがあるというか、今の生活に必要なものとそうでないものの区別を絶対視して、「今後自分の生活に影響を与えることがなさそうなもの」を簡単に忘れ去って、「今すぐ知るべきこと、身につけるべきこと、解決しなければいけないこと」などにあっけなく空いたばかりの場所を明け渡してしまう。それでふと我に返った時に、頭の中があまりにも具体的な、所帯染みた、ハウツー的な考え事でいっぱいになっていることに気がついて、息苦しくなるというか、休みの日も気持ちが休まらない、という悩みがあって、前回書いたことはそこから派生した考え事でした。抽象を捨てきれない青年の憂いに見えたかもしれないけれど、むしろ具体ですり減りくたびれてあげた悲鳴でした。ブログには具体的なことは書かないので、抽象的に見えてしまうけど、僕の主観的にはそうだったんです。
 
 「たしかに僕は就職してビジネス書やハウツー本を手に取るようになったかもしれない。けれどもそれは価値観の転換ではなく拡張だったなというのが個人の実感なのだということだ。
いまの僕の実感からすれば、弟の言う『若者からおっさんへのシフト』というのは、抽象に偏り過ぎたこどもが具体的な経験を得て具体への関心をも得るというだけのことに思える。(中略)関心が具体的な生活とその抽象的な昇華というところにあるから、なにを読んでも自分事として面白い。」
 兄の文章の終わりにはこんなことが書かれていて、僕は僕の関心に沿った切り取り方をしてしまっているわけだけど、僕はなんていうか、価値観を拡張するべきところで、踏み込みが甘くて「価値観の転換」の方へとはじき飛ばされてしまっていたのだなと、気がつくことができました。僕が今回受け取ったメッセージは、自分勝手に歪曲したものかもしれなくて、兄にしてみれば不本意かもしれないけど、僕はなんだか視界が少し開けて気分が良くなったので、ありがとうと言いたいです。
 
 ちなみに、さっきの引用のうしろには「おっさんになることは、面白がれることが増えることだ。先におっさんになるものの務めとして、こっちもけっこう楽しいぞというアピールをこっそりとしてみたが、どうだろうか。」という文章が続くんだけど、冒頭にも書いた通り、僕から見た兄はいつだって、もちろん今だって楽しそうなので、心配はいらないよということを言い添えて今回は終わります。