アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

健全イコールつまらない、か?

最近、鵜呑みにすることの大切さについて考えている。とりあえず一旦は、よくわからないままに鵜呑みにすることなしには、なにかをわかるということはありえないのではないか。一度は飲み込んでみて、よく咀嚼して、身体化してみて、そこまでして初めて、変わるということも可能になるのではないか。わかるようになること、変わること、とりあえずやってみること、それが今の興味関心の一部分。

今よりもいくらかマシな、ちょっとは健全な精神を身につける必要があると感じている。健全な精神を身につけるというのは、実は結構簡単なことなんじゃないかと思うっている。健全な精神は健全な肉体に宿るという昔のギリシア人の言葉があるけれど、多分まったくその通りで、健全な肉体を作ることができたら、健全な精神なんてものはきっとあとから勝手についてくる。
だけど、ここまで考えて、いつも躓いてしまう。健全ってことは、つまらないってことなんじゃないかっていう疑念が自分の中にずっとあるから。フランソワーズ・サガンが何かのインタビューであなたの小説には不幸な人物ばかり出てきますねと言われて、幸せな人たちについては何も書くことがないというようなことを言っていた。とても良いものに対して、申し分ないという語が使われるけれど、人は幸せな時には、何も言うことがなくなってしまうものなんじゃないか。
トルストイも『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」と書いている。健全な肉体と精神を手に入れて、みんなと同じような明るくて楽しい人生を、ニコニコと朗らかに送りたいだろうか。普通に考えて、不幸よりも幸せの方がいいに決まってる。苦しいよりも楽しい方がいいに決まってる。それはそうなんだけど、そのはずなんだけど、自分にはどうも幸せよりも不幸を、楽しさよりも苦しさを、なんとなく求めてしまっているようなところがある。不幸よりも幸せの方がいいと言い切れないでいる。それはきっと幸せってとても単純なことだと心のどこかで思っているからだ。単純さへのぼんやりとした、だけど確かな嫌悪感が自分の中には常にある。単純なものには、深みもなければ、面白みもない。そんな風に思っていたけれど、近ごろは、単純な繰り返しほど面白いものはないんじゃないかとも思う。実際に僕は単純なブルースが一番好きだ。というかそもそも、幸せっていうのは実際のところ、単純な繰り返してではありえないのではないか。外側から、遠くから眺めてみたときには、どの幸せもだいたい同じように見えるかもしれないけれど、その内実は、きっとたゆまぬ努力と工夫によって成り立っている。完成された幸せ、言い換えれば、完結した、閉じた幸せというのは、どうしたってこの世にはありえないのだから、幸せというものはきっと、時間の経過にあわせて、その都度の必要に応じて、あっちこっち修理をしたり必要なものを買い足したり燃料を補給したりしながら、えっちらおっちら姿かたちや中身を変えながら維持されていくものなんだと思う。幸せは途切れながらも続くのですとスピッツも歌ってる。
単純なものはつまらない例の一つに、意識高い系と言われる人たちが挙げられる。一年生の時から就職に向けて大して興味もなさそうなボランティアをしたり海外に行って人生観を変えたり、日常会話にビジネス用語を混ぜてきたりする人たちのことなんだけど、この人たちは大抵の大学生からはバカにされる。自分の将来について真剣に考えることは良いことなのに、なんでバカにされるかというと、みんな同じようなことしか言わなくて、ダサくてつまらないからだと思う。そういう人たちのツイッターを見ると、肉とラーメンとスタバの写真ばかりアップされていて、相田みつを的というか、ラーメン屋の店主のむさ苦しい人生哲学めいたことを延々と語っている。毎日毎日、日々成長!と言いながら、ラーメン屋とスタバを往復しているようにしか見えない。その行動原理や価値観、言動の単純さが、ダサくてつまらないから、いつの間にかポジティブだとか幸せ=単純でダサくてつまらないというふうに思うようになっていたのかな。単純でポジティブな人たちのつまらなさというのは、あらかじめ結論を決めつけているところに原因があるのだと思う。何でもかんでも明日も頑張ろう、日々成長で済ませてしまうようなところがある。あらかじめ結論を設定してしまったら、考えることもできないし、成長なんてしないんじゃないかと、僕は思うのだけど。どうなのかな、そのへん。
あと、単純なものがつまらないと感じるのは、それは自分が頭で考え過ぎているからじゃないかとか、いろいろ思うところはあるんだけど、あまりにもまとまらなくなってきたので、おわり。要は、健全だからつまらないのではなくて、閉じていて広がりがないからつまらないのであって、健全であること、幸せであること、単純であることとつまらないこととは必ずしもセットではないのでは、ということが言いたかった。
 
マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、僕にはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。
燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』