外に出たいと思った
素直な心でしゃべりたいと思う。自分の声で話したいと思う。
毒にも薬にもならなくて、誰かの心を動かすわけでもなくて、新しい発見でもなんでもなくて、どちらかといえば言わなくてもいいこと。そんなことを大事にしたいと思う。そんなことを誰かにしゃべりたいと思う。
ここ数日また寒い日が続いているけれど、ふとした時に道端にタンポポの花が咲いていたり、バッチリ花粉が飛びまくっていて鼻をかみすぎてぼんやりとだけど頭が痛かったりして、確かに春が近づいていると感じる。頭の痛さで春を感じるというのはなんだかおかしいと思うけれど、僕は頭の痛さで春を感じている。
ここ数ヶ月は外が寒かったので、僕はずっと家の中にいた。難しい本を読んだり、映画をたくさん観たり、些細なことでいじけていたり急に元気を出したり寝付けなかったり半日以上ぶっ通しで眠りこけていたりした。人生ってなんだろうとか大げさなことを大真面目に考えようとして身体がふっと浮き上がるような怖い気持ちになったりした。昔観ていたテレビ番組が無性に懐かしくなったり、名古屋市熱田区にある忘れ去られた格好の、家から遠かったから2回しか行ったことなかったけど好きだったゲームセンターに行きたくなったり、古本市場という風情がある名前のブックオフ的な商業施設にちょくちょく足を運んで、よく知らないアイドルの写真集を数百円で買ってなんとなく眺めるのにハマったりしていた。古本市場は、普通の少年漫画とかはブックオフより高いけれど、松本大洋とかのちょっと大型の漫画なんかがたまにびっくりするくらいに安い。
僕は本を読むのが好きでほっとくと次から次へといろんな本を読み散らかす習性があるのだけれど、本にはいろんな種類のものがある。それぞれ固有の性格がある。だから人間そっくりだと思う。学校のクラスに派手な人や地味な人、乱暴な人暗い人、何も考えていない人やおしゃべり好きな人とか、いろんな人がいて、それぞれでグループを作るように、本にもいろんな性格のものがあって、それぞれなんとなくグループを作っているように見える。賢い頭を持て余しすぎたのか、側から見たら気難しいマニアにしか見えないけれど何やらすごいことを考えている人たちのグループが書いたような本をたくさん読んだ。あんまりよくわからなかったけど、熱心にいろいろ読んだ。世界は小さな粒が寄り集まってできているんだと思った。そう思うと今自分がいる部屋の中にも、朝の弱い光の搾りかすのような粒が充満しているように見えてくるのが不思議だ。ジョルジュスーラの絵を思い出した。こういうことを言うのはなんだか気恥ずかしい。自分の感じたことだとか、考えたことを正直に話すのは少し勇気がいることだと思う。わかってもらえないかもしれないし、痛いやつだと馬鹿にされるかもしれない。だけどそういう風に思えたり感じたりしてしまうのはどうしようもなく本当だから、あんまり隠したくないと思う。友達でも恋人でも家族でも、付き合いが長くなっていくにつれて、話せなくなることが多くなるような気がする。お互いの間の関係性が次第にはっきりしていくにつれて、その枠組みからはみだせなくなるというか、うまく言えないけれど、親密な関係にある人といるときはなぜか心底ぼーっとしてしまう。多分これはこちら側の問題で、なんとかしたいと思う。変な言い方かもしれないけれど、いつも六回目に会うときのような、なんでも話せる、自分のことをちゃんと話したくなるし相手の話もちゃんと聞きたくなるような、フラットな関係性を保てるようになりたいと思う。
最近、頭の中がごちゃごちゃしたもので凝り固まっていてなんとなく沈んだ気持ちでずっといたけれど、ここ数日とても風通しの良い小説を読んで晴れ晴れとした嬉しい気持ちになっていて、誰かとどこかに出かけて、たわいのない話をいっぱいしたいと思う。あんまり乗らない電車かバスに乗って、知らない駅で降りて、あとで見返したりもしなさそうななんでもない写真をいっぱい撮ったりしたいと思う。あと、中華料理が食べたい。新しい靴が欲しい。おもしろい漫画が読みたい。
正しく考えるとはどういうことか
最近考えていることがある。「考える」とはどういうことなのか、ということだ。また、「思考力」とはどんなものなのか。
思考力があるといった場合、だいたい正しく考える能力があるという意味だが、正しく考えるとはどういうことなのか。正しい結論にたどり着けることなのか、筋の通った道筋を順序よく辿ることができることなのか、粘り強く問いにしがみつくことができることなのか、僕にはよくわからない。
考えることとわかることとは、密接に関わっているように思える。しかし、なにかについて考えて、なにかをわかったと思ったことは、ほとんどないような気がする。なにかをわかったと感じるときはたいてい、外からのきっかけ、思いがけない出来事だとか、たまたま読んだ本の一節だとか、友人の何気ない一言によってもたらされることが多い。だけれども、それがなにかのきっかけによって不意にわかるということは、以前にそれについて考えたことが、考えようとしたことがあったからで、そのときはまったくわからないという結論に達したのだとしても、一度自分の中でそれについての問いを立てたことがあり、頭のどこかにひっかかっていたためにある時他の何かに結びついてあるまとまった考えが閃いたのだと思う。
だから、考えるということは問いをたてるということから出発する。言い換えると、あることが気になる、というところに端を発する。そして、わかるということには、とにかく時間がかかる。問いに対して、ちゃんとした筋道を立てて、じっくりと粘り強く考えていたら、必ずわかるというものではない。そういったものであるのならば、それは初めからわかっていたことなのだと思う。わかることと知っていることもまた違って、地動説はみんな知っているけれども、地球が毎秒すごい速さで自転をしているということをわかっている、実感しているひとはいないんじゃないかと思う。
考えるということは、A=B、B=CだからA=Cであるといった風に物事を繋げて回答をみちびき出すということだけではなく、もっと曖昧なものなのではないだろうか。僕は、とにかく頭の中に問いを放り込んでおく、そうするとある時急にわかることがある、そういうものだと思う。
そうやって僕が身につけてきたたくさんの知っていること、わかったことは、本当は全部誤解かも知れない。僕の考え方は正しくないのかも知れない。本当はすごく恥ずかしいことを言っているのかも知れない。正しく考える、より善く生きるということにとことん拘った人にプラトンがいる。彼の書いたものは数冊しか読んでいないが、彼は誰から見ても同じ物、明らかな物、間違っていない、矛盾がない物を正しいものだとしている。ように僕には思える。たとえば客観的な数字だとかイデアだとかそういうものだ。これはそもそも、この世には正解がある、どこかに真理がある、ということへの強い信頼に裏打ちされている考え方であって、真理などどこか遠くに吹き飛んで、神話は色褪せ神様は死んでしまった現代において、正解なんてものは存在しないのかも知れない。正解が存在しないのだとしたら、間違いなんてものも存在しないのかも知れない。そうなると、今の僕達がするべきことは、各々が勝手にあれこれ考えて、たくさんの誤解を身につけることなのかもしれない。学校で教えられたことは、あれは間違いだったと気づくときがある。だけどそれは、ある誤解から他の誤解へと、すり替えられただけなのかもしれない。現代思想なんていうのも、言葉の枠組みの中だけで完結した、まったくのでたらめなのかもしれない。みんながすでに好き勝手にでたらめをわめきちらしているだけなのかもしれない。二十歳を過ぎても、世の中わからないことばかりだと思う。
春の胸のざわめきについて
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり西行法師「夢の中の落花」への題詠
グザヴィエ・ドラン『胸騒ぎの恋人(2010)』
時間とはいったいどのようなものであろうか。僕達の存在はこの時間というなにやら得体の知れない物と密接な関わりを持ちながらも、時間についてきちんと考えてみたことのある人というのは案外少ないように思う。僕達のうちのほとんどは、時間についてよく知っているとは言い難い。しかし、僕達は皆、時間の中に生きている。
「時間」というものは、断じて時計が刻む均質な時間とイコールではなくて、時計の時間は、早い話が労働のための時間である。労働のための時間であって、僕達が生きるための「時間」ではない。僕達の生きている「時間」というものは、チクタクと針が進む音に合わせて未来から過去へ一直線に、無機質に、均等に過ぎ去ってしまうといった性質の物ではない。小学生の頃の、夏休みの何もすることがない一日のことを思い出してみて欲しい。やるべきことから遠く離れて、気の赴くままに過ごす時間と言うのは、なにかこう膨れ上がって、静止しているようには思われなかっただろうか。そしてその頃の時間は、決して過ぎ去ってしまって二度と帰ってこないものではなく、今でも身体のどこかに残ってはいないだろうか。時間と言うのは、伸縮性があり、一様に流れるものではなく、降り積もるようなもので、ある一人の個人と言うのは、それまでに堆積した時間の集合体である、とすら言えるかもしれない。時間と言うのは万人に共通してつれなく通り過ぎてしまうものではなく、一人一人が一つの時間なのである、と。
グザヴィエ・ドラン監督『胸騒ぎの恋人』は、いわゆる男女の三角関係の物語であるが、その内訳は男・男・女であり、親友同士である男女(フランシスとマリー)が、一人の男(ニコラ)に同時に惚れてしまうのである。この時点で巷に星の数ほど溢れているメロドラマとはちょっとわけが違うことが伺えるが、この映画の魅力は奇抜な設定などではない。DVDのパッケージにもすでに仄見える小洒落た色彩感覚が全編を通して漲っており、よく晴れた休日の昼下がりにボーッと観るお洒落映画としても気楽に観ることができる。また、国や時代を越えて様々な歌手によって歌われている味わい深い名曲"Bang Bang"が全編を通して繰り返し流れるのだが、その時々のシチュエーションや、役者たちの表情によって、曲の聴こえ方が少しずつ変わっていくのがおもしろい。ちなみにこの曲は、タランティーノの『キル・ビル』でも使われていた。
また、この映画の、というかグザヴィエ・ドランの大きな特徴の一つに、スローモーション撮影がある。この作品でもお得意のスローモーション撮影が随所で効果的に使われている。スローモーション撮影というと、大げさで邪魔臭く感じるかも知れないが、この映画ではまったく気にならないどころか、大きな魅力となっている。ある日ある時ふと、目の前の景色をこれからの人生できっと何度も思い出すことになるだろう、とわかってしまう瞬間があるだろう。その刹那、時間は流れるのをやめてしまう。その一瞬は、その後の全人生に匹敵してしまうほどの密度を持って充足している。これは、安い感傷に過ぎないのかもしれないが、そのような瞬間は、誰もが身に覚えがあるものではないだろうか。この映画の主人公であるフランシスとマリーも、恋のもたらす歓びや悲しみの中で、そのような瞬間を経験する。そしてその時、スローモーションが使われるのである。この映画の中のいくつかのスローモーションのシーン、それは僕にとって忘れ難く感動的な映画体験である。今回、長々と時間についての前書きを書いたのはこのスローモーションの魅力を伝えたかったからだ。
また、フランシスとマリーの二人に惚れられる美青年ニコラの魅力はそのままこの映画の魅力の一つになっている。明るく、屈託がなく、無邪気で社交的な美青年ニコラ。フランシスもマリーも彼と居るときはいつも楽しく、見るものすべてが意味を持ち、この瞬間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。ニコラとの交流を通して、フランシスとマリーの世界は輝き出す。そして仲が深まるにつれ、離れたくないと願うようになる。すると歓びにあふれていたはずの世界が途端にその色を失う。それまでの溢れんばかりの喜びにかえて、それと同量の不安や嫉妬、切なさが身を裂こうとする。しかし、一度ニコラと会うと、世界はまたまた色彩を取り戻す。”恐るべき子ども”ニコラは、フランシスとマリーにとって、「胸騒ぎの恋人」などである。いま、ニコラを”恐るべき子ども”と表現してみたが、この映画の不思議なところは、主人公の一人がゲイの男であるにも関わらず、社会的な問題提起といった様相はまったく感じられず、そしてまったく不自然でもない。というか、そもそもこの映画にはあまり”男”や”女”といった性別が感じられない。ニコラは美青年であるが、中性的な顔立ちであり、彼が人を惹き付けるのは、その無邪気な楽しさ、彼といるといつも楽しいからであり、男らしさなどは問題となっていない。この映画で描かれる”恋”は、人間がまだ男と女に分けられていない時代、男が女を好きになり、女が男を好きになるのではなく、人が人を好きになる、惹き付けられるといった、子ども時代のそれなのではないだろうかと観ていて思った。そしてそれは僕にジャン・コクトーの小説『恐るべき子どもたち』を思い出させた。活字アレルギーの方は萩尾望都の漫画版もおすすめである。興味のある方は是非この映画と合わせて見てみて欲しい。
老作家、書くことの極致、武者小路実篤の晩年
僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いい人間になりたい。いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。ますます利口になり、万事賢くなりたく思っている。我々はますます利巧になりたく思っている。益々かしこく。武者小路実篤『ますます賢く』
これはあの『友情』で有名な、武者小路実篤の晩年の文章である。一見、ボケ老人が書いたかのような、というより何度読んでも、耄碌しているのかと思えるような文章だが、僕はなぜか忘れることができない。
十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑を浮べて、「お久しぶり」といった。眼はあけていなかった。
上手に、精巧に、そつなく書くというだけが、名文というのではない。流れるような美しい文章というのは勿論魅力的ではあるが、この晩年の武者小路実篤や、小島信夫のような、後戻りをしたり、躓き躓きしながら、 じりじりと全身全霊で進んでいくような文章は、人間にしか書けない。益々利口になって、万事に賢くなって、その果てにたどり着いた書くことの極致。僕はそんな文章を読むと、とてもうれしくなる。歳を取るのも悪くはなさそうだと思える。いつかこうなりたいと強くあこがれる。
今ここから読む石川啄木
石川啄木は、1886年に生まれて岩手県で生まれて、17歳の時に文学を志し上京し、あれこれ生活に苦心をしながら、1912年に結核で死ぬまで、詩を作ったり、歌を詠んだり、小説を書いたりしていた。
彼自身は小説家を目指していたようだが小説はあまりおもしろくなくて、後世の評価としては歌にすぐれていた人である。その歌を読んでいると、彼の人となりというか、だめだめっぷりがひしひしと感じられる。ロマンチストで、甘ったれで、プライドは高いが傷つきやすい。ものぐさで、嘘ばかりついて、夢を見つつも幾度となく生活にぶちのめされる。なんというか、永遠の十七歳といった風情がある。彼の作る歌はいつでも感傷的で、くたびれていて、夢見心地で、おかしみがあって物悲しさがある。今で言うと『シティライツ』などで有名な大橋裕之の漫画を読んだ時と同じような気分にさせられる。
とにかく、石川啄木という人は純粋なのである。太宰治は『みみずく通信』という短編の中で、「青春とは半狂乱の純粋ごっこ」であると言っているが、石川啄木の短歌は、「夢に夢見るくたびれた田舎者の半狂乱の純粋ごっこ」といったような趣があって、青春のイメージと切り離すことができないように思われる。
石川啄木の短歌は、難しい言葉や古めかしい言葉が使われているわけでもないので、今読んでも読みやすい。「キス」だとか「死ね」などの言葉が、ごく自然に使われていて、この言語感覚には、当時の人は驚いたんじゃないかなと思う。なんとなく神聖かまってちゃんというバンドの『夕方のピアノ』という曲を思い出す。このバンドはサブカルチャーに頭からどっぷり浸かった新しい言語感覚を持っていて、おもしろいと思う。
このように、石川啄木の感覚というのは、今を生きるいたいけな若者(僕も含め)にも、そのまま通用するものであると思う。ためしに、石川啄木の短歌と、それに通じる物がある気がする作品とをつらつら並べ立ててみようと思う。
大いなる水晶の玉をひとつ欲しそれにむかひて物を思はむ水晶の玉をよろこびもてあそぶわがこの心何の心ぞ石川啄木『一握の砂』より転校生となりの席の美少女は水晶玉を見つめてばかり笹公人『念力家族』より
「水晶」というモチーフが共通している。それに、切り口というか、つぶやきに似た素朴な作風がなんとなく似ている気がする。ちなみに後に挙げた笹公人の『念力家族』は、念力が当たり前に存在する世界の日常を切り取ったイラスト付き歌集というなんとも変な本である。
けものめく顔あり口をあけたてすとのみ見ていぬ人の語るを石川啄木『一握の砂』よりこいびとの顔を見たひふがあって裂けたりでっぱったりでにんげんとしては美しいがいきものとしてはきもちわるいこいびとの顔を見たこれと結婚する帰りすれ違う人たちの顔をつぎつぎ見たどれもひふがあってみんなきちんと裂けたりでっぱったりでこれらと世の中 やっていく帰って泣いた松下育男『顔』
人の顔に対する違和感が共通している。ほとんどの人は、人の顔について疑問を抱いたことがない、というか、引っかかりを感じたことはないと思うが、啄木と、松下育男はそこで立ち止まって驚いている。いや、啄木に至っては驚いてすらいない。たしかに言われてみれば、人の顔が「けものめいて」見えるときはあるし、「裂けたりでっぱったりで」、「いきものとしてはきもちわるい」かもしれない。
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむそれだけのこと石川啄木『一握の砂』より元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より
コミュニケーションに関する歌であるが、両者のベクトルは食い違っている。ように見えるが、同じようなことを言っているような気がしないでもない。さりげなく言った言葉は、さりげなく聴かれる。本気で言った言葉は、本気で受け止められる。この二つのありふれた情景からは、つながりというものへのあこがれが強く感じられるように思う。
物悲しくて、おかしくて、飄々としているようで、焦っていて、すべてをあきらめたかのような、あきらめきれていないような、センチメンタル自意識過剰な石川啄木の微妙な作風は、大橋裕之や、永井祐が好きな人にはハマるのではないだろうか。