アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

ひと雨ごとに

 一雨毎に秋になるのだ、と人は言う、と中原中也は書いていた。今は6月、梅雨の時期で、これは秋をめがけての雨ではない。ひと雨ごとに暖かくなるとか、ひと雨ごとに寒くなるとか、季節の変わり目の雨がふる時期の、時候の挨拶の定番文句になっている。暑くなるにしても寒くなるにしてもどっちでもいいけど、ひと雨ごとになにかが変わっていくような感触はある。

 僕は気象病とか天気痛とか言われる頭痛やら神経の乱れやらがあるので、雨は苦手だ。そうでなくても、雨の日は、空が低くて、じめじめして、息がつまる。陽の光が弱まって、外に出てもなにもかも色褪せて退屈に見える。肩やズボンや靴下が濡れる。頭が痛む。身体に力が入らなくなって、集中力も途切れがちになる。なによりもこのように文句が多くなる。

 「のうぜんかずらの花の咲く頃は、よく雨がふる」と石牟礼道子が書いていた。のうぜんかずらにフォーカスすることで、雨は後景に退いていく。気休めでしかないけれど、こういう意識の持ち方をすることで雨の日の抑うつ気分はマシになるのかもしれない。近所にのうぜんかずらはないがアジサイならそこかしこの家が育てている。それを見かけると息継ぎができるように感じる。

 部屋のなかに葉っぱが多くて背の高い植物が欲しいとよく考える。鉢が抱きしめられるぐらいの大きさがいい。植物や花になんて興味もなにもなかったけれど近頃は以前よりも意味深く目に飛び込んでくるようになった。植物は生きているとかエコロジーとかそういう話がしたいわけではなくて、いやもしかしたらそういうことかもしれない、植物の葉の形や広がり方や肌理や水分なんかが身に迫って感じられるようになった。書割の背景ぐらいのリアリティしか感じていなかった植物が息をしている、存在しているのをありありと実感するようになった。閉塞的な気分に沈みがちな梅雨の時期に、部屋のなかに、自分以外にも呼吸をするものがあってほしいとなんとなく思う。

 植物に対して偏執的な気持ちが起こりだしたきっかけは明白で、伊藤比呂美の詩集『河原荒草』を読んでからそこに描き出されていた植物たちの姿が蔦が絡まるように頭から離れなくなった。

 

  ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
 ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
 ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
 とても不思議だ
 植物にかぎっては
 死ぬというより
 生きるほうが
 よりふつうで
 より後にやって来て
 終わりがない
 死なない
 死ぬから生きる
 よみがえる
 どんな末端からでもまた伸びる
 いくらでも子を生める
—  伊藤比呂美『河原荒草』

 

 詩といえば最近は現代詩文庫の蜂飼耳のやつを図書館で借りて読んでいて気に入っている。うまく言えないけれど蜂飼耳の詩のことばは強度がある。詩の批評で強度という言葉がよく使われて僕はその度になんだそれはと思っていたけれど彼女の詩には強度がある。強度とは、僕なりの解釈でしかないけれど、詩におけるそのことばの揺るぎなさというか、必然性のようなもので、一編を通して、どのことばもそれ以外のことばに置き換えることができないというすみずみまで張りつめるエネルギーのようなものという意味で使っている。詩が詩であるためには、散文から区別されるためにはこの何も足せない、何も引けないという緊張が必要なのかもしれないと思う。ことばの組み合わせが作者の手から離れて自律している状態というか。でも詩の定義なんてつまらないじゃないかという気持ちもある。

 その話は置いといて、ことばは長い時間を通じてだんだんと姿形を変えながら形成されていくもので、今あることばが今ある形になるまでの長い間、ことばが見てきた触れてきた通りすぎてきた道行きがあるわけで、蜂飼耳の詩のことばはそういう面で、意味が痩せていないのが凄いと思った。出し殻のようになってしまった記号的なことばが僕らが日常使うほとんどだけど、それは気にしなくてもいいことだろうけど、蜂飼耳の詩のことばはことばが長い歳月を覚えていて、意味の背後に時間的・空間的なふくらみを宿しているような気がして、これはとても稀有な才能なのではと思う。今更なんだよという話ですが。実家の本棚にも何冊か蜂飼耳の本があったことを思い出して、今回は別にこっそり盗むつもりではないけど(今までは時々やった)、なんとなくうれしい気持ちになったりもしました。

 当分雨がつづくので、おとなしく読書でもしていましょう。それでは。

花とか本とか音楽とか

 この前初めて花屋さんでお花を買った。いくつかの理由から、かねがね花が欲しいと思っていたけれど、決め手となったのは冷凍都市でも死なないというサイトのこの記事だった。

www.shinanai.com

 青いデルフィニウムの花束とラベンダーを買った。ミモザが欲しかったんだけど盛りの時期がちょうど終わったくらいで全然出回ってなかったのであきらめた。今はどこの花屋さんにも、家々の軒先や店先にもアジサイが飾られていて、何軒か回っているうちにアジサイヤマアジサイの区別がつくようになった。僕は花の名前をほとんど覚えないまま生きてきたけれど、名前を覚えると途端に区別がつくようになるから不思議だ。それからは彼女と散歩をしていてヤマアジサイを見つけるたびにいちいち立ち止まって報告するようになった。おじいさんみたいだ。

 買ったデルフィニウムはあんまり元気がなかったから早めに輪ゴムと麻ひもで縛って吊るしてドライフラワーにしている。ラベンダーは大事に育てようと思って、日当たりの悪い部屋のかすかに日の当たる場所に置いてある。土が完全に乾いてから水をあげるのが長持ちさせるコツだとえっちゃんに似た店員さんが教えてくれた。土の表面が乾いていても中の方は湿っていることが多々あるので、きちんと指を突き刺して確かめてみる必要があるとネットに書いてあった。

 花屋さんに行く前に、様々な精神的なハードルがあったけれども、そのうち大きかったのが花の名前を知らないことと、花の値段の相場がわからなかったこと。花屋さんに行く前に欲しい花をいくつかリストアップしておくとお店でむやみにうろたえなくても済む。僕はスワッグ作りに興味があったので、後々ドライフラワーにできる花、という観点で軽く調べてリストを作った。ラベンダー、スターチスセンニチコウミモザ、バラ、ユーカリデルフィニウム、エリンジューム、カスミソウなど。花の値段の相場については、未だによくわかっていないけど、デルフィニウムは200円、ラベンダーは350円だった。何かの参考になれば。

 

 ウィリアム・モリスの『民衆の藝術』という本を読んで、次のような文章があった。

芸術の目的は、人々に彼らの暇な時間をまぎらし、休息にさえあきることのないようにするために美と興味ある事件をあたえることによって、また仕事をする際には希望と肉体的な快楽をあたえることによって、人々に幸福感を味わせることにある。要するに人々の労働を楽しく、休息を豊かにすることにある。したがって、真の芸術は人類にとって純粋の祝福なのである。
—  ウィリアム・モリス著、中橋一夫訳『民衆の藝術』

 

  モリスはヴィクトリア朝の頃のイギリスの芸術家で、社会主義寄りの思想の持ち主で、大量生産される安っぽい工業製品を嫌い、手仕事にこだわってアーツ・アンド・クラフト運動を主導した。植物や花柄のモチーフを好んで用いていて、のちのアール・ヌーボーなんかにも影響を与えた。今でも人気が高くて、ネットの通販とかでウィリアム・モリスのデザインした柄のクッションなんかが大量生産されて売られていたりする。モリスは日本でいうと「民藝」的なものにこだわった人だけど、彼の人気が高まるにつれて大量生産できない彼の作品は高価なものになっていき、民衆には手が出せないというジレンマに陥っていった。

 それは置いといて、モリスのこのある意味素朴な芸術観を僕はとても気に入っている。生存のための諸条件をとりあえず整えたら、次は作ることや飾ることに向かうものなんじゃないかと思う。最近思うのは、ネットにあがっているおしゃれな部屋の写真を見て僕がおしゃれだと感じるのは、布と光と皿と花が綺麗なときで、今はもうすぐ実家に引っ込むので保留するけど、次にまた引っ越したときにはそのあたりにも気を遣って生活をしてみたいと思う。身の回りを自分にとって好ましい状態にしておくと、いい気分になれるので。

 

 手軽にいい気分になるための手段として、いちばん身近なのはやっぱり音楽で、最近気に入っている音楽を書き置いておきます。

 


Wanda Jackson Funnel Of Love

 


Nina Simone Work Song


Stupid Cupid by Connie Francis 1958


Janis Joplin- Try (just a little bit harder)


Blind Willie Johnson - Dark was the night...


Last Time Blues........ Papa Charlie McCoy

 雑な問いの立て方をするとモヤモヤしか出力されない。生きるとは何かがその代表例だ。自分には考えられることと考えられないことがある。言い換えれば答えられる問いと答えられない問いがある。答えられる問いは、それは答えられるものであるから、きちんとした良い問いを立てることができたなら、それはもうほとんど答えだ。

 答えられない、手に負えない、抽象的・観念的な問いを立てたふりをしてモヤモヤしていることが許される期間がモラトリアムだとすると、僕は年齢的にはそれを卒業してしかるべきなので、やたらと観念的な悩み事を作り出して身動きが取れなくなることを自分に許すのはそろそろ良くない。最近あんまりそういうのないけど。かといって、簡単には解決できない、しかし見て見ぬ振りをするのも望ましくない問いを捨ててしまうのも如何なものかという気持ちもある。引っ掛かりを懲りずに持ち続けることによって、考え続けることによって、時間の経過とともに、答えというには頼りないにしても、ちょっとした手応えのようなものが得られることがある。だからこのことについては保留にする。

 生きるとは、とか、欲望の原理とか是非とか、正直そんなことを考えていても結論は無になるだけでなんにもならない。無なものは無だと言われても現に僕はいま生きているしとりあえず天寿は全うするつもりでいる。生きていることや欲望の存在は所与のものとしてまず受け入れるべきで、自分で自分の足場を切り崩すような真似を素人がいたずらに試みるのはたぶん百害あって一利ない。根本を考えることは共有するべき前提を作る上では有効かもしれないけれどそれ自体が目的なのではない。僕の目的はというとなるべく平気で生きること、なるべく楽しく暮らすことなので、そういう観点で言ったら、自分は何をしているときが楽しいのか/苦しいのかを検討した方がきっと実りがある。欲望の原理やその是非についてクダを巻くよりも、どのような欲望が自分にとって望ましいのか、つまりどのような欲望を選択するべきなのか、を考えた方がいい。僕は欲望は恣意的なもので、環境を変えることである程度の方向性はコントロールできるものだと思っている。恣意的というのはちょっと違うかもしれない。自分にどんな欲望が流れ込んでくるかを予測して環境を整えることで自分がどのような欲望を抱くことになるのかがある程度コントロールできる、といった方がいいかもしれない。そんなに単純じゃないことの方が多いかもしれないけど。

 僕は将来の夢がいくつかあって、好きな人と暮らすこと、毎日料理を作ったり休みの日にはお菓子とかピザとか焼くこと、本が読める生活をすること、蜜柑の木を植えることです。当面の目標はいい感じに日焼けすること、筋肉でもつけてなかなか疲れなくなること、仕事をもらうこと、です。いま欲しいものは穂村弘の新しい歌集とプロテインのヘヴィーウェイトゲイナーです。

禁欲主義的

 禁欲的な生活態度について考える。僕は必要に迫られて、主に金銭面で、禁欲的な生活態度でもって日々をやり過ごすことを余儀なくされることがしばしばある。ちょっとした都市に暮らす僕たちにとって、何かをすることは大なり小なり金銭のやりとりが発生するから、金銭面での節約は全面的な節制につながる。

 禁欲主義的な態度は、歴史を振り返ってみるとあらゆる時代の様々な地域に見出される。ぱっと思いつくだけでもストア派の人々、キリスト教徒、禅僧などなど。それらを大雑把に見てみると、禁欲というのはだいたいそれ自体が目的なのではなく、それによって近づくことのできる真理だとか死後の救済だとかと強く結びついている。今の僕は真理への探究心はそこまで強くない。ある程度の良識というかコモンセンスを外さなければまあいいかと思っている。真理への渇望も何らかの信仰も死後の救済もべつに信じていない僕も含めた現代を生きる多くの人々にとって、禁欲はどのような意味を持つのか。何らかの必要に迫られたり、宗教的な感情と結びついた禁欲なら理解できるけれど、そうではない自主的・積極的な禁欲は今日どのような意味を持つのか。

 「悟りとは平気で死ぬことではなく、平気で生きること」であるみたいなことを正岡子規がどこかで書いていて、禁欲の意義というとまずそれではないかと思う。欲望にいたずらに振り回されたり、我を失ったりすることなく、地に足をつけて自分の生を生きるための方法として、禁欲があるのではないかと。ミニマリストがものを減らすのは不要そうなものが目に入った時に「これ捨てようかな、どうしようかな、でも人にもらったものだし、思い出もあるし…」などと思い煩うコストを根本から断ち切るためだというのを聞いたことがある。何らかの仕事なり目標なりに打ち込むために、それへの集中を妨げる障害になりうる要素をあらかじめ取り除いておいて、生活をシンプルにしてしまって、生命維持や日常生活に関わるような活動をルーチン化して、それらに気をとられる時間や些細な決断で消耗するリソースを温存しておいてここぞというところに集中させるという、合理的な精神の持ち主が合理的な判断に基づいて禁欲を選び取る場合が多いんじゃないかと僕は思う。

 僕は合理的な考え方を内面化するのがあまり好きじゃない。コストパフォーマンスに徹底的にこだわるならいまこの場で自分の腹をかっさばいてしまうのが一番の節約ではないかと思う。僕のこれも大概だけど合理主義につきまとう単純な考え方があまり好きになれない。基準をこれと決めてしまったら、そのまましかるべき手順を辿れば出てくる答えは一定で、個人的にはそういうのにはすぐ飽きてしまう。だから僕は合理主義的な動機から積極的に禁欲に取り組むことはない。

 必要に迫られて禁欲生活を強いられることがあると書いたけれど、ちょっとお金に余裕ができてそこまでストイックにならなくてもいい時期が来ることもあって、そういう時はちょっと困る。欲望を持ち続けるのもけっこう大変というか意志がいることで、例えば何かが欲しいと思っても三日くらい放っておけば大体の物欲は色褪せて差し迫ったものではなくなる。つまり見ないようにしていれば欲望は勝手に萎んでいくので、むしろ長期間にわたって同じ欲望を持ち続ける方がよっぽど大変じゃないかと思う。それはすごいことなので夢と呼ばれたりする。欲望は他者の欲望を欲望するという言葉があるけれど、実際に振り返ってみても自覚される欲望のうちの大部分は他者を経由して入ってきたもので、自分が自分で欲望したものではない。というか突き詰めて考えると自分が自分で欲望するのはせいぜい最低限の生理的欲求のみなんじゃないかと思う。そんな風にして過ごしていると、急にちょっとは好きに過ごしていいよということになっても、別にやりたいこととか欲しいものとか特に思い浮かばないなということになる。かといってせっかくの休日に一日中座禅に取り組む、みたいな過ごし方は僕は退屈してしまう。何かがしたいという気持ちが起こらない状態は抑鬱状態と似ていて、欲望がないとか、したいことがないことは現代では不健康なことなんじゃないかとすらちょっと思う。

 欲望がなくなってしまうことは退屈だけども、欲望に身を任せて生きていくのもいやだ。面倒臭い。欲望は欲望を生み出すし果てがないし原理的に満足することはない。疲れそうだし虚しくなりそうなので興味がわかない。かといって過度に欲望を否定し続けていると次第に虚無が見えてくる。生が生前から死後へと向かう過程の一瞬の息継ぎであるかのように思えてくる。ところで生まれる前には僕は存在しなかったし、死後も存在しない。「ない」から来て「ない」に行き着く命であるのに無が恐ろしいというのは一体どういう仕組みなんでしょうね。意識は「ある」しか知らないからでしょうか。でもどっちみち死ぬとき意識は「ない」を認識できないけどね。いつからか自分の中にちっぽけな無常観がインストールされていて、ふとしたときにトカトントンと音をたてます。まあいつか無に還るその日までできるだけ頭と五感を喜ばせましょう。

指折り数える

 ミシマ社の『ちゃぶ台』とか公式サイトとかでちょくちょく見かけて気になっていた森田真生の『数学する身体』が文庫化されていたから買っていま読んでいる。新潮文庫は安いからいい。ワンコインで買える。まだ第2章までしか読んでないけど、人間にとって、数学とは何かみたいなことから、数学の歴史がわかりやすく書かれている。数を指折り数えることから始まって、数学が人間の身体を拡張するツールとして少しずつ肉付けをされながら徐々に形成されていき、古代ギリシアや、中世イスラーム世界や西欧近代においてその存在が根本から作り直されるような転換点があって、現代において数学が人間の身体から離れて次第に自律性を帯びていくまでの通史が、因数分解のやり方すらも忘れてしまった僕にもなんとかわかるレベルの日本語で書かれている。

 とはいえ数学的な語彙に慣れていなさすぎて、頭の普段は使っていない部分を使ったような気がして疲れて、今とても甘いものが食べたい。数学はある時点から人間が直接的に実感できるような次元を跳び越えていくようになったらしいんだけど、思い返してみれば僕が数学の授業についていけなくなったのも、扱うものが具体的な数(かず)から数(すう)に移り変わっていくその過程だったような気がする。このような言い方が正しいものかどうかすらわからないくらい数学には疎いんだけど。

 そういうことに思い当たって、僕はかなり原始的というか即物的というか、具体的な頭の使い方ばかりする癖が染み付いているなと気がついた。なんていうか天動説を信じるような人間だと思う。ダーウィンを叩いて、水素水をがぶ飲みするタイプ。

 僕の頭の使い方にはかなり偏りがあって、正直中高生の頃は自分は頭がいい方なのではないかと思っていた時期もあったけど、今はそんな幻想も潰えて、僕が人よりも得意なのはせいぜい類推と現状分析とそれへの対応ぐらいだという気がしている。基本的には倫理意識が少し強いだけのペシミストです。

 

 僕が一番好きなのか、得意なのかはよくわからないが、自分に向いていると思える頭の使い方は、現状与えられている環境や枠組みのなかでいかにのうのうと暮らすかを考えることで、このことに関してはそこらの動物並みのしぶとさがあるのではと最近は思っている。限られたテリトリーや少ない予算の中でいかに暇をつぶすか、みたいな。もしくは生きる上で解決しなければならない難題を前にして、今足りないものは何で、それは何によって得ることができる/補えるかについての情報を集めること。そういう情報を集めるにあたっての執念の強さは、才能と言ってもいいんじゃないかと思う。それを駆使してお金はないけど自炊できるようになったし、肉体労働にも慣れてきました。おかげでとりあえず必要なお金は稼ぐことができて一安心なので、こうして休みの日に自画自賛の文章を書いているのです。

 あと類推というのは二つのものの間に何らかの繋がりを見出すことで、これがあると一つの楽しみから次の楽しみを見つけることが簡単になるので、精神的な健康の維持にとても役立ちます。あとは人に何かをオススメするときとか。

話すこと

 クッツェーという南アフリカの作家の『マイケル・K』という小説を読んだ。アパルトヘイトの時代に書かれたもので、生きることと食いつなぐことが同義の世界でマイケル・Kという名のひとりの男が、ときに獣のように家も持たず身一つで、ときに強引な福祉政策や暴力に絡め取られながら、ひとりで土のように生きていこうとする物語だ。いろいろな切り取り方や読みができる小説だと思うけれど、僕はこれは「人はひとりでは生きていけない」というテーゼを真摯に突き詰めた作品だと思った。

「人はひとりでは生きていけない」とみんなが言う。僕もたぶんそうだろうと思っている。ひとりで生きていくには、知らないことが多過ぎるし、持っていないものが多過ぎる。もし仮に十分な土地と知識と筋肉があったとしても、僕はひとりで生きていけるだろうか。町中の店という店には究極的には不必要なものばかりが溢れていて、手間や労力を惜しまずに、そして見栄や外聞というものの一切を投げ捨ててしまったら、いらないものばかりだ。物質的には、ある程度の土地と家と動物と植物があれば、ひとりで生きていくのは不可能ではないんじゃないかと思う。問題はつまり精神的な孤独に耐えられるかということだけど、それはわからない。無理そうな気がするけど、そもそもたわいのない仮定の話なので突き詰めるのはやめにする。

 ひとりで生きることを選ばないのなら、社会のなかで、他人とともに生きていく必要がある。そしてそうするためには、少なからず話す必要が出てくる。職を得るためには面接で自分のことを熱っぽく少々劇的に語らなければいけないし、日雇いのバイトでも休み時間に天気の話ぐらいはする。先に挙げた小説のなかでも、住んでいた街から強制労働から難民キャンプからすり抜けて大地とともに生きようとするマイケル・Kは何度も社会の中に引き戻されて、その度に話すことを強いられる。そのうちのワンシーンで、頑なに口を閉ざす彼は次のように問い詰められる。

 「ここへきみを連れてきたのは話をするためだ、マイケルズ」と私。「上等のベッドをあてがい、食べ物もたくさんあたえ、一日中居心地よく寝そべって、鳥が空を飛んでいくのを見ていられるようにしているんだから、われわれとしてもそのお返しが欲しいところだな。そろそろ吐いてもいいんじゃないか、な。きみには語るべき話があり、われわれはそれを聞きたい。どこからでもいいから始めたらいい。母親のことでもいい。父親のことでもいい。きみの人生観でもいいさ。母親のことを話したくないというなら、あるいは父親のことや人生観なんて嫌だというなら、このところ考えてる耕作プランとか、ときたま山からおりてきてちょっと立ち寄り、食事をしていく仲間のことを話してくれ。われわれが知りたいことを話してくれれば、君を独りにしてやれるんだがな」
 私はここで一息ついた。彼は頑固ににらみ返してきた。「話せよ。マイケルズ」私はまた口を開いた。「話すなんて簡単だろ、わかってるよな、話せよ。いいか、よく聞け、ほら私は難なくこの部屋にことばを響かせているだろ。一日中飽きずにしゃべりまくる人間だっているし、あたり構わずしゃべりまくる人間だっている」ノエルと目があったが、私は続けた。「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、きみの話を語れ!われわれが聞いてやろうじゃないか!こんなふうに親切に、文明人の紳士が二人して、必要とあらば昼も夜も、きみの話に耳を傾けようとしてるなんて、おまけにノートまでとろうとしてるなんて、いったいどこの世界にあるというんだ?」

  ここでは話すことは自分に中身をあたえることだと言われている。話さなければ誰にも気づかれず、簡単に忘れ去られ、すぐに数字の一単位に過ぎなくなってしまう。語られないことは存在しないものとみなされて、声の大きい意見がたやすくまかり通ったりする。しゃべることは誰にでもできる、ささやかで地道な存在証明なのかもしれない。語り続けることは、確かに何かを変えうるのかもしれない。言葉を持つということは、言語化できるということは、それだけで一つの力なのかもしれない。

 僕はいま日雇い労働をしていて、毎回違う人と仕事をするわけだけど、自分が話していない事柄は一切相手には伝わらないということを強く実感する。例えば気圧が下がると頭が痛んで身体に力が入らなくなることも、主張しなければ相手にはそんなこと思いもよらずに考慮はされない。僕が最近ラテンアメリカ小説に凝っていることや、音楽が好きなこと、ギターが弾けること、前の晩にチキン南蛮を作って食べたことなどを相手は知らない。そのことについて喋っていないからだ。そして相手のことも何も知らない。普段どんなものを食べているのか、恋人はいるのか、どんな学生時代を過ごしたのか、一万円をポンと手渡されたら何に使うのか、想像もつかない。そのことについて聞いていないからだ。もちろん日雇い労働の現場でそんな個人的な立ち入った話を持ちかける必要はまったくないけれど、とにかく話さなかったことは決して相手には伝わらないという当たり前の事実になんだか改めて気がついたような、そんな新しい気持ちになったのです。

むずかしい本はむずかしい

 わたしはむずかしいことばがきらいだ。

 むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。
 なかなかわからないのだ。
 むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。
 本当に悲しい。
                (高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)

  難しい本が全然読めない。難解とされている哲学者の書いた本などを読んだことはある。だけど全然わからない。難しい本を読む前には、入門書とか思想史みたいな本を読んで、ある程度の予備知識を入れてから読む。そうなるとところどころにせよ、こういうことを言っているのだろうというのがぼんやりわかるような気がしてくる。時間をかけて一生懸命読んで、冗談ではなく4ページを1時間かけて読むようなペースで読んで、読み終わったことはほとんどないけど、本を閉じてふと気づく。読む前と何も変わっていないのだ。たとえば、デカルトは「我思うゆえに我あり」という有名な言葉を残していて、近代的な自我の形成に多大な影響を及ぼした、という知識を事前に知っていて、興味が出てそれに関連するデカルトの本を読む。読み終わった後にわかるのは、デカルトは「我思うゆえに我ありって言ってた」ということだけだ。ちょっと話を盛ってるけど、だいたいこんな調子で、テキストの精密な読解とか、どうやったらできるのか全然わからない。こういうことが書いてあるのかなと期待して読んで、それに該当する箇所だけが頭に残ってわかった気になって、すっかり満足してしまう。せっかく歴史的な名著を読んだとしても、僕は自分が読みたい文章を読みたいように自分勝手に読み替えているだけだ。その論旨を丁寧に一行一行辿っていこうとしてもすぐにわからなくなり、気がついたら同じ行を何度も読んでおり、イライラして、踊りだしたくなってしまう。きっと根がバカなんだろう。難しい本を読むのは、難しい。だけど大学の図書館には難しい本しか置いてないから、本を買うお金がない僕は大学の図書館に行って難しい本を読む。難しくてよくわからないと思う。

 

 ところで難しい本をちゃんと読むと、読み終った後しばらく、そうとしか考えられなくなる。その人が考えたようなやり方でしか、ものを考えられなくなる時期が始まる。大げさに言えば、世界認識の方法が根本から揺り動かされるわけで、もっと俗っぽい言い方をすれば「人生観が変わる」ので、疲れている時とかなげやりな気分の時は難しい本は読めない。疲れてる時に人生観を変えようなんて気にはならない。今までと違った考え方やものの見方を身につけることがしんどくなってきた。今まで見えなかったものが見えるようになるのに疲れてきた。あまり快くない現実に対して

「知らない方が幸せ」で済ませてしまうのは怠慢としか思わないけど、見えなかった問題や知らなかった留意点などがどんどん覆い被さってくるとちょっとしんどくなる。責任ばかりが増えていくように思える。ところで僕は論理というものをずっと誤解してきたような気がする。論理的な文章と線的な物言いの区別があんまりついていなかった。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の物言いを、論理的と勘違いしていたんじゃないかと、今になって思う。僕は難しい本は全然わからなくて悲しくなるからあんまり好きじゃない。だけど反知性主義的なものはもっと好きじゃない。だから時々頑張って難しい本を少しずつ読んでみる。そんなものなんじゃないかとも思う。放っておいたら僕は思い込みが強くて感情的で多分に差別的で偏屈な人間なので、自戒の念を込めてよく分からない本を読む。それは無駄ではないと信じたい。

 なんだろうなこの、ここ最近の無力感は。何を読んでも何を考えても何を言っても何をしても、何も変わらないと思えてしまうこの感じ。うまく言葉にすることすらできない。