アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

彼女は今日

 映画の20センチュリーウーマンで主人公の母親が、主人公をいろいろなところに連れ出してくれる下宿人のお姉さんが撮ってきた息子の写真を見て、「あなたは外でのあの子を見ることができるのね。うらやましいわ。」みたいなことを言うシーンがあって、それがずっと忘れられなくて何度も思い返してる。

 母と息子の関係にそれは顕著だけど、それだけに限らずに僕が関わってきた人みんなの、僕と一緒にいるときのその人しか僕には見ることができなくて、そんな当たり前でどうしようもないことを時々寂しく思ったりする。恋人に対しても思うし、友達にだって思う。両親に対してだってそう思う。今よりもずっと幼い頃から思っていた。

 関係性が深まっていくほどに、話せることが増えていくのと同時に、話せないことも増えていく。打ち解ければ打ち解けるほど、距離感や緊張感をもって会話をすることがむずかしくなる。だけど友達に対してはやっぱりあんまりそういうことはない気がする。

 あんまり関係ないかもしれないけど、似たような話として、十代の頃、自分以外の男たちはどういう風に女の子を口説くのか、ということが気になっていた。デートに誘ったり手をつないだりキスをしたりするときに、どんな風にそれをするのか、それは友達に聞いてもわからない。そいつに口説かれた女の子にしかわからない。今はそんなことどうでもいいと思うようになったけど、当時は結構気になっていた。

 そういう感覚をピロウズが「彼女は今日」という歌にしていて、よくそれを聴きながらたまらなくなって頭を抱えたりしていた。


the pillows - Kanojo wa Kyou (Live)

 

 最近よく読んでいるカーヴァーにもその感覚を連想させる短編がちらほらあって、特に短編集の『頼むから静かにしてくれ』に入っている「隣人」「人の考えつくこと」「ダイエット騒動」「あなたお医者さま?」「自転車と筋肉と煙草」などがそのあたりを刺激してきていい。こういうのって一種の覗き症なのかな。