アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

過去との折り合いのつけ方

 去年の暮れに行くすえ来し方に思いを巡らせて、自分は過去との折り合いがうまくつけられないということに思い当たった。過去の出来事や、昔感じていた気持ちや感覚、かつて深く関わっていた人々とかのことを思いやるとあっという間に足場がゆらいで今がどこだかわからなくなってなんにも手がつかなくなってしまう。たとえば、いま住んでいる町に両親が遊びに来る、などのイベントがあるといまの生活実感と過去の感覚が混じりきらずに溶け合って頭の中がマーブル模様になってきりきり舞いをはじめてしまう。つらい記憶にはその中で閉じ込められてしまいそうになるし、良い思い出にはとことん甘えたくなってしまう。ちょうどいい距離感で過去を振り返り味わい明日へのエネルギーに変えていくことがうまくできない。

 そういうわけで僕にとっての過去はこれ以上ない楽しみでもあり悩みの種でもあって、時には僕を守って時には僕を閉じ込める、取り扱いが難しい厄介者だった。過去との折り合いのつけ方、ということをぼんやりと意識しながら生活しているうちに、「過去とは想起することによってはじめて生じるものである」的なことを大森荘蔵が書いていたことをうろ覚えだけど思い出して、そうやって考えることが一番穏当で無理がないように思えた。

 そもそもどうしてそんなに過去に執着するのかといえば、きっと自我が脆弱だからで、自分というものは自分の中にこれまで降り積もった時間の総和であると今までは考えていて、そうすると忘れてしまうということは自分の一部を失うということで、過去の自分を裏切るような真似は自傷行為に他ならなくて、それで忘れることをこわがって過去をとても大げさに、大切に扱ってきたのだと思う。だけどこんな風に自分や過去や記憶を捉えていると、上に書いたようにとても振り回されて疲れるし(本当に疲れる)、長い目で見て、いつか死が受け入れられるようになるとは思えない。というか加齢とともに閉じていく生き方であるような予感がする。過去はきっと書いては消して遊ぶ落書きで、自分勝手に楽しむのがいちばんいい。

 それよりもむしろ、自分は一つの点景に過ぎないと考えた方が、いろいろとスムーズに事が運ぶんじゃないかと思う。自分を取り囲む環境や人間関係を翻訳する、一つの身体といくらかの思考の枠組みを備えた装置だと考えるというか、一つの身体と、さまざまな微生物とか事象が交わる交差点というか結節点、それがたまたま自分という形をしているというふうに捉えた方が、風通しが良いし広がりがあっておもしろいんじゃないか。他者(それが人間であるとは限らない)と関係を取り結ぶことによってしか、自分は自分になりえないんじゃないか。自分が為したことだけが自分である、みたいなバリバリの人間観もあるけど、こっちの方が幅や動きがあって僕にとってはわくわくする。

 7年で全身の細胞が入れ替わるように、7年も経てば、自分というものもまるっきり変わってしまうというふうに考えるのが妥当なんじゃないか。現に、1歳の僕と8歳の僕と15歳の僕と22歳の僕は好きなことや考えていることなど、別人と言っていいほど全然違う。大人になったら変わらなくなるんじゃないかとも思うけど、きっとそれは職場とか人間関係とか関わる世界とか自分なりの処世術とかお金の稼ぎ方とか読む本の傾向や関心の領域が固定化していくからで、絶えず自分をめぐる環境や自分の身体や読む本のジャンルなどが変わり続けるとしたら、やはり自分というものも変わり続けていくんじゃないか。と思うのですが、どうなんでしょうね。

 

 デカルト的な世界観というか、明治の自然主義文学とか私小説めいた自我にはもうつかれた。自意識過剰は一握の砂だ。そこにはざらざらとした虚しい手応えしかない。考え込むな。テキトーにいけよ。自分を通り過ぎていく景色を、書き残していこう。

 しばらくこの旅中りょちゅうに起る出来事と、旅中に出逢であう人間を能の仕組しくみと能役者の所作しょさに見立てたらどうだろう。まるで人情をてる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまではぎつけたいものだ。南山なんざん幽篁ゆうこうとはたちの違ったものに相違ないし、また雲雀ひばりや菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間をてみたい。芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、じいさんもばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似まねをするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本をぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤じんじかっとう詮議立せんぎだてをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見ればつかえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ているわけに行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらのふところには容易に飛び込めない訳だから、つまりはの前へ立って、画中の人物が画面のうちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。あいだ三尺もへだてていれば落ちついて見られる。あぶななしに見られる。ことばえて云えば、利害に気を奪われないから、全力をげて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識かんしきする事が出来る。

夏目漱石草枕』 

 

だからあれですね、自意識過剰は色々と不幸なことが多々あるということで、人々が前向きに、大きく、明るく、明日を笑顔で生きていこう、と判り易い言葉で大げさに励ましあってる意味がなんとなく判ってきたりもするぞ。何が幸せか不幸かは判らんが、ネガティブに物を感じることは結局しんどいものよ。根暗はしんどいものよ。だからといって仮に明るく取り繕ってしてもそれがその人にとって自然じゃないならひたすらにしんどいものよ。
—  川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』「子供は誰が作るのんか