アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

一週間なにしてた?

人生、今日という日は、2017年の9月10日は一度きりしかありません。22歳の夏休みは最初で最後です。毎日が本番です。同じ1日なんて、一度としてないのです。同じような1日はありますけどね。

なんか毎日同じようなことばっかりしてるなーと思っていても、一年経つと一年前とガラッと変わっていたりして、おもしろいものです。同じように思えていても、毎日いろいろなことをしているものですね。いったいなにをしているのでしょう。

その時々で読んでいる本や漫画、興味のあること、観たい映画、などなどは僕はすごく移り変わりが激しくて、二週間もしたら全然違うものを見たりやったりしています。いろんなことに夢中になったり飽きてしまったり、それでいてすぐに忘れてしまったり、あとになって懐かしくなったりします。だから一週間に一度くらい、自分がした暇つぶしとかマイブームとかをだらだら垂れ流してみたら、あとから見返したりした時に楽しいんじゃないかと思う。

一ヶ月くらい前にばるぼら・さやわかの二人の共著のインターネットの本を読んでから、ネットサーフィンもどきと言うか、適当な検索ワードを打ち込んで出てきたブログとかネットニュースを延々と読む、みたいなことをしていたんだけど、結構楽しい。自分とは全然違う趣味の人の、その趣味のちょっとした移り変わりなんかが見て取れたりすると特におもしろい。だから僕が脳内を垂れ流していたら、そういう感じで楽しんでくれる人がいるかもしれないし、自分で読み返すだけでもたぶん楽しい。

というわけで、これから一週間に一度くらい、その週の僕はいかにしてひまをつぶしたか、というようなことを箇条書きでもなんでもだらだら書いてみることにしようかな、と思ってる。今週の暇つぶしのコーナー。そういうのみんなでやっても楽しそうだな。流行らないかな。 

 

ここ一週間は、本を読んだら映画を見たりする集中力がほとんどなくて、観た映画は「始発まで、生きていたい」のキャッチコピーが素敵な『レイジ34フン』。終電後の閉ざされた地下鉄構内で怖い目に合う話です。人がいないのに煌々と明るい駅の、白熱灯の感じが妙に冷たくよそよそしくて良かった。ホラー映画のキャッチコピーと言えば、『処刑山 デッド・スノウ』がいま気になってて、内容は知らないんだけど(たぶん雪山でひどい目にあう)、「海に行けばよかった…」というシンプルながら実感のこもった強い後悔の気持ちとおかしみを感じさせる宣伝文句が素晴らしい。それとレイジ〜の感想でしばしば比較されていたというか名前が挙がっていた『ディセント』も近々みたいなー。

あとエドガーライトの『ホットファズ』もみた。サイモンペグとニックフロストがイチャイチャしてるだけで100点満点です。ニックフロストの笑顔が尊い。二人がリバティーンズのジャケットのマネしてる写真がすごく好き。

90年代くらいからフィルムじゃなくてデジタルの映画が増えて、そのあたりから映画の編集のテンポが随分変わったなあと思う。格段にテンポが良くなった。ゲーム的というか、アトラクション的というか。編集のテンポが速くなったというか、小刻みになったことによって、それまではパロディになっていたものが、サンプリングと呼んだ方が合っているような感触がするようになった気がする。伝わるかわからない、ちょっと抽象的な話。

あ、あとダンケルク観ました。ネタバレになるのが怖いので内容には触れませんが、戦争映画じゃなくて「戦場映画」と言っているのが上手いこと言うなあという感じです。音の臨場感がすごいです。あとダークナイトの時も思ったけどノーランは人をびっくりさせる演出が上手。

 

あとたまにファミコンスーパー魂斗羅やってた。最初は一面もクリアできなかったけど、三面のボスが倒せないくらいに成長した。ライフとかなくて一撃でやられちゃうのがシビア。主人公が屈強な上裸の男なんだけど、服とか防弾チョッキとか着てくれたらもっと簡単になるのではと思う。昔のアクションゲームとかシューティングとか、難しいけどやれば上がる感じがクセになる。つ、次こそは!ってムキになって手が疲れるか集中力が切れるまでやってしまう。進研ゼミより熱心にやってる。

 

あと、何の気なしに一、二年ぶりくらいにアニメ観てみたら面白くて、あとなんていうか楽で、『フレームアームズ・ガール』と『がっこうぐらし!』を一気見したし、今期はゲーマーズ!を観てる。秋のうまるちゃんも楽しみです。

ただ、アニメやゲームをしていても、現実世界では何も起こらないというか、何かを考えたりすることもほとんどなくて、なんていうか楽チンにたのしくて、ちょっとこわいなと思います。

 

先月は筋トレや自炊、外で遊ぶことに夢中だったのですが、今月は今のところアニメやゲームにどっぷりで人間のダイナミズムを感じています。筋トレも自炊もぼちぼち続けていますが。最近スーツが着られるくらい涼しくなってきたので早寝早起きと職探しも頑張ります!今年が最後の夏休みになりますように!

 

あとゴスロリ少女のバイブルこと嶽本野ばらの『それいぬ』を読んでみたらおもしろかったです。ストイックで。それと高校の頃の世界史の教科書を実家から持ってきてチマチマ読んでる。懐かしかったり全然覚えてなかったり、いつの間にか当時より理解が深まっていたりしてておもしろい。エジプトはナイルのたまもの。

1%のラブレターの話

風の感触や虫の声が秋めいてきた今日この頃ですが、九月ってもっと暑くなかったっけ。このまま秋へとなだれ込んでしまうのでしょうか。
涼しくなってからというものの、過ごしやすい気候になったはずが、ずっと心にさざ波が立っているような感じがします。どうにも落ち着かなくて、夜も長くなってきて、ついつい夜更かしをしてしまいます。

僕は穂村弘が好きなんですが、なんだっけな、『もしもし、運命の人ですか』かな、女性にメールを送るとき、ついつい1%のラブレターになってしまうという話があって、具体的にはクエスチョンマークをつけない曖昧な疑問文を付け足してしまう、無意識のうちに会話の発展ないしは二人の関係性の発展を狙ってしまうというエピソードなんだけど、そういうのってなんかいいなと思うんです。

中学生か高校生の頃、文豪の書いた手紙を読むのに凝ってた時期があって、中原中也太宰治なんでもないような手紙とか、芥川龍之介のラブレターとか、文豪じゃないけどゴッホが弟に金の苦心を頼む手紙とか、そういうのをよく読んだ。江国滋の『手紙読本』という本が、そういう類の手紙を集めた本で、ずっと気になってるけど読まないまま何年も経ってる。
そういう手紙の中でもやっぱりラブレターがおもしろくて、誰かを好きで好きでたまらない時って世界が輝いて見えるとはよく言うけど、それだけじゃなくてラブレターってやっぱり相手の気をどうしても引きたいから、キラキラした世界からさらに選りすぐりの良いこと、素敵なこと、綺麗なことを集めてきて、なるべく格好の良い文章で書こうとするわけで、それでいて奇妙に真剣で、切実な言葉になるわけで、そうやって出来上がった文章は、陳腐ではあっても、ハタから見たり後から思い返すと恥ずかしくても、やっぱり素敵なものだと思います。

素敵なものって、一生懸命探したり、こじつけたり、自分で作ったり準備したりしないとなかなかないから、常に1%のラブレターの精神で暮らしていけたらなあと思います。穂村弘が好きなのはイチャイチャした感じの短歌ばっかり作るからだし、スピッツが好きなのはラブソングばっかり歌ってるからです。大島弓子の漫画も、常に全開の世界へのラブレターという感じで良い。

あんまり関係ないんですが、手紙とかひと昔前の少女漫画とかがやたら好きなのは、太宰治の「女生徒」からの遠い影響ではないかと思い当たりました。手紙からはその人の言葉の手癖とか日々の感じ方が透けて見えるし、ひと昔前の少女漫画ってイケメンが出てくる胸キュンストーリー!って言うより一人の少女の感情の機微を丁寧に描写するみたいなのが多いじゃないですか。太宰の女生徒もそうなんですけど、ある人(現実でもフィクションでも)に固有の感じ方、考え方というか、その人の独特なクセみたいな部分がすごく好きで、初めてそれを意識したのが「女生徒」を読んだ時だったのでした。なんていうか、その人のひとりきりの部分が透けて見えるとグッときます。二十歳を越えるとみんな小賢しくなって、そういうの隠すようになるのでなおさら。
そういう意味でのオススメ本は太宰治『女生徒』、尾崎翠全般、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、柴崎友香『ビリジアン』、『きょうのできごと』、というか柴崎友香全般などです。

あ、あと長嶋有の『夕子ちゃんの近道』と、「サイドカーに犬」も超良かった。

最近読んだのだと、植芝理一の漫画『謎の彼女X』の中の、彼女がベーコンを焼かずに食べるのを見てびっくりする、というエピソードが良かったです。僕は焼いて食べます。

服を買いに行く服がないとき

できるような気がするって大事だと思うんです。服を買いに行く服がないとは言いますが、こういう服を買おうというある程度の目星がついていれば、案外買いに行けちゃうものな気がします。服を買いに行く服がないことが直接の原因ではなくて、いざ服屋に行ったとしても何を買えばいいのかわからない、どんな服が自分に似合うのかわからない、そういう状態が続いちゃうとなかなか服を買いに行けませんよね。
リアリティが大事というか、自分の中に具体的な手応えがないと行動するのは難しいですね。大人になるってことは具体的になることなんじゃないかと最近ぼんやり考えています。あと具体的な問題って突き詰めていけば解決できるか、どうしようもないということがわかるかのどちらかだから、いいですね。
誰か余ってる自動車免許譲ってくれないかなーより、今年中に免許とるの方がやる気になりますし、プレステ4欲しいから毎月5000円貯金しようって思ったらなんとかできそうな気がしてきます。両方そんなに欲しくないのでやらないけれど。
あ、あと、めっちゃ具体的なこと言うんですが、QoL上げるためには、栄養が大事ってことに気がつきました。お腹減ったらひもじい気持ちになるし、お肉食べなきゃ体に力入らないですよ。最近気づいたんですけどね。2年前には食費で本買ってケチャップ吸って生きてましたからね。すごい進歩だと思います。いま米に押し麦入れて炊いてますからね。笠間市されて、栄養も増えてウハウハです。

あと最近『東京タラレバ娘』が完結したんで大人買いして一気読みしたんですが、良かったです。アラサー女は結婚したかったら女子会減らせ、みたいな内容なんですけど、やっぱり人は外から変わるんだなって思いました。環境や人間関係が変わると、慣れない外側との摩擦で磨り減ったり尖ったり丸くなったりで、人の形は変わるものなんですね。タラレバ言ってないで外出てぶつかってみろよみたいな、熱さがありました。
終盤の展開は賛否あるみたいですが、いい漫画だったと思います。時代の気分とか価値観とかがこうギュッと濃縮されてて、10年後とかに読み返してもおもしろいんじゃないかな。

したいことリスト

八月も終わって、センチメンタルな気分になってしまいます。九月も、上を向いて歩きましょう。ということで、したいことリスト、考えてみました。100個を目指したけど、とりあえずは6個で終わりました。なんだか、現実的な数字ですね。

 

したいことリスト

1.満天の星空の下で野宿。冷たく光る星を見上げながら、毛布にくるまってカップヌードルをすすりたい。

 

2.車の免許を取る。もっと言えばバイクに乗りたい。天気がいいからって理由だけで知らない町までひとっ走りしたい。車なら、好きな音楽を聴きながら。ドライブインシアターがいまでも残ってたら良かったのに。『アウトサイダー』で観てから、ずっと憧れている。

 

3.おいしい紅茶を淹れられるようになりたい。お茶っていうのは美しい時間のことなのよって吉野朔実の漫画で読んだんだけど、スコーンかパウンドケーキでも焼いて丁寧に紅茶を淹れて心安らぐひと時を過ごしたい。家にはティーセットもオーブンもないし、舌がバカなので紅茶の良し悪しもわからない。

 

4.漫画を読みたい、映画が観たい。
読みたい漫画、観たい映画がまだまだ山のように、本当に山ほどある。それって幸せなことかもしれないとふと思う。岩館真理子吉野朔実がいま気になっている人。『えんじぇる』と『瞳子』を読んでうっとり。特に『えんじぇる』は、女の子の不機嫌をいじらしく、不可思議に、激しく繊細に描いていてグッときます。

 

5.セガサターンスーパーファミコンが欲しい。
欲しい。なんせ今ならすっかりソフトが安い。あとセガサターンくらいの時代のドット絵の美少女が好き。ギャルゲーやりたい。スーパーファミコンは、対戦したい。パネルでポンとかで。

 

6.体力をつける。
体力の無さを実感することが多い。気圧が下がれば寝込むし、階段を駆け上がると偏頭痛がする。偏見だけどテンション高い人って体力有り余ってるだけだと思う。ぼくもテンション上げたいので体力ほしい。

 

欲望は明日へのエネルギー、大事にしていきましょう。無気力が一番きついので、もしもハートに火がついたら、絶やさないように定期的に燃料を補給するべきだと思います。

疲れがたまって、変なこだわり

疲れがたまって、しばらくは使わないものを無理やり押入れに詰め込むように、心の片隅にしまいこんでいた変なこだわりが頭をもたげてきています。ぼくは本を読むのが好きなのですが、最近は実用書めいたものや軽い読み物、ネットライターが書いたまとめ記事やライフハックツイッターで流れてくる文字列などを読むことが多かったので、なにかがパンクした又はほつれてしまったのかもしれません。

 

誰かに興味を持ったり、何かに熱中して追求したり、フィクションにのめり込んだりすることが、こんなにも体力が必要で難しいことだったなんて、今までわかりませんでした。今まではごく自然にそれをやってのけていました。誰にも負けないくらいの熱量で。最近は、なんだか疲れてしまった。カロリーが足りていないのかもしれません。カロリーは熱量。あるいは、お金や時間が足りていないのかもしれませんが、そうだとしてもどうしようもないのでここらで切り上げたいと思います。

 

なんだか、最近はちっとも言葉にできていないと感じます。何を、かもわかりません。何も痛くないし、何も考えていないかもしれません。だけどチリっとした違和感をいつからか抱えているような気がします。不安と言い換えてもいいかもしれません。さみしくないのが、さみしいというか。何を言葉にできていないのか。当面の日々を動機づけるなにか、身につけたい習慣、勉強したいこと、欲しいもの、そういったものかもしれません。全然違うような気もします。いたずらに言葉にしてしまうことや、誰かに話しかけることが、無性に恥ずかしく思ってしまうことが多くなりました。見え見えの感傷や、子供じみたわがままを吐き出すことは、あまりにも、無防備すぎるんじゃないかと身が固くなります。そんな22歳の夏休みです。声をあげて騒ぐ楽しさよりも、さらりとした穏やかさの方が好ましく思うようになってきています。身体が疲れて、ただの気分かもしれませんが。楽しいことはいいことだとは思っています。

 

 

自分の中での語彙力の低下、感受性の磨耗、日本語の乱れ、そのようなものを感じています。安易にわかりやすい方向へ流され過ぎたというか、迂闊に言葉を選び過ぎたというか、言葉を探すことに時間や労力を費やすことが以前に比べてごっそりと減ったと自覚しましたので、便利な言葉や、流行り言葉に流されていてはいけないと思い直しています。横文字とか、学術用語などの便利な言葉は汎用性が高くて、カバーできる範囲が広くて、人にも伝わりやすいような気がするけど、そういう言葉ばかりを使っていると、身ぐるみを剥がされているような思いがします。そういう言葉は人に伝わりやすくて、つまり受け取ったときにわかったような気になりやすくて、だから意見を言うときや情報をまとめるときなんかはいいと思うんだけど、はっきりとした言いたいことがあるわけではない場合、ぼんやりとしたムードや気分なんかを手渡したいときに、うっかりそういったものを使ってしまうと、伝えたかったはずの生のニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまいます。ニュアンスというのも横文字で、本当は手ざわりとか匂いとか、そういった意味のことを言いたいんだけど、このような言い換えに意味はあるのでしょうか。こんな問いかけが、本当にしたいわけではなくて、兎にも角にもいまは眠れる気がしません。頭の中で文章が浮かんでは流れて散り散りになって、それを捕まえようとカタカタとキーボードを打つイメージが出来上がって、その音がうるさくて眠れなくなることが以前はよくありました。今もそんな感じで、苦々しくもなつかしくてうれしい心地がします。いつまでもこんなふうに、しているわけにはいかないのですが。たまには、いいでしょう。よくないとは思いつつ、嫌いではないのです。書き言葉に対する、変なこだわりです。その中身は、よくわかりません。なぜだか、鈍感が、ゆるせない。

ラストワルツの思い出

僕は今までにマーティン・スコセッシザ・バンドのラストコンサートを撮影した映画『ラストワルツ』を、ビデオだったら擦り切れるくらい何回も何回も、大人には想像もできないくらいの真剣さでもって観てきたから、大好きなシーンがいくつもある。最近はあんまり観てないけど、それでも幾つかのシーンは瞬時にありありと思い出せる。
まずはじめに黒の背景に白抜きの文字で、「できるだけ大音量で上映すること!」という注意書きが出で、ベーシストのリック・ダンコがビリヤードのルールのひとつ、カットスロートのやり方(自分の玉を残して相手の玉を落とす)を解説するシーンから始まって、アンコール後にザ・バンドが一番最後に演奏した曲の映像に合わせてオープニングクレジットとバンドメンバーの名前が流れる演出が格好良い。アンコールに応じて戻って来たロビー・ロバートソンがタバコを片手に客に向かって「まだいたのか?」とスカして見せるのも良い。
It makes no differenceのギターソロで、ビブラートをかける時に右手を振り上げて小刻みに揺らすロビーロバートソンのかっこつけマンっぷりが最高。それとラストワルツはゲスト出演している面々がものすごくて、ロニーホーキンスやボブディランなど、ザ・バンドがかつてバックバンドを勤めていた先輩ミュージシャンから、ジョニ・ミッチェルドクター・ジョン、ニールヤングやクラプトン、ヴァン・モリソンなど同時代のスーパースターたちが集結している。ちゃっかりマディ・ウォーターズまで出ている。
ニールヤングをステージに呼ぶときに、”You know this guy”(字幕では「紹介はいらないね」)って言うのもいいし、ステージに上がったニールヤングが「君たちとやれて本当に嬉しい」って言った後に、マイクには拾われてないけどザ・バンドのメンバーが「何言ってんだよ、俺もだよ」的なことを返してて痺れる。あとこの日のニールヤングは鼻にコカインをどっさり詰めたままステージに立っていたせいで、それを修正するために結構なお金がかかったっていう話もすごい好き。

ニール・ヤングといえば思い出すのはジム・ジャームッシュの『デッドマン』の劇伴の即興演奏で、これがどんな意味も寄せ付けないようなザラザラと荒涼とした音色や無骨なメロディーがすごく良くて、彼岸からかき鳴らされている音楽といった趣があって、この映画のスピリチュアルな雰囲気とめちゃめちゃ合っていてすごく良かった。ちなみに『デッドマン』は1995年の映画で、今となってはめずらしいすっぴんのジョニーデップがたっぷり見られます。この映画は18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクと深い関連があるらしいんだけど、僕にはウィリアム・ブレイクは難しくて詳しくもないのでその辺はよくわかりませんが、彼岸と此岸の間を漂う静かでスピリチュアルなロードムービーとして楽しく鑑賞できました。

話をラストワルツに戻すと、多分一番見返したのがボブディランのシーンで、彼がザ・バンドと一緒に録音したアルバム『プラネット・ウェイブス』からForever youngを演奏するんだけどこれがCD音源より遥かに良い。特にロビー・ロバートソンのギターがぜんぜん違う。あとこの日、ディランがセットリストを他のみんなに事前に言っていなかったらしくて、Forever youngのアウトロを弾きながら、リック・ダンコがめちゃめちゃ不安そうな顔をしているのも味わい深い。次の曲がわかった途端にニコニコしてノリノリになるところも。
他にもクラプトンが演奏中にストラップが外れて、ロビーロバートソンがそのままソロを引き継ぐところとか、エミルーハリスのバックでドラムを叩くリチャード・マニュエル(普段はピアノ)のフォームがすげー下手そうなところとか、The Night They Drove Old Dixie Downの一番サビに入るところの引きのカメラワークが格好良いこととか、好きなシーンは無数にあるけど、無数にあって書ききれないので今回はこのへんにしておきます。『ラストワルツ』は間違いなく僕が音楽にのめり込むきっかけの一つになったし、ひょっとしたら映画にはまったのもこれのせいかもしれない。ラストワルツは一つの偉大なバンドの解散コンサートであると同時に、ロックの一つの時代の終わりのお祭りだったんだなということが今になってはっきりとわかりました。結局このあたりの音楽が一番好きで、余談ですが最近ジョニ・ミッチェルがすごく綺麗に見えてきて、なんだか大人になったのかもなあと感じ入っています。
真夜中に急に何か好きなものについて文章が書きたくなったので、大好きなものについて衝動的に書き散らしてみました。

健全イコールつまらない、か?

最近、鵜呑みにすることの大切さについて考えている。とりあえず一旦は、よくわからないままに鵜呑みにすることなしには、なにかをわかるということはありえないのではないか。一度は飲み込んでみて、よく咀嚼して、身体化してみて、そこまでして初めて、変わるということも可能になるのではないか。わかるようになること、変わること、とりあえずやってみること、それが今の興味関心の一部分。

今よりもいくらかマシな、ちょっとは健全な精神を身につける必要があると感じている。健全な精神を身につけるというのは、実は結構簡単なことなんじゃないかと思うっている。健全な精神は健全な肉体に宿るという昔のギリシア人の言葉があるけれど、多分まったくその通りで、健全な肉体を作ることができたら、健全な精神なんてものはきっとあとから勝手についてくる。
だけど、ここまで考えて、いつも躓いてしまう。健全ってことは、つまらないってことなんじゃないかっていう疑念が自分の中にずっとあるから。フランソワーズ・サガンが何かのインタビューであなたの小説には不幸な人物ばかり出てきますねと言われて、幸せな人たちについては何も書くことがないというようなことを言っていた。とても良いものに対して、申し分ないという語が使われるけれど、人は幸せな時には、何も言うことがなくなってしまうものなんじゃないか。
トルストイも『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」と書いている。健全な肉体と精神を手に入れて、みんなと同じような明るくて楽しい人生を、ニコニコと朗らかに送りたいだろうか。普通に考えて、不幸よりも幸せの方がいいに決まってる。苦しいよりも楽しい方がいいに決まってる。それはそうなんだけど、そのはずなんだけど、自分にはどうも幸せよりも不幸を、楽しさよりも苦しさを、なんとなく求めてしまっているようなところがある。不幸よりも幸せの方がいいと言い切れないでいる。それはきっと幸せってとても単純なことだと心のどこかで思っているからだ。単純さへのぼんやりとした、だけど確かな嫌悪感が自分の中には常にある。単純なものには、深みもなければ、面白みもない。そんな風に思っていたけれど、近ごろは、単純な繰り返しほど面白いものはないんじゃないかとも思う。実際に僕は単純なブルースが一番好きだ。というかそもそも、幸せっていうのは実際のところ、単純な繰り返してではありえないのではないか。外側から、遠くから眺めてみたときには、どの幸せもだいたい同じように見えるかもしれないけれど、その内実は、きっとたゆまぬ努力と工夫によって成り立っている。完成された幸せ、言い換えれば、完結した、閉じた幸せというのは、どうしたってこの世にはありえないのだから、幸せというものはきっと、時間の経過にあわせて、その都度の必要に応じて、あっちこっち修理をしたり必要なものを買い足したり燃料を補給したりしながら、えっちらおっちら姿かたちや中身を変えながら維持されていくものなんだと思う。幸せは途切れながらも続くのですとスピッツも歌ってる。
単純なものはつまらない例の一つに、意識高い系と言われる人たちが挙げられる。一年生の時から就職に向けて大して興味もなさそうなボランティアをしたり海外に行って人生観を変えたり、日常会話にビジネス用語を混ぜてきたりする人たちのことなんだけど、この人たちは大抵の大学生からはバカにされる。自分の将来について真剣に考えることは良いことなのに、なんでバカにされるかというと、みんな同じようなことしか言わなくて、ダサくてつまらないからだと思う。そういう人たちのツイッターを見ると、肉とラーメンとスタバの写真ばかりアップされていて、相田みつを的というか、ラーメン屋の店主のむさ苦しい人生哲学めいたことを延々と語っている。毎日毎日、日々成長!と言いながら、ラーメン屋とスタバを往復しているようにしか見えない。その行動原理や価値観、言動の単純さが、ダサくてつまらないから、いつの間にかポジティブだとか幸せ=単純でダサくてつまらないというふうに思うようになっていたのかな。単純でポジティブな人たちのつまらなさというのは、あらかじめ結論を決めつけているところに原因があるのだと思う。何でもかんでも明日も頑張ろう、日々成長で済ませてしまうようなところがある。あらかじめ結論を設定してしまったら、考えることもできないし、成長なんてしないんじゃないかと、僕は思うのだけど。どうなのかな、そのへん。
あと、単純なものがつまらないと感じるのは、それは自分が頭で考え過ぎているからじゃないかとか、いろいろ思うところはあるんだけど、あまりにもまとまらなくなってきたので、おわり。要は、健全だからつまらないのではなくて、閉じていて広がりがないからつまらないのであって、健全であること、幸せであること、単純であることとつまらないこととは必ずしもセットではないのでは、ということが言いたかった。
 
マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、僕にはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。
燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』