アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

疲れがたまって、変なこだわり

疲れがたまって、しばらくは使わないものを無理やり押入れに詰め込むように、心の片隅にしまいこんでいた変なこだわりが頭をもたげてきています。ぼくは本を読むのが好きなのですが、最近は実用書めいたものや軽い読み物、ネットライターが書いたまとめ記事やライフハックツイッターで流れてくる文字列などを読むことが多かったので、なにかがパンクした又はほつれてしまったのかもしれません。

 

誰かに興味を持ったり、何かに熱中して追求したり、フィクションにのめり込んだりすることが、こんなにも体力が必要で難しいことだったなんて、今までわかりませんでした。今まではごく自然にそれをやってのけていました。誰にも負けないくらいの熱量で。最近は、なんだか疲れてしまった。カロリーが足りていないのかもしれません。カロリーは熱量。あるいは、お金や時間が足りていないのかもしれませんが、そうだとしてもどうしようもないのでここらで切り上げたいと思います。

 

なんだか、最近はちっとも言葉にできていないと感じます。何を、かもわかりません。何も痛くないし、何も考えていないかもしれません。だけどチリっとした違和感をいつからか抱えているような気がします。不安と言い換えてもいいかもしれません。さみしくないのが、さみしいというか。何を言葉にできていないのか。当面の日々を動機づけるなにか、身につけたい習慣、勉強したいこと、欲しいもの、そういったものかもしれません。全然違うような気もします。いたずらに言葉にしてしまうことや、誰かに話しかけることが、無性に恥ずかしく思ってしまうことが多くなりました。見え見えの感傷や、子供じみたわがままを吐き出すことは、あまりにも、無防備すぎるんじゃないかと身が固くなります。そんな22歳の夏休みです。声をあげて騒ぐ楽しさよりも、さらりとした穏やかさの方が好ましく思うようになってきています。身体が疲れて、ただの気分かもしれませんが。楽しいことはいいことだとは思っています。

 

 

自分の中での語彙力の低下、感受性の磨耗、日本語の乱れ、そのようなものを感じています。安易にわかりやすい方向へ流され過ぎたというか、迂闊に言葉を選び過ぎたというか、言葉を探すことに時間や労力を費やすことが以前に比べてごっそりと減ったと自覚しましたので、便利な言葉や、流行り言葉に流されていてはいけないと思い直しています。横文字とか、学術用語などの便利な言葉は汎用性が高くて、カバーできる範囲が広くて、人にも伝わりやすいような気がするけど、そういう言葉ばかりを使っていると、身ぐるみを剥がされているような思いがします。そういう言葉は人に伝わりやすくて、つまり受け取ったときにわかったような気になりやすくて、だから意見を言うときや情報をまとめるときなんかはいいと思うんだけど、はっきりとした言いたいことがあるわけではない場合、ぼんやりとしたムードや気分なんかを手渡したいときに、うっかりそういったものを使ってしまうと、伝えたかったはずの生のニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまいます。ニュアンスというのも横文字で、本当は手ざわりとか匂いとか、そういった意味のことを言いたいんだけど、このような言い換えに意味はあるのでしょうか。こんな問いかけが、本当にしたいわけではなくて、兎にも角にもいまは眠れる気がしません。頭の中で文章が浮かんでは流れて散り散りになって、それを捕まえようとカタカタとキーボードを打つイメージが出来上がって、その音がうるさくて眠れなくなることが以前はよくありました。今もそんな感じで、苦々しくもなつかしくてうれしい心地がします。いつまでもこんなふうに、しているわけにはいかないのですが。たまには、いいでしょう。よくないとは思いつつ、嫌いではないのです。書き言葉に対する、変なこだわりです。その中身は、よくわかりません。なぜだか、鈍感が、ゆるせない。

ラストワルツの思い出

僕は今までにマーティン・スコセッシザ・バンドのラストコンサートを撮影した映画『ラストワルツ』を、ビデオだったら擦り切れるくらい何回も何回も、大人には想像もできないくらいの真剣さでもって観てきたから、大好きなシーンがいくつもある。最近はあんまり観てないけど、それでも幾つかのシーンは瞬時にありありと思い出せる。
まずはじめに黒の背景に白抜きの文字で、「できるだけ大音量で上映すること!」という注意書きが出で、ベーシストのリック・ダンコがビリヤードのルールのひとつ、カットスロートのやり方(自分の玉を残して相手の玉を落とす)を解説するシーンから始まって、アンコール後にザ・バンドが一番最後に演奏した曲の映像に合わせてオープニングクレジットとバンドメンバーの名前が流れる演出が格好良い。アンコールに応じて戻って来たロビー・ロバートソンがタバコを片手に客に向かって「まだいたのか?」とスカして見せるのも良い。
It makes no differenceのギターソロで、ビブラートをかける時に右手を振り上げて小刻みに揺らすロビーロバートソンのかっこつけマンっぷりが最高。それとラストワルツはゲスト出演している面々がものすごくて、ロニーホーキンスやボブディランなど、ザ・バンドがかつてバックバンドを勤めていた先輩ミュージシャンから、ジョニ・ミッチェルドクター・ジョン、ニールヤングやクラプトン、ヴァン・モリソンなど同時代のスーパースターたちが集結している。ちゃっかりマディ・ウォーターズまで出ている。
ニールヤングをステージに呼ぶときに、”You know this guy”(字幕では「紹介はいらないね」)って言うのもいいし、ステージに上がったニールヤングが「君たちとやれて本当に嬉しい」って言った後に、マイクには拾われてないけどザ・バンドのメンバーが「何言ってんだよ、俺もだよ」的なことを返してて痺れる。あとこの日のニールヤングは鼻にコカインをどっさり詰めたままステージに立っていたせいで、それを修正するために結構なお金がかかったっていう話もすごい好き。

ニール・ヤングといえば思い出すのはジム・ジャームッシュの『デッドマン』の劇伴の即興演奏で、これがどんな意味も寄せ付けないようなザラザラと荒涼とした音色や無骨なメロディーがすごく良くて、彼岸からかき鳴らされている音楽といった趣があって、この映画のスピリチュアルな雰囲気とめちゃめちゃ合っていてすごく良かった。ちなみに『デッドマン』は1995年の映画で、今となってはめずらしいすっぴんのジョニーデップがたっぷり見られます。この映画は18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクと深い関連があるらしいんだけど、僕にはウィリアム・ブレイクは難しくて詳しくもないのでその辺はよくわかりませんが、彼岸と此岸の間を漂う静かでスピリチュアルなロードムービーとして楽しく鑑賞できました。

話をラストワルツに戻すと、多分一番見返したのがボブディランのシーンで、彼がザ・バンドと一緒に録音したアルバム『プラネット・ウェイブス』からForever youngを演奏するんだけどこれがCD音源より遥かに良い。特にロビー・ロバートソンのギターがぜんぜん違う。あとこの日、ディランがセットリストを他のみんなに事前に言っていなかったらしくて、Forever youngのアウトロを弾きながら、リック・ダンコがめちゃめちゃ不安そうな顔をしているのも味わい深い。次の曲がわかった途端にニコニコしてノリノリになるところも。
他にもクラプトンが演奏中にストラップが外れて、ロビーロバートソンがそのままソロを引き継ぐところとか、エミルーハリスのバックでドラムを叩くリチャード・マニュエル(普段はピアノ)のフォームがすげー下手そうなところとか、The Night They Drove Old Dixie Downの一番サビに入るところの引きのカメラワークが格好良いこととか、好きなシーンは無数にあるけど、無数にあって書ききれないので今回はこのへんにしておきます。『ラストワルツ』は間違いなく僕が音楽にのめり込むきっかけの一つになったし、ひょっとしたら映画にはまったのもこれのせいかもしれない。ラストワルツは一つの偉大なバンドの解散コンサートであると同時に、ロックの一つの時代の終わりのお祭りだったんだなということが今になってはっきりとわかりました。結局このあたりの音楽が一番好きで、余談ですが最近ジョニ・ミッチェルがすごく綺麗に見えてきて、なんだか大人になったのかもなあと感じ入っています。
真夜中に急に何か好きなものについて文章が書きたくなったので、大好きなものについて衝動的に書き散らしてみました。

健全イコールつまらない、か?

最近、鵜呑みにすることの大切さについて考えている。とりあえず一旦は、よくわからないままに鵜呑みにすることなしには、なにかをわかるということはありえないのではないか。一度は飲み込んでみて、よく咀嚼して、身体化してみて、そこまでして初めて、変わるということも可能になるのではないか。わかるようになること、変わること、とりあえずやってみること、それが今の興味関心の一部分。

今よりもいくらかマシな、ちょっとは健全な精神を身につける必要があると感じている。健全な精神を身につけるというのは、実は結構簡単なことなんじゃないかと思うっている。健全な精神は健全な肉体に宿るという昔のギリシア人の言葉があるけれど、多分まったくその通りで、健全な肉体を作ることができたら、健全な精神なんてものはきっとあとから勝手についてくる。
だけど、ここまで考えて、いつも躓いてしまう。健全ってことは、つまらないってことなんじゃないかっていう疑念が自分の中にずっとあるから。フランソワーズ・サガンが何かのインタビューであなたの小説には不幸な人物ばかり出てきますねと言われて、幸せな人たちについては何も書くことがないというようなことを言っていた。とても良いものに対して、申し分ないという語が使われるけれど、人は幸せな時には、何も言うことがなくなってしまうものなんじゃないか。
トルストイも『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」と書いている。健全な肉体と精神を手に入れて、みんなと同じような明るくて楽しい人生を、ニコニコと朗らかに送りたいだろうか。普通に考えて、不幸よりも幸せの方がいいに決まってる。苦しいよりも楽しい方がいいに決まってる。それはそうなんだけど、そのはずなんだけど、自分にはどうも幸せよりも不幸を、楽しさよりも苦しさを、なんとなく求めてしまっているようなところがある。不幸よりも幸せの方がいいと言い切れないでいる。それはきっと幸せってとても単純なことだと心のどこかで思っているからだ。単純さへのぼんやりとした、だけど確かな嫌悪感が自分の中には常にある。単純なものには、深みもなければ、面白みもない。そんな風に思っていたけれど、近ごろは、単純な繰り返しほど面白いものはないんじゃないかとも思う。実際に僕は単純なブルースが一番好きだ。というかそもそも、幸せっていうのは実際のところ、単純な繰り返してではありえないのではないか。外側から、遠くから眺めてみたときには、どの幸せもだいたい同じように見えるかもしれないけれど、その内実は、きっとたゆまぬ努力と工夫によって成り立っている。完成された幸せ、言い換えれば、完結した、閉じた幸せというのは、どうしたってこの世にはありえないのだから、幸せというものはきっと、時間の経過にあわせて、その都度の必要に応じて、あっちこっち修理をしたり必要なものを買い足したり燃料を補給したりしながら、えっちらおっちら姿かたちや中身を変えながら維持されていくものなんだと思う。幸せは途切れながらも続くのですとスピッツも歌ってる。
単純なものはつまらない例の一つに、意識高い系と言われる人たちが挙げられる。一年生の時から就職に向けて大して興味もなさそうなボランティアをしたり海外に行って人生観を変えたり、日常会話にビジネス用語を混ぜてきたりする人たちのことなんだけど、この人たちは大抵の大学生からはバカにされる。自分の将来について真剣に考えることは良いことなのに、なんでバカにされるかというと、みんな同じようなことしか言わなくて、ダサくてつまらないからだと思う。そういう人たちのツイッターを見ると、肉とラーメンとスタバの写真ばかりアップされていて、相田みつを的というか、ラーメン屋の店主のむさ苦しい人生哲学めいたことを延々と語っている。毎日毎日、日々成長!と言いながら、ラーメン屋とスタバを往復しているようにしか見えない。その行動原理や価値観、言動の単純さが、ダサくてつまらないから、いつの間にかポジティブだとか幸せ=単純でダサくてつまらないというふうに思うようになっていたのかな。単純でポジティブな人たちのつまらなさというのは、あらかじめ結論を決めつけているところに原因があるのだと思う。何でもかんでも明日も頑張ろう、日々成長で済ませてしまうようなところがある。あらかじめ結論を設定してしまったら、考えることもできないし、成長なんてしないんじゃないかと、僕は思うのだけど。どうなのかな、そのへん。
あと、単純なものがつまらないと感じるのは、それは自分が頭で考え過ぎているからじゃないかとか、いろいろ思うところはあるんだけど、あまりにもまとまらなくなってきたので、おわり。要は、健全だからつまらないのではなくて、閉じていて広がりがないからつまらないのであって、健全であること、幸せであること、単純であることとつまらないこととは必ずしもセットではないのでは、ということが言いたかった。
 
マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、僕にはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。
燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』

 

二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい

現実的な関係性を離れて、ひとりひとりとしてとりとめのない話がしたいと思うときがある。それは個人的な話でも、そうでなくてもいい。深夜に二人で、ぽつりぽつりと話をしながら、長い長い散歩がしたい。そんなことを考えていたら、思い出したことがいくつかある。

 
一つは、クラブメトロのオールナイトイベントに、当時仲良くしてもらっていた女の人と出かけて、深夜三時くらいに抜け出して、シャッターの下りたいつもより格段に情報量の少ない商店街を、二人で言葉少なに歩いて帰ったこと。自販機って意外とうるさいんだなとか、普通の乗用車とトラックのエンジンの音って違うんだな、なんてことを思いながら、特に急ぐこともないからゆっくり歩いてた。その時の僕はもうすぐ二十歳で、その人はすっかり二十歳だった。だから二十歳になるってどんな感じですか、なにか変わりますかみたいなことを聞いて、その人は少し考えてから、ちょっとしっかりしなきゃって思うだけで何も変わらないかなって言った。そのあと僕は無事に二十歳の誕生日を迎えたわけだけど、ちょっとしっかりしなきゃなって思うだけで、特に何も変わらなかった。
 
二つ目は、僕が違う大学のサークルに遊びに行った時に知り合った女の子と梅田のミニシアター系の映画館に『ザ・トライブ』を観に行った時のこと。この映画のセリフは全編を通じて手話になっていて、字幕も音楽もない。かと言って24時間テレビ的なハートウォーミングな内容じゃなくて、登場人物は基本的に喧嘩かセックスをしている。むき出しの人間関係というか、単純化された上下関係とわかりあえなさが描かれていて、観客は台詞がない分研ぎ澄まされた視覚と聴覚でもってそれを観る。なかなかショッキングな映画体験だった。それで映画が終わった後すぐには上手に声が出なくて、二人とも身振り手振りで感想を伝え合った。映画館を出たあとの梅田の街がいつもよりうるさく思えたのをよく覚えてる。その子は全くお酒を飲まない人で、名前の由来と映画の趣味が素敵だったけど、当時の僕は飲みに行く以外の遊びに行く口実をあんまり知らなかったので疎遠になった。そういえばオススメされた映画もまだ観てないままだ。『夏の嵐』、『バッド・エデュケーション』、クローネンバーグの『クラッシュ』。
 
三つ目は、京阪沿線にある山に登った時のことで、山の麓には300円で荷物を預かってくれるらしいお店があって、麓の駅から山の頂上までを往復する1両編成の電車が出ていた。Suicaとかの電子マネーは使えなかったから小銭で切符を買った。山道をゆっくり走る電車とロープウェーの中間みたいな乗り物はかわいかった。そこまで向かう途中の駅で買った抹茶の団子を頂上で食べた。そこには百万ドルの夜景と書かれた看板が立っていたけど、まだ明るかったのでその真偽はわからなかった。頂上付近のひらけたあたりを一回りして、閉まったままで開く気配のない休憩所や、エジソンの記念碑を見た。天才とは99パーセントの努力と〜という例の名言が刻まれていて、なんでこんなところにエジソンが、と思ってそのあたりをよく散策したけどその山とエジソンの関連性は結局分からなかったからバカにして笑った。豊かな自然に囲まれながらちょっと不似合いな音楽とか映画とか、昔観て印象的だったテレビ番組の話などをした。下山する最終便が18時とかで、僕は自称百万ドルの夜景がいかほどのものか気になったからそれを見てから帰りは歩いて下山しようよと提案したら、夜の山をナメてはいかんと結構本気で怒られたので大人しく最終便に乗った。行きも帰りも他に乗客はいなかった。帰りにチラッと見えた夜景は20ドル分くらいの値打ちしか感じられなかった。駅に着いた頃にはもう荷物を預かってくれるお店は閉まっていた。降りたことのない駅だったのでしばらく近くをぶらぶらすることにして、子供の頃の話とか、テレビにまつわる家のルールとか、育った町とか、宇宙について考えると眠れなくなっていたこととか、最近共感した曲の歌詞とかについて話し合って楽しかった。
 
僕は付き合いが悪いので、誰かと話す機会は、大勢が集まる飲み会になることが一番多いんだけど、飲み会の場合は個人がどうこうというよりも「場」の空気が最優先されるから、あんまりゆっくり話すことには向いてない。僕は協調性がまったくないので、場の空気なんてどうでもいい、あなたの話を聞かせてくれと思うんだけど、大抵は思うだけで終わる。なんて言うか、二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい。そんな気持ち。自分で言っといてなんだけど、二回目のデートで話すようなことってすごくいいな。お互いのプロフィール的な情報はもう一通りわかってて、だけど知らないこともたくさんあって、いつもよりもちょっと個人的な、誰にでもするわけじゃない話をするあの感じ。個人的には二回目のデートは長い長い散歩のようなものがオススメです。なので履き慣れた靴、汚れてもいい服装で臨みましょう。もちろんおやつは300円までね。

真夜中のひとりごと

感情や気持ちというのは、複雑なもので、複雑というのは、原因-結果と単純に割り切ることができないことで、例えば気分が沈んでしまって、それでいて落ち着かないというのは、空が灰色だからとか、疲れがたまってるんだとか、もっともらしい理由をつけることもできるけれど、それはあくまで一要素でしかなくて、そういった説明からはこぼれ落ちてしまうなにかが常にある。そのなにかを無意識と言ってしまってもいいかもしれないけれど、シュルレアリスムは、とりわけ初期の、詩のシュルレアリスムは、無意識の言語化ということを盛んに叫んでいたものだけど、シュルレアリスムの詩を読んでも、なんだかはぐらかされているような感じがする。どうも腑に落ちないところがある。

最近読んでいる本、田中小実昌の『カント節』には、そういう辻褄の合わないようなことが、辻褄の合わないままでべたべたと並べ立てられていておもしろい。ロジカルにピントがずれていく感じがお気に入り。
田中小実昌の『カント節』の中の「ジョーシキ」という最初の一編を読んでいたら、ぼくは本の中に好きな文章を見つけるとそれをメモするのだけど、ほとんどの文章をメモすることになってしまった。中でもお気に入りなのが、次の文章。
 
わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。
だいたい、複雑な感情、複雑な気持というのはあっても、複雑な理屈はあるまい。感情や気持は、複雑という言葉がすでにおかしく、なにもかもいっしょくたになったものだ。
理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。
 
理屈はけっして複雑なものではないというのは、哲学は「こうとしか考えられない」を積み上げていくものだから、考えてみればその通りで、納得した。それが理解できないのは、大抵は前提となっているコンテクストを知らないか、使われている語の定義を履き違えているからじゃないかと思う。まあそんなことはどうでもよくて、ぼくはこの人の書く文章のリズムがとても好きになってしまった。音楽が好きだから、というのが関係しているのかわからないけど、好きな文章というのは、その文章のリズムが好きであることが多い。上の引用の言い方を借りれば、その文章の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを好きになる。お気に入りの音楽を探すみたいに、お気に入りのリズムを求めて文章を読む、のかもしれないな。それで、気分によって聴きたい音楽が変わるように、しっくりくる文章のリズムもときどき変わる。ちょっと前まではハードボイルド的な、すっきりしていて意味がはっきりしている文章が好きだったけれど、なんとなく今は、もっとごちゃごちゃした、ポリリズム的な、蛇行してのろのろと進む文章が好きになっている。
 
屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシキは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
 

 

どうして、本が読みたいのか?と言われても、どうして、音楽を聴きたいのか?と同じように、読みたいからとか聴きたいからといった風な、同語反復的な答え方になってしまう。リズムが、リズムがいいんだ。音楽を聴いて体を揺らすのが気持ち良いように、文章を読んで頭の中を揺らすのが気持ち良いんだ。最近、ジャズをたまに聴くんだけど、ジャズの演奏の、テーマやコードやリズムの中でいかに遊ぶか、みたいなところに気をつけて聴くのがすごくおもしろい。頭の中でテーマを反芻しながら、アドリブ部分を聴くと、たまにすごくスリリングな瞬間があって、それがわかる。ジャズってスポーティなジャンルだなって、最近思う。今までの話に関係がありそうで、ない話。今日はなんだか、涙が出そうなほどイライラしてつかれたけど、家に帰ってごろごろしながら本を読んで、こうやってだらしのない文章を書いているうちに回復してきました。最後に、今日目にして心地よかった文章を貼って終わります。
 
これは匂いで、林檎そのものではありません。匂いは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩している林檎の方が好きです。
尾崎翠「匂い」

 

俺はおとつい死んだから もう今日に何の意味もない おかげで意味じゃないものがよく分かる もっとしつこく触っておけばよかったなあ あのひとのふくらはぎに
谷川俊太郎「ふくらはぎ」
 

 

「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」/早坂類
 
早坂類については、心底好きな歌人なので、いつかまとまったものを書きたいと思う。おやすみなさい。
ああ、そうだ。最近すごく思うことがあって、人の話が聞ける人って、えらいと思うんだ。この前、兄に会って話したんだけど、ぼくの兄は人の話をちゃんと聞ける、えらい人で、見習おうと思いました。あんな風に、人の話が聞ける人はあんまりいないから。自分とは違う考え方や、わからないこと、腑に落ちないことに対して、むやみに同調したり、あるいは否定したり、無視したりせずに、そのままにしておくこと。考えずにほうっておくという意味ではなくて、そのままにして、適切な時間をかけて、消化したりしなかったりすること。そのあたりがきっと人の話を聞くということのコツなんだろうと、ぼくはこっそり睨んでいます。コミュニケーションって、わかり合うって、そういうものなのかもなって。でもまだよくわからないので、そのままにしておきます。

花の都は大東京です

火曜日に面接があったので、東京に行った。大学生になってからは、初めて行く東京だった。最後に行ったのはたしか、大学受験の頃だから、高校三年生の二月で、ニュースになるくらいの大雪が降った日だった。電車が遅れていつもより人が多いであろう車内で、疲れないために僕はしっかりイヤホンをしてナンバーガールを聴いていたことをよく覚えてる。車窓から流れる白い街とか、たよりない気分とか、泊めてくれた兄の部屋のダンボールで作った本棚とか、まったく手ごたえのなかったまま受験会場から帰る電車を待っている時に聞こえた鉄腕アトムのテーマの空々しい響きとか、今でも体感的に思い出せる。

面接会場は六本木で、慣れない場所だし迷ったら困ると思って、3時間半前に着いた。会場までの道のりを3往復してしっかり確かめても余った3時間を持て余し、バーガーキングで時間を潰した。レジを打って接客をするアルバイトが、全員たぶん東南アジア系の外国人だった。どこから来て、どこに住んでいるんだろうと気になった。彼らも長く東京で暮らしていれば、そのうち下北沢で古着を買ったりするようになるのだろうか。深夜アニメを観たりするのだろうか。ブランド品を装備して青山通りを闊歩するのだろうか。
バーガーキングの喫煙席は静かだった。みんな一人で腹にバーガーを詰め込むためだけに来ていて、会話を交わす人はいない。タバコに火をつける音だけが時折響く。「我々は連帯しながら断絶している」なんて長嶋有の小説の一節が頭に浮かんだ。最高の離婚の中で出てきた「二人でする食事はご飯だけど、一人でする食事はエサだよ」みたいな台詞も思い出す。知らない喋らない人たちと同じ空間で、僕も黙々とバーガーの国の王様が考えたであろうバーガーを食べた。
食べ終わったバーガーの包み紙を綺麗に折りたたんでしまって、心ゆくまでタバコを吸った後はやることがなくなってしまったのでその辺をブラブラしてみることにした。電話なんかやめてさァ六本木で会おうよォ〜の歌で有名な街。六本木で会おうよォって言われた場合、待ち合わせはどこなんだろう、みんなの中で六本木のイメージはそんなに共通しているのか。あのなんかでっかい蜘蛛のオブジェがあるところかな。そういえば面接会場の目印として、ツタヤの近くだよって書いてあったんだけど、僕は六本木ヒルズ周辺をブラブラするうちにツタヤを三軒見つけた。目印のツタヤはその中で一番目立たないツタヤだった。
 
その日は夜に兄とその奥さんと双子の姉と四人で新宿のブレードランナーみたいな店で飲む約束をしていた。楽しみだったから僕はその二日前くらいにブレードランナーを借りて観た。ゴテゴテとして無国籍な未来都市という心躍るヴィジュアルとは裏腹に、テーマは結構重かった。一言で言うならば、生まれつき平等でない命についてかな。とにかく、痛みを感じる映画だった。ハリソン・フォードの痛がる演技は迫真のもので、僕の知る限りいたそうな演技ベスト3には入るだろう。それと登場人物たちの心の痛み。ハードボイルド的な、抑えた調子で撮られているんだけど、それが余計に痛みをむき出しのままに観客に手渡す効果を出していたように思う。
ブレードランナーの中で印象的なのが、雨の降るシーンが多いことだった。雨ばかり降る未来都市というのは新鮮で、その日の新宿は雨だった。大きな荷物を抱えて、雨の降る新宿をしとしと歩いた。遠くのネオンの輪郭が曖昧だった。東京の人は歩くのが速いとよく言うけど、バッチリついていけたので雨の日はそうでもないのかなと思った。これまた1時間前に目的地を肉眼で確かめて、ひまだし雨だし荷物が重かったのでゲームセンターで休んだ。はじめは怒首領蜂最大往生をやっていたが10分で300円くらい溶けたのでやめた。なるべく長持ちするやつを、と思ってQMAで遊んだ。スポーツ系の問題は何一つわからなかった。
 
あんまり言葉が出てこないので今日はここまで。

 

僕らが文を書く理由

最近、なにかを書くのが楽しくて、人からどうして書くのとか聞かれたりもして、書くってどういうことなんだろうということをよく考えてる。

「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確実にする」と書いたのはイギリス経験論の先駆けとして有名なフランシス・ベーコンで、違う翻訳だと「読書は充実した人間を作り、会話は気がきく人間を、書くことは正確な人間を作る」になってるらしいんだけど、自分を確実にするために書く、という気持ちはすごくよくわかる。

僕にとっての書くという行為は、自己確認の意味合いが強くて、自分が見たものや考えたこと、感じたこと、好きなものをベタベタ触ってその形を確かめるということだと思う。ぼんやりとしていてぐちゃぐちゃな自分っていうものの一部を言葉に変えて文章にして、ある程度まとまった形で外に出すことで初めてそれについてのまとまった認識が得られるというか。そういう風に今の自分や、これまでの自分を確かめてるんだけど、それと同時に未来の自分を少しずつ形作っているとも言えるかもしれない。少し大げさな言い方になっちゃうけど、僕は書くことによって未来の自分を少しずつ選んでいる、というような気がする。

どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩をするかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。
村上春樹『村上朝日堂』

 どんな風に書くかということと、どんな風に生きるかということ。どこに行ったか、行きたい場所はどんなところか、何を見たのか、何をしたのか、あるいはなにもしなかったのか。誰と話したか、どんなことを話したか。いま一番話したいことはどんなことか。どう感じたか、なにを考えたか。好きなものはあるか。どんな時に楽しいか。嫌いなものは。欲しいものはあるか。知りたいことはあるか。どんな人が好きか。次の休みにはなにがしたいか。

そのようなことについて語るときには、自然とどんな風に生きるかという問いがついて回る。どんな風に書くかというのは文体やスタイルの問題もあるけど、要は何を見て、何を見ないかって話になると思う。それには多くの場合、生きていく上での価値観や選択基準がそのまま適用される。今日は一日街を歩きました、みたいな文章を書くときにも、ある人は新しくできたクラブとか、おしゃれなバーを見つけたぜと書くかもしれないし、ある人は行き交う人々がみんな早歩きで怖かったという話に終始するかもしれないし、またある人は最近の若者はスマホばかり眺めて云々という話に流れていくかもしれない。

もしも書くという行為が少し先の生き方を選ぶことにつながっているとするならば、僕はこれまで具体性に欠ける生き方をしてきたのでこれからはなるべく意識して具体的なことを書いていきたいと思う。

 

あと最近ちょっと日本語ラップにハマりかけてるんだけど、彼らがリズムにゆられて吐き出す言葉、リリックからは、彼らのライフスタイルが透けて見えてすごく面白い。そして何より具体的だ。「海か、山か、プールか!?いやまずは本屋」といった具合に。俺はこういう人間なんだって言うことをラップすることを通じて表明して、確認して、肯定している。そのちょっと安易に思える自己肯定は賛否両論あるだろうけど、僕は格好良いと思います。考えないなら考えないなりに、考えないという選択をしているように思えるから。それに音楽は聴いてていい気分になれたらそれでいいと思うから。正しさとかはどうでもいい。ヒップホップは昔からファッションやらライフスタイルや遊びなんかと密接に結びついてて、ちょっと齧るとすぐに多方面に味が広がるからおもしろい。

いま一番好きなのがS.L.A.C.Kで、単純にトラックが格好良いのとテキトーでゆるい感じのラップがオラつき過ぎてないのと、D'angeloとかに似たリズムの崩し方が心地良くて最高。日常的に聴いてても違和感のないヒップホップって貴重だと思う。あと僕は暇な人が好きだから、彼のしたたかに暇してる感じのスタンスが好き。amazonでCDポチった。


S.L.A.C.K./WEEKEND