アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

しりあがり寿とリアルと死

 最近、しりあがり寿の漫画を読むのにはまっている。そもそものきっかけは、『真夜中の弥次さん喜多さん』(全2巻)をブックオフ的なお店で安く買って読んでとても良かったからだ。みんな名前は知っているけど読んだことある人はほとんどいないことで有名な十返舎一九東海道中膝栗毛』を下敷きにしたもので、と言っても弥次さんと喜多さんの二人が主人公で、江戸から出発してお伊勢さんを目指すという点が同じというだけで、弥次さんと喜多さんはゲイカップルだし、喜多さんはヤク中で目を離すとすぐにクスリをキメてブッ飛んでしまう。そんな喜多さんが麻薬をやめるために、二人でお伊勢さんを目指すというあらすじ。その道中で彼らは夢か現かわからない、様々な妙な場面に出くわす。虚実の境界が曖昧になり、時には主体と客体が混ざり合い、あの世とこの世を行き来して、時間の感覚もぼやけて、何がリアルで、何がリアルでないのかがはっきりしない、なんともトリッピーなお伊勢参りがつづく。大げさに言えば、生と死や、善と悪、夢と現、その他あらゆる二項対立をごた混ぜにした、リアルを巡る旅の漫画だ。90年代にサブカル系の社会学者たちが盛んに論じていた、「終わりなき日常」だとか「いったいリアルはどこにあるのか」と言った問題に関する文脈で語ることもできるかもしれない(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』、中沢新一『リアルであること』など)。たびたび顔を出す悪夢のような、生よりもむしろ生々しい手触りを感じさせる幻の描写は、ひょっとしたら現実よりもはるかにリアルだ。「リアルよりリアリティ」と14才という曲の中でハイロウズが歌っていたけど、リアルとリアリティは別物なんだと思う。現実にいつもリアリティがあるとは限らない。真夜中の弥次さん喜多さんの一巻、「保土ヶ谷之宿」の章で、真夜中のベイブリッジで喜多さんが「すげえリアルだ すげえリアルだ」「う〜〜リアルだ……」とか言いながら冷たい鉄の柱をよじ登っているうちにアメリカのヤクの密売人と日本人との抗争に巻き込まれて落っこちて、ふと気づくと保土ヶ谷の茶店で団子を食べている、というシーンがあって、往来の人々がまるで意味のないやりとりを交わし合ってニコニコしているのを眺めながら「へへ なんだかちっともリアルじゃねえ…」とつぶやいて終わるのがすごく好き。たまにそういう風に、目の前の出来事がハリボテみたいによそよそしく感じることが確かにある。

 そんなこんなで『真夜中の弥次さん喜多さん』にどっぷりハマり、その続編である『弥次喜多 in DEEP』、99年から00年にかけてQuick Japanで連載された『方舟』、割と初期の作品集『夜明ケ』、ピンクの帯に白抜きの丸っこい文字で「でも人はいつか死ぬんですよ」と書いてある『オーイ♡メメントモリ』などを買ってみた。

 『弥次喜多 in DEEP』はより深化していて、全部で8巻あるんだけど、ディープなのであまり一気に読み進められず、1日1,2章ずつくらいちまちま読み進めてる。『方舟』はいかにも世紀末らしいテーマだけど設定がユニークで、ある日降り始めた雨がそのまま止まずに世界が終わる話で、隕石とかミサイルとか宇宙人とかと違ってはっきりとした敵もいないし、明確な盛り上がりどころというか節目もなく、ただじわじわと、静かに、淡々と終わりに向かっていく様はある種の静謐さというか、滅びの美学みたいなものを感じさせる。働き盛りのサラリーマンとか、うぶな高校生カップルとか、自分勝手なバンドマンとか、コメディアンや流行りのモデルとか、様々な人が出てきて、人によって自暴自棄になったり、昔のアルバムをひたすら見返したり、故郷に帰ったり、恋人と駆け落ちしたり、希望を捨てずに前向きに過ごそうとしたり、やまない雨の受け取り方やリアクションがみんな違って、読んでいるうちに、もしも世界が終わるとしたら、自分はどうするんだろうなんて小・中学生みたいなことを改めて考えてみたりした。それでふと思ったのが、「人はいつか死ぬ」ということはとても怖いけど、その怖さは「死ぬ」ということよりもむしろ「いつか」の部分にあるのではないかと思う。死を紛らわすためにこれまでずっと一役買ってきたのが宗教であって、その拠り所をすっかり失くした僕たちが持ちうる死生観というのは結局のところ、身も蓋もない言い方をすれば「あきらめる」以外にありえないのではないかと思う。ある日死神が目の前にあらわれてあんた来月死ぬよと告げられたら、泣いたりわめいたり暴れたり後悔したり恨んだりやたらお金を使ったりはするかもしれないけど、結局はあきらめて残りの日々を目一杯エンジョイする方向に落ち着くと思う。だから死ぬということに対しては怖いというよりもどうしようもないが先にくる。それよりもいつ死ぬかわからない、ということのほうがよっぽど怖い。余命一年のつもりで暮らしていたのに40年以上生きてしまったら悲惨だ。その逆もまた悲惨だ。まっとうに生きることはおそろしい。しかし、どうせ明日死ぬかもと思って、なにも頑張らないで過ごすことは、やはりそれはどうしようもない体たらくというほかはない。まっとうに生きるには、ある程度の見て見ぬ振りというか、先送り的な態度が不可欠ではないかと思います。資本主義って、そういうとこあるよね。とにかく、しりあがり寿の漫画は、等身大の哲学がちりばめられていて、とても面白いです。

たのしみを見つけたい

 川上弘美の小説、短編集の『溺レる』と『ざらざら』を読んで、とてもいいと思った。登場人物が酒を飲んでたらたらとしたり、大した用事も目的もなく夜を歩いたりしながら、何気ない会話やしぐさの中で、切なくなったりツボに入ったり、ときめいたり遠い気持ちになったりする話が多いんだけど、読んでいて飽きないし、気持ちの中にするりと染み込んできて、読みやすい。現実の生活の味わい方の、新しい切り口をさらりと広げてくれるように感じる。

 いわゆる文学って、その機能を考えると本当に色々あると思うんだけど、一つには時代の美意識を作るっていうのがあって、大仰な言葉で言えば人生観、みたいなものを醸し出すのが文学の一つの役割だと思ってるんだけど、川上弘美の小説はその点すごくよかったです。そういえば一時期、柴崎友香の小説みたいな生き方をしたいと強く思っていたことを今思い出しました。いろんなところに出かけて、いろんなものを見たりいろんな人に会ったりして、いろいろなことを感じたり考えたり話したりする、そんな暮らしぶりに憧れた。柴崎友香の小説では見ること、感じること、話すことの描かれ方がすごく魅力的で、独特の広がりがあって、本当に良い小説家だと思う。

 次々と楽しみを見つけてくるような人を尊敬する。食べたいものとか、行きたい場所とか、したい遊びとか、どこから見つけてくるのかそういうのが絶えない人がいる。僕は放っておくと同じことばかりを繰り返す。食べるものは食べたいものというよりも冷蔵庫の中にあるものだったり、スーパーで安く買えるものだったりして、結局同じものばかり食べている気がする。食べたいものを増やさないから、レパートリーがなかなか増えない。たまに出かけたいと思うときも、普段同じようなところにしか行かないから、行きたい場所も何も知らなくて、どこに出かければいいのか見当もつかない。だから友達に誘われたりしてどこかに行って、いざそういうことになるととても楽しくて、出かけるのが嫌いなわけじゃないと気付き、楽しみを見つけられる人はすごいと思う。今ふと思ったけど今までに何度もこういうこと書いている気がする。こわい。

 おしゃれなカフェとか、イベント情報とかたまに見るには見るんだけど、どれもなんだかよそよそしく見えて、あんまり行く気にならない。お酒が美味しいお店とか、星がよく見える場所とか、いろいろ詳しくなりたいと思いはするけど、なかなかならない。そんな思いを胸にポパイの京都特集をパラパラめくってみると、案外行ったことのあるお店が多くて、そして知らないお店はなんとなくとっかかりがない。友達とぶらぶらしている時には変なお店にヒョイっと入ったりもするので、やはりどこに行くかとか何をしにいくかというより、誰と行くかみたいな話になるのかもしれない。

 もともと一人で完結する趣味ばかり持っているので、趣味に関してはどこかに出かけたり、誰かを誘ったりする必要性が全くなくて、それがよくないように思う。今の趣味を誰かやどこかと結びつけて楽しめるように手を加えるか、まるっきり新しい趣味を始めてみたいと思ってる。どこかに出かけたり、誰かと会う必要がある趣味を見つけたい。ぱっと思いつくのはカメラかアウトドアだけど、たぶんカメラは向いてなくて、どちらにしろ初期投資が結構必要なので踏ん切りはついてない。もうすぐ冬で、冬はキャンプができないからなあ。

そういえば、サークルの夏合宿で、のんべんだらりとボードゲームで遊ぶのは楽しかった。地元の友達とキャンピングカーを借りて海に焚き火をしに行った時も、お楽しみの一つとして一人一個ボードゲームを買って行って遊んで、それも楽しかった。

いま行きたいところを考えてみると、服を買いに行きたいのと、梅田にあるロイヤルゲームセンターってところにファイナルファイトをやりに行きたい。あとこの前みなみ会館のオールナイト上映に行ったら凄く特別感があって楽しかったからまた行きたい。逃現郷で火曜日にやってるらしい映画の上映会にも行ってみたいし、なんかの読書会にも参加してみたい。こうしてみると案外欲まみれなのでよかった。欲望があった方が、毎日たのしいので。

反省文

最近、まとまった文章を書くことができなくなっている。論理立てて考えたり、それを筋道立てて記述することができにくくなっている。もともと、数学の証明問題を答えだけ書いて提出して0点をもらったりしていたから、そういう気が昔から自分にはあったのだろうけど、保坂和志の本を読むようになって、彼の粘り強い文体に触発されて、自分の頭の中を一本調子で垂れ流す術を身につけたんだけど、また書けなくなってきている。

考えられる原因は幾つかあって、集中力とか構成力とか、そういったものが衰えているのをひしひしと感じる。なんだかいつでも気が散っていて、まともに考え事を考えることがめっきり減った。なんで気が散っているかというと、たぶんスマートフォンのせいだ。音楽を聴くのも、インターネットを見るのも、誰かと連絡を取るのも、家計簿をつけるのも、映画や本の感想を書くのも、目覚まし時計も、全部スマートフォンでやっている。そうすると日常生活の中で、買い物をした時や、ふと調べ物をしたくなった時、スマートフォンを開くようになって、ついつい別のものをいじったりしてしまう。それまでやっていたことが中断されて、なんてことのないゲームをぽちぽちいじってるうちに30分ぐらい経ってしまったりする。あと、twitterでは一度のつぶやきに140文字の文字制限があって、それに慣れ親しんでいるうちに、自分の考え事を140以内に収めるクセが徐々についてきている気がする。twitterに限らず、本の感想を書くためのアプリで、読書メーターというのがあって、それにも文字制限があって、それがタチが悪くて、制限の文字数を超えると、投稿した時に超過した分の文章が丸ごと消えてしまう仕様で、それで書いた長い感想がごっそり消えることが度々あって、本の感想は一言二言で済ます習慣がついた。これはやっぱりよくなかったと思う。長い文章を書ける時は、長い文章を書いた方がいいと思う。そうしなかったら考えが矮小化していく。長く長く、飽きもせずこだわり続けることでようやく見えてきたり分かってきたりすることもあるわけで、すっきりとまとまって切れ味がいいものばかりがいいとは限らない。というかある程度の文章量を費やさないと伝えることができない事柄というのはたくさんある。YouTubeで気に入った曲だけを聴くよりもアルバムを買ってアルバム通して聴くほうがしっくりくるようなもので、要は、でっかく行こうぜという話です。とりあえず反省して、これはパソコンで書いています。

今年の読書

読みたい本、欲しい本のことを考えてみると、当たり前だけど今の自分が望んでいること、欲しいものがぼんやりとわかる。最近読んだ本、について考えるのも同じことだ。かつての僕はフランスのシュルレアリスム文学とか、幻想文学めいたものを好んで読んでいたけど、最近はあんまりそういうのは読まなくて、古本屋で見かけても買わなくなった。じゃあ最近は何を読んでいるのかというと、新書だとか歴史の本とかインチキ社会学の本とかで、何というかおっさんくさい。あ、あとちくま文庫の本も多い。最近はなぜかちくま文庫河出文庫の本を買うことが多い。意識しているわけではないけど。そして欲しい本や読みたい本を見てみると主婦の友社とか山と渓谷社とかで、あえて大雑把に括るとしたら、生活とかそれと地続きの楽しみとかに関する本ばかりだ。ここ数ヶ月はそういう本ばかり読んでいる。体に関する本とか、栄養や料理に関する本、日本の現代史、文化史の本など。昔と比べて、実用的な内容の本を読むことが増えて、地に足のついた読書になったと言えなくもないけど、それと同時に、自分の中で心を唯物論的に捉える動きが高まってきているように感じる。眠れないのは晩ご飯を抜いたからだとか、落ち込んでるのは天気が悪いからとか、ビタミンが足りてないからだとか、たぶん間違ってはいないんだろうけど、あらゆる心の動きに半ば無理やり何らかの因果関係を見出す癖がついてきた。少し極端な言い方をすれば、人間をなにか機械的なものとして捉えがちになってきた。だけど人間は機械じゃないし、そんなに合理的な存在でもない。

 

身体と精神というのは、昔から二項対立的に語られがちだけど、心と体は別のものではないように思う。体の中に心が宿っているというか、身体がそのまま心とも言えるというか、うまく言えないけど、とにかく霊魂不滅説みたいな考え方は、実感としてだんだんそぐわなくなってきた。けど今の唯物論的な考え方はあんまり好きじゃない。あんまり楽しくないし、何かを切り捨てているような気がする。それにしても、本を読む量が減って、固有名詞をたくさん忘れて、考えが堂々巡りすることが多くなったように思う。僕が本を読むのは、今日という日を昨日と同じものにしないようにするためだと思ってるんだけど、これからは、どこに行くんでしょうか。とりあえず、よく食べ、よく寝る人になりたいものです。

 

読む本のジャンルが変わってきたのには、きっかけがあって、おもしろい本を一冊見つけるとその後読む本の方向性が決定づけられるけど、今年に入ってミシマ社の本を読むようになった(最初は『ちゃぶ台』)のと、高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』を読んだのと、phaの『ひきこもらない』『持たない幸福論』を読んだことが、一番影響力があったかなあと思います。ばるぼらせきしろ共著の『僕たちのインターネット史』もすごく面白くて、インターネット関連の書籍を何冊か続けて買いあさって読んだりした。あとアウトドアへの興味が出てきたのですが、それは漫画の『ゆるキャン△』を読んだからです。文明の利器をガンガン駆使して、季節外れのキャンプをゆるゆるするお話で、とても面白いです。とりあえず山ごはんの本を買って、家での手抜き飯のレパートリーを増やそうと思っています。そのうちキャンプもしたいなあ。

栄養に関しての入門書としては、主婦の友社から出ている『はじめて知る 栄養バランスのよい食事入門』が、家庭科の教科書的な知識から実践的なレシピまで一通りカバーしていてわかりやすく、使いやすいのでオススメです。基礎的というか、常識的なことばかりが書かれているのですが、常識的なことを一通り押さえてある本というのは、すごくいい本だと思います。体系的な知識は、ありがたい。

一週間なにしてた?

人生、今日という日は、2017年の9月10日は一度きりしかありません。22歳の夏休みは最初で最後です。毎日が本番です。同じ1日なんて、一度としてないのです。同じような1日はありますけどね。

なんか毎日同じようなことばっかりしてるなーと思っていても、一年経つと一年前とガラッと変わっていたりして、おもしろいものです。同じように思えていても、毎日いろいろなことをしているものですね。いったいなにをしているのでしょう。

その時々で読んでいる本や漫画、興味のあること、観たい映画、などなどは僕はすごく移り変わりが激しくて、二週間もしたら全然違うものを見たりやったりしています。いろんなことに夢中になったり飽きてしまったり、それでいてすぐに忘れてしまったり、あとになって懐かしくなったりします。だから一週間に一度くらい、自分がした暇つぶしとかマイブームとかをだらだら垂れ流してみたら、あとから見返したりした時に楽しいんじゃないかと思う。

一ヶ月くらい前にばるぼら・さやわかの二人の共著のインターネットの本を読んでから、ネットサーフィンもどきと言うか、適当な検索ワードを打ち込んで出てきたブログとかネットニュースを延々と読む、みたいなことをしていたんだけど、結構楽しい。自分とは全然違う趣味の人の、その趣味のちょっとした移り変わりなんかが見て取れたりすると特におもしろい。だから僕が脳内を垂れ流していたら、そういう感じで楽しんでくれる人がいるかもしれないし、自分で読み返すだけでもたぶん楽しい。

というわけで、これから一週間に一度くらい、その週の僕はいかにしてひまをつぶしたか、というようなことを箇条書きでもなんでもだらだら書いてみることにしようかな、と思ってる。今週の暇つぶしのコーナー。そういうのみんなでやっても楽しそうだな。流行らないかな。 

 

ここ一週間は、本を読んだら映画を見たりする集中力がほとんどなくて、観た映画は「始発まで、生きていたい」のキャッチコピーが素敵な『レイジ34フン』。終電後の閉ざされた地下鉄構内で怖い目に合う話です。人がいないのに煌々と明るい駅の、白熱灯の感じが妙に冷たくよそよそしくて良かった。ホラー映画のキャッチコピーと言えば、『処刑山 デッド・スノウ』がいま気になってて、内容は知らないんだけど(たぶん雪山でひどい目にあう)、「海に行けばよかった…」というシンプルながら実感のこもった強い後悔の気持ちとおかしみを感じさせる宣伝文句が素晴らしい。それとレイジ〜の感想でしばしば比較されていたというか名前が挙がっていた『ディセント』も近々みたいなー。

あとエドガーライトの『ホットファズ』もみた。サイモンペグとニックフロストがイチャイチャしてるだけで100点満点です。ニックフロストの笑顔が尊い。二人がリバティーンズのジャケットのマネしてる写真がすごく好き。

90年代くらいからフィルムじゃなくてデジタルの映画が増えて、そのあたりから映画の編集のテンポが随分変わったなあと思う。格段にテンポが良くなった。ゲーム的というか、アトラクション的というか。編集のテンポが速くなったというか、小刻みになったことによって、それまではパロディになっていたものが、サンプリングと呼んだ方が合っているような感触がするようになった気がする。伝わるかわからない、ちょっと抽象的な話。

あ、あとダンケルク観ました。ネタバレになるのが怖いので内容には触れませんが、戦争映画じゃなくて「戦場映画」と言っているのが上手いこと言うなあという感じです。音の臨場感がすごいです。あとダークナイトの時も思ったけどノーランは人をびっくりさせる演出が上手。

 

あとたまにファミコンスーパー魂斗羅やってた。最初は一面もクリアできなかったけど、三面のボスが倒せないくらいに成長した。ライフとかなくて一撃でやられちゃうのがシビア。主人公が屈強な上裸の男なんだけど、服とか防弾チョッキとか着てくれたらもっと簡単になるのではと思う。昔のアクションゲームとかシューティングとか、難しいけどやれば上がる感じがクセになる。つ、次こそは!ってムキになって手が疲れるか集中力が切れるまでやってしまう。進研ゼミより熱心にやってる。

 

あと、何の気なしに一、二年ぶりくらいにアニメ観てみたら面白くて、あとなんていうか楽で、『フレームアームズ・ガール』と『がっこうぐらし!』を一気見したし、今期はゲーマーズ!を観てる。秋のうまるちゃんも楽しみです。

ただ、アニメやゲームをしていても、現実世界では何も起こらないというか、何かを考えたりすることもほとんどなくて、なんていうか楽チンにたのしくて、ちょっとこわいなと思います。

 

先月は筋トレや自炊、外で遊ぶことに夢中だったのですが、今月は今のところアニメやゲームにどっぷりで人間のダイナミズムを感じています。筋トレも自炊もぼちぼち続けていますが。最近スーツが着られるくらい涼しくなってきたので早寝早起きと職探しも頑張ります!今年が最後の夏休みになりますように!

 

あとゴスロリ少女のバイブルこと嶽本野ばらの『それいぬ』を読んでみたらおもしろかったです。ストイックで。それと高校の頃の世界史の教科書を実家から持ってきてチマチマ読んでる。懐かしかったり全然覚えてなかったり、いつの間にか当時より理解が深まっていたりしてておもしろい。エジプトはナイルのたまもの。

1%のラブレターの話

風の感触や虫の声が秋めいてきた今日この頃ですが、九月ってもっと暑くなかったっけ。このまま秋へとなだれ込んでしまうのでしょうか。
涼しくなってからというものの、過ごしやすい気候になったはずが、ずっと心にさざ波が立っているような感じがします。どうにも落ち着かなくて、夜も長くなってきて、ついつい夜更かしをしてしまいます。

僕は穂村弘が好きなんですが、なんだっけな、『もしもし、運命の人ですか』かな、女性にメールを送るとき、ついつい1%のラブレターになってしまうという話があって、具体的にはクエスチョンマークをつけない曖昧な疑問文を付け足してしまう、無意識のうちに会話の発展ないしは二人の関係性の発展を狙ってしまうというエピソードなんだけど、そういうのってなんかいいなと思うんです。

中学生か高校生の頃、文豪の書いた手紙を読むのに凝ってた時期があって、中原中也太宰治なんでもないような手紙とか、芥川龍之介のラブレターとか、文豪じゃないけどゴッホが弟に金の苦心を頼む手紙とか、そういうのをよく読んだ。江国滋の『手紙読本』という本が、そういう類の手紙を集めた本で、ずっと気になってるけど読まないまま何年も経ってる。
そういう手紙の中でもやっぱりラブレターがおもしろくて、誰かを好きで好きでたまらない時って世界が輝いて見えるとはよく言うけど、それだけじゃなくてラブレターってやっぱり相手の気をどうしても引きたいから、キラキラした世界からさらに選りすぐりの良いこと、素敵なこと、綺麗なことを集めてきて、なるべく格好の良い文章で書こうとするわけで、それでいて奇妙に真剣で、切実な言葉になるわけで、そうやって出来上がった文章は、陳腐ではあっても、ハタから見たり後から思い返すと恥ずかしくても、やっぱり素敵なものだと思います。

素敵なものって、一生懸命探したり、こじつけたり、自分で作ったり準備したりしないとなかなかないから、常に1%のラブレターの精神で暮らしていけたらなあと思います。穂村弘が好きなのはイチャイチャした感じの短歌ばっかり作るからだし、スピッツが好きなのはラブソングばっかり歌ってるからです。大島弓子の漫画も、常に全開の世界へのラブレターという感じで良い。

あんまり関係ないんですが、手紙とかひと昔前の少女漫画とかがやたら好きなのは、太宰治の「女生徒」からの遠い影響ではないかと思い当たりました。手紙からはその人の言葉の手癖とか日々の感じ方が透けて見えるし、ひと昔前の少女漫画ってイケメンが出てくる胸キュンストーリー!って言うより一人の少女の感情の機微を丁寧に描写するみたいなのが多いじゃないですか。太宰の女生徒もそうなんですけど、ある人(現実でもフィクションでも)に固有の感じ方、考え方というか、その人の独特なクセみたいな部分がすごく好きで、初めてそれを意識したのが「女生徒」を読んだ時だったのでした。なんていうか、その人のひとりきりの部分が透けて見えるとグッときます。二十歳を越えるとみんな小賢しくなって、そういうの隠すようになるのでなおさら。
そういう意味でのオススメ本は太宰治『女生徒』、尾崎翠全般、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、柴崎友香『ビリジアン』、『きょうのできごと』、というか柴崎友香全般などです。

あ、あと長嶋有の『夕子ちゃんの近道』と、「サイドカーに犬」も超良かった。

最近読んだのだと、植芝理一の漫画『謎の彼女X』の中の、彼女がベーコンを焼かずに食べるのを見てびっくりする、というエピソードが良かったです。僕は焼いて食べます。

服を買いに行く服がないとき

できるような気がするって大事だと思うんです。服を買いに行く服がないとは言いますが、こういう服を買おうというある程度の目星がついていれば、案外買いに行けちゃうものな気がします。服を買いに行く服がないことが直接の原因ではなくて、いざ服屋に行ったとしても何を買えばいいのかわからない、どんな服が自分に似合うのかわからない、そういう状態が続いちゃうとなかなか服を買いに行けませんよね。
リアリティが大事というか、自分の中に具体的な手応えがないと行動するのは難しいですね。大人になるってことは具体的になることなんじゃないかと最近ぼんやり考えています。あと具体的な問題って突き詰めていけば解決できるか、どうしようもないということがわかるかのどちらかだから、いいですね。
誰か余ってる自動車免許譲ってくれないかなーより、今年中に免許とるの方がやる気になりますし、プレステ4欲しいから毎月5000円貯金しようって思ったらなんとかできそうな気がしてきます。両方そんなに欲しくないのでやらないけれど。
あ、あと、めっちゃ具体的なこと言うんですが、QoL上げるためには、栄養が大事ってことに気がつきました。お腹減ったらひもじい気持ちになるし、お肉食べなきゃ体に力入らないですよ。最近気づいたんですけどね。2年前には食費で本買ってケチャップ吸って生きてましたからね。すごい進歩だと思います。いま米に押し麦入れて炊いてますからね。笠間市されて、栄養も増えてウハウハです。

あと最近『東京タラレバ娘』が完結したんで大人買いして一気読みしたんですが、良かったです。アラサー女は結婚したかったら女子会減らせ、みたいな内容なんですけど、やっぱり人は外から変わるんだなって思いました。環境や人間関係が変わると、慣れない外側との摩擦で磨り減ったり尖ったり丸くなったりで、人の形は変わるものなんですね。タラレバ言ってないで外出てぶつかってみろよみたいな、熱さがありました。
終盤の展開は賛否あるみたいですが、いい漫画だったと思います。時代の気分とか価値観とかがこうギュッと濃縮されてて、10年後とかに読み返してもおもしろいんじゃないかな。