アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

通夜とか葬式とかこなしてると気が紛れてくる。思い切り泣いてもよい場が設けられているのはありがたい。悲しみを分かち合うことはできずとも、悲しい時間を誰かと共に過ごすことができるのは慰めになる。

気を紛らわして、目を背けたり、誤魔化しているうちに悲しくなくなってくる。身を裂くような悲しみ、痛みと言った方がよいほどの肉体的な悲しみが、肉薄したものとして感じられなくなる時がくる。泣き疲れて、褪せた景色に身を置くうちに、まるで彼が死ななかったような気がしてくる。毎日顔を合わせていたわけではない。ましてやここ数年間一度も会っていなかった。もしも彼の訃報を聞いていなければ、状況は何も変わっていなかっただろう。しかし彼の死に顔が目に浮かぶ。冷たく固くなった白い手が。首の骨が折れて、二度と閉じられなくなった口が。しかし二度とは言葉を発することはない口が。物質として横たわる彼が彼の不在をわからせた。露悪的な描写だ。

 


不慮の死ではなかったことは不幸中の幸いだろうか。死の間際に苦しむことはなかったらしい。しかし苦しんだから死んだのだ。死化粧を施された白い顔は場違いなほど安らかで、生前の苦しみはほとんど顔に刻まれてはいないようだった。動機はわからないが、彼は死を望み、死を選んだ。本当に?彼は死に追い込まれたのではないか?自殺は社会による殺人である、という考えがある。彼が息のできる場所を許さなかった世界によって殺された。そう考えたところでやりきれない。工事中のビルから意味を飛び越して死んだ。残された我々はただただ寂しく、つらいだけだ。悲しみのうちに取り残されてしまった。

 


人は死んだらどこへ行く?彼は死後を信じていたか?彼は天国を望んでいたか?生者が死を語ることはできない。死は意味の外側にある。

 


生きているうちに話したいことがあるように思える。しかしそれがなにかはわからない。愛している人々に愛していると伝えること。それはいつでもやっているが、死に支度だったのかもしれない。

 Twitterを見ていると、大阪市廃止の住民投票をめぐるツイートをしばしば目にする。恐ろしいことに、僕のタイムラインでは左寄りの情報しか流れてこないようになっているので、今回の大阪市廃止の件についても、その「隠されたデメリット」の情報が次々に飛び込んでくる。良くないことだけど僕はあまり政治に明るくなく、都構想に関しても、推進派が主張するメリットを聞く前に、その見せかけのメリットの裏に潜んだデメリットについてどんどん詳しくなっていく。対立する意見がある時、どちらか片方の意見のみを聞いてそれを鵜呑みにする、という選択はあまりするべきではないが、こうも情報が偏っていると、なぜこうも穴だらけの構想を強行しようとしているのか、さっぱりわけがわからない、と言うふうにしか思えない。「維新は情報を隠している」とする反対派の声だけが聞こえて、維新の発信する情報は僕の耳には入ってこない。フィルターバブルの強固さを実感している。
 十分な情報が与えられていなければ、正常な判断はできない。一方で、十分な情報が与えられていたとして、それで正常な判断ができるとするのはなぜか。その判断をする際の基準が、妥当なものであるとどうしていえるのか。例えば都構想に関しては、二重行政の解消による効率化でお金が浮くということが言われている。とはいえ都構想の施行のためには莫大な予算がかかる上、大阪市政令指定都市でなくなることによって予算が減り、また大阪市独自の裁量権も制限されるため、大阪市単体で見た場合では、使えるお金が増えることにはならない、という意見もある。どちらが正しいのか。どちらかが正しく、どちらかが間違っているとは限らないが、どちらを選ぶべきなのか。
 正しい情報をもとに、正しい判断を下す、ということが難しくなってきている。同じデータを手にしていても、どこに着目するかで判断は変わってくる。なにをもとに判断を下すべきなのかがよくわからない。結局のところ、「誰が言っているか」で決めてしまいがちだ。そうなると選挙はただの好感度ランキングになってしまう。そんなアホなことがあるか。パンケーキ食べて庶民派アピールすることが政治思想よりも大切か?
 限られた財源でやりくりするのだから、無駄を省くことは大切なことだが、それは本当に無駄なのか?都構想の実現により公共施設が減るといわれている。それらの公共施設は余分なものであるというふうに解釈されているわけだが、それらに一人も利用者がいないわけではないだろう。運営費に対して利用者が少ない、それらの施設が赤字を出し続けている、ということがその施設が無駄であることの根拠とされていると思われるが、少ないが確かに存在するニーズに対して、赤字を出し続けながらも提供できるということこそが公共施設の公共たる所以ではないのか?赤字はすべて無駄であるから省くべき、というのは民営化に通じる思想であるように思える。それが無条件でいいことであるとは思えない。こうなると国家の役割というか、国家はどこまで市場に介入すべきか、という問題と絡んできて、どんどん話が大きくなっていってしまって、手に負えなくなってくる。だから政治の話は難しい。

 それにしても、知識とはなにか?

 


プラトンアリストテレスの時代のプシュケーと、デカルト以降の心の概念とを区別するものは、心の概念は主観的・私秘的であるという点であろう。心身問題と他我問題独我論はその意味で同根である。私にしか感じられない私の心の存在、言い換えれば、私が私以外の心を感じられないという事実、私がどうしても私であるということが、これらの問題の根底にある。

 


長い間女性はまるで自我を持たないかのように、家庭内の労働力として抑圧されてきた歴史がある。ヴァージニア・ウルフは、『自分ひとりの部屋』において、女性の社会進出、地位向上のためには、自分ひとりの部屋を持ち、自分のために使える時間を確保することが必要であると説いた。

 


また、イーフー・トゥアンの『個人空間の誕生』は個人的な空間の誕生と、近代的な自我の成立との関係について述べられているっぽくて、今読んでみたいと思っている。

 


空間と時間は哲学の重要問題であり続けている。空間と時間という概念は人間の認識を成立させるために欠かせない枠組みであるし、個人的な空間と時間が、心という概念の成立に深く関わっているとしたら。

 


読みたい本はたくさんあるがそれをすべて買うためのお金も、読み切るだけのガッツもない。いまはないし、これまでもなかったし、きっとこれからもないだろう。しかし何かに急き立てられて、急いで読もうとしてしまうから、自分の頭で整理する、というステップをすっ飛ばしてしまい、そうすると後々の定着率が低くなる。読んだはずなのに読んだ気がしなくなる。急いで読んで、鵜呑みにすると、次の日にはすべてケロリと忘れる。きちんと咀嚼して、必要ならば唾をかけろ。

 中公クラシックスから出ているデカルトの『省察』の、神の存在証明に関する、第三省察を読んでいて、わからないことがいくつかあり、書かなければ忘れてしまうので、書き留めておく。

「 実際、疑いを容れないことだが、私に実態を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、いっそう大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性(観念において表現されているかぎりの実在性)をそれ自身のうちに含んでいる。さらに、それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実態を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身の内に含んでいるのである。」
 様態のみを表現する観念よりも、実態を表示する観念のほうが大きい。観念が大きいというのは、より多くの表現的実在性を含んでいる、と言う意味である。
 「 ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。なぜかというに、結果は、その原因からでなければ、いったいどこから自分の実在性を引き出すことができるであろうか。また原因は、自ら実在性を有するのでなければ、どうしてそれを結果に与えることができるであろうか。こうして無から何も生じえないということばかりではなく、より完全なもの、いいかえると、より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なものから生じえない、ということも帰結するのである。」
 無から有は生じえない。よって、何かが生じるとすれば、その原因のうちに、生じたものと同等の実在性がなければならない。他に実在性が生じる理由が説明できないからである。
「 しかもこのことは、現実的すなわち形相的実在性(物がそれ自体においてもつところの実在性)を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真なのである。
 (中略)なぜかというに、この原因は、私の観念のうちに、なんら自己の現実的すなわち形相的実在性を送りこみはしないけれども、だからといって、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならない。むしろ、観念は、私の意識の一様態であって、私の意識から借りてこられる形相的実在性のほかはなんらかの形相的実在性をも、自分から要求することはない、というのが観念そのものの本性である、と考えなくてはならないのである。 」
 ある原因が、私の観念のうちに自己の形相的実在性を送りこまないなら、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならないのはなぜか。送りこまれていないものが、原因には存在しているとどうしていえるのか。観念は私の意識の一様態であるから、形相的実在性を、その原因からではなく、私の意識から借りてくるというのがその答えであり、それが「観念そのものの本性」とまで言われているが、それでは、結果は私の意識の形相的実在性に由来し、原因はそれ自身の形相的実在性をもつのであるから、原因と私の意識の形相的実在性を比べることになるのではないか。原因のほうが結果よりも多くの形相的実在性を持っている、といえる根拠はないのではないか。
 「ところで、この観念がこの特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、その原因によるのでなくてはならない。なぜなら、その原因のうちになかった何ものかが観念のうちに見いだされると想定するならば、観念はそれを無から得てくることになるであろうが、ものが観念によって表現的に悟性のうちにある、そのあり方は、たとえどんなに不完全であろうとも、明らかに、まったくの無ではなく、したがって、無から生ずることはありえないのだからである。
 なおまた、私が私の観念において考慮する実在性はたんに表現的なものであるから、その実在性はこれらの観念の原因のうちに形相的にある必要はなく、その原因においても表現的にあれば十分である、などと憶測してはならない。なぜなら、表現的なあり方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同様に、形相的なあり方は観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因には、この原因の本性上、合致するのだからである。」ルネ・デカルト省察』中公クラシックスp.59−61

 観念において考慮する実在性は単なる表現的実在性であるから、その観念を生じさせる原因においてなければならないのも、当然表現的実在性のみではないのか?この真っ当に思える疑問に対して、原因の本性上、形相的なあり方は観念の原因と一致する、と言われても、「そういうものだから」と押し通されただけで、何の回答にもなっていない気がする。形相的なあり方は観念の原因に一致するのではなく、私の意識に一致するのではないのか?

 また、表現的実在性よりも形相的実在性の方が大きいとするのはなぜか。異なるカテゴリーを比較することはできないのではないか。そもそも観念の大きさとはなにか。この前の省察を通じて、外界の事物の存在への懐疑や、感覚の誤りやすさについて述べているが、それではなにによって観念の大きさを把握し、比較することができるのか。なにかを正確に比較するためには、長さにおけるメートル法のような基準が必要である。そのような基準をもとにした比較でないのならば、それは単なる誤りやすい感覚による比較に過ぎず、デカルトの目指す明晰で判明な真実とは程遠いものではないだろうか。

 そもそもデカルトの懐疑説というのは、形相的実在性を疑っても表現的実在性は存在する、というものではないのか?つまり疑いうる世界の中で、唯一確かに思える「私」にとっては、表現的実在性が形相的実在性に先立つのではないか?

 方法序説を読んでいないので、前提が共有できていないのかもしれない。読み進めたら書いてあるかもしれないが、ひとまず気になったので。

いのちの線引き

  人間の自我なるものはいつ生まれて、いつなくなるのか、あるいは人権はいつからいつまで存在するのか。という問いを前回の日記の最後に書きつけた。しかしこのようなやり方で問うことがそもそも不適切であるかもしれない。実践倫理の領域において、これらの問いが前景化するのは、いつから、に対して中絶の問題、いつまでに対しては尊厳死安楽死をめぐる問題がそれぞれ対置される。

 

 人間はいつからいつまで人間なのか。このように問いたくなる理由を考えたい。あるいは、仮にここからここまで人間で、これより前のこれより後は人間ではありません、となんらかの方法で線引きができたとして、それで何が起こるか。もしも仮にそのような明確な基準ができたとしたら、中絶・安楽死尊厳死はどんな視点からでも正当化できる。なぜなら対象はもう人間の命ではないのだから。そのような制度は果たして正しく、適切に運用されるだろうか。どこからどこまでの線引きは、何を基準にするとしてもどこか恣意的であり、また制度として確立してしまえば、尊厳死安楽死が本人の意向によらずに外側から押し付けられてしまう危険性もある。つまりしっかりと線を引くことによって、それまでは人間であったものに対する存在に対する殺人が引き起こされ得る。現時点で誰もが結論を出せずにいるデリケートな状態にある人間が、その日から人間ではなくなってしまうかもしれない。つまりこれらの線引きによっていま人間だとされている存在の中から人間扱いされなくなるものが出てくる。人間の定義が縮小される。人間でないものには当然人権はないだろう。人間の条件などというものは存在しないし、存在しないほうが良い。

自己分析

働いていてつらいことの一つに、その仕事が前提としている価値観を無条件に肯定、正当化しなければならないということがある。個人差はあるかもしれないが、日々自分がしている仕事にそぐわない考えを抱いたまま仕事を続けることはできない。職業倫理の観点からしてもその状況は望ましくない。「仕事ってそんなもん」と割り切ることができる人もいるかもしれず、そのような意見は分別のある大人の意見と言うふうにまかり通りがちではあるが、これは問題に対して思考停止しているわけで、なんら問題を解決しているわけではなく、単に問題を飛び越してしまっているだけであり、問題意識を持っている人間に対しては何の価値も持たない言説である。

その仕事が前提としている価値観を無条件に鵜呑みにしなければ働き続けることはできない、ということはつまりその価値観を内面化していくことである。ある価値観を自分の中に固着させざるを得ないということはそれを疑ってみたり他の可能性を考えたりすることができなくなる、と言うよりもしてはならないと自分で感じるようになることである。この自分の自分に対する抑圧に徐々に耐えきれなくなってくる。

 

 

 

介護の仕事をしてたけど、その仕事の根底にある「人間が生きること(どんな形であれ延命すること)は無条件に素晴らしい」という価値観が肌に合わずに辞めちゃった。勿論それは医療とか福祉の業界では絶対になくてはならない大前提なんだけど。

 


人間が生きることは素晴らしい。歳をとっても死ぬまで人間は成長し続ける。という考えに共感できないということは、人間の条件なるものが存在し、それに当てはまらないものは人間扱いしないという差別感情が含まれているのではないかと不安になる。生命倫理の問題にもつながるけど、人間の自我なるものはいつ生まれて、いつなくなるのか、あるいは人権はいつからいつまで存在するのか。

「そんなことで苦しめるあなたは恵まれている」

 インターネットをやっていると時々、苦しみを吐き出す人に対して、「そんなことで苦しめるあなたは恵まれている」「そんなものは苦しみとは呼べない(私のほうが苦しい)」などといった意味の言及がなされるのを見かける。僕が最近ツイッターで見かけて気になったのは、「世は地獄と嘯きながらも生きていられる環境は恵まれている」というような言い回しで、まずこのツイートがなされた文脈としては、現状を嘆いてばかりで満足するのではなく、状況を改善するためのアクションを起こすべき段階にいるのではないかという問題意識がありつつ、ツイートの旨としては、生存を第一目標としなくても生き延びることが出来る環境というのはそれだけで得難く素晴らしいもので、それだけ命が守られることが当たり前になっている環境を未来の世代にも残したい、というもので、反論の余地はまったくない真っ当な意見であるのだが、それを主張する過程で、「『世の中そんなもん、人類は無能、世界は地獄、以上。』と思って生きてられる、その環境の恵まれっぷりよ。そう思うことすら許されない人生のあり方や短さがいくらでもある。」という言い回しを入れる必要はあったのか、その言い方は適切なのか、「世界は地獄」と考えて苦しんでいる人に対する抑圧として機能してはいないかということがどうしても引っかかってしまった。
 この言い方の内には、世は地獄と言える状況に言える人の苦しみよりも、言えない過酷な状況にいる声なき人びとの呻きの方がより甚大な苦痛である、あるいはより高度な苦しみであるという考えが暗示されており、これは穿ち過ぎな見方であるかもしれないが、貴方よりも苦しんでいる人がいるんです(だからそんなことでギャーギャー騒がないでください)というおなじみの抑圧のフレーズが潜んでいるように思えてしまう。
 ここには三重の意味で誤謬が含まれており、第一に、地球上で最大の苦しみも、個人が感じ取ることができる以上のものではないということ。つまりその苦しみが生じている状況、苦しんでいる主体が置かれている環境がどのようなものであるかということによらずに、その人の苦しみは考えられる限り最大の苦しみになりうるということ。つまり苦しみの大きさというのは外的な状況によって推し量ることができるものではないということ。そもそも苦しみというのは客観的に数量化して比較ができるようなものではない。この苦しみよりもあの苦しみのほうが大きいと言うことはできない。というよりも意味を持たない。
 第二に、この世で一番苦しんでいるのでなければ苦しんではいけないという決まりは存在しないということ。これは僕の穿った見方が生み出した呪いであるに過ぎないかもしれないが、苦しみを感じたとき、しかし僕よりも苦しんでいる人がいるではないかと考え、己が感じた苦しみを無化しようとしてしまうことがあるが、これは有害な抑圧以外の何物でもない。通りで財布を取られた人に対して、「でも命まで取られなくてよかったじゃないか」と声をかけることは、慰めではなく抑圧である。「命まで取られなくてよかったじゃないか」という台詞は殺されるよりはマシだと思え、という命令となりうるし、財布を取られたという事実をなかったかのように取り扱っている。財布を取られた当人は、財布を取られたばかりか、それを嘆き憤る権利すら奪い取られ、「命までとられなくてよかった!」と聞き分けよく振る舞うことを強いられている。ここで命令となりうるとか強いられているとか言うと大げさであるように受け取られかねないが、仮に「命まで取られなくてよかったじゃないか」と声をかけられて、「なにがいいものか!こっちは財布を取られてるんだぞ!」と激昂したとしたらどうだろうか。慰めの言葉をはねつけるひねくれ者という印象を抱かないだろうか。つまり良識ある大人として振る舞おうと思うならば、ここではその慰めを受け取るしかない。そしてここでその慰めを受けるとはすなわち泣き寝入りである。つまりここでは慰めの言葉は抑圧以外の何者でもない。「命まで取られなくてよかった」などという言説は、当人がおのずからそう思ったときにのみ、慰めになりうるのであって、人から押し付けられる限りそれは暴力である。同様に、「これよりも苦しいことはいくらでもある」と考えて気が楽になる、というのであればそう思って気を楽にするのは当然自由であるが、「それよりも苦しいことはいくらでもある」「あなたよりも私のほうが苦しい」と言うことは端的に言ってナンセンスである。苦しみとはそのような性質のものではないからである。
  第三に、生きていられるからこそ生まれる苦しみというものが存在するし、生存がままならない苦しみが実存の苦しみよりも優っていると言うことを無根拠に前提している点である。そしてこれは第一の点で挙げたように無意味な対立である。まったく種類の異なる苦しみを対比することは適切ではない。
 自分自身の苦しみを苦しむことに誰の許可もいらないし。自分の苦しみを卑下する必要もない。そして人の苦しみを貶める権利は誰にもないし、苦しみは比べられるような性質のものではない。そして他人の苦しみに口出しをするべきではないし、値付けできるようなものでは決してないと信じる。