アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 隣人が中性的な咳をした。それが聞こえたのは僕がベランダに出ていたからで、ベランダでタバコを吸っていたからだった。100均で買ったガラスの灰皿を使っていたが三日くらいで一杯になりいちいち吸殻を捨てるのが面倒になってきて、今はもっと沢山入る空のトマト缶を灰皿に使っている。缶を灰皿にすると困るのが時々火が消えきらないことで、これを甘く見ると火事の原因になるとどこかで聞いたような別に聞かされたわけではなく自分で勝手に思っているだけのような気がする。引越したての頃にユーカリの鉢を買ってきてベランダで育てているので、ベランダには如雨露が転がっている。その底に少しだけ水が余っていることも少なくないので、火が消えにくいなと思ったら如雨露でトマト缶に水をやって消す。ところで大学を卒業してから就職をするまでの半年間、実家で暮らしていて自分の部屋のベランダでこそこそ煙草を吸っていた。こそこそとは言っても隠しているわけでもなく両親もそのことは知っていたが実家の子供部屋だった部屋、ポケモンの指人形とかポスターとか壊れたコラショの目覚まし時計とかが置いてある部屋のベランダでタバコを吸うのは悪いことをしているような気がした。そのベランダでの灰皿もトマト缶だった。日に焼けてラベルは跡形も無くなっていたが確かにそうだった。

 

 この前職場で書類整理を手伝った。保管期限を過ぎた書類をまとめて捨てるのだったが要不要の区別は僕にはつかないので仕分けられた書類をひたすら箱に詰めて運ぶのが僕だった。重いものを運ぶバイトで食いつないでいた時期があるので僕は重いものを運ぶ仕事は好きだった。運んでいるうちにもっと運びたい、もっと運びたいという異様な気持ちが次々とせり出してくるのがクセになるがしかしその日は一時間半くらいで作業は片付いてしまった。もっと運びたいという気持ちを持て余しながら上司にCCレモンを奢ってもらって飲んだ。レモン43個分のビタミンCが入っているとラベルに書いてあるが、前までもっと多くなかったっけ、とか一度にそんなにたくさんビタミンを摂取しても人体は大丈夫なのかとかぼんやり思った。

 

 今は散文らしい散文が一番読みたくて小説を読んでいる。柴崎友香とか滝口悠生が散文らしい散文だった。なんでもないようなことやものについて言葉が費やされていくのを眺めるのが心地よい。堀江敏幸長嶋有も似たようなタイプに思えるが、彼らの場合なんでもないところに伏線があったり、何の変哲もなかったものが次第に意味の厚みを帯びていくようなところがあってそれはそれで魅力的だけど今読みたいものとは違った。その時だけふと頭をよぎったこと。すぐに忘れてしまう会話。目だけが覚えているもの。どこにもつながっていかないが確かにその時そこにあったもの、そういったものがそういったものとして描かれているものを読むのが今はほっとする。連作単位、歌集単位で短歌を読むこともそれに近いものがあるような、それとこれとは遠いような、よくわからない。よくわからないが今は小説と散文をよく読んでいる。

 コンビニで発泡酒を買うためだけに家を出て、自転車が多い割に狭い歩道を、引越したての頃は落ち着かなかったがもう大して危機感を抱くこともなく歩いた。予定通りコンビニで発泡酒だけを買った。こういうとき他の商品は一切見ない。コンビニの棚をじろじろ見て回って、どれも欲しくないけどPOSシステムが導入されているからにはこれらの商品にはすべてそれなりの数のリピーターがいるのだなどと感慨に耽ることも最近はあまりしなくなった。コンビニ以外では見ない小さいサイズの袋に発泡酒を入れてもらい5分もかからない道を帰る。帰り道は行きとは違う道を通って、行き帰りの道をつなぐと一つの円になるような道順で、常連以外は入りにくいような小さな飲食店の裏道を通ると魚の頭が落ちていた。日が長いことにもう何にも思わなくなったが、雲のちぎれ方がいい感じだった。

 

 リー・ペリーを聴きながら発泡酒を飲む。買ったはいいけど食べていなかったポテトチップス枝豆味を開けた。ダブは僕が一番気楽に聴ける音楽ジャンルの一つで、リラックスできるというより、ひたすら怠けることに積極的な意味が付与される気がしていて好きだ。特にリー・ペリーは酔っ払ってつまみを回しているとしか思えないくらい過剰なリバーブやディレイのかけ方をするので、何にもしたくない時、頭をぼんやりさせていたいときに聴くには最高の音楽だった。

 

 シリーズケアをひらくの『技法以前』、『居るのはつらいよ』を立て続けに読み終えた。どちらも素晴らしい本で、まだ消化しきれていないのであまり書くことは浮かばないけど、居るということは風景のように描かれるしかない、居るということの価値は説明的に記述することは難しい、というようなことが書いてあって、確かに人のいる風景をぼんやり眺めること、そこに溶け込んでみること、それをふと思い出すこと、などにはなんとも言えない気持ちよさがある。記憶の中の風景、思い出す音楽。大学時代の何気ない日常のワンシーンがふと頭をよぎる時がある。過ぎてしまうまでそのかけがえのなさがわからなかったわけではない。僕は高校生の頃にはすでに小沢健二を聴いていた。だから二度と戻らない美しい日にいるという自覚をその頃から持っていた。とはいえ過ぎた日々は懐かしい。ところでデイケアとはなんだかサークルのような場所なのかもしれないと今思った。人の入れ替わりはあれど構造自体は変わらず、ずっと続いていくような円環的な時間が僕がいなくなった後も僕がいたサークルでは流れている。そのことをSNSごしに度々目にする。

 

 最近滝口悠生の小説がぽつぽつ文庫化されだした。文庫になったら読みたいとかねてから思っていたので『死んでいない者』を買ってきて発泡酒を飲みながら読んでいる。散文の面白さというのか、小説の面白さというのか、そういうものがぎっしり詰まっていると感じる。それは細部へのまなざしであったり、突飛な連想だったり、時間感覚であったりするが、小説は面白いということを改めて思い出した。細部というのか、どうでもいいことというのか、意味のないもの、結論の出ないもの、そういったものへの関心はずっとあって、最近は特にそういうことをぼんやり考えているので滝口悠生の小説はしっくりきている。残らない記憶とか時間とか、思い出せない会話とか、すぐに忘れてしまう出来事とか、そういったものをすくい上げていくようなこの小説に安心感のようなものを覚えている。こんな小説を書いてくれる人がいるうちは大丈夫だという気がしてくる。何がどう大丈夫なのかはわからないが、この小説を面白く読めている自分もまた大丈夫だと思える。まだ半分も読んでいないので的外れなことを書いているかもしれない。

 淀んでいる。くぐもっている。とうとう言い出せない何かがつっかえている。語りえぬものの前で、沈黙をすることもできずにいる。語りたいものがあるわけでもない。しゃべってしまえばお終いだ、という予感もある。少しだけ曇った眼で、「雨は降っているか」と頻りに尋ねる人が思い浮かぶ。その日はよく晴れていた。しかし雨が降っているのかもしれなかった。そんな気がしてこないこともなかった。

 

 毎日換気のために窓を開けて回っていると、必ず涼みに来る人と、変わり映えのしない会話をすること。今日はいい風が吹いていると言い合うことで、なんとなくお互いを讃え合うことになったような気持ちになることもある。時間をおいて窓を閉めるとその人は部屋に帰っていく。丸まった背中が風をいっぱいに蓄えた帆のように見える。後手を組んで歩いていく。

 

 人と話をしているうちにそれまで言語化していなかった考えや言葉がぽろぽろ出てくることがある。僕はそういう時を嬉しく思う。

 

 今は沈黙すること、目をそらすこと、誤魔化すこと、気晴らしをすることで、様々なものに耐え忍んでいる。しかしそれも長くは続かない。語りの言葉をいかに獲得するか。仮構ということにも関心がある。切れ切れの文章を書いてみる。

 昨日同期と飲みに行った。普段同年代の若者と話すこと自体少ないので、楽しかった。一緒に働いているわけでもなく、それぞれ微妙に形態や業務内容が異なるところで働いているため、飲みに行っても仕事の延長という気がしなくてのびのびできた。10人弱で飲みに行ったが、そういう場合はチェーンの居酒屋を選ぶ。場の空気を読んだり話題を選ばなくても良い気安さが必要なのと、話したり騒いだりしたいだけで料理の味や店の雰囲気などはどうでもよくてなるべく値段が安い方がいいのと、個人経営の店に入ったら意外と狭くてなんとなく気まずい感じになったり、店員や別の席の客などが介入してきたりするのが嫌だからだ。

 色々なことを思った。まず僕らのほとんどは普段仕事の話を自分の視点から話せる機会を持っていなかった。上司や先輩などから、仕事について教えてもらう、あるいは相手の仕事観や進め方やコツなんかを拝聴することしかなくて、自分が日々仕事する上で感じていることや考えていること、違和感、しんどさや工夫していること、自分たちの現在地について、ほとんど語る場所を持っていなかった。そういう状況に置かれた僕たちは、自分の現在を話したくてしょうがなくて、集まった当初の、相手の話を聞いているようで聞いていなくて、互いに自分の話に掏り替えあっていくさまはちょっとひどいものだったけど、それでも僕は意味で会話ができることに久しぶりの安心感を覚えていた。介護の現場では、視線や注意、身振り手振りなどの身体の動きや掛け声や真似といったものがとても大きな意味を持つ。一方で、言葉の意味に頼って介護を進めようと思ってもうまく進まない。「立ってください」と言っても立ってくれないが、両足をしっかり床につけて軽く背中を押して前傾姿勢をとってもらい、少しだけ腰に斜め上方向への力を加えてあげるとすんなりと立ってもらえたりする。シリーズケアをひらくの『介護するからだ』という本にそういう例がいっぱい載っていて、仕事を始める前に買ったけど読んでいなかったのを、いま読んでみたら身に覚えがあること、面白いことがいっぱい書いてあった。二つの相互作用とか、場所の記憶や動作の記憶、身体知のようなもの、そういうことに関心を持ちながら仕事をしていると色々な発見があって面白い一方で、言葉や意味といったものがあまり力を持たない世界の中でふと無力感や徒労感を感じてしまう時もある。

 

 書くことが一向にまとまらないので終わる。分刻みのスケジュールや効率という言葉、生きることの生理的ニーズ以外の面に対するケア、喪失感や病気に対する向き合い方、選択にまつわる難しさなどがいま考えたいことかもしれない。自己決定権とは何か、選択が不可能な主体の場合はどうなのか、あるいは、当人の選択が不適切に思えるとき、どうするべきなのか。どの程度の選択の幅を与えるべきなのか。相手の意向を尊重しつつこちらの業務を滞りなく行うことはできるのか。合意形成とはどのように行われるのか。またその合意はどこから判断できるのか。難しいことはいっぱいある。こちらが無条件に「良いことをしている」と思い上がってしまい目を曇らせることだけはしたくない。

 昨日から珍しく土日が休みだったが、二日間休みがあることをすでに二連休と呼ぶようになっているくらいシフト制の勤務形態に頭が支配されてきている。シフト制で働いているとシフト制なりの時間感覚が身についてくる。三日行ったら一日休みがあるというのは例え睡眠をミスってもすぐに休みが来るので取り返しが効くという点は良い。また早番の日の翌日が遅番だったりすると半日休みくらいの時間が空くので得した気分になる。悪い点としてはとにかく休みがすぐに終わる。それと派手に遊ぶことができない。毎日の流れの外にはみ出すような遊び方をしてしまうとそれを立て直すだけの時間がないのでごたごたしてしまう。とにかく時間が細切れで認識される。曜日感覚だとか、一ヶ月の長さとか、そういった時間感覚が鈍くなってくる。最近買ったつもりの牛乳が四日前に買ったものだったりするし来週と言われてもピンとこない。浅い息継ぎを繰り返してずっと泳いでいる。ここがどこだかよくわかっていない。

 そのように継ぎ接ぎした毎日の内部で、なるべくはみ出さないように楽しく暮らすということをとりあえず試みてみている。料理をしたり白黒映画を観たり本を読んだりしながら日を送っている。あとは近所に友達が住んでいたらいいのにと思う。平日休みの時に電車に乗らずにちょっと一杯ひっかけられたらいい。時間がないから本の回転速度が遅くなって節約になっている。就職してから今まで買った本はすべて萩原朔太郎関係のものだ。それは彼にまつわる問いの深さ、彼が生きた場の広さ・複雑さによるものでもあるけれど、たとえば那珂太郎などは長期間にわたってしばしば朔太郎についての評論を書いている。その間の那珂太郎のなかでの朔太郎の詩の評価の推移もおもしろい。あるいは彼の内部で朔太郎の詩がより深まったさまを見るのもおもしろい。また大正三年ごろの朔太郎、『月に吠える』に収録されることになる作品が書かれ始めるその頃、何が朔太郎の詩を決定したか、という問いがある。それに対しては菅谷規矩雄『萩原朔太郎1914』や北川透の著作が詳しい。前者は主に時代的影響について述べ、後者は彼の描いていた詩論が彼自身に与えた効果について述べている。『月に吠える』前夜に、朔太郎の身に何が起こったか、という問いはそのまま、日本の現代詩は、口語自由詩はどのようにして始まったか、また定型を離れて詩を詩たらしめるものは何か(「詩と散文の違いは何か?」)という現代においても解決はされていない難題に直結している。それは論者によってリズムであったりイメエジや喩の強度であったりして、それが各者の立場をそのまま反映しているように思える。また、朔太郎が生きた時代と比較的近い時期に書かれた評論、伊藤信吉や三好達治によるものを読むと、そういう成立過程だとか時代情況への視点というものは当然欠けていて、その分朔太郎の実人生と照らし合わせて読んだり彼の残したテキストを愚直なまでに読み込んで彼なりの読みを打ち出したりと、後世のものにはない泥臭いアプローチをしていておもしろい。萩原朔太郎の伝記としてもその詩業の概略としても伊藤信吉の二巻本『萩原朔太郎 I 浪漫的に』『萩原朔太郎 II 虚無的に』は滅法おもしろい。萩原朔太郎についてはまだまだ語りたいことがたくさんあるのでまた書く。

今日

 働くことに思想はいらない。これは保坂和志の小説『この人の閾』の中で主人公が誰かに宛てた年賀状に書き添えたアフォリズムのようなものだけど、日に日にそうだなという感慨が深まってくる。毎日決まった時間に起きて、そのために同じような時間に寝て、一定の水準を維持して働くためには、円滑に眠りに落ちるためには、考えないのが一番良い。僕は一時眠れない夜が多かったけど、それは頭の中で言葉がひたすら空転して焼き切れそうな状態であることがほとんどだった。これはまだ結論とか持論とまでは言えないが、ざっと見た感じ、周りのちゃんと働いている人々は考えながら働いているにしてもそれは結論ありきで考えている。というのも考えるということは疑うことから始まって、しばしば自分の足場を自分で切り崩してしまうようなこともあるわけだけど、考えながら働くというのは、あらかじめ用意された通り道の中で、道を間違えないようにするような、より良い近道を探っていくような感じで、その方向性や落とし所の見当はあらかじめついているようなところがある。

 自分が日々の時間の大半を捧げている行為に対して疑問を持つこと、それが踏み潰している小さな声に耳を澄ますこと、それはとても苦しいことであると思う。正しいことをしているとなるべくなら思っていたいし、自分から摩擦を大きくしにいくようなことはしたくない。解像度をいたずらに上げてしまって、見過ごすことができたはずの小さな悲しみに躓くようなことは避けたい。そのようなことにかかずらっていては、昼も夜もなくなって、たちまち生活が破綻してしまう。他者の苦しみを感じ取って、それでいて僕では何もすることができないのなら、それはこの世に苦しみを倍加させているだけなのだから、あまりに不合理ではないかと思わなくもないが、しかしだからと言って安易に切り捨てるようなことはできるようになりたくない。

 

 なんだか話が逸れてきた。こんなことを言うはずではなかったけれど、とはいえ言いたいことがあったわけでもないけれど、ともかく書いているうちに話がよくわからない方向へ行ってしまうことはよくある。元はと言えば、考えないほうが働きやすいが、考えてないと生きてるって感じしないよね、というようなことをグチグチ書きたかった。穂村弘は生きることと生き延びることとを区別しているが、しかし今の僕はひとまず生き延び方についてよくよく学ぶべきなんじゃないかという気もする。ただここで頭をよぎるのがいつか見たジョン・ヒューズの映画で、「食事をする前に手を洗わなくても済む仕事につきなさい」と父親に言われて、自動車をいじくることが大好きで高校を出たらすぐにでも修理工の仕事につきたいと考えている主人公が、「ああしなさいこうしなさいって、僕の人生はいつになったら始まるんだ?」というようなことを叫ぶシーンで、例えば以前は大学に入って親元を離れて暮らしたら、働き出して経済的に自立したら、ようやっと正真正銘の自分の人生が始まるとちらちら考えたりもしていたが、働いたら働いたで仕事をきちんとこなせるようになってから、とか国家資格を取ってから、とかいくらか貯金が貯まったら、とかそういう風になあなあになっていくのではないかという気がしないでもない。そしてそれは僕の場合、親が口うるさかったり上司が厳しかったりするわけでもなく、ただ単に自分でそう思い込んでいるだけのことで、そんなことで時間を取りこぼし続けていいのかとも思うが、かと言って自分の人生というとなんだか輝かしいようなものである気がするが、今現在のこの毎日、ヒイヒイ言いながら起きたり働いたりしつつ本を読んだりご飯を作ったり花を買ってきたりする、萩原朔太郎全集を読みつつトイレ誘導をしつつきんぴらごぼうを作る、三日ぐらいかけて漫画をちびちび読む、買ってきたユーカリを毎朝ベランダに出して日を当てる、表面の土が乾いてきたら水をやる、カレーを作った後のべとべとの鍋を泣きながら洗う、同じ話を何度も聞く、三好達治の『氷島』disの背後にある深い朔太郎リスペクトにじーんとする、味噌汁を余らせる、安いからと買ってしまった一玉のキャベツに毎晩のご飯が制限される、その日常の些事の積み重ね、その疲労と少しの満足感、それ以外に人生なんてないんじゃないかと思ってもいる。それでいてバスの揺れ方で人生の意味がわかる日曜日、そんなはみ出し方を少し恋しく思ったりもする。

慌ただしい!

  いま、めちゃくちゃに慌ただしい。毎日いろんな服に着替えて200kmくらいの距離を移動したり往復したり、荷物を運んだり忘れたりしている。昨日新居に実家からの荷物を運び終えて、日用品や家電の買い出しもまだ済まないうちに明日の入社式のために東京に向かっている。明日の入社式が終わればまた新幹線に飛び乗って新居に帰り、翌日からの研修に備えて必要なものを買って早めに寝る。

  新居にはいま家電の類は炊飯器しかない。電子レンジや湯沸かし器や冷蔵庫はポチったので今週にはなんとかなる。洗濯機はない。コップやスポンジなどの日用品もまだない。あるのはテレビとミニスーファミで、引っ越した当日はわけもわからずマリオをやっていた。最初のミニクッパは倒した。いま僕の家の住みやすさはクッパ城と同じくらいなんじゃないかと思った。室内灯も今はまだないので夜はキャンプみたいになる。洗面所や風呂の電気はつくので洗面所で段ボールに腰掛けて本を読む。とりあえずテーブルと照明が欲しい。もっと、もっと光を…

  住環境が整わないと、自炊するための仕組みづくりが済んでしまわないと落ち着かない。お腹が減るたびに外に出て食べるものを買わなきゃいけないから高いし、冷蔵庫がないので保存が効かない。歩くたびにゴリゴリお金が減っていくので精神衛生上よくない。お茶も作っておけないのででかいペットボトルをいちいち買うのもめんどくさい。

  はやくきちんとした巣を作らないと、なんだか取り返しのつかない忘れ物をしたような気がして落ち着かない。いまハツカネズミ並みの心拍数で新幹線に乗っている。

 

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