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アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

「もしも心がすべてなら、いとしいお金はなんになる?」ってシナトラが言ってたって寺山修司が言ってた。

深夜のちょっと不安定な気持ちの時に書いた文章とか思ったこととかって、次の日起きてから見返すとめちゃめちゃ恥ずかしかったりするけど、なんか頭の中がぐるぐるして眠れないから、あることないこと吐き出してスッキリしときたい。


日付が変わる手前までバイトして、今日と明日の境目くらいに帰宅した時、なぜかいつもすぐに布団に入って寝る気にはなれない。

そういう気持ちの時にアテもなく夜更かししてもよくわからないさみしさ切なさが夜の方から吹き込んでくるだけだっていうことは、よくわかってる。つげ義春の漫画で、どんなに暑い夏の夜でも、窓を開けて寝るのを嫌がる男の話があった。窓を開けたまま寝てしまって、眠りこけている間に夜が部屋の中に入ってきてしまうことを怖がっているのだ。似たようなイメージを僕も夜に対して抱いている。真夜中は、現実とフィクションとの境目がなんとなく曖昧になるから漫画や映画に没入できてそういう時は大好きなんだけど、なにかするわけでもなくぼんやりと、受動的な心持ちで夜更かししていると、きまって心に重苦しい気配が吹き込んでくるのだ。


アランが幸福論の中で言っていたけど、わけもなく不安になったりさみしくなったり、やたらに自分を責めたくなってしまうのは、ヒマだからだというのは本当だと思う。

せっかくの余暇を、文字通り持て余してしまって、悲しくなったりくよくよするのに費やしてしまうなんて、バカらしい。もっと頭を使った方がいいと思う。知性だとか教養だとか、自分が今まで見てきたこと聞いてきたこと好きなものを、そういう時に使ってあげるべきなんだと思う。

実存主義でもチルアウトでも、アランの幸福論でもブルーハーツでもソリティアでもなんでもいいから、なるべくいい気分でいた方がいいんだ。

センチメントや暗い気持ちは、繊細でナイーブな自分への自己愛と結びつきがちだけれども、ネガティヴな心性がアイデンティティだなんて、しょっぱいし大変だと思う。なにかを嫌う幼さは、早いとこ隠してしまった方がきっといい。子供のころ、食事のたんびに両親や学校の先生に好き嫌いをしちゃいけませんって言われて、なんでわざわざ嫌いなものを食べなきゃいけないのか全然わからなかったけど、好き嫌いをしていると自分がしんどいからだって今になって思う。

ここまで書いてふと、このセーターはチクチクするからきらいと言って、ハサミでチョキチョキ切ってしまう、昔観たロッタちゃんの姿が頭に浮かんだ。好き嫌いが人を輝かせることもたまには、ある。むずかしいな。

好き嫌いが人を輝かせることの例として、真っ先に浮かぶのがthe pillowsの『ストレンジカメレオン』だ。一番のサビの歌い出しの、「君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで」って歌詞は、これ以上はないってくらい素晴らしくて、聴くといっつも涙が出そうになる。初めてこの曲を聴いた時からずっと長い間、実を言うと今でも、これが自分の行動原理と言えるくらいに心に深く食い込んでる。だけどストレンジカメレオンよりも、いつだってどこだってそれなりにやっていけるふつうのカメレオンになりたいなって最近は思うようになってきてる。360°ひねくれて表面上はめっちゃ素直、みたいなね。

ハードボイルドとケストナーに学ぶサバイブ術

さっきちょこっと書いたチャンドラーの小説の中で、こんなセリフがある。

「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」

二十歳を過ぎたくらいから、これからのこととかも考え始めた時から、めんどくさいことやしんどいことが増え始めて、これからもっと増えていくんだろうなって予感がしているから、この台詞を見たとき、なるほどなと思った。この先何が必要かって、まだまだ全然わかってないけど、タフさは何をするにも絶対必要なんだろうなって思う。人間も動物だし、自然の摂理はなんてったって弱肉強食だから、サバイブしていくためにはタフさは絶対身につけておかなきゃなって思う。私立探偵フィリップ・マーロウは、タフさの他にもやさしさが必要だって言ってて、ケストナーは、かしこさと勇気が必要だって言ってた。
 
「 生きることのきびしさは、お金をかせぐようになると始まるのではない。お金をかせぐことで始まって、それがなんとかなれば終わるものでもない。こんなわかりきったことをむきになって言いはるのは、みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは、ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには、できるだけしあわせであってほしい。ちいさなおなかが痛くなるほど、笑ってほしい。
 ただ、ごまかさないでほしい、そして、ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目をひらいて見つめることを、学んでほしい。うまくいかないことがあっても、おたおたしないでほしい。しくじっても、しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじけない心をもってくれ!
 ボクシングで言えば、ガードをかたくしなければならない。そして、パンチはもちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと、人生がくらわす最初の一撃で、グロッキーになってしまう。人生ときたら、まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!万が一、そんな一発をくらってしまったとき、それなりの心がまえができていなければ、それからはもう、ちっぽけなハエがせきばらいしただけで、ばったりとうつぶせにダウンしてしまうだろう。
 へこたれるな!くじけない心をもて!わかったかい?出だしさえしのげば、もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら、一発おみまいされてもおちついていられれば、あのふたつの性質、つまり勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことを、よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には、かしこくない人びとが勇気をもち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。
 勇気ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもつようになってはじめて、人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩と言うか、これまではともすると誤解されてきたのだ。」エーリヒ・ケストナー飛ぶ教室

 

 
これはケストナーが子供向けに書いた小説『飛ぶ教室』の序文にあたるところで書かれた文章だけど、子供というより小さな大人の年齢になった僕もこれには感銘を受けた。ナチスが幅を利かせていた頃のドイツで執筆されたものだと知った時は、さらに説得力が強まった。ボーイズ、くじけるなよってことを、ケストナーは繰り返し繰り返し、時には優しく、時にはガツンと、言ってくれている。世界は広いんだぜ、つらいことかなしいこともいっぱいあるけど、くじけちゃダメだぜって。くじけないタフさを、大人になる前に身につけておくんだぜって。
子供向けだからといって、甘いウソをつくわけではない、かといって過剰に不安を煽ったりもしない、ケストナーのこの勇気とかしこさの両方が詰まった文章を、子供の頃から読んでおきたかったと今では思う。僕が小さい頃は、海賊ポケットと怪傑ゾロリしか読んでなかったから。今からでも遅くはないと信じて、人生からの重い一発を食らわされても、オタオタしたりくじけたりしないタフさを身に付けたいと思う。だけどケストナーは児童文学で、それに21歳が感銘を受けたって公言するのは恥ずかしいから、上の方で挙げたチャンドラーの方にインスパイアされた、ってことにしておきたい。
というわけで、最近のテーマ曲は、The Cureの、”Boys Don’t Cry”です。N'夙川ボーイズもこの曲をちょいちょいライブでカバーしてたね。くじけるなよー。
 
そういえば、ケストナーの引用の中でボクサーのたとえのくだりがあって思い出したけど、昔々、プレイステーション1の時代に、『ボクサーズロード』っていうゲームがあった。ボクシングのゲームなんだけど、育成パートと試合パートがあって、体重制限も厳しいし、試合もちゃんと立ち回らないと全然勝てない結構シビアなゲームだった。ちょっとやそっとじゃめげないタフさを身につけるには、いいゲームかもしれない。

長嶋有とチャンドラーとジャームッシュへのラブコール

『泣かない女はいない』を読んだ。長嶋有の小説を読むのはこれで三冊目で、今までに読んだ二冊は『ジャージの二人』と『猛スピードで母は』なんだけど、長嶋有の魅力の一つには、解釈を寄せ付けないほどの視点のフラットさがあると思う。つつがない毎日の中で、キラリと光る違和感を捉えるのがすごく上手い。『ジャージの二人』は映画化もされてて、主演が堺雅人で、彼もフラットな人だから、すごくよく似合ってるんじゃないかと思う。夏になったら観たいと思ってる。その『ジャージの二人』は、夏の間は山の中の小屋に行って暮らす家族の話で、その中に出てくる離婚して再婚した父親の娘のセリフがすごく良い。

「『でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの』いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。」
この暗いってことだけ伝えたい気持ち、それだけ伝えられず、過剰な意味づけがなされることのもどかしさは、作品全体を通じて伝わってくる。意味なんてない、だけどくすっときたりグッとくるような細部が長嶋有の小説にはそこかしこに散りばめられてて、僕はそういうグッとくる細部に触れた時が一番、ああ、小説を読んでるなあと思うし、なんとなくリアルだと思う。毎日遊んだり暮らしたりしている中で、特定の誰か宛てではないけどなんとなく誰かに言いたいことってたくさんあると思うんだけど、長嶋有の小説はその積み重ねでできてる。だから打ち解けた友達とダラダラと喋っている時のような気楽さを持ってスラスラ読めるし、読み終わった時はあー面白かったと思うし、一部は心のどこかにずっと引っかかったりもするのだ。あとこれは余談なんだけど僕はクロックタワーのBGMが絶対ジョン・カーペンターを意識してるよなってことを誰かに伝えたくて伝えたくてしょうがない。
それは置いといて、同じような理由で、最近ハードボイルド小説にもはまっている。ハマりたてだから、まだチャンドラーしか読んでないけど、すごく良い。ハードボイルドの定義は諸説あるけど、一説にはハードボイルドとは簡潔で客観的な文体のことで、そうするとヘミングウェイなんかも含まれるらしい。チャンドラーは移動の描写がすごく良い。特に車での移動。するすると風景が流れていく。目的地に着く。物語が進む。主人公のフィリップ・マーロウという男は、決して立ち止まることがない。いつも歩いている、車に乗っている、誰かに会いに行っている。くよくよしたり、立ち止まったりすることは決してない。すごく格好良い。マーロウが歩く、話す、走る。そうすることで初めて物語が進んでいく。マーロウが動くことをやめてしまったら、物語も動かなくなってしまうから。その美学のシンプルさが読んでいて落ち着くし、しびれる。今までは色々と突き詰めて難しく考えるのが何か高尚なことのように思っていたけれど、なるべくなら単純な方が良いって、最近何かにつけて思う。そんな気分を、ハードボイルド小説は後押ししてくれるから、最近好きなんだ。
あと、視点のフラットさで言ったらカメラ・アイだなんてたまに言われてる柴崎友香の小説もすごく良い。それと、その柴崎友香の『今日のできごと』を、映画監督のジム・ジャームッシュのデビュー作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と結びつけて論じた保坂和志のあとがきがすごく面白いから、ぜひ文庫で買って読んでみてほしい。ジャームッシュのこの映画は、シーンとシーンの間に数秒間の空白(真っ黒の画面)を大胆に入れる演出によって、映画を能動的に観ること、ワンシーンワンシーンをしっかりと目に焼き付けること、を思い出させてくれるところがすごくイカしてるし、登場人物たちの退屈を、退屈のまま堂々とスクリーンに映してみせたところがすごい。さっき言った『ジャージの二人』の話にも通じるところがあると思う。小説はただただ読むことが何よりも大事だし、映画もただただしっかり見ることが大事だってことを、長嶋有やチャンドラーや柴崎友香ジム・ジャームッシュは教えてくれる。

日記

どんな内容でも、文章を書くとスッキリする。もやもやがほんの少しだけ晴れるというか、自分の考えていることにちょっとした居場所が与えられるような感じがする。だから今日も日記っぽいことを書いてみる。今日1日のこととか、最近お気に入りの漫画とか、映画のことを。

小気味のいい漫画を読んだり、僕の部屋の小さなテレビに映るジェームズ・ディーンなんかを眺めていると、自分がほんの少しだけ特別になれるような気がする。自己実現だとか、かけがえのない自分だとかの思想が、骨の髄まで浸透している僕は、慎ましやかな生活だけでは息ができない。だから今日も散歩に出かけて、コーヒーを飲んで、雑誌の『ポパイ』を買ったりなんかしていた。「二十歳のとき、何をしていたか?」って特集で、読み応えがあって面白い。そういえば今日行った喫茶店には、レコードがたくさんたくさんあって、細野晴臣が好きだっていう話をしたら、店主さんが『HOSONO HOUSE』を流してくれたりなんかして、コーヒーも美味しくて、タバコを一本だけ吸って、すごく良い時間だった。

最近読んだ漫画の、『春と盆暗』がすごく良かった。宮沢賢治の『春と修羅』をもじったっぽいタイトルが可愛らしい。タイトル通りのボンクラ男子と、ちょっとずれた女の子が織りなすボーイ・ミーツ・ガールの短編集なんだけれど、少しずつはみ出た心と心が触れ合う様子の描き方がとってもポップで大胆で、綺麗だった。心に春の風が吹き込むような展開は、ボーイ・ミーツ・世界とでもいうような爽やかさがある。映画でも観に行きましょうって言って観るのがキューブリックの『2001年宇宙の旅』のリバイバル上映だったりして、サブカルチャーにどっぷり浸かった層への目配せも随所にあるんだけど、全体的にはあくまでも軽くまとまっていて、どんな人にもお勧めできる良い漫画だと思う。
あと映画の『理由なき反抗』も最近初めて観たんだけど、今では珍しいシネマスコープの横長の画面で、それを生かしたキメキメの構図の数々がロマンチックで格好良かった。特にヒロインがチキンレースの開始の合図をして飛び上がり、その両横を猛スピードで二台の車が走り抜けるシーン、あれはシネマスコープでしか撮れないんだろうな。それと映画史に残る名衣装、ジェームズ・ディーンのジーパンに白シャツ、赤いブルゾンの格好良さ。『理由なき反抗』ってタイトルだけど、反抗するのにはちゃんとした理由があるし、彼がラッパ飲みするのは瓶の牛乳だし、隙あらばやたらとゴロゴロしまくるディーンはちょっとチャーミングですごく格好良かった。機能不全の家族の枠組みから抜け出して、ボロボロの広い空き家にガールフレンドと友達と三人で転がり込んで、探検したりまたゴロゴロして戯れたりする後半のシーンは、がっしりとした体格とは対照的にどこまでも無垢で、綺麗だった。余談だけど、つい最近公開された『ラ・ラ・ランド』で、主人公たちがこの『理由なき反抗』のリバイバル上映を見に行くシーンがあるらしい。この映画を見たら、誰だってグリフィス天文台プラネタリウムが観に行きたくなるだろうな。
相変わらず微熱が出続けてるけど、こんなにゆっくりできたのは久しぶりで、なんとなく嬉しい。三月になったら、就職活動が始まる。僕も始める。まだ何者でもない僕が何者かになるための数ヶ月が始まる。ちょっと怖いし緊張もする。これから、どんな人になっていこうか。

最近のこと

ここ数日すっかり気が抜けてしまっている。去年の暮れからずっとやらなきゃいけないことに追われていて、大学生活の三年間を一緒に過ごした先輩たちの卒業ライブが土日にあって、それが終わってからすぐにすることは何もなくて、筋肉痛なのか風邪なのか全身が痛くて、風邪なのか花粉なのか鼻や喉の調子が良くない。だからいつもよりたくさんたくさん寝て、雨が降りそうな天気が続いて、友達の家に忘れたり彼女に貸したりして傘がすっかり部屋から出払ってしまっているから、たまに本を読んだり映画を観たりするほかはただただ外にも出ないでぼんやりしていた。

あんまりにも何にもしていないとなんとなく嫌な気持ちになるもので、こんな風な日記めいた文章を久しぶりに書いてみようと思った。これまでのこととか、これからのこととか、力なく思い出したり思い描いたりしてみて、さよならだけが人生なのかとちらりと思ったりしている。先輩が卒業して悲しいというのは、会えなくなるから悲しいわけじゃないと思う。だって会おうと思えば会えるわけだから。卒業して会えなくなるのは元々あんまり会っていない人だけで、あんまり会っていない人にあんまり会えなくなるから悲しい、というのはおかしいと思う。じゃあ何が悲しくて寂しいかというと、今までの当たり前が当たり前じゃなくなることなんだろうなって思う。会おうと思わなきゃ会えなくなることなんだと。

もうすぐ就職活動が始まるわけなんだけど、就職活動っていうことは、まだよくわかっていないんだけど、自分のこれからの当たり前を自分で選ぶってことなんじゃないかって思う。どこに住んで、どんな人と関わって、どれくらいお金をもらって、どれくらい働いて、どれくらいの休みをもらって、何をするのか。もちろん全部が思い通りになるわけじゃないと思うけど。考えなくちゃいけないんだと思う。

特に書きたいことがあって書き出したわけじゃないから、ものすごくフラフラしている文章になっている気がする。現に今頭の中がフラフラしている。今夜この街を湯気を立てながら駆け巡って行ったピザたちのことを考えてみたり、出発したばかりの夜走りのトラックの積んでいる段ボールの中身が気になったりしている。今体温を測ってみたら少しだけ熱があった。おやすみなさい。みなさんよい夢を。

僕の現在地はどこかの誰かにとっての遠い場所

同じ町の中で暮らしていても、見える景色が同じだとは限らない。日々の生活の中で、思うことや、気にすること、その日やらなければいけないことや帰ったらしたいことだって人それぞれまったく違うだろう。僕は今日は最近ハマっている漫画家の福満しげゆきのことやら、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のこと、当時のイギリスの持つ想像力への熱と、なぜか両立している不思議な慎ましさなんかのことをぼんやり考えていた。

それからここ最近僕は、ちょっとニヒルな気分が続いていたので心機一転して、誰かと会話をしている間、頭の中で好きだ!好きだ!と念じるようにしている。そうするだけでなんとなくいつもより楽しい。人の気分なんてちょろいもんだなあと思う。

人の気分とか考え方を変えるのは本当にちょろくて、周りの環境次第でどうとでも変わると思う。人が集まって一度集団になってしまうと、もう個人ではどうにもならなくなってしまう。周りの人が揃って良いとしているものを否定するのは気がひけるし、良くないと思ってることを好きだと叫ぶのには勇気がいる。どこの家庭でもきっと一度は発されたことがあるだろう台詞、「うちはうち、よそはよそ。」は、実はとても大事なことなのかもしれない。

 

僕は時々、自分の身体が自分から離れているような感覚になる時がある。部屋に一人でいる時に起こることが多くて、金縛りにかかったことはないけど多分金縛りとは全然違って、自分の身体の動かし方がよくわからなくなるというか、動かそうと思わないと動かせない、もしくは思った通りにしか動かなくなる。

ハイデガーの『存在と時間』を僕は読んだことがないけれど、保坂和志によるとこの本は、「手と道具による作業を念頭におきつつ、自分の身体がまわりと取り持つ関係(方向性や距離感)から人と世界の関係性を説き起こす」といった内容らしい。
この説明を読んで面白そうだなと思ったのだけど、この説明が本当ならば、ハイデガーの世界観と2016年を生きる若者の僕との世界観や身体感覚はかなり違うだろうなと思った。
世界観という言葉はなんだか大げさな感じがするけれど、言うなればこの世界の中で何を見るか、世界に対する感じ方や興味関心のことで、それは身体感覚や思考の癖や感情の波、それから周囲の環境、というかこの世界のすべてのものや人や出来事との関係性の結び方によって決まると思う。
話は少し変わるけど、上記の「自分の身体がまわりと取り持つ関係(方向性や距離感)から人と世界の関係性を説き起こす」という文章を読んで思い起こしたのは、歌人の笹井宏之と、それから漫画家の福満しげゆきだ。二人に共通しているのは、両方とも狭い世界で暮らしながら作品を作っていたことだ。だからこそ生まれる彼らの一般論から遠く離れた感覚が、ひとりぼっちから発せられた声が、時に胸を打ち、時に楽しませてくれる。僕は自分や誰かにとっての個人的なものが好きだ。
 
アカデミックな知識や一般論や処世術なんかにはあんまり興味がない。大学にいると学問的に正しいとされていることが絶対的に正しいと思ってしまいがちになるのだけど(今のようなテンションでこんな感じの文章でレポートを書くとまず単位がもらえない)、それはあくまで学問の場で正しいだけであって、そういう正しさも時には必要だと思うけれど(伝わりやすく客観的な根拠がある文章を書けたらきっと役に立つ)、こんな風な伝わりにくい文章の方が僕は好きだ。小説を読んでも映画を読んでも誰かの身の上話やら陰惨な事件のニュースを見ても、そこに何らかの意味を見出そうとするのなら結局は自分に引き寄せて解釈をするしかないと思う。そこでアカデミックな方法で客観的に正しいやり方で鮮やかなロジックを用いて説明仕切ることができたとしても、そういったものは大抵パターン通りでつまらない。一般論としてしか入ってこない。そういったものより自分の知識や環境や身体感覚に即した、自分専用の独りよがりな解釈の方が、僕は面白いと思う。せっかくこのブログは大して人が見ていないのだから、そういう個人的な、他の誰の役にも立たないし共感もされなさそうな、極私的な考えや感想を好き勝手に書いていきたいと思う。僕が今いるこの部屋は、僕が住んでいるこの街は、この年齢のこの季節は、どこかの誰かにとっての遠い場所だから。
 

いろんな読書

2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。


これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。

だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。

どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。


本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。

サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、

見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる

なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。

最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。

近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。


寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。