アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

ロックンロール原理主義とリフレインについて

決断が苦手だという自覚がある。その日に着る服を選ぶのも苦手だし、食べたいものを考えてからスーパーに買い物に行くのも億劫だ。だから着る服は大抵いつも同じだし、よく作る料理のレパートリーも五つもないくらいだ。買い物をする時の基準も明確で、欲しいものが1000円以内であった時は迷うポーズはしても間違いなく買う。3000円以上の時は判断を先送りにすると決めている。何かを選ぶことはつかれる。エネルギーが要る。僕がロックンロールが大好きなのは、その価値基準というか、行動原理が単純明快だからだ。とにかくロックな方を選ぶ、右か左か選べと言われたら真っ直ぐに上に飛び上がる。聖者になんかなれないけど、とにかく生きてる方が良い。オールユーニードイズラブ。そのような清々しいくらいにバカバカしくて、シンプルな価値基準に惹かれているんだと思う。音楽はたまに宗教との類似性を指摘されるし、特定のバンドのファンを揶揄して信者と呼んだり、ロックンロールはティーンエイジャーのための宗教だなんて言葉もあるけれど、何かのバンドに極端に惚れ込んでしまう時っていうのは、そのバンドが発信する価値観や行動原理、判断基準に対して憧れや共感を抱いたんだと思う。そういう面で宗教に似ている。実際に僕はキリスト教に対してすごくあこがれがある。どこに惹かれるかというと、厳密な戒律と、揺るがない価値観だ。極端な話、盲信してしまいさえすれば、あれこれの決断にいちいち頭を悩ます必要がない。ただ神の意志に従えばいいだけだ。だから神学者には惹かれない。明確な価値基準をドーンと示して堂々としている存在というのは、多くの人にとって魅力的だ。なぜなら、ハッキリとした生活の方向、目指すべき目標やヴィジョンがくっきりしているから、それに向かって突進すればいいだけだから。だけどそういうものにホイホイついていくのは危ないことで、それを突き詰めたのがナチスだし、金儲けのためのエセ宗教だったりする。原理主義者はきらわれている。僕はロックンロール育ちのバカだから、原理主義者は美しいと思ってしまう。僕の恋愛観はいつまでたってもセカイ系だし。つまんないくらい簡単な方へ行けってマイヘアは言うし、右か左か選ぶ時が訪れたら面倒な方へ進めBabyってドレスコーズは歌う。そういうシンプルな行動原理を持ちたいと思う。人から押し付けられるものは危険だから、自分なりの、自分にぴったりの行動原理が見つかるといい。今のところ、右か左か選べと言われたら、えー、あー。どうしよっかなぁ〜…って感じだ。あ、でももしも家出をするなら行き先は北って決めてる。なんとなく。

 

何かを選んだり、決断するのは相当つかれるから、大事じゃないところは、出来合いの判断基準に丸投げしちゃって省エネするって、アリだと思うんだよね。それができない人っていうのが、所謂生きづらい系なんじゃないかなって思う。俺は結局オールユーニードイズラブというか、もしも君が泣くならば僕も泣く!みたいなのが未だに一番しっくりくる。22歳なのに。

 

彼女の欲しいのは、同じ愛といっても 

自分の全身全霊を、魂のありったけを、

ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、

自分に思想を、

生活の方向を与えてくれるような愛、

自分の老い衰えてゆく血潮を 

あたためてくれるような愛なのだ。     チェーホフ『可愛い女・犬を連れた奥さん』

 

 

ロックンロールってのは結局のところ、シンプルなフレーズのリフレイン(繰り返し)なんだよ。とっくに飽き飽きしてるとしても、ダサいフレーズでも、アホみたいに繰り返してればそれなりに説得力を持つし気持ち良くなったり踊りたくなったりするもんなんだよ。ブルースの頃から変わんないね。そういうものが、俺は好きだな。ホラー映画でも短歌でも、それはきっと同じ。俺は永劫回帰と予定説が好き。

 

見覚えのある絶望を二度目なら愛せるような気もしています/枡野浩一

新聞の言葉、詩の言葉

就職活動に行き詰まって、悩んでた時にぶち当たって救われた本が穂村弘だった話。ちょっと前に書いて、なんとなく公開してなかったけど、なんとなく公開する。就職活動をしていてつらいのが、どこに行っても”コミュニケーション能力”が最低限求められることで、この時にコミュニケーションという語が指すのは、誰が相手でもとりあえず和やかな空気でなんとかやり過ごせる能力であったり、必要な情報を必要なだけさっと伝える能力のことで、僕が話す言葉や聞く言葉のほとんどがただの記号、情報伝達のツールとしての言葉ばかりになっていくのが嫌だったし気詰まりだった。そんな時に出会った本の話。と自分の話。

 

穂村弘の本を買った。『はじめての短歌』というタイトルで、本屋に入って他に欲しい本も漫画も売ってなかったから買った。そこには短歌についての言葉が、もちろん書かれているのだけど、同時に、僕たちが抱えるささやかな二重生活についてもたくさんたくさん、ページが割かれていた。「生きる」ことと「生き延びること」。その二つは正反対ではないし、しばしば重なり合ったりするけど、それでもやっぱり別のものだ。

生きることはきっと、いろいろな言い方ができると思うけど、感じることだと思う。僕は今まで生きることについては一生懸命だった。すごく真面目に生きることを生きてきた。今は就職活動で、生き延びることにピントを合わせて暮らさなきゃいけないんだけど、仕事とは違って、就職活動には始業も終業もない。オンとオフの境目がとても曖昧で、そのことが僕に「生きる」ことと「生き延びる」ことを混同させていた。もちろんこの二つを完全にマッチさせてしまうこと(仕事が生きがい)が社会的には理想の生き方なんだろうけど、僕にはちょっとそういう生き方はできない。生きることと生き延びることは、完全に別物ではないんだけど、二つの間には大きな価値観の隔たりがある。僕はもともと「生きる」重視型の思考体系をもっていたから、3月から急激に「生き延びる」ための考え方が流れ込んできて辛かった。時間の使い方、というか、時間に対する考え方をまず変えなきゃいけない気がした。つまり、説明会に行くとか、エントリーシートを書くとか、企業のことを調べるとか、就職活動に直結する行為をすればするほど有効な時間な使い方で、それ以外のこと、本を読んだり映画を見たり、友達と遊んだりスピッツを聴いたりする時間は、時間を無駄にしているようで、取り返しのつかないことをしているようで、何か悪いことをしているような気分になった。前者は生き延びることに有効で、後者は無効だからだ。そういう風に毎日を過ごしていくうちに、無意識のうちに生きること=生き延びることという慣れない考え方に引っ張られていって、毎日24時間慣れないことを続けているわけだから、当然疲れた。志望する企業を選ぶ時も、「生き延びる」ための働く行為を、「生きる」ことになるべく近づけようとしていたけど、たまには死にたくなるし、死にたい気分の時に社会的な義務感に無理やり「生きる」ことをさせられるのはすごくつらいことなんじゃないかと最近は思う。生きることと生き延びることは似ているけど別物だ、と思うようになってから気持ちがちょっと楽になった。生き延びるための活動、と割り切ってしまえば、なんとかなりそうな気がする。新聞の言葉と詩の言葉、両方使い分けられるようになろう。詩しか書けない大人はいない。

頭の中の地図について

頭の中の地図について、最近よく考える。それは大げさに言い換えると、その人が自分の暮らす街や、世界についてどんな風に捉えているかということだ。頭の中のカレンダーについても同様だ。僕のカレンダーにとっての祝日は、追いかけている漫画の発売日だ。今は押切蓮介福満しげゆき

ダヴィンチの6月号が、穂村弘in京都ワンダーランドという特集をやっていたからすぐ買った。穂村弘は京都によく来るらしいけど、神社仏閣はほとんど行かずに、古本屋ばっかり行くらしい。そんな穂村弘から見た京都、を取り上げた特集だった。だから河原町祇園や宇治などのいわゆる観光名所はあんまり載ってなくて、市役所前や寺町通一乗寺百万遍なんかのお店がたくさん載ってる。それは僕が暮らしている京都に近くて、なんだか嬉しくなった。

頭の中の地図は、その人の興味関心のある事柄によって大きく変わる。僕の場合は古本屋やレンタルビデオ屋や映画館、喫茶店やゲームセンターなんかが中心的な目印になっていて、例えば京都市役所前は三月書房とアスタルテ書房がある町だし、千本丸太町はマヤルカ古書店や古本はんのき、千本日活なんかが目印だ。京都駅に何があるかと聞かれたら、みなみ会館があると答える。だけど観光名所や良い飲み屋さんや女の子が喜びそうな場所については、あんまり知らない。人によっては、頭の中の地図の目印は、ライブハウスやケーキ屋さんや、おしゃれで美味しいランチが食べられるお店だったりするんだろうと思う。

頭の中の地図には種類があって、今言ったような地理的な地図もあれば、自分なりの本の地図、映画の地図、ゲームの地図なんかもある。すごくごちゃごちゃしていて、人が見てもきっと何にもわからないけど、本人からしたら大事な地図だ。古本屋さんに出かけて行く時、頭の中がなるべく複雑な方が楽しい。からっぽの頭で本棚を眺めても、流行ってる本とか、タイトルや表紙が魅力的かどうかぐらいしか、本を判別する尺度がないけど、頭の中の本の地図と照らし合わせジロジロ店内を歩き回ると、とんでもない宝物に出会えたりする。僕にとっての案内人は主に穂村弘高橋源一郎保坂和志と実家の本棚とシュルレアリスムだ。近頃は80年代のヴィヴィッドな青春小説にハマっていて、近所の古本屋さんでこの前J・マキナニーと窪田僚が安く買えた時は嬉しかった。最近は正津勉の詩集(『青空』が読めるやつ)とか加藤治郎の昔の歌集とか小島信夫の『私の作家遍歴』とかA・ブルトンの『魔術的芸術』が安く買えるところはないかなと思っているし、アラゴンノーマン・メイラーが書いた本が何でもいいから読みたいと思う。そういう風に自分の中でのレア本や欲しい本を頭の中にたくさん抱えて古本屋さんに出かけると、気分はすっかり宝探しだ。最近は欲しい古本はamazonでポチってしまうことが多いけど、やっぱり自分の足で歩いて出かけてじっくり探して欲しかったものを見つけた時の方が、何倍も嬉しい。最近嬉しかったのは上野昂志の『肉体の時代』が1000円で買えたこと。桜井哲夫『思想としての60年代』の中でちらっと触れられていて、気になっていた本。ゴダールの『勝手にしやがれ』論からジャズ喫茶、歌謡曲やGS、『平凡パンチ』まで扱っている体験的60年代文化論の本で、すごく面白い。

こういう古本屋巡りの楽しさは説明してもあんまり人には伝わらないかもしれないけど、穂村弘のエッセイ『もうおうちへかえりましょう』を読むと古本ハンターの楽しさや苦悩が上手に書かれてて面白い。

それと本のある生活を描いたもので、高野文子の『黄色い本』がすごい。小池光の『街角の事物たち』を読むと、短歌のある生活ってこういうものか、とわかって興味深い。どうすごいのか、どう面白いのかは長くなりそうだから今は詳しく書かないけど、きっとまたいつか。一言で言うならば『黄色い本』は、自分以外の物語を抱えて毎日を過ごすことの楽しさと歯痒さが、『街角の事物たち』は文学や短歌を、自分の生活と照らし合わせて読んだり考えたりすることで味わえる滋味が感じられるところが魅力的。映画についても、まとめてみたい。とりあえず、今本屋さんに並んでるダヴィンチ6月号はおもしろいぞ!

「もしも心がすべてなら、いとしいお金はなんになる?」ってシナトラが言ってたって寺山修司が言ってた。

深夜のちょっと不安定な気持ちの時に書いた文章とか思ったこととかって、次の日起きてから見返すとめちゃめちゃ恥ずかしかったりするけど、なんか頭の中がぐるぐるして眠れないから、あることないこと吐き出してスッキリしときたい。


日付が変わる手前までバイトして、今日と明日の境目くらいに帰宅した時、なぜかいつもすぐに布団に入って寝る気にはなれない。

そういう気持ちの時にアテもなく夜更かししてもよくわからないさみしさ切なさが夜の方から吹き込んでくるだけだっていうことは、よくわかってる。つげ義春の漫画で、どんなに暑い夏の夜でも、窓を開けて寝るのを嫌がる男の話があった。窓を開けたまま寝てしまって、眠りこけている間に夜が部屋の中に入ってきてしまうことを怖がっているのだ。似たようなイメージを僕も夜に対して抱いている。真夜中は、現実とフィクションとの境目がなんとなく曖昧になるから漫画や映画に没入できてそういう時は大好きなんだけど、なにかするわけでもなくぼんやりと、受動的な心持ちで夜更かししていると、きまって心に重苦しい気配が吹き込んでくるのだ。


アランが幸福論の中で言っていたけど、わけもなく不安になったりさみしくなったり、やたらに自分を責めたくなってしまうのは、ヒマだからだというのは本当だと思う。

せっかくの余暇を、文字通り持て余してしまって、悲しくなったりくよくよするのに費やしてしまうなんて、バカらしい。もっと頭を使った方がいいと思う。知性だとか教養だとか、自分が今まで見てきたこと聞いてきたこと好きなものを、そういう時に使ってあげるべきなんだと思う。

実存主義でもチルアウトでも、アランの幸福論でもブルーハーツでもソリティアでもなんでもいいから、なるべくいい気分でいた方がいいんだ。

センチメントや暗い気持ちは、繊細でナイーブな自分への自己愛と結びつきがちだけれども、ネガティヴな心性がアイデンティティだなんて、しょっぱいし大変だと思う。なにかを嫌う幼さは、早いとこ隠してしまった方がきっといい。子供のころ、食事のたんびに両親や学校の先生に好き嫌いをしちゃいけませんって言われて、なんでわざわざ嫌いなものを食べなきゃいけないのか全然わからなかったけど、好き嫌いをしていると自分がしんどいからだって今になって思う。

ここまで書いてふと、このセーターはチクチクするからきらいと言って、ハサミでチョキチョキ切ってしまう、昔観たロッタちゃんの姿が頭に浮かんだ。好き嫌いが人を輝かせることもたまには、ある。むずかしいな。

好き嫌いが人を輝かせることの例として、真っ先に浮かぶのがthe pillowsの『ストレンジカメレオン』だ。一番のサビの歌い出しの、「君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで」って歌詞は、これ以上はないってくらい素晴らしくて、聴くといっつも涙が出そうになる。初めてこの曲を聴いた時からずっと長い間、実を言うと今でも、これが自分の行動原理と言えるくらいに心に深く食い込んでる。だけどストレンジカメレオンよりも、いつだってどこだってそれなりにやっていけるふつうのカメレオンになりたいなって最近は思うようになってきてる。360°ひねくれて表面上はめっちゃ素直、みたいなね。

ハードボイルドとケストナーに学ぶサバイブ術

さっきちょこっと書いたチャンドラーの小説の中で、こんなセリフがある。

「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」

二十歳を過ぎたくらいから、これからのこととかも考え始めた時から、めんどくさいことやしんどいことが増え始めて、これからもっと増えていくんだろうなって予感がしているから、この台詞を見たとき、なるほどなと思った。この先何が必要かって、まだまだ全然わかってないけど、タフさは何をするにも絶対必要なんだろうなって思う。人間も動物だし、自然の摂理はなんてったって弱肉強食だから、サバイブしていくためにはタフさは絶対身につけておかなきゃなって思う。私立探偵フィリップ・マーロウは、タフさの他にもやさしさが必要だって言ってて、ケストナーは、かしこさと勇気が必要だって言ってた。
 
「 生きることのきびしさは、お金をかせぐようになると始まるのではない。お金をかせぐことで始まって、それがなんとかなれば終わるものでもない。こんなわかりきったことをむきになって言いはるのは、みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは、ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには、できるだけしあわせであってほしい。ちいさなおなかが痛くなるほど、笑ってほしい。
 ただ、ごまかさないでほしい、そして、ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目をひらいて見つめることを、学んでほしい。うまくいかないことがあっても、おたおたしないでほしい。しくじっても、しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじけない心をもってくれ!
 ボクシングで言えば、ガードをかたくしなければならない。そして、パンチはもちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと、人生がくらわす最初の一撃で、グロッキーになってしまう。人生ときたら、まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!万が一、そんな一発をくらってしまったとき、それなりの心がまえができていなければ、それからはもう、ちっぽけなハエがせきばらいしただけで、ばったりとうつぶせにダウンしてしまうだろう。
 へこたれるな!くじけない心をもて!わかったかい?出だしさえしのげば、もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら、一発おみまいされてもおちついていられれば、あのふたつの性質、つまり勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことを、よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には、かしこくない人びとが勇気をもち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。
 勇気ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもつようになってはじめて、人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩と言うか、これまではともすると誤解されてきたのだ。」エーリヒ・ケストナー飛ぶ教室

 

 
これはケストナーが子供向けに書いた小説『飛ぶ教室』の序文にあたるところで書かれた文章だけど、子供というより小さな大人の年齢になった僕もこれには感銘を受けた。ナチスが幅を利かせていた頃のドイツで執筆されたものだと知った時は、さらに説得力が強まった。ボーイズ、くじけるなよってことを、ケストナーは繰り返し繰り返し、時には優しく、時にはガツンと、言ってくれている。世界は広いんだぜ、つらいことかなしいこともいっぱいあるけど、くじけちゃダメだぜって。くじけないタフさを、大人になる前に身につけておくんだぜって。
子供向けだからといって、甘いウソをつくわけではない、かといって過剰に不安を煽ったりもしない、ケストナーのこの勇気とかしこさの両方が詰まった文章を、子供の頃から読んでおきたかったと今では思う。僕が小さい頃は、海賊ポケットと怪傑ゾロリしか読んでなかったから。今からでも遅くはないと信じて、人生からの重い一発を食らわされても、オタオタしたりくじけたりしないタフさを身に付けたいと思う。だけどケストナーは児童文学で、それに21歳が感銘を受けたって公言するのは恥ずかしいから、上の方で挙げたチャンドラーの方にインスパイアされた、ってことにしておきたい。
というわけで、最近のテーマ曲は、The Cureの、”Boys Don’t Cry”です。N'夙川ボーイズもこの曲をちょいちょいライブでカバーしてたね。くじけるなよー。
 
そういえば、ケストナーの引用の中でボクサーのたとえのくだりがあって思い出したけど、昔々、プレイステーション1の時代に、『ボクサーズロード』っていうゲームがあった。ボクシングのゲームなんだけど、育成パートと試合パートがあって、体重制限も厳しいし、試合もちゃんと立ち回らないと全然勝てない結構シビアなゲームだった。ちょっとやそっとじゃめげないタフさを身につけるには、いいゲームかもしれない。

長嶋有とチャンドラーとジャームッシュへのラブコール

『泣かない女はいない』を読んだ。長嶋有の小説を読むのはこれで三冊目で、今までに読んだ二冊は『ジャージの二人』と『猛スピードで母は』なんだけど、長嶋有の魅力の一つには、解釈を寄せ付けないほどの視点のフラットさがあると思う。つつがない毎日の中で、キラリと光る違和感を捉えるのがすごく上手い。『ジャージの二人』は映画化もされてて、主演が堺雅人で、彼もフラットな人だから、すごくよく似合ってるんじゃないかと思う。夏になったら観たいと思ってる。その『ジャージの二人』は、夏の間は山の中の小屋に行って暮らす家族の話で、その中に出てくる離婚して再婚した父親の娘のセリフがすごく良い。

「『でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの』いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。」
この暗いってことだけ伝えたい気持ち、それだけ伝えられず、過剰な意味づけがなされることのもどかしさは、作品全体を通じて伝わってくる。意味なんてない、だけどくすっときたりグッとくるような細部が長嶋有の小説にはそこかしこに散りばめられてて、僕はそういうグッとくる細部に触れた時が一番、ああ、小説を読んでるなあと思うし、なんとなくリアルだと思う。毎日遊んだり暮らしたりしている中で、特定の誰か宛てではないけどなんとなく誰かに言いたいことってたくさんあると思うんだけど、長嶋有の小説はその積み重ねでできてる。だから打ち解けた友達とダラダラと喋っている時のような気楽さを持ってスラスラ読めるし、読み終わった時はあー面白かったと思うし、一部は心のどこかにずっと引っかかったりもするのだ。あとこれは余談なんだけど僕はクロックタワーのBGMが絶対ジョン・カーペンターを意識してるよなってことを誰かに伝えたくて伝えたくてしょうがない。
それは置いといて、同じような理由で、最近ハードボイルド小説にもはまっている。ハマりたてだから、まだチャンドラーしか読んでないけど、すごく良い。ハードボイルドの定義は諸説あるけど、一説にはハードボイルドとは簡潔で客観的な文体のことで、そうするとヘミングウェイなんかも含まれるらしい。チャンドラーは移動の描写がすごく良い。特に車での移動。するすると風景が流れていく。目的地に着く。物語が進む。主人公のフィリップ・マーロウという男は、決して立ち止まることがない。いつも歩いている、車に乗っている、誰かに会いに行っている。くよくよしたり、立ち止まったりすることは決してない。すごく格好良い。マーロウが歩く、話す、走る。そうすることで初めて物語が進んでいく。マーロウが動くことをやめてしまったら、物語も動かなくなってしまうから。その美学のシンプルさが読んでいて落ち着くし、しびれる。今までは色々と突き詰めて難しく考えるのが何か高尚なことのように思っていたけれど、なるべくなら単純な方が良いって、最近何かにつけて思う。そんな気分を、ハードボイルド小説は後押ししてくれるから、最近好きなんだ。
あと、視点のフラットさで言ったらカメラ・アイだなんてたまに言われてる柴崎友香の小説もすごく良い。それと、その柴崎友香の『今日のできごと』を、映画監督のジム・ジャームッシュのデビュー作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と結びつけて論じた保坂和志のあとがきがすごく面白いから、ぜひ文庫で買って読んでみてほしい。ジャームッシュのこの映画は、シーンとシーンの間に数秒間の空白(真っ黒の画面)を大胆に入れる演出によって、映画を能動的に観ること、ワンシーンワンシーンをしっかりと目に焼き付けること、を思い出させてくれるところがすごくイカしてるし、登場人物たちの退屈を、退屈のまま堂々とスクリーンに映してみせたところがすごい。さっき言った『ジャージの二人』の話にも通じるところがあると思う。小説はただただ読むことが何よりも大事だし、映画もただただしっかり見ることが大事だってことを、長嶋有やチャンドラーや柴崎友香ジム・ジャームッシュは教えてくれる。

日記

どんな内容でも、文章を書くとスッキリする。もやもやがほんの少しだけ晴れるというか、自分の考えていることにちょっとした居場所が与えられるような感じがする。だから今日も日記っぽいことを書いてみる。今日1日のこととか、最近お気に入りの漫画とか、映画のことを。

小気味のいい漫画を読んだり、僕の部屋の小さなテレビに映るジェームズ・ディーンなんかを眺めていると、自分がほんの少しだけ特別になれるような気がする。自己実現だとか、かけがえのない自分だとかの思想が、骨の髄まで浸透している僕は、慎ましやかな生活だけでは息ができない。だから今日も散歩に出かけて、コーヒーを飲んで、雑誌の『ポパイ』を買ったりなんかしていた。「二十歳のとき、何をしていたか?」って特集で、読み応えがあって面白い。そういえば今日行った喫茶店には、レコードがたくさんたくさんあって、細野晴臣が好きだっていう話をしたら、店主さんが『HOSONO HOUSE』を流してくれたりなんかして、コーヒーも美味しくて、タバコを一本だけ吸って、すごく良い時間だった。

最近読んだ漫画の、『春と盆暗』がすごく良かった。宮沢賢治の『春と修羅』をもじったっぽいタイトルが可愛らしい。タイトル通りのボンクラ男子と、ちょっとずれた女の子が織りなすボーイ・ミーツ・ガールの短編集なんだけれど、少しずつはみ出た心と心が触れ合う様子の描き方がとってもポップで大胆で、綺麗だった。心に春の風が吹き込むような展開は、ボーイ・ミーツ・世界とでもいうような爽やかさがある。映画でも観に行きましょうって言って観るのがキューブリックの『2001年宇宙の旅』のリバイバル上映だったりして、サブカルチャーにどっぷり浸かった層への目配せも随所にあるんだけど、全体的にはあくまでも軽くまとまっていて、どんな人にもお勧めできる良い漫画だと思う。
あと映画の『理由なき反抗』も最近初めて観たんだけど、今では珍しいシネマスコープの横長の画面で、それを生かしたキメキメの構図の数々がロマンチックで格好良かった。特にヒロインがチキンレースの開始の合図をして飛び上がり、その両横を猛スピードで二台の車が走り抜けるシーン、あれはシネマスコープでしか撮れないんだろうな。それと映画史に残る名衣装、ジェームズ・ディーンのジーパンに白シャツ、赤いブルゾンの格好良さ。『理由なき反抗』ってタイトルだけど、反抗するのにはちゃんとした理由があるし、彼がラッパ飲みするのは瓶の牛乳だし、隙あらばやたらとゴロゴロしまくるディーンはちょっとチャーミングですごく格好良かった。機能不全の家族の枠組みから抜け出して、ボロボロの広い空き家にガールフレンドと友達と三人で転がり込んで、探検したりまたゴロゴロして戯れたりする後半のシーンは、がっしりとした体格とは対照的にどこまでも無垢で、綺麗だった。余談だけど、つい最近公開された『ラ・ラ・ランド』で、主人公たちがこの『理由なき反抗』のリバイバル上映を見に行くシーンがあるらしい。この映画を見たら、誰だってグリフィス天文台プラネタリウムが観に行きたくなるだろうな。
相変わらず微熱が出続けてるけど、こんなにゆっくりできたのは久しぶりで、なんとなく嬉しい。三月になったら、就職活動が始まる。僕も始める。まだ何者でもない僕が何者かになるための数ヶ月が始まる。ちょっと怖いし緊張もする。これから、どんな人になっていこうか。