アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

関係なくなる

 重いものを運んで、泥のように眠る日々に、とりあえずの区切りがついた。引っ越しの日が近づいて、睡眠時間を削りながら必死こいて働かなくても食べるには困らないくらいのお金は手元にある。

 だからせめて今週くらいは引っ越しの準備をしつつ久しぶりにのんびり過ごしてみるかと思ったんだけど、お金があんまりなくて時間がたっぷりある若い人間の性として、脈絡も手応えもない考えを弄ぶ時間が増える。環境や立場が人を作るというけれど、働かずにいると、というか大学生の頃と何も変わらない状況に置かれると、社会に出るはずの年齢になっても考えることはそう変わらないのだなと思う。

 そうはいっても、やっぱりそっくり以前のままというわけでもなくて、働かないでいることの恥ずかしさというか、暇なのがいやという気持ちがいつの間にやら人並みに身についていて、以前ほど無為には過ごせなくなっている。たとえばいかにも90年代の暗いサブカルチャーに思い切り耽溺するというようなことに対して、常識的な抵抗感を覚えるようになった。なんというか、多くの人に良しとされていることからゴリゴリ離れていくのにも気にせずに好きなものに没頭することがあんまりできなくなってきた。何をしてても「これは社会適応という観点から見たときどうなんだ。望ましいことなのか」と自問してしまう。というか僕自身、たとえば「終わりなき日常」という言葉に対して、あんまりしっくりこなくなってきている。これはひとえに生活態度の変化によるものだと思うけれど、90年代の世紀末的なメンタリティとか、セカイ系的な価値観に感情移入することがしにくくなってきたというか、これからの自分には関係ないな、と思うようになった。

 これからの自分には関係なさそうなものに対して、興味を抱きつづけることはとても難しくて、これからまあ何らかの仕事に決まるとして、自由に使える体力や時間がとても限られたものになったとき、関係がないと自分で思っているものを見たり読んだりすることはなくなるだろうと思っている。そして、自分の収入や生活や地位が安定したものになればなるだけ、自分に関係ない(と思える)ことというのはどんどん増えていき、それを認識することもできなくなっていくのかなと思う。一面的に過ぎる見方であるとは思うけど多かれ少なかれそういう部分はできてくるだろう。

 ちょっと前まで僕はケアに関する本をたくさん読んでいて、その手の仕事を目指そうかとも思っていたんだけど、不規則な勤務時間や労働条件の悪さなんかを目の当たりにして、やっぱり無理かもなあと思った途端に読まなくなった。関係がなくなったというか、とりあえず急ぎのものではなくなったから。肉体労働を始めてからは、カーヴァーや瞑想の本なんかをよく読んだ。それは不慣れな日々の疲れを癒すものだったから。せわしない労働の日々がひと段落してお気楽な身分になるとそういうものは読まなくなった。

 僕は本を読むとき、それを単純な娯楽として消費することはあんまりなくて、自分や自分の興味関心や考え事に関連させながら読んでいたんだなと気づく。するとどうだろう。就職したらビジネス書やハウツー本ばっかり読むようになるのかな。この前友達と集まって飲んでいるときに、ひとりがとても自然に「働くために生きてるわけじゃないから」と言ってのけたことに僕はとてもびっくりして、そういう考え方は、僕はすっかり諦めかけていたものだったので、感動したというと言い過ぎかもしれないけど、格好良いなあと思った。働いて食べて寝るだけの生活に対して、あんまり抵抗がなくなっていたけれど、そういう友達を間近に見ると、そういう所謂つまらない大人になるにはまだ早いのかもなとも思った。つまらない大人というのは外側から見た勝手な言い分で、主観的にはつまらない大人にも大人なりの楽しみ方のようなものがあって、そっちからものを言うと、それがわからないつまらない若者、ということになるんだろうけど。なんというかおっさんにはおっさんの価値観があって、それは若者の価値観とはかなり違うものだし相互理解は難しいものっぽいけど若者はいつかおっさんになるからいずれはそっちの価値観に飛び移らなければいけないんだけどそのタイミングを計るのはとても難しいなという話。