ひと雨ごとに
一雨毎に秋になるのだ、と人は言う、と中原中也は書いていた。今は6月、梅雨の時期で、これは秋をめがけての雨ではない。ひと雨ごとに暖かくなるとか、ひと雨ごとに寒くなるとか、季節の変わり目の雨がふる時期の、時候の挨拶の定番文句になっている。暑くなるにしても寒くなるにしてもどっちでもいいけど、ひと雨ごとになにかが変わっていくような感触はある。
僕は気象病とか天気痛とか言われる頭痛やら神経の乱れやらがあるので、雨は苦手だ。そうでなくても、雨の日は、空が低くて、じめじめして、息がつまる。陽の光が弱まって、外に出てもなにもかも色褪せて退屈に見える。肩やズボンや靴下が濡れる。頭が痛む。身体に力が入らなくなって、集中力も途切れがちになる。なによりもこのように文句が多くなる。
「のうぜんかずらの花の咲く頃は、よく雨がふる」と石牟礼道子が書いていた。のうぜんかずらにフォーカスすることで、雨は後景に退いていく。気休めでしかないけれど、こういう意識の持ち方をすることで雨の日の抑うつ気分はマシになるのかもしれない。近所にのうぜんかずらはないがアジサイならそこかしこの家が育てている。それを見かけると息継ぎができるように感じる。
部屋のなかに葉っぱが多くて背の高い植物が欲しいとよく考える。鉢が抱きしめられるぐらいの大きさがいい。植物や花になんて興味もなにもなかったけれど近頃は以前よりも意味深く目に飛び込んでくるようになった。植物は生きているとかエコロジーとかそういう話がしたいわけではなくて、いやもしかしたらそういうことかもしれない、植物の葉の形や広がり方や肌理や水分なんかが身に迫って感じられるようになった。書割の背景ぐらいのリアリティしか感じていなかった植物が息をしている、存在しているのをありありと実感するようになった。閉塞的な気分に沈みがちな梅雨の時期に、部屋のなかに、自分以外にも呼吸をするものがあってほしいとなんとなく思う。
植物に対して偏執的な気持ちが起こりだしたきっかけは明白で、伊藤比呂美の詩集『河原荒草』を読んでからそこに描き出されていた植物たちの姿が蔦が絡まるように頭から離れなくなった。
ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
ただいちめんにおおわれ、咲きひろがった
とても不思議だ
植物にかぎっては
死ぬというより
生きるほうが
よりふつうで
より後にやって来て
終わりがない
死なない
死ぬから生きる
よみがえる
どんな末端からでもまた伸びる
いくらでも子を生める
— 伊藤比呂美『河原荒草』
詩といえば最近は現代詩文庫の蜂飼耳のやつを図書館で借りて読んでいて気に入っている。うまく言えないけれど蜂飼耳の詩のことばは強度がある。詩の批評で強度という言葉がよく使われて僕はその度になんだそれはと思っていたけれど彼女の詩には強度がある。強度とは、僕なりの解釈でしかないけれど、詩におけるそのことばの揺るぎなさというか、必然性のようなもので、一編を通して、どのことばもそれ以外のことばに置き換えることができないというすみずみまで張りつめるエネルギーのようなものという意味で使っている。詩が詩であるためには、散文から区別されるためにはこの何も足せない、何も引けないという緊張が必要なのかもしれないと思う。ことばの組み合わせが作者の手から離れて自律している状態というか。でも詩の定義なんてつまらないじゃないかという気持ちもある。
その話は置いといて、ことばは長い時間を通じてだんだんと姿形を変えながら形成されていくもので、今あることばが今ある形になるまでの長い間、ことばが見てきた触れてきた通りすぎてきた道行きがあるわけで、蜂飼耳の詩のことばはそういう面で、意味が痩せていないのが凄いと思った。出し殻のようになってしまった記号的なことばが僕らが日常使うほとんどだけど、それは気にしなくてもいいことだろうけど、蜂飼耳の詩のことばはことばが長い歳月を覚えていて、意味の背後に時間的・空間的なふくらみを宿しているような気がして、これはとても稀有な才能なのではと思う。今更なんだよという話ですが。実家の本棚にも何冊か蜂飼耳の本があったことを思い出して、今回は別にこっそり盗むつもりではないけど(今までは時々やった)、なんとなくうれしい気持ちになったりもしました。
当分雨がつづくので、おとなしく読書でもしていましょう。それでは。