アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

疲れがたまって、変なこだわり

疲れがたまって、しばらくは使わないものを無理やり押入れに詰め込むように、心の片隅にしまいこんでいた変なこだわりが頭をもたげてきています。ぼくは本を読むのが好きなのですが、最近は実用書めいたものや軽い読み物、ネットライターが書いたまとめ記事やライフハックツイッターで流れてくる文字列などを読むことが多かったので、なにかがパンクした又はほつれてしまったのかもしれません。

 

誰かに興味を持ったり、何かに熱中して追求したり、フィクションにのめり込んだりすることが、こんなにも体力が必要で難しいことだったなんて、今までわかりませんでした。今まではごく自然にそれをやってのけていました。誰にも負けないくらいの熱量で。最近は、なんだか疲れてしまった。カロリーが足りていないのかもしれません。カロリーは熱量。あるいは、お金や時間が足りていないのかもしれませんが、そうだとしてもどうしようもないのでここらで切り上げたいと思います。

 

なんだか、最近はちっとも言葉にできていないと感じます。何を、かもわかりません。何も痛くないし、何も考えていないかもしれません。だけどチリっとした違和感をいつからか抱えているような気がします。不安と言い換えてもいいかもしれません。さみしくないのが、さみしいというか。何を言葉にできていないのか。当面の日々を動機づけるなにか、身につけたい習慣、勉強したいこと、欲しいもの、そういったものかもしれません。全然違うような気もします。いたずらに言葉にしてしまうことや、誰かに話しかけることが、無性に恥ずかしく思ってしまうことが多くなりました。見え見えの感傷や、子供じみたわがままを吐き出すことは、あまりにも、無防備すぎるんじゃないかと身が固くなります。そんな22歳の夏休みです。声をあげて騒ぐ楽しさよりも、さらりとした穏やかさの方が好ましく思うようになってきています。身体が疲れて、ただの気分かもしれませんが。楽しいことはいいことだとは思っています。

 

 

自分の中での語彙力の低下、感受性の磨耗、日本語の乱れ、そのようなものを感じています。安易にわかりやすい方向へ流され過ぎたというか、迂闊に言葉を選び過ぎたというか、言葉を探すことに時間や労力を費やすことが以前に比べてごっそりと減ったと自覚しましたので、便利な言葉や、流行り言葉に流されていてはいけないと思い直しています。横文字とか、学術用語などの便利な言葉は汎用性が高くて、カバーできる範囲が広くて、人にも伝わりやすいような気がするけど、そういう言葉ばかりを使っていると、身ぐるみを剥がされているような思いがします。そういう言葉は人に伝わりやすくて、つまり受け取ったときにわかったような気になりやすくて、だから意見を言うときや情報をまとめるときなんかはいいと思うんだけど、はっきりとした言いたいことがあるわけではない場合、ぼんやりとしたムードや気分なんかを手渡したいときに、うっかりそういったものを使ってしまうと、伝えたかったはずの生のニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまいます。ニュアンスというのも横文字で、本当は手ざわりとか匂いとか、そういった意味のことを言いたいんだけど、このような言い換えに意味はあるのでしょうか。こんな問いかけが、本当にしたいわけではなくて、兎にも角にもいまは眠れる気がしません。頭の中で文章が浮かんでは流れて散り散りになって、それを捕まえようとカタカタとキーボードを打つイメージが出来上がって、その音がうるさくて眠れなくなることが以前はよくありました。今もそんな感じで、苦々しくもなつかしくてうれしい心地がします。いつまでもこんなふうに、しているわけにはいかないのですが。たまには、いいでしょう。よくないとは思いつつ、嫌いではないのです。書き言葉に対する、変なこだわりです。その中身は、よくわかりません。なぜだか、鈍感が、ゆるせない。