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アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

春の胸のざわめきについて

 春が近づいているのが、ぼんやりと肌で感じられて、心中穏やかではない。
季節の変わり目はいつだって、ひとつの季節にまとまっていた時間の固まりが、どっと流れ出すように感じられて、いつの間にか過ぎてしまった時間の多さを突きつけられるようで、胸がざわつく。
特に春の訪れは、それは新しい始まりであると同時に、たくさんのお別れがくることを示している。別れはどうしようもなくやってきて、どっかりとした空白と、些細な頼りない思い出の感触だけを残して、春へと流れ込んでしまう。環境の変化、一言で言ってしまえばそうなるが、そんな大きな蠢きに取り残されそうになって必死にしがみつこうとしているうちに、桜前線が北上する。埋まらない空白、充たされない思いを抱えて焦っている自分とは裏腹に、日差しは暖かく柔らかくなり、薄桃色の景色が日本中に広がっていく。自分一人が取り残されてしまいそうな鬱屈した気持ちで、桜を眺めてみると、たしかに寒々しく、空々しく目に映る。桜の木の下には屍体が埋まっている、という噂は本当かも知れないと、抜け殻の気持ちでぼんやりと感じられる。桜の花弁はすこし厚みがあり、湿り気があり、薄桃色のそれには、肉感が感じられる。人の血を吸って育ったかのような、怪しい色気がある。風のない日に、音もなくゆらりゆらりと落下する桜の花びらの中に立っていると、眩暈に似た感慨に襲われ、自分という抽象概念や、時間感覚、言葉そのものをふと忘れてしまいそうになる。季節柄も相俟って、すべてを失ってしまいそうな錯覚に囚われる。そんな喪失感や苛立ちとは裏腹に、綺麗な顔をして桜の木々は花を咲かせる。そのさまが言いようもなく強烈な違和感を感じせしめ、毎年桜の咲く季節になると、どうしても生き急いでしまうのだ。僕は、四月に生まれて、桜の花が散る頃には一つ年を取ってしまう。それもこの焦燥感の原因の一つかもしれない。
 
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり
西行法師「夢の中の落花」への題詠
 

 

 
この日本という国では、桜はたいへんな人気があって、桜が咲くと皆こぞっって木の下で顔を赤くして笑い合っている。俳句や短歌にも、桜を題に取った作品は数多く、J−POPにおいても、桜の歌は両手両足の指では追いつかないほどの数の楽曲がある。「桜のうた」と聞いて、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。
桜を素直に楽しむことのなかった僕は、安達哲の『さくらのうた』そしてGOING STEADYの『さくらのうた』が頭に浮かぶ。
そこには桜の花びらのように厚ぼったく、乾いた血の色をした、肉にまみれた情欲がドロドロと渦巻いている。そして明るい春の夢を捨てきれずに眠れない夜を繰り返すのである。この隠しきれない激しさも、忘れ難き人々も、桜のように舞い散ってしまうのならばやるせない。